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本名を名乗る

☆「在日」の人々よ、本名を使用して下さいね。

1971年1月、汽車賃だけを持っての、家出娘じゃない、子供連れの家出オモニだった。東北の雪国、会津の山奥からであった。親に与えられた新築の檜建ての50坪の家に住み始めて、半年も、しないときだった。二人の子供を、朝鮮学校に、通わせたい一心。

東北朝鮮学校の寮に長男を寄宿生活をさせていた。妹から、子供が可哀想だ。鬼母と言われていた。この妹は、後に、息子が「統一評論社」に勤務することを知って「親も親なら子も子だ、夢を食っては生きられない」と怒鳴った。
その通りだと思う。だから、いまだに、親子共に、余裕のないその日暮らしをしているのだろう。
雪の舞い散る中を、捕まらないようにと気を配りながら、夜行列車に飛び乗った。無茶な事をした、世間知らずであったと、しみじみ思う。

歌集「身世打鈴」より
本名
☆スンジャ、チョンヒ,立花、梨花、理香、木村貞花たどり
つきたる本名朴貞花
☆リッカ、テイカ、と呼ばるるときに胸疼く「チョーセン」を罵声に浴びし日顕ちきて
☆振り仮名を付けし名刺を持ち歩く吾ひとりの本名宣言運動
☆陽の目見しわが本名に差別なき場もありし喜び
☆パクチョンファと振り仮名せるを差し出せばボクサダカですねと念を押さるる

☆歌集「身世打鈴」の中から、朝日新聞の一面の「折々のうた」に、大岡信さんが、この中の歌「パクチョンファと振り仮名せるを差し出せば」選び、感想を載せている。

☆一人学びの母国語に
かつて「朴」にパクと、クは小文字だよと、---
小文字のクは日本語にない
パソコンにも出ない
ハングルは漢字一つを、一字で表す
パクの漢字は何処に?

◎朴を、誰もが、パクという。
これに逆らい、学校はガクコウじゃなく、ガッコウとするのと同じく発音するのだと説明をする。

◎私の名刺には、ハングルとローマ字の表記をしている。また、日本語が上手ですねと言われることが、度々であったので、下記の私の短歌を記入している。

☆土地奪い言葉を奪い名を奪う「併合」ありて「在日」いる

ちなみに、日本語が、上手ですねと言われるのが、嫌だったと、息子も名前の一字を変えている。「一」を、朝鮮語では、同じ読みの「イル」となる「馹」にした。あまり使われていない字なので、相手は困るようだ。「日」は「金正日」の「日」があるので、使えなかったと言う。親子は、似るのかもしれない。

◎朝鮮学校は、反日教育をしていると、言われるが、私の様に、孤立生活が少ないせいか、差別に対して意外と無頓着で、民族心も、そんなに強くないと、高貴高齢者の私は思う。

◎少なくとも、本名を使って欲しい。仕事上、仕方がないと言うが、そんなことを言ってる場合じゃないと思うのだ。

◎著名人、スポーツ選手、芸能人、近隣に、朝鮮人の名前があふれるほどに、沢山あることで、朝鮮人がいることも、当たり前に感じ、違和感を感じなくなるのでは、ないのかと思うのだが、如何なものであろうか?

◎老い先短い私の願いがある。朝鮮人の存在に、違和感を感じないように、全ての人が本名を、名乗ることで、この日本が住みよい国になる事。
それは、松の木があり、梅の木があり、無窮花があり、桜があり、コスモスがあり、菜の花がありと、多様なものがあってこそ、楽しい生活が出来ることに繋がるのだ。人間も、色々な国の人が近隣に住んでいることを、違和感なく受け入れる社会になって欲しいと、常々、考えているのだ。そのためには、一人一人の自覚があってこそ、実現できるのだと思う。

画像に含まれている可能性があるもの:1人、スマイル

by pcflily | 2020-01-13 13:49 | アリランエッセー | Comments(0)  

本名を名乗る

☆「在日」の人々よ、本名を使用して下さいね。

1971年1月、汽車賃だけを持っての、家出娘じゃない、子供連れの家出オモニだった。東北の雪国、会津の山奥からであった。親に与えられた新築の檜建ての50坪の家に住み始めて、半年も、しないときだった。二人の子供を、朝鮮学校に、通わせたい一心。

東北朝鮮学校の寮に長男を寄宿生活をさせていた。妹から、子供が可哀想だ。鬼母と言われていた。この妹は、後に、息子が「統一評論社」に勤務することを知って「親も親なら子も子だ、夢を食っては生きられない」と怒鳴った。
その通りだと思う。だから、いまだに、親子共に、余裕のないその日暮らしをしているのだろう。
雪の舞い散る中を、捕まらないようにと気を配りながら、夜行列車に飛び乗った。無茶な事をした、世間知らずであったと、しみじみ思う。

歌集「身世打鈴」より
本名
☆スンジャ、チョンヒ,立花、梨花、理香、木村貞花たどり
つきたる本名朴貞花
☆リッカ、テイカ、と呼ばるるときに胸疼く「チョーセン」を罵声に浴びし日顕ちきて
☆振り仮名を付けし名刺を持ち歩く吾ひとりの本名宣言運動
☆陽の目見しわが本名に差別なき場もありし喜び
☆パクチョンファと振り仮名せるを差し出せばボクサダカですねと念を押さるる

☆歌集「身世打鈴」の中から、朝日新聞の一面の「折々のうた」に、大岡信さんが、この中の歌「パクチョンファと振り仮名せるを差し出せば」選び、感想を載せている。

☆一人学びの母国語に
かつて「朴」にパクと、クは小文字だよと、---
小文字のクは日本語にない
パソコンにも出ない
ハングルは漢字一つを、一字で表す
パクの漢字は何処に?

◎朴を、誰もが、パクという。
これに逆らい、学校はガクコウじゃなく、ガッコウとするのと同じく発音するのだと説明をする。

◎私の名刺には、ハングルとローマ字の表記をしている。また、日本語が上手ですねと言われることが、度々であったので、下記の私の短歌を記入している。

☆土地奪い言葉を奪い名を奪う「併合」ありて「在日」いる

ちなみに、日本語が、上手ですねと言われるのが、嫌だったと、息子も名前の一字を変えている。「一」を、朝鮮語では、同じ読みの「イル」となる「馹」にした。あまり使われていない字なので、相手は困るようだ。「日」は「金正日」の「日」があるので、使えなかったと言う。親子は、似るのかもしれない。

◎朝鮮学校は、反日教育をしていると、言われるが、私の様に、孤立生活が少ないせいか、差別に対して意外と無頓着で、民族心も、そんなに強くないと、高貴高齢者の私は思う。

◎少なくとも、本名を使って欲しい。仕事上、仕方がないと言うが、そんなことを言ってる場合じゃないと思うのだ。

◎著名人、スポーツ選手、芸能人、近隣に、朝鮮人の名前があふれるほどに、沢山あることで、朝鮮人がいることも、当たり前に感じ、違和感を感じなくなるのでは、ないのかと思うのだが、如何なものであろうか?

◎老い先短い私の願いがある。朝鮮人の存在に、違和感を感じないように、全ての人が本名を、名乗ることで、この日本が住みよい国になる事。
それは、松の木があり、梅の木があり、無窮花があり、桜があり、コスモスがあり、菜の花がありと、多様なものがあってこそ、楽しい生活が出来ることに繋がるのだ。人間も、色々な国の人が近隣に住んでいることを、違和感なく受け入れる社会になって欲しいと、常々、考えているのだ。そのためには、一人一人の自覚があってこそ、実現できるのだと思う。

画像に含まれている可能性があるもの:1人、スマイル

by pcflily | 2020-01-13 13:49 | アリランエッセー | Comments(0)  

李容洙さんと出会った日

〇夕食を共にして。
李容洙さんと出会った日_f0253572_13274998.jpg
李容洙さんと出会った日_f0253572_13285261.jpg
李容洙さんと出会った日_f0253572_13300375.jpg



慰安婦にあらず李容洙と憤怒は今女性人権の闘士を生みき


元「慰安婦」と呼ぶは悲しき「慰安婦にされた女性」と吾も意義唱える


慰安婦にされしハルモニわれもまた己晒して歴史認識問う


「十億円で最終的不可逆的解決とは許せない」

2016年


十億円とは米国から買うと決めた

オスプレイ17機の三千六百億円

1機、二百十一億円の二十分の一にも満たない 

 

血涙のハルモニ達が

名乗り出た神聖な勇気

名乗り出られない

生死不明の数多の女性がいる


米国の対中政策

日・米・韓軍事一体化の

強化に与した政治的合意は

被害者への残酷な人権蹂躙・侮辱だ


少女像を守る老若男女

厳寒の昼夜を徹して守る若者

世界の彼方此方で抗議が続いている

十二月八日の合意は撤回すべきだ


八月号     二〇一五年      

李容洙さん

     

日本人将兵の輪姦と拷問の

後遺症に苦しむ

李容洙さん


五十八歳で大学入学

大学院まで進み

国際法・歴史を学んだ


初見の私達に

話題は尽きない

「儀軌」返還に尽くした

慧門さんとの会話に繋がった


訪日と訪米の証言

闘い続けた幾十年

先に逝ったハルモニ達の

恨をも抱きつつ――


今年も訪米の李容洙さん

その願いも、会見も、

国内の歴史学者の意見も、

完全無視の安倍首相


スローガンを連呼していた

ヒットラーの姿にダブる

安倍首相の詭弁


「米国合同会議での演説」

七日後の首相への警告状

日・米・欧の歴史家

百八十七名の集団声明が熱い


植民地支配と

侵略の歴史を直視せよ

日本軍の性奴隷の強制を認め

謝罪し責任を取れ

世界の声は日本に届くのか?


by pcflily | 2019-11-14 14:33 | アリランエッセー | Comments(0)  

ウリアボジ・私の父

☆秋の抜けるような青空、赤く熟れた柿、私のアボジの思い出だ。「朝鮮の秋の空はこんなものじゃない、もっと高く青い空だ、もっと高く澄んでいる空だ」と呪文のように言っていた。「朝鮮の柿は美味しい」とも。アボジの故郷恋しさの気持ちがこんな言葉になっていたのだろうと思う。

終の棲家と決めた現在の家に住むようになったから、アボジの木として柿の木を植え、オモニの木として梅の木を植えた。梅は厳寒に耐えて、春一番に実を付ける。オモニの姿と重なる。15年も過ぎたのに、柿の実は一個も実ってくれない。でも、今年も、二人の友人がリンゴと共に、柿を送って下さった。手作りの干し柿も入っていた。果物が何よりも、好きなので、瞬く間に食べてしまう、残り少なくなったので、今日からは少しセーブしよう。

上京したばかりの頃は、なれない環境で、睡眠もとれず食欲もなかった。果物で生きていると言われる程食べた、伊予柑は、香水をつけたかと言われたほど食べた。

アボジの事、オモニの事、自分のかつての生活が思い出されてならない。


ウリアボジ  私の父     (ぱっ) (ちょん) (ふぁ)

船艙に閉じ込められて玄界灘をアボジ越えたり一九四十年

残虐な強制労働の報復を恐れて爆殺されし同胞のアイゴー

炭鉱より逃亡の父山間(やまあい)の会津に住みて半世紀過ぐ

今もなお語らぬアボジの炭鉱の日々映画「三たびの海峡」に見る

強制連行の叔父の遺体も坑道に閉じ込めしまま三池炭鉱閉づ

談合にはずされ顔面蒼白の父の代筆震えつつ書く

談合に外され続けし吾が父の落札価格赤字の仕事

工事現場父に付き添い巡りたり出面帳持ち中学生の吾

畑よりの強制連行のわが父も居住許可願の外人登録をす

七人の()あれど「表札に本名は(ちょん)(ふぁ)一人」とアボジの憂う

寡黙なるアボジの植栽 子に孫に無窮(むぐん)(ふぁ)咲き継ぐ夏の真昼を

朝鮮を無窮花の園と呼ぶという統一の花咲く日のあらむ

百年を越したる先祖の文集のなお新しき朝鮮本に

父の祖を(じょっ)()に辿れば紀元前五十七年新羅始祖王

父祖の古書ひもときゆけば朝鮮の楽聖朴蘭渓の一族の裔 

始祖新羅王朝鮮実録に載る朴蘭渓父の誇る族譜とは

亡国の民なる日にもわが父の誇り支えしか「両班(やんばん)」ということ

両班(やんばん)の子孫たること支えとし日本に生きしわがアボジかも

七人の子あれど娘「()(らん)朴家(ばっか)」継げる養子父は迎えぬ

民族の風習守れば朝鮮五百年アボジの誇る儒教の国

「火葬になどされてたまるか」と土葬なす母国に帰る吾がアボジかも

足萎えのアボジの繰り言「韓国の土になりたし祖国の土に」

両班の裔なるだけが生きがいかアボジ帰国すと七人の娘あるに

「両班」の姓を守りて土葬する身なりと帰国を望む八十五歳

村田喜代子書きたる「龍秘御天歌」にアボジの儒教精神土葬を知る

妻と子と孫と曾孫と五十人置きてアボジは祖国・母国・故郷へ

七十年連れ添いし妻と別れゆき両班の姓守るアボジ帰国す

その妻と生き別れして帰国せしアボジ今年は結婚七十周年

日本の土を再び踏まぬこと決めて土葬の待つ祖国に帰るアボジ

土葬望み帰国のアボジ生きながら黄泉(よみ)の父母と語りいるらむ

帰国せる父思うとき唇に出る「空手来(こんすれぬん)空手去(こんすごよ)」朝鮮民謡の

故里の土に還る帰国せる父住む(ちゅん)(ちょん)()古代文化展甲府にて)

忠清道木、水、鉄と豊かにて世界最古の金属活字成す(1234年)

現存の世界最古の金属活字本「佛祖直指心體要節パリにある不思議

七五一年刷られし木版本「無垢浄光大陀羅尼経」則天文字の鮮やけく

強制連行されたることの憤怒未だ証言拒みアボジは逝けり

土葬願い秋に木の葉は散るものとアボジは逝けり医療拒みて

絹のパジ・チョゴリ・トゥルマギ纏うアボジ米と路銀持たさるる

麻布に総身くまなく包まれぬ邪気入らぬように骨の崩れぬように

寿衣まとうアボジの遺体はすきまなく麻布に巻かれ物体となる

春逝きしアボジは吾に韓国の世界文化遺産の花の旅さす

アボジ逝くこの夏「ふくしまの百年」の写真入りの記事わが家の連行


ウリアボジ・私の父_f0253572_13263550.jpg
〇居間から見えた夜明けの空。

ウリアボジ・私の父_f0253572_13314017.jpg
〇金容洙オモニとの夕食の日。
ウリアボジ・私の父_f0253572_13274998.jpg
〇少女像と共に。金容洙オモニの若かりし日。
ウリアボジ・私の父_f0253572_13300375.jpg
〇こんなかわいい少女像もある。
ウリアボジ・私の父_f0253572_13285261.jpg


by pcflily | 2019-11-11 14:13 | アリランエッセー | Comments(0)  

町田に住んで33年の思い

〇喜怒哀楽分かち合いたる星子さん身罷りしこと宜えぬ日々
〇呆けたるごと君思うベル鳴りて会話楽しむ事のあるかと

療養中であったが、いつも明るく前向きで私が励まされていた。昨年は、毎日のように電話で話し合い、南北の和解を喜び合い、平和協定の成る日まで頑張って生きていようと話し合っていた。我が家のばらのゴールドハニーとピースは今、真っ盛りだ。昨年は、この薔薇を一杯摘んで花籠にして送ったのに、送る事も出来ない。
人間は誰でも別れて旅立つことは、承知している筈だが、何の遠慮もなく話し合い、意見の一致を見ることの出来る人は少ない。
2ヵ月が過ぎて、漸く終活の整理に入ることが出来た。忘れていたものが出てきて、真面目に一生懸命であった事を、愛おしく思える。
町田に住んでいた時に学んでいた市民大学のレポート集の中にあった。16年前も今も同じことを考えているのだ。。

町田市民大学 HATS 「町田郷土史2」 
2003年後期 受講生レポート集
町田に住んで33年の思い   (ぱっ) (ちょん) (ふぁ)
 ようやく、受講資格を得た2003年度「町田の郷土史」であったのに、体調を崩して欠席が多かったのが、残念であり、また皆様に申し訳ないと思う。
それでも、第6回の浜田弘明先生の「軍都相模原の形成と町田」の講義を聞くことが出来たのは幸いなことであった。出来る事ならこの講義をもう一度聞きたいと思う。
冷静に事実を淡々とお話なさるのを聞いて感動した。
 広辞苑の「歴史」を紐解いてみると
1、 人類社会の過去における変貌、興亡の有様。また、その記録。
2、 物事の現在に至る来歴。と記されている。
町田市の郷土史、まして町田の土地に刻まれた「戦争」の郷土史に在日朝鮮・韓国人のことが取り上げられていないことを、情けなく思ったことであった。
 93年度の「町田市民史学」から始まり、町田市民大学HATSでは何度も勉強させて頂いたが、市民として長いこと生活している在日コリアンについて関心がないのか、気が付かないのか取り上げられない事が多い。
「町田の考古・考現学講座」を受講した時は、対象日本史年表が資料として渡されたのだが、朝鮮と表記すべきところを「鮮」となっていた。これは、朝鮮の朝は朝廷(皇室)の朝と同じであるから、不敬であるという思想から来ている。差別語である。高句麗、百済も表記せず、国連に加盟している朝鮮民主主義人民共和国の記入もなかった。
町田の土地に刻まれた「戦争」には、在日朝鮮・韓国人は忘れてはならないことと私は思うのだが、間違っているのだろうか?
在日朝鮮人運動史研究家の平林久枝氏の聞き書きによると、韓国慶尚南道出身のTさんは次のように話している。
わたしの故郷は釜山からそう遠くない農村で、生家は小作農だった。小作料は、収量の半分を取られていた。家族は父母と、私と妹の四人だった。父が強制的に連れて行かれたのは一九三九年だったと思う。
家族四人が田んぼへ出て、両親が仕事をしていた。そこへ突然、黒い帽子をかぶりあごひもをかけて剣を下げた巡査がやってきた。その姿が強く印象に残っている。
父を縄でしばって無理やりに連れて行った。それもただ縛るのではなくて、ちゃんばらや西部劇でやる投げ縄で父の首に縄をかけて、その縄で後ろ手に縛って引きずるように父を連れて行ってしまった。そのまま父は日本へ、現在の相模原へ軍事基地(日本陸軍のもの)を作る為に連れてこられた。
父が働かされた場所は、東京都と神奈川県の境になっている「さかい川」の東京都側で、当時の堺村の山林を崩して戦車道路を作ることだった。
一年後に母は、父を頼って私と妹をつれて日本にきた。当時の堺村には朝鮮人の飯場があり、四千人が住んでいた。
多摩丘陵の山林を切り開いて戦車道路を作るのが主な仕事だった。父達の労働はすべて手仕事だった。スコップや鶴嘴を使って土を掘り、すくい、モッコを二人で担いで土を運んだ。その作業現場には剣を下げた憲兵が見張っていて、一言でも文句を言えば、剣で切り付けたり腹を突っついたりして、朝鮮人に怪我をさせること等なんとも思わない様子だった。
わたしは怪我をさせられた人を何人も見ている。道路が出来たのは1944年、私は11歳になっていた。飯場暮らしの独身者は食料が少なくて空腹を我慢できずに、夜になると食料に融通のきく所帯持ちのところに忍んできてジャガイモなどを食べて帰ったが、そんなことでも見つかれば往復ビンタだった。(以下省略)
浜田先生の講義でも良く分かるが、日本最大の大規模な軍都相模原に隣接する町田市に戦中・戦後、大勢の朝鮮人がこのような悲惨な状態で暮らしていたことは、疑問の余地がないだろう。
現在の「こどものくに」には、弾薬庫があった。ここでも、1000人近くの朝鮮人が働かされていたという。旧国鉄原町田駅からは行幸道路も作られている。
町田の土地に刻まれた『戦争』及び、町田市の郷土史に」在日朝鮮・韓国人の足跡・事績が、ない筈はないのである。
 朝鮮を植民地にしてからの日本に、朝鮮人は労働力として移住してきている。本人の意思の有無にかかわらず、この事実は確固としたものである。
現在も、朝鮮・韓国人と呼ばれて町田市に住む人々がいる。両国の歴史に奔流され、取り残されてしまった人々である。彼らは声を挙げる場さえ持たない。
日本の植民地政策で思いだすのも悍ましい体験をさせられた。そして、その後、半世紀も過ぎているというのに、未だに無視・放置されているのはどういうことであろうか?
町田に暮らすようになって、私は33年になる。喜怒哀楽に揺れる熱い血の通っているあなたと同じ人間です。透明人間にしないで下さい。私を隣人として見て下さいと言い続けてきた。この私の悲痛な声が何人に届いただろうか?
町田市には朝鮮学校がある。町田に朝鮮学校があるという事は、其の由って来る原因がある。朝鮮を植民地にした事、そして戦争を遂行するために朝鮮人を労働力として連れてきたことである。
けれども、朝鮮学校の為にと言う補助金は一円も出していない。私立学校として年間一人の生徒に5000円を出しているだけだ。
朝鮮・韓国人も市民税、都民税、国税も納めている。介護保険料も払っている。市民としての義務は果たしているのである。何故、その恩恵は受けられないのだろうか?日本の各地の地方自治体は、独自に朝鮮学校に助成金を出しているところもある。
福祉の街として名をはせた町田市は、朝鮮人にはその福祉の心を届けていない。
私の父は、1940年福島県の常磐炭鉱に連れてこられて働かされた。そこへ、私達母子は命令により渡日した。家族がいれば簡単に逃げられないと思った為の人質であった。
日本の敗戦により私達は漸く自由の身になった。母が身重であったために船に乗れず、そのまま日本に住み着くことになった。こうして、私は日本の学校に通ったが、どんなに努力をしても認められることはなく、むしろ満点を取った事で、先生に「朝鮮人は先生にも看護婦にもなれないんだよ」と笑いものにされた。
結婚して母親になったとき、可愛いわが子には、差別される悲しみを経験させたくないと、家族の反対を押し切って上京し、一人で二人の子供を、朝鮮学校に通わせた。
けれども、朝鮮学校に対する差別があり、経済的に苦しい思いをした。一時は、三つの仕事を掛け持ちした。四時間の睡眠時間が確保されれば不足は無いのにと思ったものだが、女は弱しされど母は強しと、無事乗り越えた。
私の祖国朝鮮は、アメリカとソ連の冷戦の生贄になり南北に分断されてしまっている。
日本の敗戦後、私達は国籍を選ぶ権利も、他の市民権も全く与えられずに放り出されてしまった。そして、朝鮮人を管理する外国人登録の国籍欄に「朝鮮」と記載された。いわば記号だ。北も南もなく、皆、朝鮮人である。私が朝鮮人ですというと、殆どの人が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と結びつける。これは誤解である。
現在日本に定住する在日朝鮮・韓国人は朝鮮から来た人とその子孫である。誰もが皆「朝鮮人」だった。南と北に分ければ9割が南の出身である。我が家も、ソウルより南に位置する忠清北道から来ている。
朝鮮の分断後、韓国国籍を習得した人が「在日韓国人」であり、変更していない人が「在日朝鮮人」と呼ばれているのである。
「朝鮮」とは民族名であり、「朝鮮」という国は現存していないのである。
1965年にアメリカの意向により日本と韓国の政府は両国民の反対を押さえ付けて「日韓条約」に調印した。日本は朝鮮の南半分だけを正式に国として認めた。
そして、朝鮮の北半分とは未だに国交を樹立していない。他の国を植民地にした宗主国が半世紀以上も断絶ししたままでいるのは世界に例がないという。即ち日本だけである。
世界でもアメリカに次ぐ国が、米もない貧しい国と言いながら、人口が2000万程の国を恐ろしいと騒ぎ立てているのは何故なのか?私には理解できない。
韓国籍の方が、日本で暮らす場合には軋轢が少なく暮らしやすいので、韓国籍に変える人が増えて来た。むしろ、現在は韓国籍の方が多いという。
 けれども、私は、誰もが同じく朝鮮人と言われ続け、最初に「朝鮮」と記入された国籍を変えないでいる。「朝鮮」と呼ばれた国は500年である。紀元前にも「朝鮮」と呼ばれることがあった。意固地だと言われたりするが、私は『朝鮮籍』を守っている。
南北に分断された祖国の半分だけを意味する「韓国」に変えるつもりにはなれない。その為に自分の生まれた場所であり母国と慕う場所に自由に往来出来ないでいる。日本人や他の国の人が楽しく自由に往来しているにも関わらずである。この事を知らない人も多いと思う。自由な国、韓国という印象が強いと思うが、これが現実である。
この現実、日常生活に入ってくる日本人とは違う境遇や差別に日々向き合っている為に「戦争」に無関心ではいられない。
町田市と相模原市の堺にある境川(高座(たかくら)川と呼ばれていた)を散歩していたら、案内の看板が立っていた。金森、金目、秦野は渡来人の氏名に関係がある地名。因みに「たかくら」は高倉、高句麗に通じるという。ここ相模の国、武蔵の国一帯は、かつて高句麗からの渡来人が多く住んでいたという。
朝鮮学校は高ヶ坂にあるが、生粋の町田の人間だという方に言われた。高ヶ坂(こうがさか)ではない。高ヶ坂(こがさか)と「こう」と伸ばさずに「こ」と短く言うのだと言われた。
朝鮮語も「高」の場合「こ」と言うのである。高句麗はコクリョと読む。朝鮮語を勉強したことがある人はご存知と思うが、朝鮮語は長音が少ない。コーヒーは「コピ」ユニークはユニク。ポーズはポズ。
そこで、私は「成瀬」まで朝鮮語で結びついてしまう。「ナルダ」は飛ぶ。「セ」は鳥で「飛ぶ鳥」「あすか」になってしまう。ちょっと穿ち過ぎかも?古代史の本の読みすぎかもしれない。
 
相模、武蔵は朝鮮語から来ているという。
ヒントは、(から)(むし)。朝鮮では、現在でもモシと言う。
(から)から来たモシでカラモシ、カラムシとなったと我が家にある古い日本語の辞書に載っている。
モシガミ(モシ上)ムサガミ、サガミ・相模。モシシモ(モシ下)ムシシモ、ムシシ、ムサシ・武蔵。
富士山はかつて火の山と呼ばれた。古代史の本に出ている。朝鮮語で火はプル、山はサンで、プルサンがプチサン、プジサン、富士山となった次第である。
朝鮮語の1はイル、7はチル、8はパル。日本語になるとイチ、シチ、ハチとルがチに変わる。
「だるまさんがころんだ」という遊びがある。コロオンダは、現在もそのまま使われている「歩いてくる」という朝鮮語である。この遊びに転ぶ場面はない。
だるまさんは歩けない筈だが、この遊びには歩く場面が出てくる。この様な事は数え上げればきりがない。
日本文化のルーツは、中国文化をイメージする人が多い。朝鮮を中国文化の経由地であるだけと考える人も多い。けれども、朝鮮からの渡来人はその文物・文化を使いこなし、独自に発展させた人々である。文物・文化だけを運んできたのではない。文物・文化を使いこなせる人々が渡来して、文物・文化と共に日本に住み着いたのである。
朝鮮と日本は古代から現代まで、地理的にも近く、歴史的に切るに切れない深い繋がりがある。
朝鮮側からすれば、全く理解できない身勝手な秀吉の朝鮮侵略。この時、人口の3分の1の人々(兵士ではない、老人、女、子供まで)が、ローラー作戦で殺戮された。この秀吉の朝鮮侵略と、これも日本の身勝手な明治以降の植民地政策が、両国を引き裂いていると思われるが、2000年の間の朝・日間の関係では友好的であった時期が長い。
日本にとって一番争いのなかった期間、260年続いた江戸時代。鎖国をしていたと言われているが、朝鮮国と正式な国交を結んでいたのである。「朝鮮通信使」のことは今更私の説明は必要と思われないが、知らない人は調べてみて欲しい。
国家の争いは、政権を持つ者の欲望から来ている。それにより、犠牲となるのは善良な民衆であり、特に女、子供、老人である。私達は正しい歴史を知る事により、理解を深めることが出来るのではないだろうか?
金田一春彦氏の言葉を抜粋して記してみよう。
「言語学の立場から朝・日両国関係を見ると、日本語の「は」と「が」に当たる朝鮮語、相手によって語尾の「です、ます」部分が変化する敬語、擬態語や文法の順序など「他のどこにもないくらいそっくり」です。古代の高句麗、百済語などが明らかになれば、両国の関係はより明確になる。朝鮮と言うのは民族名で、「朝鮮民族」と言って来た。「韓国」民族とは言わない。昔から朝鮮語と言っておりましたし、朝鮮と言って親しみこそすれ、馬鹿にしたり、北だけを指すという気持ちは全然ない。朝鮮独自の文化に安堵感を覚える。朝鮮の民族衣装チマ・チョゴリは「世界で最も上品で優雅な民族衣装である」
日本語に(はな)から(物事の初めの意がある)という言葉がある。朝鮮語の(はな)から来ている。
分断祖国の統一と世界の心が一つになって、お互いを認め合い共生する事を願い、わたしは「端の会」を作った。ハナは朝鮮語で「一」である。「一人」である。「一」から「一人」へ、ハナからハナへ、私からあなたへ、あなたからあの人へ、次々と繋がってゆき、最後に大きなハナ、一つに成る。共生の幸せの花になる。
物事はすべて夢を持つことから始まる。千里の道も一歩から、こんな小さなハナだが、始めている。続けている。
図書館で長いこと絵本の読み聞かせの仲間の一人として参加して来た。いろんな会に参加して心を伝えてきた。二月七日に市民フォーラムで行われる、part4 life in peace「平和に生きる子守歌」の公演がある。これは、脚本も出演も町田市民によるオリジナルミュージカルで、この一員として参加している。Part3は、昨年の21日に市民ホールで公演され市民の好評を得た。
町田市の核廃絶平和都市宣言20周年記念のイベントとして認められ、市からの後援も受ける事が出来た。私は、part1から参加している。ここでも多くの友を得た。
歩みは遅くとも、たとえ、一粒の麦でしかないであろうとも、隣人の日本人を信じ続ける。人間を信じる事で、朝鮮人の私を隣人として扱ってもらえることを信じて歩いてゆくつもりだ。
「知る事から和解と真の共生がある」これが私のモットーである。

by pcflily | 2019-05-10 23:49 | アリランエッセー | Comments(0)  

忘れられない人 広瀬禮子さん

☆翁長知事がお亡くなりになった。パソコンを弄っていたら、いきなりこのニュースが飛び込んできた。驚いて、震えが止まらず、合掌を続けるばかりであった。
長い事闘い続けたのに、良い結果を見ずに逝ってしまわれた。どんなにか心残りであったろうか?私は、直ぐに尹伊桑さんを思い出した。私の歌集『身世打鈴』のエッセー集に、少しだけ書いてある。
【ドイツに住む作曲家の尹伊桑氏は愛する祖国に拉致されるという数奇な運命をたどり、祖国に住むことを断念し、それでもなお祖国への思いやみがたく、音楽を通して祖国統一に挺身している】そうして、38℃線で南北統一音楽祭を開きたいと行動していたが、とうとう願いを
実現できずに亡くなられてしまった。
人間として、真剣に真面目に生きる人は、何故、苦しみ続けそ早世するのだろうかと思う。

30歳迄生きられたら儲けもんと言われた私のような無力な人間が80歳迄、こうして、無為徒食をしているのにである。明日を夢見ず、一日一日を無事に過ごすだけで生きて来た。そんな意志の弱い向上心のない私の傍に色々な人があらわれて助けて下さった。

広瀬禮子さんも、そうであった。朝日歌壇に投稿した短歌を読んだと取材を申し込まれた。

五十五年の分断あれど両首脳車内に語る一つ母国語
中傷の病みたるソウル放送に母国語うれし終夜聞き継ぐ
「アリラン」は統一の曲金大中迎うる宴に尹伊桑編む

金正日総書記と金大中大統領の握手と抱擁があった時である。電話で取材の申し込みがあって、町田まで来て下さったのが最初の出会いで会あった。二度目は、講演を頼まれて、横浜まで出向いた時である。お話をさせて下さったばかりでなく、皆さんとの食事会もあった。
三度目に会ったのは、横浜で行われていた「朝・日交流展」に私が作品を出展していた時である。その後は、長い年月の間、無力な私を支えて下さった。

〇横浜での講演会を終えて、役員の人達との記念撮影、チマ・チョゴリの私の右側に広瀬さん、ずっと優しかった
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〇右、最初の取材された記事。左、横浜に越してからの私のエッセー記事
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〇朝・日友好展の打ち上げの宴で、誘われて一緒に歌った。私の左側は広瀬禮子さん、右側は国会議員の清水澄子さん。広瀬さんは、共和国・北朝鮮に行った時に、金日成主席と同じテーブルで、食事をし、歌も歌った事を話して下さり、次回は私を連れて行くと仰っていたのに、彼女も清水さんも鬼籍の人になってしまった
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〇。広瀬さんに、朝・日友好展の会場での即詠の歌をと言われてビックリしたが、私の歌に対する彼女の返歌と共に、彼女は筆を執り二人の歌を書いて会場に展示した。広瀬さんは、知識が豊富で、筆が立つばかりではなく、短歌、エッセー、詩などをたくさん遺している。
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〇毎回、短歌の即泳を要求し、ご自分で書いて展示した。
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。〇写真を写した方が送って下さって、このような写真が沢山ある。古い写真の整理を始めたが、送って下さった方の事を思うと捨てる事も出来ず、どうして良いかわからなくなる。





by pcflily | 2018-08-10 17:21 | アリランエッセー | Comments(0)  

オモニの言葉[人間の家に人間が来てこそ幸せなのだ]

猛暑が去ったと思ったら台風が来ると言う。我が家の前は直線の道路になっているので、強風の時には近所のごみ迄が、私の家に集まってくる。
オモニを我が家に引き取った時に、我が家の前にごみ迄が集まると話したら、オモニは、人間の家には人間が来るのが幸せなのだ。ゴミでも来るのは良い事なのだと~~言い聞かされた。
実家は、土木建築請負業だった。現在は、人を雇う時に試験をしたり面接をするが、手荷物(ポッタリ)を一つ持って働きたいと言って、我が家に訪ねてきたら、その日、その時から我が家の人となる。寝所と食事と仕事を与えられる。
オモニは子供達に、いつも働いて下さる人がいるからこそ、私達も幸せに、こうして食べていけるのだと言い聞かせ、食事も、彼らに先にあげて、残ったものを私達が、食べる。御飯も汁もおかずも大盛にしてあげるのが常であった。
そのことが身についていたのか、私も、全てを大盛りにしてしまう。店をしていた時も、そのことでお客さんに喜ばれた。娘はコーヒーをカップにたっぷり入れるのはお洒落でないと言っていた。また、家を持ち独立した時にも訪ねて来た人は誰でも、部屋に招き入れてしまい、危険だと友人に、度々、注意されていた。
横浜に転居してからは、訪ねてくる人も殆どないし、近所の人も、家の中に入れて下さった人は一人だけであった。現在は嵐の時と、普段は風と陽の光と月の光だけだ。
終活の整理ををしている間に、横浜に転居する前は、色々な人が訪ねて来ていたので、本当に幸せだったのだと思うようになった。
☆韓国に開館する「植民地歴再博物館」に、在日の生活の一部を知って頂きたいと、私の生きてきた生活が垣間見えるようにとの思いで私物を送ることにしたので、写真に写し、パソコンに残すことにした。この様なものも欲しいとおっしゃったからである。『統一評論』『朝鮮画報』『イオ』など手元にある総連関係のものも、相当数送った。本当に役に立つのかどうか分からない。私としては、朝鮮学校の教科書を送りたいと思ったのだが、二人の校長先生にお話ししたが、理由は分からないが渡してもらえなかった。これは、断られたという事であろう。それで手持ちのものだけを送ったのである。

〇女性の新聞「ふえみん」と「女の新聞」から取材を申し込まれ、我が家に来ていただいた。「ふえみん」は新聞発行の記念日の1面に掲載して下さった。
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〇「女の新聞」は、記事を掲載して下さったばかりでなく私の為に講演の場を用意して下さったばかりでなく、横浜に来てからもエッセーを書かせて下さったりした。そして、公私共にお世話になった。もうこの方も鬼籍の人になってしまった。
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〇「クーヨン」は新年号に落合恵子責任編集「女が決断するとき」として5人の女性が選ばれ、私もその一人となっていた。取材する方以外に専門の女性の写真撮影の方も一緒に来られた。
総連の「イオ」では「人生には大事なものがある」として4人の男性と女性は私だけであった。その後、京都での「統一の集い」で朴鐘鳴先生に挨拶をした時に、名前を名乗っていなかったのに、初めて会ったのに「あなたの朝日歌壇の歌を30年保管していますよ」と、会った途端に言われてビックリしたけれど、この時に一緒に取材されて掲載された方だったので分かったのであろうと、今は想像できる。
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〇朝鮮新報も何度か記事にして下さった。本当に感謝の心がわいてくる。
〇共同通信社の取材記事は、全国に渡されるらしく、各地から電話があり切り抜きを送って下さる人もいた。各新聞社の思惑で見出しの言葉が変わり、この「最後の生き証人として」は好きな部類に入る。その後、横浜に来てから書店で単行本になっていることを知り購入したが、単行本となる事を、私へは知らせをしなかった。
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〇「AERA」からの取材の申し込みの時は驚いた。取材内容をテープに取り危険に備えたほどであった。何故、私が選ばれたのか分からなかったからだ。現在でも分からない。
〇「みんなちがってみんないい」は原稿の依頼を受けて書かせて頂いた。
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☆オモニの言葉の通りに「人間の家に人間が訪ねて来る事は幸せな事だ」を、しみじみと思いだしている。自分の意志で、極力、人に会う事を避けてきたのだが、年長の友人が多いので、皆、先に逝ってしまった。人間の性善説を信じていたが、姉妹の裏切りを見てからは、ますます、人間嫌いになってしまった。本人の気が付かない私への蔑視の心が見えてしまうから、なおさらだ。「ブルータスお前もか」と最近の経験で改めて思うようになった。
八十路の坂に来たのだから、寝たきりにならないだけ有難いと思う。食品の買い出しに、10日に一度ぐらい、外出する以外は家に閉じこもり、朝夕の花の手入れで外に出るだけだ。手入れの甲斐があって猛暑の中でも無窮花、百日紅、百日草、マツバギク、ツルニチソウ、オーシャンブルー、薔薇までも、夏が一番好きなんですと言わんばかりに我家を囲んで咲き誇ってる。


by pcflily | 2018-08-07 12:04 | アリランエッセー | Comments(0)  

『もう一人の力道山」李淳馹一族の出版記念祝賀会

毎朝、目覚めて一番の楽しみはパソコンで韓国の新聞を読むことだ。昨日は、力道山の事が、載っていた。その内容は、私の息子が北朝鮮迄行き調べて書いた渾身の力道山のノンフィクションの内容そのものの様であった。

力道山について息子の李淳馹が『もう一人の力道山』として出版したのは、1996年4月だった。小学館の21世紀国際ノンフィクション大賞に応募し、最後の5作品に残ったが副賞さえもらえなかった。再度の応募の朝鮮学校のラグビー選手についての『青き闘球部』も最後の5作品に残ったが、受賞は叶わなかった。息子は、自分の作品の力量不足だと言ったが、私には、そのように思えなかった。息子が応募した時だけ、2名の副賞が選ばれなかったからである。私の知っている限り、副賞がなかったのは息子が応募した時のこの二度だけである。事情は分からないが私の息子は、その後、ノンフィクションに挑戦することをやめてしまった。

それでも、「もう一人の力道山は、小学館で単行本として出版することになった。
小学館の編集部では、原稿を見るまで信じなかったそうであるが、著名な船戸与一さんが「解説」を書いて下さった。「新たなノンフィクション文学の誕生である」と締めくくって下さった。
ところが,内容は良いが【「半島」「半島人」の差別表現あると、関係団体が抗議、第5刷から指摘部分を「韓国・朝鮮人」「在日朝鮮・韓国人」へ改め、巻末で謝罪文を掲載。【「差別語不快語・にんげん出版」より】ことほど左様に理解をしている人たちである筈の人でさえ、事実とかけ離れている。
後に「もう一人の力道山」は文庫本も出版されている。

小学館の出版記念会に『世界』の責任者であった安井良介さんから手紙が届き、小学館から出版記念会の招待状が送られてきたけれど、その日に四国で講演が決まっているので、欠席せざるを得ないとの事だった。そうして、シクラメンの鉢植えがお祝いにと届いた。そればかりでなく別便で手紙も届いた。その後には自著の『自画像の描けない日本』を何冊か送って下さった。「もう一人の力道山」の著者としての息子の李淳馹の新聞記事があったと、お母様に似てらっしゃいますねと添え書きをして送って下さったりした。安井さんの手紙は、巻紙に筆で書かれたものであった。安井さんから頂いた手紙は何時も、巻紙に筆で書かれていた。

〇安井さんから贈られてきた『自画像の描けない日本』
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〇安井さんから贈られてきたシンビジュームの鉢植え。花にはご自分の手でお名前がかかれた札が付いていた。その頃のシンビジュームは高価な花であった。
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私の一族が集い、出版記念祝賀会を開き喜びを共にした。私は七人姉妹なのでその結婚式や甥や姪の結婚式などで集う事が多く、最後はカラオケで遊んだが、この日はカラオケの事などは忘れて、朝鮮の未来について遅くまで話し合い盛り上がった。
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〇応募した時の審査員の中に活字にするなと言った人がいたが、若い編集部の人達がせめて2000部だけでも良いから本にしたいと企画し、許可を貰うための書類が上部に行くほど部数が増えて、何万部もにまでなった。表紙は写真のように見えるが油絵で、最初は画家がそんな無名の人のものなど描かせるなと言ったけれど、兎に角読んでから決めて下さいと編集部の人が話して、読んだ後にその画家の態度がすっかり変わって真剣に描いた良い物が出来上がった。背表紙の顔まで別に書いて下さり、その絵を息子にプレゼントして下さった等と、この本が出来るまでの色々な裏話を説明したので、祝賀会は大いに盛り上がった。
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〇左は私の朝日歌壇賞を頂いた私の為に娘が花束を贈ってくれている。
〇右は朝日歌壇賞と、安井さんからの手紙について説明している妹達。
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〇下段、安井さんの手紙を読んでいる私。書道の師範を取ったと言っていた妹が安井さんからの手紙を読むと言って、読み始めたのにあまりにも達筆な草書なので、読めないと言いおりてしまったので、私が読むことになって読んでいる。
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〇安井さんの手紙にはこの「朝銀東京信用組合」の後援会の集いで話をした私の事をはっきりと覚えていると書かれていた朝日歌壇の私の歌も注目して読んでいたとのことであった。でも、この日に会った私が朝日歌壇で見る朴貞花と同じ人間とは知らなかったとのことだ。
朝銀東京の後援会の集いで、講演をなさった安井さんのお話の内容に感動をして、私はお礼が言いたくて、晩餐会の時に安江さんの所に行きお礼の言葉を言って戻るつもりであったのに安井さんが座りなさいと引き留めて下さって、しばらくお話をした。朝銀の支店長などが挨拶に次々と来たのに、私を引き留めて下さった。今、考えると不思議だが、或いはチマ・チョゴリ姿のお陰かも知れないと思うようになった。歌舞を公演する専門家以外ではチマ・チョゴリ姿は何時ものように少なかった。朝銀東京信用組合女性後援会の集いであったので、参加者は女性が多く800名ほどであった。
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〇上の写真は同じテーブルの人達、左は朝鮮高校の校長の奥さん、漢方の医師の奥さん、町田支部の専任職員文局長朝鮮新報の配達をしていた。
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〇下の左は安井さんから、花を贈られた後に、お礼の手紙も書けずにいた時に知らせが届き講演会に出席した時に紹介された人、「世界」に匿名で韓国の様子を知らせて来た手紙が掲載されていた作者。李御寧さんは韓国の文化部長を歴人し、『縮み志向の日本人』や『ふろしき文化のポストモダン』いう本も出版した。安江さんに紹介されてお会いした記念に撮った写真の一枚が送られてきた。そして、左は、当日の「朝鮮新報」から派遣された記者、我が家の嫁さん。
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〇今年も月見草が星降りし如く、裏庭に沢山咲きました。居間に持ち込んでも咲く。
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〇壁を這い上がる定家葛の花を咲かせるために日が当たるように、無窮花の枝を横に倒したのに枝を伸ばし、花をつけてくれた。強い花だ。
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by pcflily | 2018-07-25 18:15 | アリランエッセー | Comments(0)  

『あらくさ』短歌の同人誌

☆就活の為のアルバムの整理を始めたが、遅々として進まない。
中学生の多感な少女時代に、占いで、30歳まで生きられたら、儲けもんと言われた。だから、その前にこの世から消えると信じていたのに、今年の秋には80歳になる。
普通に結婚をし、現在は子供2人孫5人曾孫1人になっている。
ずっと、長生きは出来ないと信じたお陰で、「明日はないかもしれない、今を大切に」をモットーにここまで来た。こんな占いを信じて、それを口にしてきたのは、少女時代の解決されない差別感から逃れられないで、自殺を願っていたのに,その勇気を持てなかったので、占いに身を任せていたのだと思う。結果的には本当に良かったと思う。
ここまで生き延びたのは、沢山の人が私を助けてくれたのであって、自分の力で生きてこられたのではないと、常々私は話してきている。
ある日、短歌教室で受講生の一人が、朝日新聞社発行の『短歌朝日』を下さった。その中には朝日歌壇に入選していた私の詠んだ歌について書かれていたからであった。

「脳内革命」「チョコレート革命」革命の日本の空に米機の轟音
乳飲み子を抱きて集う同胞のここより他に拠りどのなくて

の2首が取り上げられていた。『あらくさ」発行人の武藤雅治さんであった。1999年の事であった。武藤さんの事を始めて知る事になった。
その後、下の写真の短歌雑誌などに私の歌について、度々、書いて下さってその
本を送って下さった。
そればかりではない。私に講演の依頼をして下さった上に、『あらくさ』に私の長い長い話を講演「在日朝鮮人の思い」として文書化して掲載して下さった。そればかりではなく、「評論」を「光としての他者」朴貞花の歌を読んで―を掲載して下さった。1頁に2段を6頁であった。私の姉妹はこれを読んで「一様に驚き、この人は本当に日本人なの」と電話をかけて来た。それほど、朝鮮人を理解した嬉しい内容であったのである。武藤さんは、色々な人、主に歌人に本を送り、帰ってきた感想文を纏めて送って下さった。姉妹にこれも送ったのだが、日本人の読後感は有難い言葉を沢山下さったのに、同胞の有名な歌人の李正子さんの感想に怒っていた。面白いものである。何故なら、要は私の話にケチをつけた否定的なものであったからである。

〇『あらくさ』と私の事を書いて掲載された月刊雑誌を送って下さった。
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〇「あらくさ」の会員たちのバスを貸し切っての「上毛の旅」に私も誘われて参加した。高句麗の里。
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〇渡来人が銅を見つけ「和同開珎」がは行された秩父にも寄った。
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〇群馬県には沢山の古墳がある。騎馬民族の住みついた所だ。



by pcflily | 2018-07-19 17:10 | アリランエッセー | Comments(0)  

2011서웉国際老人文化藝術祭

☆2011年10月25日から27日にかけて、韓国に行こうとの誘いの通知が届いた。8年前に、浅草で突然司会を頼まれた高齢者日本NGO会議からだった。海外に行くことを何度誘われても出かける気持ちは起きなかった。「朝鮮籍」であると海外に自由には行けない。韓国なのだからと、何度も言われて仕方なく、もしも、許可が出たなら行くと返事をした。横浜の領事館に申請に行くと領事館の部屋に一人、呼び出された。北に親族もいないのに何故韓国籍にしないかと言う。私は、現在の韓国政府を信じないからだ。統一する迄待っていると言った。しばらくの間、会話をした後に「私が許可を下ろさなければ怒るだろうね」と言う。私は「いいえむしろ有難いと思います。私は豊かな生活をしていないので経費もかなり掛かるので、行きたくないけど、韓国と日本の親睦の為の会だからと何度も誘われて、断り切れずに行ってみようかと思っただけです。でも、日本人のこの親睦会に、はっきりと話します。「韓国は民主化されたと言っても、私のような何の力もない人間にさえ訪韓の許可をしない国である」と報告します」と言って帰ってきた。自宅から、近いので、30分もかからないで家に着いた。我が家に帰ってきたら、、留守電に許可が下りたとあった。これも、決して忘れられない経験である。

〇訪韓しての最初の日の夕食は、韓国側からの招待の歓迎で豪勢な晩餐会、記念撮影をし、豪勢な料理に舌鼓を打った。
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〇韓国側の女性が民謡を歌い、踊りだす人も出て来た。朝鮮民族は古来から、歌舞を好むと中国の古い本に出ている。民族の血が騒ぎ、私も踊りだした。
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〇踊るだけでは収まらず、歌も歌ってしまった。
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〇翌26日は韓国全土から集まった人々で一杯の大会場で芸能祭が開かれている会場に行った。日本から参加した人は20名に満たなかったが、壇上で半纏を着て鉢巻をして漁師さんの格好にし、日本の民謡に合わせて、エンヤコラと掛け声をかける単純な踊りと、朝鮮の童謡の우리나라 꼭(私の国の花、無窮花)を歌った。メロデイーも歌詞も単純で簡単なものを朝鮮語で歌うと言う。驚くほど日本語的な発音なので私はびっくりして、ついそうではないなどと意見を言ってしまった。そうして、代表として挨拶をさせらることになってしまった。本日、参加した人は普段は遠く離れて暮らしています。日本の全国から集まって韓国に来ました旨の話をして最後は韓国式の挨拶をしたので、参加者に喜ばれた
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〇次の26日は、観光バスで見学をしたが、韓国側の役員の方が案内をしてくださり、豪勢な昼食もご馳走して下さった。
その上に夕食にも招待された。韓国の人は本当に懐が広いと言うか、太っ腹である。ピンクの衣装の人は韓国の人、実は私は日本人ではないのですと話して打ち解けた。
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〇私の左は日本側の代表、右が韓国側の代表、その隣の人は日本に来た時の元代表。ここに立つ前に韓国側の人が言い争いをしていた。通訳が(観光バスのガイドさん)いるのに何を言うのかと現在の会長と事務局長が双方とも譲らない様であった。後で分かった事だが、事務局長が私を通訳にすると言っていたとのことだった。結局、私がここに立たされ通訳を仰せつかった。韓国側は、来年は日本でやるようにと提案しているのに、日本側は出来ないと断り続けていた。最後に日本側の代表は、日本に帰ってから相談をして、返事をするとの事で収まった。
この後に、韓国側の人は皆で、バスに乗るところまで送って下さった。私の通訳をあんなに反対していた韓国側の会長は、店を出てから、バスの中に入るまで、手を掴んで離さずに最後のあいさつの通訳をするよう言った。この時は私が通訳することを反対していたことを知ったので、断ったのに手を放さないので、言われる儘になってしまった。
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〇参加証として立派な盾が送られた。ずっしりと重い盾だ。
2011서울国際老人文化芸術祭 参如記念碑「日本高齢者NGO会議 上坪陽」

私は会員でもないし日本人でもないのに、飛行場でこの盾を私に持って行けと言う。いくら断っても持って行けと言う。私が貰わないなら、捨てると言わんばかりだった。韓国側にあんなに心を込めた接待を受けていながら、一体、どういうことなのか?捨てられてしまっては申し訳ないと、預かったが、この時には日本の会はもう、壊れていたのだろう。その後、何の音沙汰もなく、解散されたようだった。
韓国の人たちは、どんなにか、がっかりした事だろうと思う。今でも、胸が痛む。
会長の黄仁漢様はじめ会員の皆様、申し訳ありません。名刺も頂いてないので、お礼のお手紙も差し上げられませんでした。
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by pcflily | 2018-07-09 17:54 | アリランエッセー | Comments(5)