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忘れられない人 広瀬禮子さん

☆翁長知事がお亡くなりになった。パソコンを弄っていたら、いきなりこのニュースが飛び込んできた。驚いて、震えが止まらず、合掌を続けるばかりであった。
長い事闘い続けたのに、良い結果を見ずに逝ってしまわれた。どんなにか心残りであったろうか?私は、直ぐに尹伊桑さんを思い出した。私の歌集『身世打鈴』のエッセー集に、少しだけ書いてある。
【ドイツに住む作曲家の尹伊桑氏は愛する祖国に拉致されるという数奇な運命をたどり、祖国に住むことを断念し、それでもなお祖国への思いやみがたく、音楽を通して祖国統一に挺身している】そうして、38℃線で南北統一音楽祭を開きたいと行動していたが、とうとう願いを
実現できずに亡くなられてしまった。
人間として、真剣に真面目に生きる人は、何故、苦しみ続けそ早世するのだろうかと思う。

30歳迄生きられたら儲けもんと言われた私のような無力な人間が80歳迄、こうして、無為徒食をしているのにである。明日を夢見ず、一日一日を無事に過ごすだけで生きて来た。そんな意志の弱い向上心のない私の傍に色々な人があらわれて助けて下さった。

広瀬禮子さんも、そうであった。朝日歌壇に投稿した短歌を読んだと取材を申し込まれた。

五十五年の分断あれど両首脳車内に語る一つ母国語
中傷の病みたるソウル放送に母国語うれし終夜聞き継ぐ
「アリラン」は統一の曲金大中迎うる宴に尹伊桑編む

金正日総書記と金大中大統領の握手と抱擁があった時である。電話で取材の申し込みがあって、町田まで来て下さったのが最初の出会いで会あった。二度目は、講演を頼まれて、横浜まで出向いた時である。お話をさせて下さったばかりでなく、皆さんとの食事会もあった。
三度目に会ったのは、横浜で行われていた「朝・日交流展」に私が作品を出展していた時である。その後は、長い年月の間、無力な私を支えて下さった。

〇横浜での講演会を終えて、役員の人達との記念撮影、チマ・チョゴリの私の右側に広瀬さん、ずっと優しかった
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〇右、最初の取材された記事。左、横浜に越してからの私のエッセー記事
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〇朝・日友好展の打ち上げの宴で、誘われて一緒に歌った。私の左側は広瀬禮子さん、右側は国会議員の清水澄子さん。広瀬さんは、共和国・北朝鮮に行った時に、金日成主席と同じテーブルで、食事をし、歌も歌った事を話して下さり、次回は私を連れて行くと仰っていたのに、彼女も清水さんも鬼籍の人になってしまった
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〇。広瀬さんに、朝・日友好展の会場での即詠の歌をと言われてビックリしたが、私の歌に対する彼女の返歌と共に、彼女は筆を執り二人の歌を書いて会場に展示した。広瀬さんは、知識が豊富で、筆が立つばかりではなく、短歌、エッセー、詩などをたくさん遺している。
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〇毎回、短歌の即泳を要求し、ご自分で書いて展示した。
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。〇写真を写した方が送って下さって、このような写真が沢山ある。古い写真の整理を始めたが、送って下さった方の事を思うと捨てる事も出来ず、どうして良いかわからなくなる。





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by pcflily | 2018-08-10 17:21 | アリランエッセー | Comments(0)  

人間の家に人間が来てこそ幸せなのだ

猛暑が去ったと思ったら台風が来ると言う。我が家の前は直線の道路になっているので、強風の時には近所のごみ迄が、私の家に集まってくる。
オモニを我が家に引き取った時に、我が家の前にごみ迄が集まると話したら、オモニは、人間の家には人間が来るのが幸せなのだ。ゴミでも来るのは良い事なのだと~~言い聞かされた。
実家は、土木建築請負業だった。現在は、人を雇う時に試験をしたり面接をするが、手荷物を一つ持って働きたいと言って、我が家に訪ねてきたら、その日、その時から我が家の人となる。寝所と食事と仕事を与えられる。
オモニは子供たちに、いつも働いて下さる人がいるからこそ、私達も幸せに、こうして食べていけるのだと言い聞かせ、食事も、彼らに先にあげて、残ったものを私達が、食べる。御飯も汁もおかずも大盛にしてあげるのが常であった。
そのことが身についていたのか、私も、全てを大盛りにしてしまう。店をしていた時も、そのことでお客さんに喜ばれた。娘はコーヒーをカップにたっぷり入れるのはお洒落でないと言っていた。また、家を持ち独立した時にも訪ねて来た人は誰でも、部屋に招き入れてしまい、危険だと友人に、度々、注意されていた。
横浜に転居してからは、訪ねてくる人も殆どないし、近所の人も、家の中に入れて下さった人は一人だけであった。現在は嵐の時と、普段は風と陽の光と月の光だけだ。
就活をしている間に、横浜に転居する前は、色々な人が訪ねて来ていたので、本当に幸せだったのだと思うようになった。

〇女性の新聞「ふえみん」と「女の新聞」から取材を申し込まれ、我が家に来ていただいた。「ふえみん」は新聞発行の記念日の1面に掲載して下さった。
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〇「女の新聞」は、記事を掲載して下さったばかりでなく私の為に講演の場を用意して下さったばかりでなく、横浜に来てからもエッセーを書かせて下さったりした。そして、公使共にお世話になった。もうこの方も鬼籍の人になってしまった。
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〇「クーヨン」は新年号に落合恵子責任編集「女が決断するとき」として5人の女性が選ばれ、私もその一人となっていた。取材する方以外に専門の女性の写真撮影の方も一緒に来られた。
総連の「イオ」では「人生には大事なものがある」として4人の男性と女性は私だけであった。その後、京都での「統一の集い」で朴鐘鳴先生に挨拶をした時に、名前を名乗っていなかったのに、初めて会ったのに「あなたの朝日歌壇の歌を30年保管していますよ」と、会った途端に言われてビックリしたけれど、この時に一緒に取材されて掲載された方だったので分かったのであろうと、今は想像できる。
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〇朝鮮新報も何度か記事にして下さった。本当に感謝の心がわいてくる。
〇共同通信社の取材記事は、全国に渡されるらしく、各地から電話があり切り抜きを送って下さる人もいた。各新聞社の思惑で見出しの言葉が変わり、この「最後の生き証人として」は好きな部類に入る。その後、横浜に来てから書店で単行本になっていることを知り購入したが、単行本となる事に私への知らせはなかった。
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〇「AERA」からの取材の申し込みの時は驚いた。取材内容をテープに取り危険に備えたほどであった。何故、私が選ばれたのか分からなかったからだ。現在でも分からない。
〇「みんなちがってみんないい」は原稿の依頼を受けて書かせて頂いた。
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☆オモニの言葉の通りに「人間の家に人間が訪ねて来る事は幸せな事だ」を、しみじみと思いだしている。自分の意志で、極力人に会う事を避けてきたのだが、年長の友人が多いので、皆、先に逝ってしまった。人間の性善説を信じていたが、姉妹の裏切りを見てからは、ますます、人間嫌いになってしまった。本人の気が付かない私への蔑視の心が見えてしまうから、なおさらだ。「ブルータスお前もか」と最近の経験で改めて思うようになった。
八十路の坂に来たのだから、寝たきりにならないだけ有難いと思う。食品の買い出しに、10日に一度ぐらい、外出する以外は家に閉じこもり、朝夕の花の手入れで外に出るだけだ。手入れの甲斐があって猛暑の中でも無窮花、百日紅、百日草、マツバギク、ツルニチソウ、オーシャンブルー、薔薇までも、夏が一番好きなんですと言わんばかりに我家を囲んで咲き誇ってる。


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by pcflily | 2018-08-07 12:04 | アリランエッセー | Comments(0)  

『もう一人の力道山」李淳馹一族の出版記念祝賀会

毎朝、目覚めて一番の楽しみはパソコンで韓国の新聞を読むことだ。昨日は、力道山の事が、載っていた。その内容は、私の息子が北朝鮮迄行き調べて書いた渾身の力道山のノンフィクションの内容そのものの様であった。

力道山について息子の李淳馹が『もう一人の力道山』として出版したのは、1996年4月だった。小学館の21世紀国際ノンフィクション大賞に応募し、最後の5作品に残ったが副賞さえもらえなかった。再度の応募の朝鮮学校のラグビー選手についての『青き闘球部』も最後の5作品に残ったが、受賞は叶わなかった。息子は、自分の作品の力量不足だと言ったが、私には、そのように思えなかった。息子が応募した時だけ、2名の副賞が選ばれなかったからである。私の知っている限り、副賞がなかったのは息子が応募した時のこの二度だけである。事情は分からないが私の息子は、その後、ノンフィクションに挑戦することをやめてしまった。

それでも、「もう一人の力道山は、小学館で単行本として出版することになった。
小学館の編集部では、原稿を見るまで信じなかったそうであるが、著名な船戸与一さんが「解説」を書いて下さった。「新たなノンフィクション文学の誕生である」と締めくくって下さった。
ところが,内容は良いが【「半島」「半島人」の差別表現あると、関係団体が抗議、第5刷から指摘部分を「韓国・朝鮮人」「在日朝鮮・韓国人」へ改め、巻末で謝罪文を掲載。【「差別語不快語・にんげん出版」より】ことほど左様に理解をしている人たちである筈の人でさえ、事実とかけ離れている。
後に「もう一人の力道山」は文庫本も出版されている。

小学館の出版記念会に『世界』の責任者であった安井良介さんから手紙が届き、小学館から出版記念会の招待状が送られてきたけれど、その日に四国で講演が決まっているので、欠席せざるを得ないとの事だった。そうして、シクラメンの鉢植えがお祝いにと届いた。そればかりでなく別便で手紙も届いた。その後には自著の『自画像の描けない日本』を何冊か送って下さった。「もう一人の力道山」の著者としての息子の李淳馹の新聞記事があったと、お母様に似てらっしゃいますねと添え書きをして送って下さったりした。安井さんの手紙は、巻紙に筆で書かれたものであった。安井さんから頂いた手紙は何時も、巻紙に筆で書かれていた。

〇安井さんから贈られてきた『自画像の描けない日本』
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〇安井さんから贈られてきたシンビジュームの鉢植え。花にはご自分の手でお名前がかかれた札が付いていた。その頃のシンビジュームは高価な花であった。
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私の一族が集い、出版記念祝賀会を開き喜びを共にした。私は七人姉妹なのでその結婚式や甥や姪の結婚式などで集う事が多く、最後はカラオケで遊んだが、この日はカラオケの事などは忘れて、朝鮮の未来について遅くまで話し合い盛り上がった。
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〇応募した時の審査員の中に活字にするなと言った人がいたが、若い編集部の人達がせめて2000部だけでも良いから本にしたいと企画し、許可を貰うための書類が上部に行くほど部数が増えて、何万部もにまでなった。表紙は写真のように見えるが油絵で、最初は画家がそんな無名の人のものなど描かせるなと言ったけれど、兎に角読んでから決めて下さいと編集部の人が話して、読んだ後にその画家の態度がすっかり変わって真剣に描いた良い物が出来上がった。背表紙の顔まで別に書いて下さり、その絵を息子にプレゼントして下さった等と、この本が出来るまでの色々な裏話を説明したので、祝賀会は大いに盛り上がった。
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〇左は私の朝日歌壇賞を頂いた私の為に娘が花束を贈ってくれている。
〇右は朝日歌壇賞と、安井さんからの手紙について説明している妹達。
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〇下段、安井さんの手紙を読んでいる私。書道の師範を取ったと言っていた妹が安井さんからの手紙を読むと言って、読み始めたのにあまりにも達筆な草書なので、読めないと言いおりてしまったので、私が読むことになって読んでいる。
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〇安井さんの手紙にはこの「朝銀東京信用組合」の後援会の集いで話をした私の事をはっきりと覚えていると書かれていた朝日歌壇の私の歌も注目して読んでいたとのことであった。でも、この日に会った私が朝日歌壇で見る朴貞花と同じ人間とは知らなかったとのことだ。
朝銀東京の後援会の集いで、講演をなさった安井さんのお話の内容に感動をして、私はお礼が言いたくて、晩餐会の時に安江さんの所に行きお礼の言葉を言って戻るつもりであったのに安井さんが座りなさいと引き留めて下さって、しばらくお話をした。朝銀の支店長などが挨拶に次々と来たのに、私を引き留めて下さった。今、考えると不思議だが、或いはチマ・チョゴリ姿のお陰かも知れないと思うようになった。歌舞を公演する専門家以外ではチマ・チョゴリ姿は何時ものように少なかった。朝銀東京信用組合女性後援会の集いであったので、参加者は女性が多く800名ほどであった。
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〇上の写真は同じテーブルの人達、左は朝鮮高校の校長の奥さん、漢方の医師の奥さん、町田支部の専任職員文局長朝鮮新報の配達をしていた。
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〇下の左は安井さんから、花を贈られた後に、お礼の手紙も書けずにいた時に知らせが届き講演会に出席した時に紹介された人、「世界」に匿名で韓国の様子を知らせて来た手紙が掲載されていた作者。李御寧さんは韓国の文化部長を歴人し、『縮み志向の日本人』や『ふろしき文化のポストモダン』いう本も出版した。安江さんに紹介されてお会いした記念に撮った写真の一枚が送られてきた。そして、左は、当日の「朝鮮新報」から派遣された記者、我が家の嫁さん。
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〇今年も月見草が星降りし如く、裏庭に沢山咲きました。居間に持ち込んでも咲く。
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〇壁を這い上がる定家葛の花を咲かせるために日が当たるように、無窮花の枝を横に倒したのに枝を伸ばし、花をつけてくれた。強い花だ。
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by pcflily | 2018-07-25 18:15 | アリランエッセー | Comments(0)  

『あらくさ』短歌の同人誌

☆就活の為のアルバムの整理を始めたが、遅々として進まない。
中学生の多感な少女時代に、占いで、30歳まで生きられたら、儲けもんと言われた。だから、その前にこの世から消えると信じていたのに、今年の秋には80歳になる。
普通に結婚をし、現在は子供2人孫5人曾孫1人になっている。
ずっと、長生きは出来ないと信じたお陰で、「明日はないかもしれない、今を大切に」をモットーにここまで来た。こんな占いを信じて、それを口にしてきたのは、少女時代の解決されない差別感から逃れられないで、自殺を願っていたのに,その勇気を持てなかったので、占いに身を任せていたのだと思う。結果的には本当に良かったと思う。
ここまで生き延びたのは、沢山の人が私を助けてくれたのであって、自分の力で生きてこられたのではないと、常々私は話してきている。
ある日、短歌教室で受講生の一人が、朝日新聞社発行の『短歌朝日』を下さった。その中には朝日歌壇に入選していた私の詠んだ歌について書かれていたからであった。

「脳内革命」「チョコレート革命」革命の日本の空に米機の轟音
乳飲み子を抱きて集う同胞のここより他に拠りどのなくて

の2首が取り上げられていた。『あらくさ」発行人の武藤雅治さんであった。1999年の事であった。武藤さんの事を始めて知る事になった。
その後、下の写真の短歌雑誌などに私の歌について、度々、書いて下さってその
本を送って下さった。
そればかりではない。私に講演の依頼をして下さった上に、『あらくさ』に私の長い長い話を講演「在日朝鮮人の思い」として文書化して掲載して下さった。そればかりではなく、「評論」を「光としての他者」朴貞花の歌を読んで―を掲載して下さった。1頁に2段を6頁であった。私の姉妹はこれを読んで「一様に驚き、この人は本当に日本人なの」と電話をかけて来た。それほど、朝鮮人を理解した嬉しい内容であったのである。武藤さんは、色々な人、主に歌人に本を送り、帰ってきた感想文を纏めて送って下さった。姉妹にこれも送ったのだが、日本人の読後感は有難い言葉を沢山下さったのに、同胞の有名な歌人の李正子さんの感想に怒っていた。面白いものである。何故なら、要は私の話にケチをつけた否定的なものであったからである。

〇『あらくさ』と私の事を書いて掲載された月刊雑誌を送って下さった。
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〇「あらくさ」の会員たちのバスを貸し切っての「上毛の旅」に私も誘われて参加した。高句麗の里。
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〇渡来人が銅を見つけ「和同開珎」がは行された秩父にも寄った。
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〇群馬県には沢山の古墳がある。騎馬民族の住みついた所だ。



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by pcflily | 2018-07-19 17:10 | アリランエッセー | Comments(0)  

2011서웉国際老人文化藝術祭

☆2011年10月25日から27日にかけて、韓国に行こうとの誘いの通知が届いた。8年前に、浅草で突然司会を頼まれた高齢者日本NGO会議からだった。海外に行くことを何度誘われても出かける気持ちは起きなかった。「朝鮮籍」であると海外に自由には行けない。韓国なのだからと、何度も言われて仕方なく、もしも、許可が出たなら行くと返事をした。横浜の領事館に申請に行くと領事館の部屋に一人、呼び出された。北に親族もいないのに何故韓国籍にしないかと言う。私は、現在の韓国政府を信じないからだ。統一する迄待っていると言った。しばらくの間、会話をした後に「私が許可を下ろさなければ怒るだろうね」と言う。私は「いいえむしろ有難いと思います。私は豊かな生活をしていないので経費もかなり掛かるので、行きたくないけど、韓国と日本の親睦の為の会だからと何度も誘われて、断り切れずに行ってみようかと思っただけです。でも、日本人のこの親睦会に、はっきりと話します。「韓国は民主化されたと言っても、私のような何の力もない人間にさえ訪韓の許可をしない国であと報告します」と言って帰ってきた。自宅から、近いので、30分もかからないで家に着いた。我が家に帰ってきたら、、留守電に許可が下りたとあった。これも、決して忘れられない経験である。

〇訪韓しての最初の日の夕食は、韓国側からの招待の歓迎で豪勢な晩餐会、記念撮影をし、豪勢な料理に舌鼓を打った。
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〇韓国側の女性が民謡を歌い、踊りだす人も出て来た。朝鮮民族は古来から、歌舞を好むと中国の古い本に出ている。民族の血が騒ぎ、私も踊りだした。
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〇踊るだけでは収まらず、歌も歌ってしまった。
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〇翌26日は韓国全土から集まった人々で一杯の大会場で芸能祭が開かれている会場に行った。日本から参加した人は20名に満たなかったが、壇上で半纏を着て鉢巻をして漁師さんの格好にし、日本の民謡に合わせて、エンヤコラと掛け声をかける単純な踊りと、朝鮮の童謡の우리나라 꼭(私の国の花、無窮花)を歌った。メロデイーも歌詞も単純で簡単なものを朝鮮語で歌うと言う。驚くほど日本語的な発音なので私はびっくりして、ついそうではないなどと意見を言ってしまった。そうして、代表として挨拶をさせらることになってしまった。本日、参加した人は普段は遠く離れて暮らしています。日本の全国から集まって韓国に来ました旨の話をして最後は韓国式の挨拶をしたので、参加者に喜ばれた
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〇次の26日は、観光バスで見学をしたが、韓国側の役員の方が案内をしてくださり、豪勢な昼食もご馳走して下さった。
その上に夕食にも招待された。韓国の人は本当に懐が広いと言うか、太っ腹である。ピンクの衣装の人は韓国の人、実は私は日本人ではないのですと話して打ち解けた。
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〇私の左は日本側の代表、右が韓国側の代表、その隣の人は日本に来た時の元代表。ここに立つ前に韓国側の人が言い争いをしていた。通訳が(観光バスのガイドさん)いるのに何を言うのかと現在の会長と事務局長が双方とも譲らない様であった。後で分かった事だが、事務局長が私を通訳にすると言っていたとのことだった。結局、私がここに立たされ通訳を仰せつかった。韓国側は、来年は日本でやるようにと提案しているのに、日本側は出来ないと断り続けていた。最後に日本側の代表は、日本に帰ってから相談をして、返事をするとの事で収まった。
この後に、韓国側の人は皆で、バスに乗るところまで送って下さった。私の通訳をあんなに反対していた韓国側の会長は、店を出てから、バスの中に入るまで、手を掴んで離さずに最後のあいさつの通訳をするよう言った。この時は私が通訳することを反対していたことを知ったので、断ったのに手を放さないので、言われる儘になってしまった。
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〇参加証として立派な盾が送られた。ずっしりと重い盾だ。
2011서울国際老人文化芸術祭 参如記念碑「日本高齢者NGO会議 上坪陽」

私は会員でもないし日本人でもないのに、飛行場でこの盾を私に持って行けと言う。いくら断っても持って行けと言う。私が貰わないなら、捨てると言わんばかりだった。韓国側にあんなに心を込めた接待を受けていながら、一体、どういうことなのか?捨てられてしまっては申し訳ないと、預かったが、この時には日本の会はもう、壊れていたのだろう。その後、何の音沙汰もなく、解散されたようだった。
韓国の人たちは、どんなにか、がっかりした事だろうと思う。今でも、胸が痛む。
会長の黄仁漢様はじめ会員の皆様、申し訳ありません。名刺も頂いてないので、お礼のお手紙も差し上げられませんでした。
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by pcflily | 2018-07-09 17:54 | アリランエッセー | Comments(5)  

アジア高齢者文化祭

2003年11月27日・28日浅草公会堂で行われた。アジア高齢者文化祭。
朝鮮が植民地にされていた時代に日本に留学していた朝鮮人、中国人、日本人の学生仲間が仲良くすることでアジアの平和に尽くしたいという意志で作られた人達の親睦の会であった。最初は中國で、二度目は韓国で、三度目が日本でこの親睦会が行われた。お互いの国の歌や踊りを見せあって一緒に食事をして親睦を高める趣旨である。
私は会員ではないのに、短歌で知り合った日比イチさんに韓国から来られた方達の面倒を見て欲しいと頼まれた。少しでもお役に立つならと出かけて行った。浅草で宿所を探し、一泊二日の行程となった。友人が一度はチマ・チョゴリを着てみたいと言っていたので、2着をスーツケースに入れて行った。
韓国から来られた方のお世話をしていたら、突然、マイクで呼び出された。指定された場所に行ったら、通訳をしてくれとのことであった。そんな力はないと断ったのだが、韓国語の出来る人がいないので困っていると言われ仕方なく承諾した。三か国の人が集まっているので各国の演出物の説明をするとのことであった。韓国から来られた人の為に、中国のものと日本の物を説明する。通訳を仕事にしている若い人は日本語と中国語しか出来ない。韓国語は出来ないとのことで、仕方なく引き受けた。二日間の公演と最後の日の夜の晩餐会である。晩餐会では、私は殆ど食事は出来なかった。この会に参加している人たちは三度目の出会いなので知人がいる。言葉は通じなくとも、お互いにお土産などを準備してきており、会話も交わしたからである。人間は、その現場に立ち会うと力が出てくるのだろう。自分でも信じられないぐらい韓国語が出来て皆さんのお役に立てたのだった。それにしても、こんな大舞台で司会の一部分をさせて頂けたことは本当に記念すべきことである。私が話しても、誰も信じない事であろう。オモニにも、ビデオを見せながら話したのであった。

〇誰が何時写したのか分からないが送られてきた写真の中にあった。笑顔がない。
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〇日本の出し物が一番寂しかった。皆さんで歌を歌った。中国の出し物は本職の人かと思うほど、素晴らしく、量的にも圧倒的に多かった。韓国は高齢者の趣味らしくそれなりに充実していた。写真は日比さんから贈られてきたものなので、他の国の出し物はない。
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〇二日目の晩餐会、日比イチさん。彼女はこの会の会員で、中国、韓国、ロシア、
など世界旅行をしていた。国内の各地も一人でも出かけていた。行動力のある人との印象を持っていた。8歳も年長だという事は今年初めて、知る事が出来た。
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〇中国と日本の通訳の人と、日本人の司会は二日の間に4人で交代をした
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〇日比さんの友人と出会いの記念写真
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〇私の同胞は宴会の時は必ず皆で踊りだすが、この時も全員で踊った。
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私が赤いリボンをつけている様に見えるが、この時に赤いリボンはつけていなかった。今回、アルバムにある写真を写した時に、パソコンのマウスが反射してこのような写真になった様だ。カメラの扱いをよく知らない私はビックリする事ばかり。
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〇私を中央にして写せたと何度も喜んで話して下さった。この時が最後でフイルムがなくなったと、今もあの時の驚きを話す日比さん。私が赤いリボンをつけている様に見えるが、この時に赤いリボンはつけていなかった。今回、アルバムにある写真を写した時に、パソコンのマウスが反射してこのような写真になったようだ。ビックリ。
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by pcflily | 2018-07-08 18:23 | アリランエッセー | Comments(0)  

同胞の悲願叶うだろうか?

☆今日も嬉しいニュースが届く。文在寅大統領がロシアで、ロシアから自分が育った釜山まで鉄路を繋ごうと遠大な構想を話している。地続きの朝鮮、中国、ロシアまで、仲良くできる事を願っていた私にとって本当に嬉しい事である。
南北合同チームでアジア大会に参加する。統一旗、アリラン等当然のように決まっていく、平壌、ソウルでのバスケットの親善試合も決まった。本当に嬉しい。アボジやオモニ、沢山の逝ってしまわれた同胞に伝えたい。漸く、ここまでたどり着いたのだ。でも、心から安心できないでいる。これまでに、あまりにも大きな失望を抱かされ続けて来たからだ。

〇下の写真は日本で行われた卓球で優勝した南北合同チームを応援に行った時の物。右の女性は総連の中央女性同盟の委員長。私に、「チマ・チョゴリで来たのですね」というので「雨が降ろうが嵐がこようが私たちはチマ・チョゴリを着て守らなきゃ」と朝鮮語で言った。彼女は何も答えなかった。チマ・チョゴリ姿とあまりにも一生懸命に応援するので目立ったらしく、取材を何人もの人から受けた。テレビには「勿論、必ず統一します」と言っているところを見たと、全国の短歌の未来の仲間や同胞から電話が来た。この頃の写真は、アルバムに貼ってあった写真。1991年4月25日。
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〇合同チームの結成と優勝で、喜びの宴で歌い踊った。若者たちは韓国から応援に来ていた。
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〇朝鮮大学での記念写真、左下は、娘の成人式の写真、新調してやった刺繍とスパンコールの美しいチマ・チョゴリが娘にとっては初めての高価なものであったので、嬉しくて、興奮して眠れなかったと言う。私はこの日の娘を送り迎えをする為に初めての新車を買った。新車を買ったのは、娘が二十歳、息子は23歳で親の務めを半分終えた気持ちになり、自分へのご褒美でもあり、その記念でもあった。
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嬉しい時には直ぐに踊りだすちょんふぁ。
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〇今年の4月に両親の祭祀の為に韓国に行った時に、自由に使えって良いとマンションの秘密番号までを教えて宿泊させて下さった方から頂いた花の種を植えた物。何故か、ずっと鳳仙花と思っていた。種をまいて1センチぐらいになった苗を家の周りの土のある場所に移植した200本を遥かに超えていると思う。種を蒔いてから、毎日この花の苗が育つのを見るのを仕事にしていた。ところが咲いた姿を見たら百日草だった。同じ日に植えたのに、植えられた場所によってこんなに違う。秋までは次々と花は咲き続けるだろう。夏期がその名の通りに長いから。わが朝鮮民族にも良い知らせが続くかもしれない。花も、人間も、国も同じだなあと思っている。それぞれの幸運と不運が全てを決めるのだ。朝鮮民族は、長いこと辛い苦難の道を歩いてきたのだ。けれども、ようやく陽が指し始めたようだ。今度こそは、良い花が咲き、素晴らしい実を結ぶことが出来る様にと祈るばかりだ。
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〇夏に咲き続ける強い花、百日草を見ていたら無窮花の事を思い出してその花にたとえて詠んだ歌を思い出した。
「朝鮮を無窮花の園と呼ぶという統一の花咲く日のあらむ」
統一の日が必ず来ると心から信じていた頃に詠んだ。
この歌を友人の須藤英子さんが「かけ軸」にして下さった。彼女は大学で書道の先生をしていた人であり13歳年上であった。長い事信頼できる友人であった。毎日新聞の「毎日書道展」に出品するための作品に私の歌を何度も選んで下さった。書にする場合は、本来は作者の名前は入れないことになっているけれど、貞花・ちょんふぁさんの歌は特別な歌であるからと、いつも、書の中に私の名前も入れている。展示は全国各地を巡るとのことであった。
「千里馬の国の夜明けと信じたり吾子につけたる明希と言う名」
初孫が誕生した時に、孫の名前の金清文を織り込んだ歌
「金成り清き銀充つるとも文武備えし君子たれ」
等もその中に入る。そうして、作品が出来ると、彼女は、私の家を訪ねて来て作品を見せて、これで良いでしょうか?と。びっくりするのは私だった。筆を持ったこともない私に、了解を得たいと持ってきて見せて下さるのであった。
どこまでも優しくて頼もしい信頼できる人であった。彼女は「朝日友好展」に出品する私の作品を全て筆で書いて下さった。どんな場合も、日本への抗議の歌なのに、私の歌を書いている時には、朝鮮人の心になって書くのだと話してくれた。ある時は作品を仕上げたのに余白が多く出てしまったと悩んで電話が来た。それならば、鶴の折り紙を貼ったらどうかしらと言ったら、折った鶴を、郵便で送ってきて、これで良いでしょうか?と手紙が添えてあった。どこまでも謙譲の人であった。二度と会えない所に旅立ってしまってから久しい。次々と友人がいなくなった。
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〇総連の専任の役員を務めた人たち、御存命であるのかどうかも分からない。右の写真の中央の人は、かの有名な総連中央の委員長であった人。朝鮮大学での写真だ。

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〇はがき二枚分の大きさのこの写真が2枚ある。元中央副委員長とメモがあるだけ。もう一人の人は朝鮮から来られた高官であった。死亡記事が出ていたのを見たことがあるので、相当の人であったのだろう。にもかかわらず、何故こうして私が一緒に写っていたのか、記憶にない。。写真は朝鮮新報社から送られてきたことは覚えている。あるいは金剛保険会社の創立記念日であったのかもしれない。その時は、社長夫人であったから、この写真があるのだろう。
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〇在日朝鮮人女性の慰安婦問題を考える集会、日本の新聞には載らないが、総連の中で在日朝鮮人の人権の為に闘っていた。この日は、1992年2月10日、26年前、この日に参加した国会議員の清水澄子さんも、もうこの世の人ではない。
性奴隷にされた女性たちも老い、大勢の方が亡くなっているのに、日本国は謝罪も賠償もしない。自国の犯した罪業は、棚に上げて忘却したのか、戦後責任を果たさない後ろめたさを持っていたのに、鬼の首でも取ったように「拉致、拉致」と〇〇の一つ覚えのように、国中で騒いでいる。歴史を隠匿して恥を知らない、良心の欠片もない日本国なのだ。
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〇真の祖国統一の日は来るだろうか?嘗て朝鮮新報に掲載されていたので、アルバムに貼ってあった。左から二番目が娘の長男の清文。何時も笑顔いっぱいの子供であった。現在は、哲学者の様な顔をしている20代も後半の青年になった。
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by pcflily | 2018-06-22 15:20 | アリランエッセー | Comments(2)  

冷戦の完全な終息か?朝米会談

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米朝会談が実現した。金正雲委員長の「ここまで来るまでには遥かな道のりであった、誤った偏見と過去の歴史が足を引っ張った、それらをすべて乗り越えてきた」という趣旨の言葉に万感の思いを抱いた人は、私だけではないと思う、南北の同胞であったなら~~~。私達は何十年も待ち続けたのだ。この人は適材適所で言うべきことを正確に言える賢明な人であり歴史を含むあらゆることをきちんと勉強している人だと思った。
両国の首脳が署名した。長い長い南北民族の分断による苦しみから解放されるだろうか?朝鮮の南北分談は日本の植民地政策と米国への真珠湾攻撃から始めた日本の敗戦の結果だ。米ソの冷戦によりアメリカが日本に戦争責任を問わないで、米国の為に赤化防御策として日本と韓国に米軍を置いた事から始まっていると私は思っている。米国の心変わりが無い事をひたすら祈るばかりである。北東アジアの平和の為に繁栄の為に、このまま真っすぐ進んで欲しい。
訪朝した時の事がしきりに思われる。整理を中断していたアルバムを出して見る。
あの日々に会って私に親切に応対して下さった現地の人達も心から喜んでいる事であろう。再会の叶う人は少ないだろう、あまりにも年月が過ぎてしまっているから~。

〇訪朝前、娘の婚家から贈られていたカトレアや胡蝶蘭を育てていた。カトレアの初めての開花に喜んだ日に、訪朝出来る事になった知らせを受けた。私は育てている花が上手に開花すると必ず良い事があると信じているので、この時も大当たりだった。
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〇今、私が夢中になっている我が家の紫陽花、墨田の花火、このあまりにも優しい青い色に心を奪われている。でも、よその家の同じ種類と思われる花は、色が全然違ってた。紫陽花は植えられている土により違う色が出るので、そのせいかも知れない。
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〇右の写真の中央の女性は現地の演奏団の指揮者、首に巻いているマフラーは私からのプレゼント、親しくなった記念にさしあげた。高級なものではないのにとても喜んで下さった。他の人たちは日本から行った歌手や作詞者等。一か月を超えたので、皆さんと親しくなった。
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〇左は朝鮮新報社の記者と、個人的に取材を受けて日本での発行紙に載った。私は何処か他の人と違っていたのかもしれない。右の写真の赤い服の人は舞踊手兼監督と民謡歌手
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〇歌劇舞台での時に、一緒に歌った人たちとの記念写真
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〇金日成主席の誕生日に、各国から参加した人と一緒の晩餐会、素晴らしいご馳走だった。一番、驚いたのは4月なのに桃があった事だ
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〇集団体操が終わって帰る時に子供達と一緒にと思ったが恥ずかしがって皆逃げてしまうので、こんな形で漸く収めた。現在は成人として活躍している事であろう。
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〇朝鮮での記念写真、日本から訪朝の総責任者でもある団長さんであるコートを着た男性は、初めて訪朝した私の為に気を配って下さった有難い方でした。朝鮮の伝統的ななものと現代の作品が展示されている大きな美術館に行けたことは再々の喜びであった。金剛山にも行けるのかと思い登山用の靴などを持って行ったのだが、実現されなかったのが残念。総連の中で一番下の支部の分会の役員もした事のない人は私だけだったのかもしれない。朝鮮学校も出ていなかったり、この北の地に一人の血縁の親族も居なかった事もあったり。
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by pcflily | 2018-06-16 17:43 | アリランエッセー | Comments(2)  

日本・朝鮮文化交流協会結成20周年の思い出

昨夜,BSニュースのプライムニュースで久しぶりに石井一さんが出演していた。現在の日本の政権に対して元国会議員であった三人がそれぞれの意見を話していた。
私が一番同感出来る内容の話をした人は石井一さんであった。石井さんには1992年の2月10日に(紫色のチマ・チョゴリの私)何方かの出版記念会でお会いしている。恐れを知らぬ私は、彼にも言いたい放題の私の意見を言ったのだろう。
すっかり忘れていたが写真の整理をしているので、二人でカメラに向かっている写真が出てきた。立教大学の学長さんとは長い事、年賀状のやり取りをしていたが、既に亡くなってしまわれた。石井さんは現在も健在なので嬉しい。この様な集いには個人の朴貞花として、チマチョゴリ姿で参加した。私は総連の最下部の役員にもなった事がない。納得の出来ない時に自分の意見をはっきりと言うからだと思う。
それにも関わらず、著名なる関川夏央に「金日成主義者なのである」等と書かれて相当な打撃と被害を受けた。短歌も詠めなくなり、恐ろしさに耐えられなくなり、町田市から現在地に引っ越して長い事隠遁生活をしてきた。
「身世打鈴」を読んだと酷い嘘を書き連ねている。『身世打鈴』には、父は1940年に日本に来たと私は、はっきり書いてあるのに、関川夏央は、1939年以前に渡日していると、直ぐにばれる明白な嘘を書いて私を貶めた。これをあげつらいインターネットの2チャンネルでわたしへの悪口や脅しが書き続けられる被害を私は受ける事になった。私にとっては生涯、許せない卑怯な人間だ。関川夏央は、その後も図々しくも書き続けているのだ。嘘を書き連ねて原稿料を稼いでいるのだろう。
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〇紫色のチマ・チョゴリ姿の私の隣が立教大学の学長さん。
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〇盛大な宴会であった。1992年9月18日に、日本・朝鮮文化交流協会20周年祝賀会の時にもお二人にお会いしている。この会からの中から知り合った人たちから始まった旅行の会は楽しく、度々、旅行をしている。日本側の人が会の会計を任されていたのだが、不正をしていたことが判明して、うやむやのまま会の活動も消えてしまった。会員が一番信頼してお任せしていた人だ。朝鮮人の為に動いて下さるので、私達は、このような人に絶対的な信頼を寄せてしまう。でも、この会のような事情で壊れた「会」に何度か遭遇している。朝鮮人の日本での不遇な立場に同情をすることで信頼を得て、うまい汁を吸う輩が絶えなかったという事だろう。
長い事、親しくしていた人々とも、いつの間にか、交信が途絶えてしまったけれども、皆さんそれぞれにお元気でいらっしゃるであろうか?
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下段の左から二人目の人は立教大学の学長さん、私の右側に妹、独身を謳歌していて声をかければ福島から参加してくれていた。もう話の出来ない関係になっている。
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社会党の国会議員の清水澄子さん、社会党が現在の姿になるとは想像も出来なかった時代だ。彼女もすでに亡き人だ。
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左は歌手の近藤日佐子さん、私の一人の運動「端の会」にいつも友情出演をして下さり協力して下さった。その為に彼女の出演する会で、町田同胞の女性達が行く約束を反故にしてしまったので、急遽、私の家族と姉妹をかき集めて参加したこともある。
右は何時もの事だが会場に飾られていた花を会の終了後に、捨てられると言うので可哀想だと、持てるだけのの花を腕一杯に抱え小田急線で自宅に持ち帰って飾った花。
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〇金剛歌劇団の公演
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by pcflily | 2018-06-08 22:13 | アリランエッセー | Comments(4)  

朝鮮大学の講師になった日

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☆1995年12月、57歳の時だった。朝日歌壇で私の歌を読んでいると、朝鮮大学の權載玉先生の依頼があった。「短歌」について話をした。特別講師との名がついていた。大学生の前で話すほどの知識はないと断っていたが、近藤芳美先生に相談したら、行きなさいと言われて引き受けた。今、考えると冷や汗が出る。

小学生や中学生の時に学校代表で独唱や遊戯をさせられ、村の若者の演芸祭にも、引っ張り出されて青年達の中に混じり一人子供の私が踊った経験がある。高校生の時には私への苛めで、弁論大会や会長選挙に担ぎだされた。あにはからんや弁論大会では、優勝してしまった。生徒会会長は落選したので彼女達を大いに喜ばせた。嫌でも、断る力が私にはなかったのだが、それらの事が私に舞台度胸を付けたのだろう。

学生の前で、短歌は、写生、生を写す、自分の生き方を表現するものだと話した記憶だけが残っている。知らぬが仏、若気の至り(若くもなかったが)だと思う。
權載玉先生は学生達の感想文の原稿をそのままで送って下さった。歌集を上梓する前だったので、「教壇」としてその日の事も詠まれてる。

ありのまま吾の歌の出会い語るとき瞬きもせず朝大生20人
どうしても行けなかった大学の教壇に立ち歌との出会いを語る
先生の講義に泣き氏は初めてと吾の手を取りて涙零せり
朝大生の感想文に涙落つあふるるほどに想い伝わりいて

權載玉先生は学生達の感想文を原稿用紙のままで送って下さり、私の宝物になった。その中に、現在の一番の願望は何ですか?の質問に、即答で「祖国統一です」と答えたことに驚いたと言う。オモニとしての別の答えをすると考えていたと言う。即答であった事にも驚いたと書かれていた。朝鮮大学で学んでいる自分達でさえ「祖国統一」とは答えられないとのことだった。
講義の後には学生に連れて行かれて食事を共にして、長い談話の時間を過ごした。又学生との別れを待っていたように、權載玉先生は、帰宅しようとする私を、喫茶店に案内して下さって楽しい談話の時間を取って下さった。

この日曜日の6月3日の朝日歌壇と神奈川新聞に私の短歌が入選している、おめでとうと、友人が電話を下さった。。朝日歌壇は10年以上投稿をしていなかった。この度の私の投稿歌は選者には理解できないと思っていたのに、選んで下さった選者に感謝している。人生にはこんな事もあるのだ。実は友人の権星子さんを勇気づけたくて投稿したのだが、幸運にも入選したので彼女も元気になる事と思う。
權載玉先生や私の講義を聞いた学生の誰かが読んでくれたであろうか?私の事を記憶しているだろうか?

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by pcflily | 2018-06-04 18:52 | アリランエッセー | Comments(3)