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人事を尽くし天命を待つ

文在寅大統領の訪朝に続く訪米と国連への出席しての誠意を込めたお話の内容を聞いて、私の胸は熱くなる。
朝鮮で民衆を前にしての言葉、皆様の厳しい環境の中での「祖国統一への思いと民族を守る心」は事実をしっかりと認識している言葉であった。日本に住まざるを得なかった私達の思いも、全く同じである。将来、ゆとりが出来た時に、私達「在日」の人達にも、同じ言葉をかけて欲しいとの思いが沸き上がってきた。
文在寅大統領の行動を見ていて思い出された言葉が「人事を尽くして天命を待つ」である。同胞の南北が終戦宣言を固く決意をしているのに、米国の諾が残っているとは、この世界の不条理が嘆かわしい。今に始まった事ではないが、悔しさが募る。
私の場合は、人事を尽くして天命を待っていた甲斐があったような結果が出ている。
「新日本歌人」への実権を持っている人たちへの抗議であった「透明人間にされた私」の掲載紙・10月号が届いた。選者を一人が続けるのではなく、交代制になっている。選者への抗議も書いているので抗議された選者であったなら、私の作品は全て没になる可能性もあった。けれども、神は私を見捨てなかった。選者は宮田哲夫さんであった。透明人間にされていた私が見える人であった。選者は、選のあとにで何人かの作品に意見を書いて下さるのだが、この度は私・朴貞花についての言葉だけであった。

選のあとで
  「民主的団体の編集部」は
   無視し放置し
   未だに音沙汰無しだ    

 朴さんの作品のいくつかは、一首独立の建前をとる短歌形式からははみでているかもしれないが、内容上無視できないと思い、あえて選歌した。
何を無視されたかといえば、明治期に国策で造語された差別語ーー「北鮮」「半島」など聞くたびに「肺腑が煮えくり返る」「朝鮮人全員の思い」である。
 問題の第二点は次の歌に歌われている。

  朝鮮学校への 
  「行政の差別を司法が擁護」
  痛恨の極みのわが思いを 
  詩情がないと切り捨てる    

「痛恨の極み」が「詩情がない」と切り捨てられたのは、プロレタリア短歌が批判されたのを想起させるが、しかしプロレタリア短歌と朴短歌は同じではない。
プロレタリア短歌は実感がとぼしいスローガン短歌だといわれているが(これとても再吟味が必要である)朴さんの短歌は民族差別のきざみこまれた実感がある。その実感と詩情との関係も再考してみる必要があろう。

  文字数批判の投稿文
  古来の三十一を文字守れと
  寄らば大樹・編集長の下  

 文字数の多さを批判して、「古来の三十一文字を守れ」という意見に対して、朴さんは、不満を述べている。
 行分け短歌は定型を基準として作歌しているのがほとんどだが、しかし、定型に従うのではなく批判的に扱って破調している点に注目すべきであろう。

☆人事を尽くしては私の指針としている事だ。希望が通らなかったとしても自分の医師で行動した事であるので、自分自身に対して納得できるので後悔はしないで済む。
しなければならない事がいくつか続いている。この29日に80歳になるので、最後の仕事になるのかも知れないが、楽しみである。
10月初旬は韓国に開館した「植民地歴史博物館」に行く。日本人と韓国人がこうてきな援助を受けないで作った博物館だ。寄与した人たちの博物館訪問だ。
10月17日は「経済を学ぶ会の」の会長さんのお世話で「朝鮮と日本の間で私の歩んだ道」と会長さんがポスターと資料を作って下さって、話をすることになった。
10月25日は傍にある中学校の文化祭に町内の婦人会が参加する中に「隣国朝鮮を知る」コーナーを頂き、ハングルや色々な物で朝鮮を理解して貰える事になった。11月11日は横浜市の南市民活動・多文化共生ラウンジ主催の「みんなの わっ フェスタ」に参加する。殆どの人はグループだが、私は、いつもの如く一人で「ハングル」のことを通して隣国朝鮮を理解してもらおうと考えている。
電話を下さると思っていた人からの連絡がない。けれども、捨てる神あれば拾う神ありなのだろう。思いがけない嬉しい事が続いている。
「人事を尽くして天命を待つ~~~待てば海路の日和あり」かと思う。
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花冠、結婚式の新婦のの冠。
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訪朝の突起の記念品。

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訪韓の時、従妹からプレゼントされた。
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日本で手にいれた。両端は朝銀の記念品だけれど真ん中の人形は忘れている。
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。背負い子を背何つけている。気の形を用ずに使用しているので、びっくりだ。朝鮮では当たり前の事だが。
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薔薇の木に百日紅とオーシャンブルーが絡み合って、競り合って二階のベランダまで伸び続けている。薔薇の為に剪定するときに苦労しそうだ。


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by pcflily | 2018-09-27 11:57 | アリランエッセー | Comments(0)  

透明人間にされた私

十月号原稿

透明人間にされた私      (ぱっ) (ちょん) (ふぁ)

「鮮人と言われたら

肺腑が煮えくりかえる」

金石範氏の言葉だ

(在日朝鮮籍作家「火山島」大佛次郎賞・毎日芸術賞)


この言葉は

朝鮮人全員の思いだ

「北鮮」「半島」も――


明治期に国策で

造語された差別語を

今もなお使い続ける人々


知らぬ人もいるかと

編集部に資料と手紙を送った

会誌に説明文載せるかと


「民主的団体の編集部」は

無視し放置し

未だに音沙汰無しだ


朝鮮学校への

「行政の差別を司法が擁護」

痛恨の極みのわが思いを

詩情がないと切り捨てる


文字数批判の投稿文

古来の三十一(みそひと)文字(もじ)を守れと

寄らば大樹・編集長の下に


知りたくない聞きたくない

見たくないと

透明人間にされた私


在日の傷み悲しみ余所(よそ)事か信じ続けし「新日本歌人」


☆自分は絶対に朝鮮人を差別しないと言った人がいた。町田市に住んでいた時に受講した「市民大学」の仲間たちと「在日コリアンを考える会」を作って、会員の話し合いをしていた時である。何時ものように、朝鮮人は私だけであった。他の会員からそんな事はないと言われていた。彼は、次の会合の時に又家内と話し合った。自分達はクリスチャンである、朝鮮人を差別しない人間であると言っていた。そんな彼が町田市に朝鮮学校がある事さえ知らないでいた。

別することはしないという人は関心さえも持たない事だ と認識した出来事であった。その後「朝鮮人の無年金の高齢者の為に年金を」という活動を始めた。年金を支払う権利もなく、高齢になった人たちである。中国からの帰国者には、特例を作って支給されていた。4年かかったが、東京都内で、初めて町田市は、月額1万円という少額ではあるが支給する事になった。私達の運動が実ったのだが、10人いた仲間はいつの間にかいなくなり、最後に残ったのは私と沖縄出身の元高校教員の二人だけになっていた。最後まで行動を共にして下さった沖縄出身のこの方は、ある飲食店で、沖縄出身の人に会った時に沖縄のどこかと聞かれて出身地の島の名前を言ったら「なんだ、島か」と言われたという。


実現のきっかけになったのは、4年の間には、沢山の人に協力のお願いをしていたのだが、その中でも、一番親身に対応して下さっていた国会議員の石毛えい子さんが人権問題の集会があることを教えて下さったので、一人で、その集会に出席をした。最後に3人だけの質問を受けるという司会者の言葉に「いの一番」に手を挙げた。そうして人権の町として知られた町田市であるのに、朝鮮人は人間じゃないのですか?と市長に意見を言った。集会が終わってから話しましょうとの返事を貰い、二人で話し合って、次回の選挙が近い時期であったので、選挙に当選して、もう一度市長になった時には実現するとの約束を貰う事が出来た。

そうして朝鮮人韓国人台湾人が受給できる事に制定された。制定されて、初めて手続きをする人を連れて、挨拶に行った時であった、市長の開口一番の言葉は「あなたは怖い人だ」であった。


この日本の中に巣食っている、朝鮮人に対する差別の心は何処までも、根が深いようである。当方が、へいこらし続けているとある時期まで、続くが、相手の奥に潜む事を安心して正直に話せば、開き直り怒る。こんなに優しくしてやっているのに、一人前の口をきくなという事だろう。


〇私の瓦礫の空き地に咲いている花たち。一般に雑草と呼ばれる花々だ。でも、一つ一つよく見ると、いずれも、本当にきれいな花を咲かせ種を実らせ、花を咲かせてくれる。人間も同じだし、この世界の全てのものが、精一杯生きている事が分かる。だから、私はどんな小さなものに対しても、自分の身の事を考え優しく接するように努めている。だから、今日まで生かされていると信じているからだ。


上から、蛍草,露草とも。金雀枝の一種、葉が三角形だ姫紫苑、無窮花。
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by pcflily | 2018-09-16 17:21 | アリランエッセー | Comments(0)  

9月1日 関東大震災時に虐殺された「犠牲同胞慰霊法要祭」

 関東大震災時朝鮮人虐殺は1923年だ。
今年も各地で慰霊祭が行われている事だろう。私は、近くの宝生寺に出かけた。例年のように、息子に現地まで送ってもらった。口には出さないが息子も出席はしないが思いは同じなのだろう。毎年忙しい中を、時間を割いて送ってくれる。例年のように昔からの朝鮮の国花の無窮花そして百日紅と溢れ咲いている百日草を持って行き参加した。花は慰霊碑の前に供えられた。民団の主催なので、私は異端者だが、快く迎えてくれる。この度の出席で一番驚いた事は、神奈川韓国総合教育院の方が挨拶をしてくれたので少し会話をした。その中で、彼は李誠七さんはハラボジ、即ちご自分が李誠七の孫であるという事であった。また、帰路には隣席の女性が紹介して下さった方にバスの停留所まで、私一人をのせて送って頂いたのだが、その方は民団の団長であると、私が車から降ろして頂く時に仰っていた。再度会う事があっても、顔を覚えていないのでお礼を言う事も出来ない。その車が豪勢であった事だけは分かったのだけれど~~~。

 今日、渡された資料より一部を抜粋。
この横浜の高野山真言宗・宝生寺では虐殺された朝鮮人の供養の為1924年から毎年9月1日の午前11時58分(大震災の発生十国)に法要が営まれ現在も続いている。
 この法要は当時、在日朝鮮人の同胞救済団体、愛隣園を主催していた李誠七氏が、虐殺された朝鮮人の慰霊の為、白木の位牌を寺にもってきて供養を頼んだのがきっかけである。虐殺事件の後一年しか経っていないので、いくつもの寺を訪れて頼んだが、いずれも断られ、ようやく宝生寺の当時の住職である佐伯妙智師(現住職の祖父)が引き受け今日に至る。李誠七氏の生存中は宝生寺と李誠七氏によって法要が営まれていたが、その後は同寺と民団神奈川県地方本部が中心となって続けてきた。
 宝生寺に納められている位牌は、その表面に「大正12年9月1日造位1946年9月1日改造 施主 愛隣園 李誠七」とある。第二次大戦後、位牌が作りなおされている。
(いつも、この位牌が中央に安置され読経がなされる)

同寺の境内には1971年9月1日に「関東大震災韓国人慰霊碑」が、施主日韓協会で建立されている。建立委員には民団神奈川県地方本部孫張翼団長、神奈川韓国商工会洪勺杓会長、横浜商銀信用組合李鐘大理事長、韓国学園崔春植理事等の八氏が名を連ねている。
 李さんは亡くなる前に佐伯住職と住職の母を読んで「私が死んだ後も震災犠牲者の供養は毎年続けて欲しい」と~~~。
宝生寺は末寺51寺を持つ中本寺であり、この地方の高野山真言宗の古刹だが、現在でも檀家は70軒ほどであり関東大震災当時は20軒ほどしかなかった。ほかのお寺では引き受けなかったのに、当時の社会情勢の中で李さんの頼みを聞き入れて供養を引き受けられたのは、檀家が少なかったからという事も言える。

宝生寺は800年前の平安時代承安(じょうあん)元年(1171年)に民部卿大僧都、覚清法印によって草創され、高野山金剛峰寺を本山とする古刹である。


宝生寺の犠牲同胞慰霊法要祭

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〇30分ほどの読経があげられる。
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〇慰霊碑
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〇慰霊碑の裏面、建立時の協力者の名前が刻まれている
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〇出席者全員のの焼香
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〇日の前方のこの建物い鐘があり読経中に鐘が鳴らされてた
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〇白い芙蓉の花が咲いていた
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●宝生寺は山腹に有るのでた沢山の木々が鬱蒼としている


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by pcflily | 2018-09-01 18:10 | アリランエッセー | Comments(0)