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同胞の悲願叶うだろうか?

☆今日も嬉しいニュースが届く。文在寅大統領がロシアで、ロシアから自分が育った釜山まで鉄路を繋ごうと遠大な構想を話している。地続きの朝鮮、中国、ロシアまで、仲良くできる事を願っていた私にとって本当に嬉しい事である。
南北合同チームでアジア大会に参加する。統一旗、アリラン等当然のように決まっていく、平壌、ソウルでのバスケットの親善試合も決まった。本当に嬉しい。アボジやオモニ、沢山の逝ってしまわれた同胞に伝えたい。漸く、ここまでたどり着いたのだ。でも、心から安心できないでいる。これまでに、あまりにも大きな失望を抱かされ続けて来たからだ。

〇下の写真は日本で行われた卓球で優勝した南北合同チームを応援に行った時の物。右の女性は総連の中央女性同盟の委員長。私に、「チマ・チョゴリで来たのですね」というので「雨が降ろうが嵐がこようが私たちはチマ・チョゴリを着て守らなきゃ」と朝鮮語で言った。彼女は何も答えなかった。チマ・チョゴリ姿とあまりにも一生懸命に応援するので目立ったらしく、取材を何人もの人から受けた。テレビには「勿論、必ず統一します」と言っているところを見たと、全国の短歌の未来の仲間や同胞から電話が来た。この頃の写真は、アルバムに貼ってあった写真。1991年4月25日。
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〇合同チームの結成と優勝で、喜びの宴で歌い踊った。若者たちは韓国から応援に来ていた。
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〇朝鮮大学での記念写真、左下は、娘の成人式の写真、新調してやった刺繍とスパンコールの美しいチマ・チョゴリが娘にとっては初めての高価なものであったので、嬉しくて、興奮して眠れなかったと言う。私はこの日の娘を送り迎えをする為に初めての新車を買った。新車を買ったのは、娘が二十歳、息子は23歳で親の務めを半分終えた気持ちになり、自分へのご褒美でもあり、その記念でもあった。
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嬉しい時には直ぐに踊りだすちょんふぁ。
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〇今年の4月に両親の祭祀の為に韓国に行った時に、自由に使えって良いとマンションの秘密番号までを教えて宿泊させて下さった方から頂いた花の種を植えた物。何故か、ずっと鳳仙花と思っていた。種をまいて1センチぐらいになった苗を家の周りの土のある場所に移植した200本を遥かに超えていると思う。種を蒔いてから、毎日この花の苗が育つのを見るのを仕事にしていた。ところが咲いた姿を見たら百日草だった。同じ日に植えたのに、植えられた場所によってこんなに違う。秋までは次々と花は咲き続けるだろう。夏期がその名の通りに長いから。わが朝鮮民族にも良い知らせが続くかもしれない。花も、人間も、国も同じだなあと思っている。それぞれの幸運と不運が全てを決めるのだ。朝鮮民族は、長いこと辛い苦難の道を歩いてきたのだ。けれども、ようやく陽が指し始めたようだ。今度こそは、良い花が咲き、素晴らしい実を結ぶことが出来る様にと祈るばかりだ。
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〇夏に咲き続ける強い花、百日草を見ていたら無窮花の事を思い出してその花にたとえて詠んだ歌を思い出した。
「朝鮮を無窮花の園と呼ぶという統一の花咲く日のあらむ」
統一の日が必ず来ると心から信じていた頃に詠んだ。
この歌を友人の須藤英子さんが「かけ軸」にして下さった。彼女は大学で書道の先生をしていた人であり13歳年上であった。長い事信頼できる友人であった。毎日新聞の「毎日書道展」に出品するための作品に私の歌を何度も選んで下さった。書にする場合は、本来は作者の名前は入れないことになっているけれど、貞花・ちょんふぁさんの歌は特別な歌であるからと、いつも、書の中に私の名前も入れている。展示は全国各地を巡るとのことであった。
「千里馬の国の夜明けと信じたり吾子につけたる明希と言う名」
初孫が誕生した時に、孫の名前の金清文を織り込んだ歌
「金成り清き銀充つるとも文武備えし君子たれ」
等もその中に入る。そうして、作品が出来ると、彼女は、私の家を訪ねて来て作品を見せて、これで良いでしょうか?と。びっくりするのは私だった。筆を持ったこともない私に、了解を得たいと持ってきて見せて下さるのであった。
どこまでも優しくて頼もしい信頼できる人であった。彼女は「朝日友好展」に出品する私の作品を全て筆で書いて下さった。どんな場合も、日本への抗議の歌なのに、私の歌を書いている時には、朝鮮人の心になって書くのだと話してくれた。ある時は作品を仕上げたのに余白が多く出てしまったと悩んで電話が来た。それならば、鶴の折り紙を貼ったらどうかしらと言ったら、折った鶴を、郵便で送ってきて、これで良いでしょうか?と手紙が添えてあった。どこまでも謙譲の人であった。二度と会えない所に旅立ってしまってから久しい。次々と友人がいなくなった。
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〇総連の専任の役員を務めた人たち、御存命であるのかどうかも分からない。右の写真の中央の人は、かの有名な総連中央の委員長であった人。朝鮮大学での写真だ。

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〇はがき二枚分の大きさのこの写真が2枚ある。元中央副委員長とメモがあるだけ。もう一人の人は朝鮮から来られた高官であった。死亡記事が出ていたのを見たことがあるので、相当の人であったのだろう。にもかかわらず、何故こうして私が一緒に写っていたのか、記憶にない。。写真は朝鮮新報社から送られてきたことは覚えている。あるいは金剛保険会社の創立記念日であったのかもしれない。その時は、社長夫人であったから、この写真があるのだろう。
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〇在日朝鮮人女性の慰安婦問題を考える集会、日本の新聞には載らないが、総連の中で在日朝鮮人の人権の為に闘っていた。この日は、1992年2月10日、26年前、この日に参加した国会議員の清水澄子さんも、もうこの世の人ではない。
性奴隷にされた女性たちも老い、大勢の方が亡くなっているのに、日本国は謝罪も賠償もしない。自国の犯した罪業は、棚に上げて忘却したのか、戦後責任を果たさない後ろめたさを持っていたのに、鬼の首でも取ったように「拉致、拉致」と〇〇の一つ覚えのように、国中で騒いでいる。歴史を隠匿して恥を知らない、良心の欠片もない日本国なのだ。
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〇真の祖国統一の日は来るだろうか?嘗て朝鮮新報に掲載されていたので、アルバムに貼ってあった。左から二番目が娘の長男の清文。何時も笑顔いっぱいの子供であった。現在は、哲学者の様な顔をしている20代も後半の青年になった。
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by pcflily | 2018-06-22 15:20 | アリランエッセー | Comments(2)  

冷戦の完全な終息か?朝米会談

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米朝会談が実現した。金正雲委員長の「ここまで来るまでには遥かな道のりであった、誤った偏見と過去の歴史が足を引っ張った、それらをすべて乗り越えてきた」という趣旨の言葉に万感の思いを抱いた人は、私だけではないと思う、南北の同胞であったなら~~~。私達は何十年も待ち続けたのだ。この人は適材適所で言うべきことを正確に言える賢明な人であり歴史を含むあらゆることをきちんと勉強している人だと思った。
両国の首脳が署名した。長い長い南北民族の分断による苦しみから解放されるだろうか?朝鮮の南北分談は日本の植民地政策と米国への真珠湾攻撃から始めた日本の敗戦の結果だ。米ソの冷戦によりアメリカが日本に戦争責任を問わないで、米国の為に赤化防御策として日本と韓国に米軍を置いた事から始まっていると私は思っている。米国の心変わりが無い事をひたすら祈るばかりである。北東アジアの平和の為に繁栄の為に、このまま真っすぐ進んで欲しい。
訪朝した時の事がしきりに思われる。整理を中断していたアルバムを出して見る。
あの日々に会って私に親切に応対して下さった現地の人達も心から喜んでいる事であろう。再会の叶う人は少ないだろう、あまりにも年月が過ぎてしまっているから~。

〇訪朝前、娘の婚家から贈られていたカトレアや胡蝶蘭を育てていた。カトレアの初めての開花に喜んだ日に、訪朝出来る事になった知らせを受けた。私は育てている花が上手に開花すると必ず良い事があると信じているので、この時も大当たりだった。
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〇今、私が夢中になっている我が家の紫陽花、墨田の花火、このあまりにも優しい青い色に心を奪われている。でも、よその家の同じ種類と思われる花は、色が全然違ってた。紫陽花は植えられている土により違う色が出るので、そのせいかも知れない。
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〇右の写真の中央の女性は現地の演奏団の指揮者、首に巻いているマフラーは私からのプレゼント、親しくなった記念にさしあげた。高級なものではないのにとても喜んで下さった。他の人たちは日本から行った歌手や作詞者等。一か月を超えたので、皆さんと親しくなった。
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〇左は朝鮮新報社の記者と、個人的に取材を受けて日本での発行紙に載った。私は何処か他の人と違っていたのかもしれない。右の写真の赤い服の人は舞踊手兼監督と民謡歌手
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〇歌劇舞台での時に、一緒に歌った人たちとの記念写真
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〇金日成主席の誕生日に、各国から参加した人と一緒の晩餐会、素晴らしいご馳走だった。一番、驚いたのは4月なのに桃があった事だ
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〇集団体操が終わって帰る時に子供達と一緒にと思ったが恥ずかしがって皆逃げてしまうので、こんな形で漸く収めた。現在は成人として活躍している事であろう。
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〇朝鮮での記念写真、日本から訪朝の総責任者でもある団長さんであるコートを着た男性は、初めて訪朝した私の為に気を配って下さった有難い方でした。朝鮮の伝統的ななものと現代の作品が展示されている大きな美術館に行けたことは再々の喜びであった。金剛山にも行けるのかと思い登山用の靴などを持って行ったのだが、実現されなかったのが残念。総連の中で一番下の支部の分会の役員もした事のない人は私だけだったのかもしれない。朝鮮学校も出ていなかったり、この北の地に一人の血縁の親族も居なかった事もあったり。
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by pcflily | 2018-06-16 17:43 | アリランエッセー | Comments(2)  

日本・朝鮮文化交流協会結成20周年の思い出

昨夜,BSニュースのプライムニュースで久しぶりに石井一さんが出演していた。現在の日本の政権に対して元国会議員であった三人がそれぞれの意見を話していた。
私が一番同感出来る内容の話をした人は石井一さんであった。石井さんには1992年の2月10日に(紫色のチマ・チョゴリの私)何方かの出版記念会でお会いしている。恐れを知らぬ私は、彼にも言いたい放題の私の意見を言ったのだろう。
すっかり忘れていたが写真の整理をしているので、二人でカメラに向かっている写真が出てきた。立教大学の学長さんとは長い事、年賀状のやり取りをしていたが、既に亡くなってしまわれた。石井さんは現在も健在なので嬉しい。この様な集いには個人の朴貞花として、チマチョゴリ姿で参加した。私は総連の最下部の役員にもなった事がない。納得の出来ない時に自分の意見をはっきりと言うからだと思う。
それにも関わらず、著名なる関川夏央に「金日成主義者なのである」等と書かれて相当な打撃と被害を受けた。短歌も詠めなくなり、恐ろしさに耐えられなくなり、町田市から現在地に引っ越して長い事隠遁生活をしてきた。
「身世打鈴」を読んだと酷い嘘を書き連ねている。『身世打鈴』には、父は1940年に日本に来たと私は、はっきり書いてあるのに、関川夏央は、1939年以前に渡日していると、直ぐにばれる明白な嘘を書いて私を貶めた。これをあげつらいインターネットの2チャンネルでわたしへの悪口や脅しが書き続けられる被害を私は受ける事になった。私にとっては生涯、許せない卑怯な人間だ。関川夏央は、その後も図々しくも書き続けているのだ。嘘を書き連ねて原稿料を稼いでいるのだろう。
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〇紫色のチマ・チョゴリ姿の私の隣が立教大学の学長さん。
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〇盛大な宴会であった。1992年9月18日に、日本・朝鮮文化交流協会20周年祝賀会の時にもお二人にお会いしている。この会からの中から知り合った人たちから始まった旅行の会は楽しく、度々、旅行をしている。日本側の人が会の会計を任されていたのだが、不正をしていたことが判明して、うやむやのまま会の活動も消えてしまった。会員が一番信頼してお任せしていた人だ。朝鮮人の為に動いて下さるので、私達は、このような人に絶対的な信頼を寄せてしまう。でも、この会のような事情で壊れた「会」に何度か遭遇している。朝鮮人の日本での不遇な立場に同情をすることで信頼を得て、うまい汁を吸う輩が絶えなかったという事だろう。
長い事、親しくしていた人々とも、いつの間にか、交信が途絶えてしまったけれども、皆さんそれぞれにお元気でいらっしゃるであろうか?
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下段の左から二人目の人は立教大学の学長さん、私の右側に妹、独身を謳歌していて声をかければ福島から参加してくれていた。もう話の出来ない関係になっている。
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社会党の国会議員の清水澄子さん、社会党が現在の姿になるとは想像も出来なかった時代だ。彼女もすでに亡き人だ。
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左は歌手の近藤日佐子さん、私の一人の運動「端の会」にいつも友情出演をして下さり協力して下さった。その為に彼女の出演する会で、町田同胞の女性達が行く約束を反故にしてしまったので、急遽、私の家族と姉妹をかき集めて参加したこともある。
右は何時もの事だが会場に飾られていた花を会の終了後に、捨てられると言うので可哀想だと、持てるだけのの花を腕一杯に抱え小田急線で自宅に持ち帰って飾った花。
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〇金剛歌劇団の公演
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by pcflily | 2018-06-08 22:13 | アリランエッセー | Comments(4)  

朝鮮大学の講師になった日

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☆1995年12月、57歳の時だった。朝日歌壇で私の歌を読んでいると、朝鮮大学の權載玉先生の依頼があった。「短歌」について話をした。特別講師との名がついていた。大学生の前で話すほどの知識はないと断っていたが、近藤芳美先生に相談したら、行きなさいと言われて引き受けた。今、考えると冷や汗が出る。

小学生や中学生の時に学校代表で独唱や遊戯をさせられ、村の若者の演芸祭にも、引っ張り出されて青年達の中に混じり一人子供の私が踊った経験がある。高校生の時には私への苛めで、弁論大会や会長選挙に担ぎだされた。あにはからんや弁論大会では、優勝してしまった。生徒会会長は落選したので彼女達を大いに喜ばせた。嫌でも、断る力が私にはなかったのだが、それらの事が私に舞台度胸を付けたのだろう。

学生の前で、短歌は、写生、生を写す、自分の生き方を表現するものだと話した記憶だけが残っている。知らぬが仏、若気の至り(若くもなかったが)だと思う。
權載玉先生は学生達の感想文の原稿をそのままで送って下さった。歌集を上梓する前だったので、「教壇」としてその日の事も詠まれてる。

ありのまま吾の歌の出会い語るとき瞬きもせず朝大生20人
どうしても行けなかった大学の教壇に立ち歌との出会いを語る
先生の講義に泣き氏は初めてと吾の手を取りて涙零せり
朝大生の感想文に涙落つあふるるほどに想い伝わりいて

權載玉先生は学生達の感想文を原稿用紙のままで送って下さり、私の宝物になった。その中に、現在の一番の願望は何ですか?の質問に、即答で「祖国統一です」と答えたことに驚いたと言う。オモニとしての別の答えをすると考えていたと言う。即答であった事にも驚いたと書かれていた。朝鮮大学で学んでいる自分達でさえ「祖国統一」とは答えられないとのことだった。
講義の後には学生に連れて行かれて食事を共にして、長い談話の時間を過ごした。又学生との別れを待っていたように、權載玉先生は、帰宅しようとする私を、喫茶店に案内して下さって楽しい談話の時間を取って下さった。

この日曜日の6月3日の朝日歌壇と神奈川新聞に私の短歌が入選している、おめでとうと、友人が電話を下さった。。朝日歌壇は10年以上投稿をしていなかった。この度の私の投稿歌は選者には理解できないと思っていたのに、選んで下さった選者に感謝している。人生にはこんな事もあるのだ。実は友人の権星子さんを勇気づけたくて投稿したのだが、幸運にも入選したので彼女も元気になる事と思う。
權載玉先生や私の講義を聞いた学生の誰かが読んでくれたであろうか?私の事を記憶しているだろうか?

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by pcflily | 2018-06-04 18:52 | アリランエッセー | Comments(3)  

鄭敬謨さんと黄晳暎さんと[粒の会」の思い出

連日、パソコンで韓国の新聞を読むことが日課になっている。懐かしい黄晳暎さんの作品が映画化されるとの記事が出ていた。
黄晳暎・황석영さんは韓国の著名な作家だが、1989年に禁止されていた訪朝をした事で、韓国政府の怒りを買い、帰国出来ないで、しばらくの間、ドイツに在住していた。漸く帰国したが「国家保安法」とやらで逮捕され4年もの刑務所生活をさせられてしまった。
鄭敬謨さんは、朝鮮戦争の休戦協定の時に通訳をした人であるが、その後、日本に亡命し、「粒」という小冊子を発行し、文筆で南北統一の意志を、日本の中で唱えていた人である。
これらの写真は、日本に黄晳謨さんの来日で講演会が行われ、親睦会をした時の写真である。この後も、別れがたくて、夕食も共にしている。誰がこんなにたくさんの写真を映して下さり送ってくださったのか、写真が沢山残っている。
嘗ては、統一の為にと色々な人たちが夢を持って、活動していた。通知が来ると、私も、仕事を放り出して参加していた。思い出の日々の記録だ。
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鄭敬謨さんと握手、お元気ですねと挨拶していたのだろう。
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背広姿は鄭敬謨さん、白いワイシャツの人が黄晳暎さん。一枚、撮りますと言われたのだろう。
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聴覚の弱い私が黄晳暎さんのお話(朝鮮語)を聞き取ろうとしていたのを写真にとられている。真ん中が鄭敬謨さん
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「祝杯・축배」の場面でしょう。在日の間では「乾杯・ 건베」とは言わなかった。
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気持ちが盛り上がり一曲歌いました。「愛しの吾子よ、何時か分かってくれるでしょう」朝鮮学校の寄宿舎に、幼い我が子を送るオモニの心情の歌、涙なしでは歌えなったが好きな歌であった。
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by pcflily | 2018-06-03 11:36 | アリランエッセー | Comments(4)