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好きな色

九月号原稿


好きな色         朴 貞 花  

 

好きな色はグリーン

皆に知られていた

頂いた贈り物は

いずれもグリーン


生地も成長の地も

緑一杯の山村

緑に魅入られていたらしい


抵抗の意志の色と知り

ますます好きになった

カーテンも絨毯も洋服も

選ぶときはグリーン


ふと気が付けば

日記帳も洋服もコートも

いつの間にか

ブルーになっていた


ブルー一色の

南北朝鮮の統一旗

南北の選手が一緒に

行進した日の感激――


統一旗の行進を

直に見たくて

思いを抑えられなくて

アジア大会に参加した


シンボルカラーはブルーの

文在寅大統領の誕生

南北和解の兆しが見える


トレードマークの

グリーンの帽子二十年を越す

統一旗の色だ

ブルーの帽子を探そう


☆この作品はずいぶん前に載せたのだが、いつの間にか消えていたので、もう一度作品をのせた。パソコンは時々使えなくなる。

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by pcflily | 2017-12-24 12:20 | アリランエッセー | Comments(2)  

今だから言えること

歌集『身世打鈴』別冊エッセー集より
「今だから言えること」 
一九七一年一月二八日、4月から就学の娘の手をしっかりと握り、決して戻るまいと片道切符だけを持って、粉雪の舞う寒い日、東京を目指して夜行列車に乗った。その町は東北の片田舎で両親とも朝鮮人の家族は二、三軒しかなかった。家の中では女であること、外に出れば朝鮮人であることで、差別を受け続け、「差別」という言葉を聞くだけで今でも胃痛をおこす。その頃、朝鮮人と言われても朝鮮の言葉も歴史も知らなかった。山の名前一つ、川の名前一つ、自分の本名さえ定かでない悔しさ悲しさ。
 適齢期になり、相手の顔もはっきり知らぬままに、家業を手伝うという人と結婚をした。二人の子の親になり、この子達には名前ばかりの中身のない朝鮮人には決して育てまいと心に決めた。長男を「東北朝鮮初中級学校」に入学させた。
 長女の就学期が近づくにつれ悩みが大きくなった。経済的に二人も寮生活をさせる学校には入れられない。しかし、どんな事があっても、日本人の為の教育しかしない日本学校には入学させる気にはならない。
 同じ屋根の下にいれば一つの卵でも三人でわけて食べることが出来る。朝鮮学校に通学させるためにも、東京に出ようと決心した。
 その頃の私にとっての東京は、今の外国よりも遠い所だった。知人は一人もいないけれど朝鮮学校がある。同胞がたくさん居る、同胞の経営するパチンコ店があるだろう。住み込みで働かせてもらおうと考えがまとまると居ても立っても居られず、お正月気分も落ち着いた一月末、両親の留守を見計らって、暗くなってから家を出た。
 あれから十八年、泣いて笑って、疲労で倒れ、この東京の見知らぬ町で、子どもを置き去りにして死ぬのかと思ったこともあったが、「無事に今日一日が終わった」という日々を重ね、かさねてきた。
 けれども、私のたった一度の人生を生きる中で、たった一つの生きがいであり、夢であり、希望であった二人の子供を、祖国統一を目指す純粋な朝鮮人に育てあげることが出来た。
 あの上京の日の朝「東京って寒いね」と震えていた娘は、朝鮮大学校卒業後、朝鮮学校の教員を勤めて結婚し、子供にも恵まれ、母としても幸せに暮らしている。そして、息子は、この十一月、祖国統一に尽くす仕事をし続けたいと言う女性と結婚した。
 結婚式には、長年の私の願いであった紗帽冠帯、花冠の朝鮮の伝統を守った古典的な衣装、お色直しには、新郎はパジ・チョゴリ、神父はちょっと新式を盛り込んだチマ・チョゴリと、全て民族衣装だった。
 嬉しいことには、もう一つの秘めた私の夢であった「書くこと」を、このカップルは職業としている。
 ペンは剣よりも強し「KORIA IS ONE」と、祖国統一に向かって生きる事を誓い船出した。
 二人は、外国人はお断りと何度も断られ、アパート探しで苦労をしたが、日本人の友人の世話でなんとか住む所も決まった。今はしばし休養の新婚旅行中である。五十年の人生を生きている私の頭とからだの中にあったものは「朝鮮と二人の子供」だけだった。他のものは何も見えなかった。その二人の子供からは卒業したい。
 そして、足を踏み入れたことのない朝鮮民主主義人民共和国を尋ねてみたい。
 平壌、金剛山、白頭山などを巡り、最後に四十五年もの間、私たち朝鮮人を苦しめている、三十八度線―――林秀卿さんが、若く清い命をかけて渡った三八度線を、この目で、しっかりと見て、残りの人生の指針をにしたいと思っている。
                     (1989年11月「朝鮮時報」掲載)

☆実家で私たち家族の為に、檜造りの50坪の家を建てた。この新築の家に入居したのは前年の7月であった。けれども、6か月後にはこの家を捨てて、朝鮮学校があることを知るだけの東京の町田市へ向かったのである。所持金は汽車賃と小銭を少々だけしかなかったのに~~~。夫は、自分の親や弟妹の為に送金していたので、給料の全てを管理していたからだ。
冷静に考えれば、なんと世間知らずの無鉄砲な事をしたものかと、冷や汗が出るが、現在も私は同じことをしているような気がする。
 
〇ケーキを買って誕生日を祝う。幸せいっぱい。
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●この日も誕生を祝った。息子は4月5日、娘は9月10日。
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〇上京したばかりの頃、ビルの屋上、このビルに住んでいるのは私たち親子三人だけなので、屋上は自由に使えた。洗濯物干し場、土を運んで貰い花を育て、後には物置き小屋も設置した。買ったヒヨコが大きくなり、ここで、娘と遊んだりしていたが、ある日いなくなってしまった、近所の銭湯の前にいたのだが名前を付けていたわけではなかったので連れてこれなかった。悲しむ娘の為に小鳥屋さんから一匹の小鳥を購ってやることになった。この小鳥が娘に懐いているのを見て、娘の友達がつがいで買ってもらったが、全く懐かなかった。小鳥同士で仲良くなってしまい、飼い主には懐かなかったようである。我が家では一匹だったので娘に懐くのだと話し合った。
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〇追ってきた夫が、子ども達を遊園地に連れて行った日の記念写真。
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〇ふるさとを捨てて来た身には帰る故郷はなかった。
   ふるさとの藤花こいてその花をかたどりし衣求めきたりぬ
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〇同じ日に生まれた母子の記念撮影。ミニスカートでした。
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〇誘われて海を見に〇海を見に行きました。
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〇誘われて、桃の花を見に行きました。
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〇誘われて紫陽花を見に行きました。雨になってしまいました。
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〇また、日比さんからビールとリンゴなどが送られてきました。
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○余りにも明るい月に誘われ、お前も何時も一人ぽっちだねとビールを飲みました。
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by pcflily | 2017-12-22 17:42 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)  

悲しき八十路坂

二月号原稿        (2017年11月詠む)

悲しき八十路坂       神奈川      (ぱっ) (ちょん) 


三十迄生きられたら

儲けものだよ

信じ続けて八十路坂


十代の少女に

酷い予告をしたとは思う

「今」しかない

今を生きる事に努めた


未来を思い描けず

明日に夢を馳せることなく

今だけを見つめ続けた


思い至った事に

躊躇なく行動する

明日はないかもしれない――


自分の力で

生きてきたのではない

誰かが助けてくれたから

今日も生きている


短い命だもの

我欲を捨て一筋に

清く正しく美しく


八十路坂に青天の霹靂

姉妹の欲望渦巻く泥沼

漸く逃げ切った


醜い姿を見ずに逝った

アボジとオモニ

私の唯一の救いだ


☆悲しくて悲しくて悲嘆のどん底に落ちている私を慰めようと、日比イチさんが送って下ったお菓子と果物と缶ビール。何時もの事だが、母親が娘に送る宝箱の様なプレゼント。お礼の言葉が見つからない。

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☆隣人に差し上げた折り鶴蘭。枯死寸前でいたので一個だけ譲り受け仕立て直した。どんどん増えていくので、よろしかったらと、差し上げていたのだが、私の自己満足であって、相手にとっては迷惑千万であった事に気が付いた一件であった。
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☆指の長さ位のものを仕入れて育てたサンセベリアとポトス2種。これもいくらでも増えるが、玄関にも置き場がなくなり、胡蝶蘭の鉢も居間に置いてあるので、居間が狭くなるばかりだ。
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☆息子と娘を保育園に預けて、同胞の金融機関「朝銀」に勤務していた頃。
実家を出て働かなければならなくなった時期があった時に、同胞のもとで働きたいと、娘時代に働いた経験のある「朝銀」に申し込んだら、新卒の受験者と共に試験を受けて合格したら雇うと言われた。子持ちの女性で、受験して勤務を始めたのは後にも先にも私だけであった。頑張りすぎる無理な生活の為に、新聞が読めない程に視力が落ちた。
誰にも言われていないのに、拘っていたのは何故だろう。結局これが、私の苦節の始まりであった。


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☆娘と私の誕生日は、旧暦で言うと同じ8月5日で明け方に生まれたことも同じである。オモニは何度も「干支が寅であるが、明け方に生まれたから、大人しいのだよ」と、私に言い聞かせていた。旧暦の8月5日には記念写真を撮るのが常であったが、この写真を写して貰った日には、息子は仙台にあった東北朝鮮学校の寄宿舎生活をしていた。三歳下の妹は、私に向かって、小学性を寄宿舎に入れるとは許せない、鬼だと怒った。その後に、この三歳下の妹は、私の息子が朝鮮の統一を願う月刊雑誌『統一評論』に入社した時には「親も親なら子も子だ、夢を食っては生きられない」と怒鳴った。また、私の息子に対して、日本人と結婚したら許さないと言ったのに、男の子は授からず娘二人なのだが、二人とも日本人と結婚させている。二人とも親族を呼んでの結婚式もしないままだ。

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by pcflily | 2017-12-10 11:15 | アリランエッセー | Comments(2)