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植民地政策は「ほんの一時」だと言う日本人がいる

八月号原稿

在日朝鮮人として想う   朴 貞 花 

    

この世に生を受け

アボジは八十八年、

オモニは九十九年

私は七十七年の途上


帝国日本に

生地から引き離されて

差別・蔑視・放置に

忍耐の日々――


五十五歳の息子

五十二歳の娘

五人の孫たちの

明りが見えない前途


来し方を思い

未来を思うとき

この地に子を生(な)した

わが悔いは深まる


数多の渡来人が文化と技術を

王仁は千字文と論語を伝えた

日本最古の飛鳥寺創建時

高句麗は金を送った    

   (住職は北朝鮮訪問しお礼を言いたいと語る

百年を越す朝鮮人迫害


朝鮮人が日本人に

朝鮮国が日本国に

どんな被害を与えたのか?

国家主導のレイシズム


朝鮮学校への差別は

弱者への虐めの推奨だ

子供達の虐めと

ヘイトスピーチは続く――


慰安婦にされたハルモニ

われもまた己晒して

歴史認識を問う


☆敗血病と知らされたのは退院して再検査に行った時の事であった。もうこれで私の寿命は切れるのだと思ったことは、それほどに病状が悪化していたからだと理解出来た。


☆「一難去ってまた一難」とはこのような時を言うのだろうか?会員になっている「新日本歌人」の10月号が届いた。10月号の為に投稿した作品がどのように評価されたかがわかる。まず、選者の言葉がある。

☆次に2か月前の作品に対して「作品評」として選者以外の人の言葉が載る。この上記の8月号の私の作品に対して「古来から隣国として朝鮮半島の人々との長い交流。ほんの一時、植民地化した日本。そのことの真の歴史的総括のできてない日本国の現状。作者の胸の内が悲しいです」とあった。

一時でもなく、ほんの一時である。これを書いている人が「新日本歌人」の会員であり、「作品評」を任される優秀な歌人であることが、より一層私の神経を痛めつける。


☆イライラが募る時や辛い時は花の手入れをして自分の気持ちを落ち着かせる。昼時から暗くなるまで外にでて花の手入れをしていたが、私の気持ちはおさまらない。倭寇、秀吉の一方的な侵略、そして明治に入ってからの徹底した軍事力による植民地政策であったのだ。日本人にとっては「ほんの一時」なのだ。こんな表現はあまりにも酷いのではないかと電話をした。彼は「見解の相違だ」と一方的に電話は切られてしまった。私の怒りは収まらない。日本人にとっては所詮余所事なのである。会員以外の人が言ったのなら、これほどまでには傷付かないと思う。作者の胸の内が悲しいとは、私の考え方を非難していると思える。

松葉菊

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露草、蛍草の方がぴったりと思う。見かけによらず強い花どんどん増えどんどん伸びる。古き時代に染めに使ったと言う、十分ン位これに答えられただろう。

名前を次々と忘れる、緑の葉は黄色い花をつけ、フキのように食用にもなる。赤い花はお赤飯とままごとで遊んだもの、いつの間にか根付いていた。
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雑草を覆う強い花、土があまりなくとも良く根付き、冬もこの緑の母このままで、壁を覆い咲かせることも可能だ。
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町田在住の時に頂いた花束に入っていた蔦が瓦礫の道を覆った
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不如帰草
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by pcflily | 2016-09-28 14:46 | 『新日本歌人』 | Comments(4)  

敗血症で入院

☆1923年9月の、関東大震災時の朝鮮人虐殺神奈川追悼会が9月3日に久保山霊園で行われた。私は、死を覚悟した忘れられない日となった。

☆9月1日には、民団系の人だけの「宝生寺」での追悼会があった。ここは震災当時、李誠一さんという方が、朝鮮人の遺体をリヤカーで探し集めて、あちこちのお寺にお願いをして歩いたが何処も受け入れてくれなかった。漸く、この「宝生寺」だけが引き受けて下さり供養をして下さったと言う。其れから毎年欠かさずにこの寺で追悼会をしてきたと言う。民団団関係の人達による追悼の碑も建立されている。私たちの会と一緒にと申し出たが総連系だから駄目だと断られたと言う。
それでも、私は在日コリアンまでもが分断しているとは可笑しいと、常々思っているので、思い切って、総連系の人もいるが、それは個人として参加しているのだから一緒にやりましょうと、単身で民団の県本部に行き申し出たのだが、総連系だと言って聞き入れて貰えなかった。
けれども、この「宝生寺」で行われる9月1日には、私自身の思いと意思でこの事を知った昨年から、一人で参加している。今年は無窮花を持っていき、個人的に献花しようと思ったのだが、女性達が無窮花を見て、お寺から花瓶を借りて、お経をあげる場所と、碑のあるところに飾ってくれた。「ああ、やっぱり同胞だ、無窮花に対する思いは同じなのだと嬉しく思った。
○この写真の無窮花は(宗旦)という。
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☆9月2日は供物を買う役目を、二人で引き受けていたので
横浜橋商店街で待ち合わせ、買い物をした。途中で、急に寒気と震えとおなかの痛みを伴う○○が始まった。昼食も取れず、友人のおいしそうに食べるのを眺めていた。買い物を終え、横浜駅まで行き、明日現地に運んで下さる朴在和さんに買ったものを預け、自宅に帰った。この日は、韓国から来て追悼会に参加する人が、私の家に、泊まる予定になっていた。都内まで迎えに来てと言われたが、それどころではない体の不調で迎えに行くことは出来ないとお断りをした。彼女は2泊する予定を1泊も出来なかった。

☆2日の夕方からは異常な体の状態により思考が回らなくなってしまった。熱は39度7分まで体温計に出た。その後は怖くて体温計を使う気持ちにならなかった。私の命も愈々、今夜が終わりかも知れないと思うばかりであった。殆ど高熱で眠れなかった。夜が明けてから、まだ自分が生きていると知った時には追悼会に献花する心算であった「無窮花と百日紅」を手の届く場所のものを剪った。その後疲れも出たのか、安心したのか少し寝たようであった。車を取りに来た息子が私の、様子を見て出かけることに反対した。
私は、必死であった。もう、私の寿命の尽きる時間が迫っている、最後まで、責任を果たさなければならない、果たそうと思うばかりであった。息子は渋々現地まで送ってくれることにした。現地に近づいた時に大切なものを忘れたことに気が付いた。
息子は、黙って引き返してくれた。ごめんねと謝ったが、大丈夫と優しい言葉をかけてくれた。私の必死さが息子にも伝わっていたのだろう。有難かった。
途中で帰ればとすすめる人もあったが、最後まで頑張った。本当に頑張ったのだった。何時も、強い事を言い、強い事を書いているが本当の私は心身共に弱い人間である。ただ、誰かの前に出る時には、鎧(嫌な言葉だが)をつけているのだ。だから、こんなに辛い時にでも耐えられるのだ。

○主がいなくとも凛々しく咲き続けているオーシャンブルー。無窮花に絡みついている、バラも負けずに絡みついている。(ベランダの高さになっているので、無窮花を剪ることは出来ない)大木になった紫の八重の無窮花(紫玉)は平気で自分の花を沢山咲かせている。
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息子ん連れられ、救急で病院に運ばれ、結局1週間の入院をして、毎日、何本もの点滴をされて、生きて我が家に戻って来た。連休明けの今日は、現在の体の常態を検査する為に病院に行ってきた1日がかりであった。そこで初めて、本当の病名を聞かされた。「敗血症」であったと言う。治癒してから初めて知らされた。やっぱり危険だったのだ。

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○2メートルも伸びる花の高砂百合が、50センチほどで花を咲かせてくれた。季節外れでもある。寂しい私の為に、退院祝いの花を咲かせてくれたのだろうと思っている。


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○網戸に留まり、何時までも離れない蝶々。生まれたばかりであったのか羽が少し破れてもいる。傷ついたもの同士慰め合おうと来たのであろうか?蝶々さんは私を慰めに来てくれたのかしらと嬉しかった。

☆9月1日の朝に「KBSテレビ」だと、電話があった。追悼会の場所と日にちを教えて欲しいとの事であった。出かける寸前で時間がなかったので、「私の短歌とアリランエッセー」のブログに、お知らせとして載せてあるのでそれを見て欲しいとお話した。日本語が少し不自由だと言って日本人に代わってもらい、もう一度内容を話した。
そのニュースが神奈川追悼会から、メールで送られてきた。この内容は、日本人だけでこの追悼会が催されているという内容であった。在日朝鮮人と韓国人は私以外にもいるのに、----。韓国に行った人が韓国人に、在日コリアンは冷たい扱いを受けると嘆いていることを思いだした。

川崎でのヘイトスピーチ反対の抗議のデモの時に、私はKBSテレビの人と気が付き、是非私たちの会の事を、韓国の人達にも知らせてあげて欲しいと頼んだ。このような良心的な人もいることを伝えて欲しいと思ったからだが、私達、在日コリアンも一緒にやっていると真実を知らせて欲しかった。私に電話をしてこの9月3日の追悼会に彼らは取材に行ったのに。日本語が不自由だからと私に協力をして欲しいと言ったのに。
大人ではたった一人、私が白いチマ・チョゴリを着ていたのだから、気が付かない筈はなかったと思うのだが、また、受付の人達に「KBSテレビ」の人が来たでしょうかと聞いたが、知らないと言われてしまったことも、含めて寂しい事であった。



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by pcflily | 2016-09-20 21:46 | アリランエッセー | Comments(2)