<   2016年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

 

一人歩きの韓国訪問その(2)

f0253572_1512375.jpg
f0253572_1562560.jpg

f0253572_1719315.jpg

f0253572_15421670.jpg

一人歩きをするつもりの1日目は駐韓日本大使館に抗議に来た仲間と偶然に会ったことから1日を一緒に過ごし、いよいよ一人で行動することになった二日目は宿所の近く、昌徳宮の前に開館の準備中の中に入り込み、開館準備で忙しい事務所の人からコーヒーをご馳走になり、まず国立中央博物館と戦争博物館に行ったが、停留所を聞いた事からパトカーに乗せてもらうと言うハプニングを経験した。
3日目は「大韓民国歴史博物館」に行くことにしてあった。昌徳宮も景福宮も何度か足を運んでいたからだ。

歴史博物館は、バスなら二つ目ぐらいで歩いても行けますと聞いたので、歩いていくことにした。
みちすがら、露天商のアジョッシ・おじさんの所で二つほど買い物をした。おしゃべりの中で日本人と一緒だったので焼肉料理ばかりで、私はおかゆのコムタン(オモニの思い出の料理、手間がかかるので食堂ではあまり出さなくなったのかもしれない)を食べたかったのに、メニューになかったと話したら、コンビニでおかゆを売っていると教えてくれて、自分のお店をそのままに、コンビニまでついてきてくれて注文までしてくれた。食べ終わって、店から出て来たところにアジョッシはおかゆ代を持ってきた。いくら、断っても自分の気持ちだと無理に握らせて行ってしまった。日本からきたと話したことからでもあっただろうが、何と優しい人だろう、この国の人達はやっぱり「情」が熱いのだ。

買い物をしている時に、アジョッシに博物館の前で催し物をしているから、覗いていきなさいと言われていた。その場所は遠くからでも分かったぐらいに大掛かりなものだった。
今回の一人歩きの韓国を実現をしたことでこの催しものを知り、参加できたことが一番うれしい事であった。

なんと「南北分断を解消しよう、和解しよう」という催し物であった。3日間やっていたとかで今日が最終日と言う事であった。何百人もの人が色々なことを知恵を絞ってやっていた。
日本でお祭りをするときに沢山の出店を出すが、そのような状態であった。

どのぐらいの数があったのか数えきれなかった。北の名所・景色や食べ物、教科書等々、各大学には必ず統一の為の研究科もあるという事で、各大学がそれぞれに、趣向を凝らしてお客さんを呼び込んでいた。
私はカメラも携帯も電池がなくなってしまっていたので、写真が一枚も残せなかったのは本当に残念だ。

何年も続けているという事であったのに、私がパソコンで読む韓国の新聞では、一度も読めなかった催し物だった。規制されていたのだろうか?

最後に全員で一緒に風船を空に飛ばした。その時に、私を探し続けていたとある女性に手を握られた。いろいろな場所に立ち寄り、飲ませて頂き、食事もご馳走になり、お話も沢山した。どの場所であった方なのか思い出せなかったのだけれど、私の緑色の帽子が目印になって見つけ出せたとの事だった。
次回は、自分の家に泊まるように言って下さったのに頂いた名刺があの大勢の人の波にのまれている間に失くしてしまった。本当に申し訳ない事をしてしまった。ご免なさい。

南北統一の為の本も無料で配布されていた。3センチもあるほどの本だった。読みたいと貰ってきたが、この場所でのいろいろなパンフレットと共に、置いてきてしまった。どのパンフレットも豪華版であった。あまりに重量があり、下げてくるのには重すぎるし、小さなスーツケースに入れると蓋が閉まらなくり、泣く泣くホテルの人にあげてきてしまった。下の写真は持ち帰れたものを家で映したものだ。

結局この場所で1日を過ごし、歴史博物館には行けなかったので、翌日。訪ねて行ったら、月曜日なので休館であった。次の韓国訪問はは、まずこの「大韓民国歴史博物館」に行くつもりでいる。
歴史は勝者のものであることを、最近、しみじみ思う。日本の学校しか出ていないので。朝鮮史の情けない面だけを刷り込まれていたことをはっきり
知ったからだ。

f0253572_15433243.jpg

[PR]

by pcflily | 2016-06-24 15:56 | アリランエッセー | Comments(2)  

一人歩きの韓国

☆慰安婦にされた女性の駐韓日本大使館への抗議が終わって、殆どの人は予定された日程を終えて帰った。私は、特別な計画を立てずに残ることにした。その最初の日に、帰国しないでいた5人のとばったり会ってしまい一緒にと何度も誘われて、一日を共にした。私が紹介した運転手さんの車を予約してきていたので、断り切れなかった。朝一番に出かけた昌徳宮の前で会ってしまった。私の宿所は昌徳宮から5分位の場所にあった。前回は、景福宮の前で映画監督の前田憲二さんにばったり会って驚いたが、ソウルのあれだけ大勢の人が出入りする場所でまた、昨日別れた人達と、何故なのか又、会ってしまった。日本から行った「九条連」の人は全員が日本人だが、その団体に入れて頂いて、朝鮮人の私も加わった。日本人の中でも1日だけ韓国に残って、観光する人が5人いらっしゃったのである。
一緒に行動したので予定になかった尹東柱の文学館に行くことが出来て良かったと思う。

○大韓民国戦争記念館、1000回もの外国の侵略者と戦った歴史記念館であった
f0253572_18023001.jpg
☆地元の横浜でさえも迷子になるオモニが、韓国で一人歩きなんて危ないのじゃないかと息子に言われたが、私は初めて自分でインターネットで宿泊先を決めて実行した。
朝鮮で生まれたのだから、日本の植民地にされることがなかったのなら普通にその地で住んで居た筈だ。
私も自分の国で市民として街中を普通に歩いてみたい、スーパーでも買い物をしたい、町行く人とおしゃべりをしてみたいと言うのが私の長年の夢であった。留学をしようとしていたが、とうとう、実現できず、70代も後半に来てしまった。せめて何日かでもそのような生活をしてみようと思っていた。
テグで皆さんと別れ、両親のお墓にご挨拶に行った。90歳の本家のお兄さんとお姉さんに案内して頂いた。帰るときにお土産と渡された胡桃を持ってソウルの宿所に向かった。
深夜近くになっていた。初めての場所に一人で行くので何人もの人にお世話になった。一番難しかったのは地下鉄で改札口を出られなかったことだ。駅員の姿が見つからないのである。会社帰りの人が手伝って下さり、広い地下で出口まで送って頂いた。名刺を渡し、日本に来られたら案内させて頂きますと話した。

○大韓民国戦争記念館
f0253572_18071449.jpg
亀甲船、日本の秀吉軍を追い詰めた。
f0253572_18063266.jpg
○戦いの歴史の本や道具が沢山展示されていた。
f0253572_18080521.jpg
☆戦争記念館は、抵抗の記念館と名付けたた方が良い記念館であった。1000回に及ぶ外国からの侵略に抵抗した記念館である。
よくぞ、この小さな国が闘い続けて、現在は悲しい事であるが分断されてしまっているが、国土も、固有の言葉も文字も残せたものであると、感動を新たにした。いつの日か孫を連れて来てやりたいと思った。
記念館は郊外に建てられているので兎にも角にも広い。記念館を出て、バスに乗ろうとしたが、停留所が分からなくなってしまった。観光客の為に一日乗車券があって、何度も乗り降りしても良い乗車券を買っていた。だから、普通のバスとは停留所が違う。
若い警官がいたので聞いたが、分からないと言う。どんな人でも、私が道を聴けば携帯?を出して教えて下さるのにと思っていたら、若い警官は携帯を持てない決まりだと言う。通りすがりの人が調べようとして下さったが、パトカーが見えたので駆け寄り、訊ねたら、乗りなさいと言って、国立中央博物館まで送って下さった。生まれて初めてパトカーなるものに乗る体験をした。
改めて、韓国の人は情が深いと感じた。長い辛い歴史を生きてこられたのは、このようにお互いに助けあってきたからであると思う。そうして、それがこの様な民族性を育んできたのであろうと思う。

○国立中央博物館では、朝鮮と日本の「半加思惟像」の展示があることをインターネットの韓国の新聞で読んでいたので、これを鑑賞することが今回の一つの大きな目標でもあった。いつもは写真撮影が出来たが、この展示は禁止されていた。

韓国の博物館は殆ど無料だ。人形劇も、無料であり誰でも自由に見ることが出来る体制であった。日本より豊かな国とも思えないのだが、心が広いのだろうか?
f0253572_18090924.jpg
○家族連れが沢山見ていた。お話がハッピーエンドになる為には、みんなのお布施が必要という筋立てで、子供たちがお札を持って、我も我もと舞台前に行列を作る。演じる人も、観客も一緒に、みんなで楽しむ様子が、この国の国柄でもあると思った。

テレビで見る素人のど自慢大会なども、ともに楽しむ。司会者が一緒に歌ったり、出演者が食べものを持ってきて司会者に食べさせたリ、小さな子供が楽器の演奏者におこづかいを貰ったりする。
舞台の上で愛の誓いをする人もいて、観客が皆で拍手を送ることも多々ある。また、観客が歌に合わせて踊るのは当たり前の場面になっている。これは、古代から歌と踊りの好きな民族と書かれているのだから、やっぱりお国柄なのだと思う。



[PR]

by pcflily | 2016-06-16 20:05 | アリランエッセー | Comments(2)  

川崎のヘイトスピーチを止めた日2016年6月5日

川崎のヘイトスピーチを止めた日
6月5日は私の加入している「関東大震災時朝鮮人虐殺を学び追悼する会」のフイールドワークの予定された日であり、私の住む横浜南部を歩く日であったので私も学んだ結果を説明する役目があった。

けれども、今回、6月5日は川崎市が全国で初めて市長と市議会がヘイトスピーチの公園使用を禁じた日であった。
ところが、彼らは場所を替え、中原区の平和公園の傍の道路使用の許可を警察から受けた。警察は「社会公共の秩序と安全を維持する、国民の生命・身体・財産の保護、犯罪の予防・捜査―被疑者の逮捕、交通の取り締まり及び公安の維持を目的とする」と私の辞書にある。
今回、国会でも禁止されたのに、警察が許可を与えるとは私の良識では考えられない。「ヘイトスピーチを止めよう、ともに生きよう」とヘイトスピーチを止める為に出かけた前回にも驚いたことがある。警察は彼らを守るように二重三重になって私達を見張っている体制であった。

韓国の駐韓日本大使館への抗議の水曜デモに参加し、実家へ帰っても床が変わると眠れない私は6泊7日の韓国訪問で疲れ果てていた。
関東大震災時の朝鮮人虐殺を学び追悼する会の横浜南部のフイールドワークを中止し、「ヘイトスピーチを止めよう」に参加することにしたとメールが届いた。
電車に乗り慣れない上に、方向音痴の私は何度も失敗を繰り返しながらも、なんとか現地に辿り着き仲間に喜び迎えられた。照れ隠しに「迷子の迷子のちょんふぁたん」と歌ってしまった。

声を張り上げ、年寄りは傍に行けば危ないと隣の人に注意されたが、我慢できなくなり最後には彼らの傍に行き「デモ中止」と声を張り上げた。周りの人も一緒に「デモ中止」と唱和してくれた。大騒音の中で、デモ中止が知らされた。
喜びの拍手が続いた。公園に待っていた人々の所に、皆で両手をあげ歓声をあげながら戻った。
中心になって闘ってきた三浦さん在日の女性崔江以子さんと彼女の息子さんも、喜びの挨拶をして、これからも全国でヘイトスピーチが無くなるまで闘い続けることを誓い合いながら、解散した。

「関東大震災時の朝鮮人虐殺を学び追悼する会」の人達と昼食をとり、生ビールで乾杯をした。昼時にアルコールを摂取しないことにしているが、夜も一人では飲まないけれど、この喜びの乾杯の為には飲まずにはいられなかった。
その結果、不眠と疲労困憊の中での生ビールは、全身にしみわたり酔いが回り、漸く帰宅した私は這うようにして二階の寝室のベッドに横になった。

残念なことは疲れていたので、カメラを忘れ、この記念すべき「ヘイトスピーチを止めた日」の重要な写真を残せなかった。

☆後日談
6月11日のテレビの報道特集で、市民がヘイトスピーチを止めたことが放送された。
高齢者は傍に行かない方が良いと言われ、早い時間に「ヘイトスピーチをする人達」が私たちのいる平和公園に侵入したので、公園を守る人たちの中にいたのだが、我慢が出来ず彼らのいる方に私も行って「デモ中止」を叫び続けていた。デモの中止が知らされた後に、目の前の若い警官に思わず私は声をかけてしまった。「将来、偉くなった時には、こんなデモはさせないでね」と。その場面が、テレビに映っていた。編集されたものが放送されたであろうに、こんなことを言うのは私ぐらいであったのだろうか?びっくりした。
f0253572_20161719.jpg
1232回目。
韓国の駐韓日本大使館前の水曜日の抗議集会。何時も韓国では小学生から中学生、高校生、大学生まで、外国人、一般の人々も含めて沢山の人が来ている。日本では教科書からさえ、慰安婦問題を消そうとしているが、この子たちが成人した時に、世界中が認知しているのに、当事者の日本人が何も知らないと言う事になるかもしれないと思った。

ナヌムの家
f0253572_10190241.jpg

戦争と女性人権博物館の庭
f0253572_10215391.jpg
戦争と女性人権博物館の少女像と
f0253572_10211355.jpg

[PR]

by pcflily | 2016-06-07 10:24 | 『新日本歌人』 | Comments(4)  

百聞は一見に如かず 韓国へ行く

「12月28日の韓日合意」に怒りが込み上げた。
韓国にまで出向き毎年必ず抗議に行く「九条連」と共に行動をした。
大勢の心ある人々がいろいろな形で日本政府に、この日本でも、謝罪と賠償を求めて抗議運動をしている。
ソウルには何カ所にも新しい平和の少女像が自主的に建立されていた。
いずこの地よりも、真っ先に当事者の日本に謝罪の心をこめた平和像・少女像が日本の地に建立されるべきであるのに、未だに、その声は聞こえていない。教科書からこの事実を消そうとする作業さえ起きている。一億余の民の中に、事実を認識した正義の勇気のある人物はいないのだろうか?

李容洙さんの居住地である「テグ」には李容洙さんの若かりし日の姿の像が建立されていた。女子高校の庭に、地元の彫刻家の手により作られたものである。校長を始め地元の人々の創意の一致により建立された。慰安婦問題を、すべての人が自分の問題として考えることのできる良識を持っている結果なのだ。

夕食の時間には李容洙さんの隣に座らせて下さり、李容洙さんの朝鮮語を私が日本語に訳して、皆様にお伝えした
その席で、李容洙さんの思いと私たちの思いををこめて作った即興の詩であるが、朝鮮語で私は歌を歌った。朴貞花作詞の替え歌だ。メロデイーは、かつて日本が朝鮮を植民地にしていた時に日本によって抗日の歌だと禁止された歌「鳳仙花」。けれども歌い継がれていて心ある人なら日本人でさえも知っている「鳳仙花」。

         꽃같은 처녀를 강제로 끌고 갔다

          花も蕾の乙女を強制連行した


         짐승같은 강간범을 온세상이 알고 있다

          獣のような強姦犯を全世界が知っている


         사죄하라 배상하라 하루 빨리 해결하라

          謝罪せよ賠償せよ一日も早く解決せよ



         온세상이 알고 있다 사제하라 배상하라

          全世界が知っているのだ謝罪せよ賠償せよ


 其の夜は李容洙さんも、「デグ」の同じホテルでの宿泊であった。李容洙さんは一人で朝食をとっていたた私の横にいらっしゃって下さり、朝食をも共にした。私は嬉しさのあまり、湧き上がってきた思いを、また即興で、李容洙さんの名前を入れた短歌を作り、贈った。

(すもも)咲く 春の陽(ひ)のよな
(すがた)なる 笑顔 麗(うるわ)し
水(じゅすい)よ 永遠(とわ)に

5月二十四日の韓国への旅立ちの日の0時35分、ふと見たら花が咲き始めていた。
花を見せない観葉植物と思っていたのに、花が咲いた。きっと良い成果があるだろうと、不眠続きの日々も気にならなくなった。
f0253572_11361775.jpg

ナヌムの家にいらっしゃるハルモニに会い、ビデオでもう亡くなってしまった方々と
お会いし、ハルモニ達のお墓に花を捧げて挨拶をした。

f0253572_11353991.jpg

蝶を手にした聖フランシスコ教育会館前の少女像。
f0253572_11331666.jpg

青い蝶を羽のようにつけた梨花女子大学前の少女像。
f0253572_11324074.jpg
李容洙さんの若かりし日の写真をもとに作られた銅像。テグの女子高校にて。
f0253572_12112999.jpg

李容洙さんは、心の広い方でありながら小さなことにも注意を払って下さる方であった。杖に頼っていらっしゃるのに、座らずに立ったままで私達を迎えて下さった。
90歳になるとは思えない精神力の強く元気な方。私のオモニの気配りを感じた。
f0253572_12101498.jpg



[PR]

by pcflily | 2016-06-03 12:01 | アリランエッセー | Comments(2)