人気ブログランキング |

<   2015年 12月 ( 5 )   > この月の画像一覧

 

歌を忘れたカナリア

f0253572_2325146.jpg
f0253572_2220183.jpg
30/72/|mid|500|375#]IMAGE|f0253572_22164813.jpg|201512/30/72/|mid|500|375#]
 
私は機嫌が悪い時は掃除や洗濯に熱中する。イライラが募り抑えられない昨日今日だ。

かつて、商店街の中のビルの4階に住み3階でお店をしていた時には、屋上が私の洗濯物の干場であった。それを知っている知人は、屋上に洗濯物が翻っている日は私に近寄らないと言っていたぐらいであった。

韓国と日本の間の長い間の懸案である慰安婦問題の決着などと、新聞が騒ぎ立てていた。まさかと思ったが、ふたを開けてみたら信じられない内容である。

朴槿恵大統領は、その父親と同じに「金」でハルモニ達と韓国の自尊心を売ってしまった。
狡猾な安倍首相の手に落ちたのだ、強力な米国を後ろ盾にして、このままで済むはずはないと思う。

片付けに熱中していたら、懐かしい写真が出てきた。10歳以上も若い人たちの歌の会に入っていた時の写真。近くの公民館に足しげく出入りしていたので、公民館祭りに参加してと言われ参加した時の写真。新しい歌、民謡など何曲か歌った。朝鮮学校のことを知って頂きたいとの内容を話した。
最後に私が一人で「鳳仙花」を歌ったのだが、この歌を 日本帝国が歌唱禁止にしたことなどを思い出し、思いがこもりすぎたのか、悲しみの感情が出すぎて、途中で歌えなくなってしまった。
舞台の脇で待機していた仲間がともに歌ってくれたので、漸く気を取り直し最後は一人で歌い終えた。仲間が、民族・同胞を熱く思っている貞花さんらしいと言って慰めてくれた。

嬉しいにつけ悲しいにつけ歌を歌っていたのに、この家に来てからは歌を歌うことをすっかり忘れている。カラオケで歌うことも多かった。機械のままに、歌うのを嫌い、歌詞は自分で考えてメロデイーに吾合わせてて歌うほどであったのに、本当に歌を忘れたカナリアだ。カナリアと言ったらカナリアに叱られてしまうけれど―ーーー。久し振りにカラオケが恋しくなった年の暮れだ。
f0253572_221434100.jpg

by pcflily | 2015-12-30 22:20 | アリランエッセー | Comments(0)  

夏目漱石の言葉

「余は支那人や朝鮮人に生まれなくって、まあ善かったと思った。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と言わねばならぬ」
夏目漱石『満洲日日新聞』1909年11月。

漱石が紀行文「満韓ところどころ」でロシア人や中国人に対して用いている差別的表現は、すでにしばしば槍玉にあげられてきたが、冒頭に引いたような物言いに至って、この当代きっての知識人さえもがこうした無邪気な愛国者として振る舞っていたのか、といううそ寒い感慨が改めて迫ってくる。
2013年1月30日 朝日新聞 文芸時評 作家・詩人 松浦寿輝より

黒川創「暗殺者たち」 辺見庸「青い花」 いとうせいこう「想像ラジオ」を紹介している。
夏目漱石は、現在有名な姜尚中NHKに幾度も出演の姜尚中氏が好んで紹介している。
日本人の朝鮮人をはじめとしてのアジアの人々に対する蔑視感は、果てしもなく、深く刻み込まれている。自分よりも弱いものに対する差別感は、人間の本質であろうか?

嘗て、歌集を上梓した時に、近藤芳美先生に何人もの著名人に送るように言われて送ったのだが、その返信に、その人の心映えが表れていた。
総連関係の「朝鮮新報」という新聞や月刊雑誌に取材を受けて登場する人がいた。朝鮮人に対する理解があると言われる人々、随筆家、美術家、未来「未来」の歌人などであった。
けれども、無名の私に対するものは思い出すさえ嫌なものであった。直接、私に向かって話しかけて必ず手紙を出しますねと言った人もいた。一緒に仲良く映した写真を送ったけれども、17年を過ぎた今になっても音沙汰なしである。
私が著名人を信頼しない由縁である。
そんな中で、大正大学の学長であった林亮勝先生は、最後まで対等に接して下さった忘れられない人である。
f0253572_2257911.jpg

○駐車場から見えた富士山

f0253572_22492857.jpg

○兎年のオモニの為に兎年にオモニに針を持ったことのない私の手造りの兎の雛人形。
ホームに持って行きオモニに喜んで頂いたのに、誰かが捨ててしまったらしく行方不明。

by pcflily | 2015-12-24 22:57 | アリランエッセー | Comments(2)  

あまりにも酷い内容なので、疑問が解けない

関東大震災時の子供の作文を読む
南吉田小 6年男児 瀬川一男 1部抜粋
其れから少したって中村橋の所へ行くと大勢居るから行ってみると鮮人がびたれてゐた こんどは川の中へ投げ込んだ するとおよいだ日本人がどんどん追いかけて来て両岸から一人ずつ飛び込んでとび口で頭をつつとしたらとうとう死んでしまった 其れから家へかえってみた すると鮮人がころされて居るといふので身に行ったら頭に十箇所ぐらい切られていた 又くびの所が一寸ぐらいで落ちる

☆何十人もの子供たちの作文を読んでいるのだが、朝鮮人ン対しての優しい思いやりを書いているのはたった一人だけであった。
どんな家庭教育をしていたのだろう。親達は自分の子供にどんななしつけをしていたのかと、疑問が起きる。殺されている人間に対して、少しの同情もなく、憎しみを持ち、死んでいる朝鮮人に棒で突っついたりしているのである。
これらの作文は、関東大震災が起きてから、何か月も過ぎて書かれたものであるのに、誰もが朝鮮人に対する流言飛語であったとは書いていない。教師も親も、子供たちに間違いであったとは一言も伝えていないのだ。朝鮮人に対するこれほどまでもの強い差別心が子供たちにどのようにして植え付けられたのか、真に驚くばかりである。

何故、朝鮮人を「鮮人」と呼ぶようになったかを、一緒に作文を読み学んでいる人達が殆ど知らないでいたので、私が持っていた古い資料を見てまとめて皆さんに知ってもらうことにした(下記)。

先日、「鮮人」の言辞は、どこから来たのかという話をしました。そこで、私の持っている資料からまとめてみましたので、お読みいただけたら、うれしく思います。

(其の一)
『火山島』の著者、金石範さんは次のように書いています。
>「鮮人」などというのはわが肺腑をえぐりだしかねないと怒りを呼び起こすものだ。私もこの言葉を聞いたり、読む度に胸に痛みを感じますが、逃げてはいけないと手元にある資料をみてまとめてみます。 朴貞花
(その一)
「鮮」が日本人に耳慣れた用語となったのは1910年の8月29日「韓国併合」以後の事である。大韓帝国の元号で「隆熙」の年号もこの日をもって消滅させられた。日本の支配者による「朝鮮」の命名は「大韓帝国」以前の「朝鮮」とは全く内実を異にした、大日本帝国の一部となった一地域の呼び名を表す名称となった。
 日本人が「祝賀会」を大々的に開いている一方、朝鮮人の植民地支配に抗する闘いが続いていた。併合以前の日本の新聞は韓国、朝鮮の略称「韓」であり「鮮」という文字が使用された形跡は全くない。「大韓」の題唱を持つ新聞がことごとく押収された三日後の9月19日の『東京朝日新聞』に突然「鮮人」との用語が登場した。 10月に入ると見事なまでに統一される。 
 何故「朝」ではなく「鮮」なのか。「朝」は朝廷という言葉もあるように、国家を意味する。王朝、朝貢、来朝、本朝、異朝、入朝などすべてこれに関している。
朝鮮が国家であることを目的として、国家を意味する言葉を用いるのは矛盾であるところから、「朝」をタブーとし「鮮」が使われた。略語形を作る過程においても差別的意図が積み重ねられたのである。
さらに動詞とくっついて「移鮮」「渡鮮」「帰鮮」「在鮮」などと広がっていく。
日本が変えたのは国名ばかりではなかった。ソウルという首都名を「京城」に変え、その中心にある明洞は「明治町」またその北側にある忠武路は「本町通り」になった。その流れはやがて「創氏改名」へと行きつく。
 朝鮮人を「鮮人」と呼ぶことは、もちろん言葉だけの問題ではなく、賃金など具体的な生活上の差別がつきまとっていた。「現に均シク吏員ニシテ内地人面長ハ五十円乃至百円ノ俸給ヲ得ルニ、鮮人ハ僅カニ八円乃至十五円ニ過ギズ、鮮人面書記ノ日当ノ如キハ一食代ニ過ギズ」(朝鮮騒擾事件の概要)というありさまであった。
 「鮮」という略語が差別語としての牙を剥くのは、独立運動への弾圧に関してであった。1910年12月寺内総督の平安南北道巡視のとき、暗殺計画の陰謀未遂事件をでっち上げ、600余名を逮捕、105名が有罪判決を受けた「105人事件」がある。この事件の捜査責任者であった総督府警視国友尚謙は次のように書いている。
 「蓋シ鮮人ヲ統フルノ方策ハ、秋霜烈日 一毫モ仮借スル処ナク、先ツ其初メハ討伐ニアリ、討伐シテ後ニ威圧アリ――略
 日本が恐れていた朝鮮人の独立願望は1919年3・1独立運動となって爆発した。3・1独立運動に立ち上がった朝鮮人を弾圧する表現は、当初「暴民」が使われたが、時を待たず「不逞の輩」となった。「逞」は「たくましい」のほかに「満足する」という意味があり、「不逞」とは「わがままかってにふるまうこと。ずうずうしく、けしからぬこと。ふとどきなこと」だとされている。
 はたして朝鮮で「わがままかってにふるまって」いたのは誰か、今に思えば不思議な用法がされたものであるが、弾圧に用いられた「不逞」とは独立を求めるということと同義であった。
「不逞鮮人」が、何時また不逞なこと(独立)を叫ぶかもしれないという恐れの気持ちは、1923年9月1日の関東大震災の発生とともに、猛烈なデマとなって噴出した。
デマを全国にまで広げは、火に油を注いだのは新聞であった。
 注目されるのは次第に「鮮人」とともに「半島人」という言葉が使われ始める。朝鮮を「半島」と称するのは、「満州」を「大陸」と称したことと合わせて「日本の一部」であることを強調したものと言える。「半島人」と呼ばれるようになった朝鮮人は、徴用で強制労働にかりだされた。(国家総動員計画の下で)
日本への強制連行がそれであり、「満州」への移入も同じである。「満州」へ入植させられた農民は「鮮農」とよばれた。日本では「半島労務者」である。(朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配』)。

ところで、国名は正確に表記されるべきだと思う。したがって、それは「朝鮮人民共和国」であり「大韓民国」である。長い国名だから、略することは許されよう。「中国」と表記するように。
通常マスコミでは「北朝鮮」「韓国」を用いている。もっとも、私はどうして、「北」がつくのか疑問に思っている。つまり、「朝鮮」でいいという考えである。「北朝鮮」というなら「南韓国」であろう。
ところで「北鮮」「南鮮」は、たんに「北朝鮮」南朝鮮」を省略した表記であろうか?
まず、第一に今日の朝鮮半島の南半分は、「大韓民国」であって、国名のどこにも「鮮」の文字は用いられていない。略しても韓国でなければならない。第二に、朝鮮半島の南半分という意味で用いるならば、「南朝鮮」が妥当であって、どうして「南鮮」になるのか。理解に苦しむ。いや、それは金石範が激怒する「鮮人」という呼び方から、発していることは歴然である。
北半分についても同様である。第一に国名は「朝鮮民主主義人民共和国」であって「北」の文字はどこにもない。第二に朝鮮半島の、北半分を意味するのなら「北朝鮮」でなければならない。
したがって「北鮮」「南鮮」の表記は、根底に差別意識を持つものだと言わねばならない。
忘れてならないことは、朝鮮が南北に分裂させられたという不幸は、1945年における、世界情勢を無視することはできない。しかし、当時の世界情勢と同時に、我が国が36年間、朝鮮を「併合」し支配してきた事実が、分裂の遠因であることも否定できない。
そして、「半島」といい、「鮮」という発想は、まさに、「併合」からでていることを、わたしたちは痛苦をもって確認しなければならない。でなければ、金石範の怒りの質を、正しくうけとめられないだろう。

  『新版 朝鮮にかかわる差別表現論』明石書店  1992年8月25日 新版第一刷 よりの抜粋です。
 

○ちなみに私の息子の李淳馹の著書ノンフィクション「もう一人の力道山」に好意をもって「解説」を書いた船戸与一さんは、この解説の中で、朝鮮を使わず半島、在日半島人の言辞を使用したために、ある団体から、抗議が届いたということで、文庫本が出版されたときには、この「解説文」は外されています。


(其の二)もう一つの資料より 1993年8月5日 朝鮮時報  岡本 愛彦 明星大学教授   
「北鮮」発言 宮沢首相は詫びるべき 
欧米には卑屈な態度 アジアには尊大な態度   文中よりの一部抜粋です
朝鮮民主主義共和国を名指して、何と「ホクセン」という許しがたい差別的な呼称を口にした。口にしただけではない。このことを反省しようともせず、謝罪もしないのである。
欧米の政治家が鑑定を訪れると、卑屈な笑いを浮かべて、甘ったれのように相手の腰にしがみつく。第三世界、非同盟のアジアの政治家が訪れると、木で鼻をくくったような尊大な対応をする。多くの人が、ああこれが宮沢の本性なのかと見抜いていた。
あの侵略主義、帝国主義の総本山「東京帝国大学」から大蔵省というエリートコースを歩いた人間の多くが、「卑屈」から「尊大」大きく揺れる唾棄すべきキャラクターを持っているが、宮沢などは、さしずめその典型と言っていいだろう。
役人出身のこうした連中に共通している重大な欠点の一つに、過去の歴史的犯罪を絶対に認めようとせず、反省も謝罪もしようとしない点が、挙げられる。
それは、自らがあの暴虐な侵略と残忍な植民地支配の主役であったことを、熟知しているからに他ならない。誰か一人でも過去の歴史を反省し謝罪すると、彼らの存在そのものを支えてきた強固な堤が一挙に崩壊し去ることをも熟知している。
だから彼らは、歴史を歪曲(例えば「教科書問題」)して自らを正当化し、正しいのは天皇の役人であり、悪いのは「不逞鮮人」だ――とする倒錯した意識の中に篭ることになるのである。
多分、国立公文書館に残っているはずだ。敗戦の数年後に、昔内務省か朝鮮総督府が出した「通達」のようなものを見たことがある。
内容は、「朝鮮の朝は朝廷(皇室)の朝と同一であり不敬に当たるおそれがあるので、今後は朝の文字を略して南鮮、北鮮とする」というものである。
朝鮮の文字を使うと天皇家に失礼だから、朝鮮民族の誇り、文化、歴史を一切抹殺する――と言うものである。朝鮮国王を武力で脅迫、朝鮮の国宝を奪って無理矢理朝鮮を植民地支配下に置いた1910年(明治43年)直後、つまり、時代が明治から大正に変わった頃の文書だったと思う。
その15年前の「日清戦争」終結のすぐあと、日本の花房公使らは軍警を伴って王宮に攻め入り、親露派の王妃・閔妃らを虐殺した。韓国・朝鮮軍が日本の皇居に攻め入って皇后や雅子妃らを虐殺したら、日本人はどう考えるだろう。
「日露戦争」後の統監府政治、そして前述の1910年からの植民地支配と、日本が朝鮮及び朝鮮人民に対してとってきた態度のどれ一つをとってみても、粗暴、暴虐でなかったものは何一つ無かった。
そしてその態度は、今も殆ど変わっていない。「従軍慰安婦」問題、サハリンに放棄した朝鮮人問題、強制連行労働者問題、原爆被爆者問題、BC級先輩問題など、問題は何一つ解決していないし、第一、朝鮮人民共和国に対しては、日帝時代のあらゆる苦難について謝罪一つしていないのである。 
この後も続きますが略します。
○1993年に掲載されたものですが、22年後の現在も、全く解決されてないことに、驚かされます。
       2015年12月14日  朴貞花・ちょんふぁ
f0253572_2013264.jpg

by pcflily | 2015-12-17 20:01 | アリランエッセー | Comments(2)  

チマ・チョゴリで街中を歩ける日は来るだろうか?

 朝鮮では還暦を迎えると「寿衣」を整える。オモニの教えで私も必ず来る日の為に「寿衣」を整えた。布団の上下、枕、下着、路銀を入れる巾着等々まで一式が入っている。旅立つのは、姉妹の中では私が一番早いと思った。何時も控えめに暮らしてきたので最後は少し華やかにと思ったので白絹の上に重ね着る華やかな結婚式の時に着る「環衣」まで準備をした。「環衣」迄整えるのが正式なものであると教えられたからである。還暦を過ぎ17年もの間、毎年その他のチマ・チョゴリと一緒に虫干しをするのが習慣となっている。

オモニの遺品を整理するために実家に行ったときに、オモニのチマ・チョゴリが何枚もあった。オモニのチマ・チョゴリに関心を寄せる姉妹はいなかった。一番小さな家に住んでいる私が、全部持ってきた。オモニが支払いの困難な時にも娘たちと、お揃いで作ったチマ・チョゴリ。幸せだったあの日の思い出のチマ・チョゴリなのだ。見捨てることは出来なかった。
去年は手入れできずに残ったものは一番古いものであった。

私はクリーニングを殆ど自分でする。朝鮮語で洋緞(ヤンダン)というのは絹地に刺繍をしたものである。さすがに自分では洗えないと思ったので、クリーニング店に出そうと思ったのだが忙しさに紛れてそのままになっていた。今年はそのチマ・チョゴリを着ることもないのに勿体ないと思い始め、思い切って自分でやってみたら驚くほど上手に、きれいに仕上がった。何時も思うことだが人間は幾つになっても新しい発見が出来るものと嬉しさが込み上げた。

朝鮮の風習と言っていたオモニの言葉を守って、寿衣を整えたが私で終わってしまった。この風習を引き継ぐ娘は7人の娘の中で姉と私の二人だけで終わってしまった。
チマ・チョゴリを日本で仕立てることが出来るようになってから、祝い事があるたびにオモニと七人娘、孫娘たちまで新調した。
チマ・チョゴリは洋服のようにそれぞれの体を採寸して新調する。次々と新しい素材が生まれ流行も変わる。日常生活では殆ど着用する機会がないのに、皆で新調した。

「総連」が華やかに活躍していた頃には、結婚式や同胞の集まりが度々あって、女性たちは、チマ・チョゴリ姿で出席したものであった。チマ・チョゴリを纏い、小田急線に載って新宿界隈を歩いたものであった。
小泉首相が訪朝して、拉致問題が明るみになり、朝鮮学校のチマ・チョゴリの制服まで廃止された。現在の日本の状況の中では、さすがに怖くて私も街中をチマ・チョゴリ姿では歩けなくなってしまった。
今年の「関東大震災時の虐殺された朝鮮人の追悼会」では、白衣のチマ・チョゴリを来たのだが、現地で着替えた。こんなことは初めてのことであった。
横浜に越してから、「統一のための海外コリアン国際大会」に参加する為に、京都に行った時は、新幹線をチマ・チョゴリ姿での往復を果たしたのだが、「関東大震災」のことを学ぶ仲間に入ってから、人間?日本人?の怖さを感じるようになったからである。
 この日本の街を、横浜の街を、新宿の通りを、チマ・チョゴリ姿で歩ける日が果たして来るであろうか?その日は真の共生が出来た日になる筈だが前途は暗い。

○写真の左は洋緞(やんだん)、オモニはグリーンだった。私は同じ材質で黒地にピンクの花の刺繍であった。
右のオモニが水色を選んだ時には私は白を選んだが表のバラの刺繍時はスパンコールがついていて淡いピンクなので純白にはなっていない、純白が欲しかったのに残念。このようにオモニと娘や孫たちが同じ材質で、それぞれに好みの色を選んでお祝いがあるたびに新調して楽しんだ。同じものを何度も着用することはあまりないので、何着ものチマチョゴリがタンスの中で眠っている。本当に勿体ない。将来、老人ホームに入った時にはチマ・チョゴリで過ごすのだと、私は常日ごろ言っていたのだが、どんな人がいるか分からないもの、危険だなーと、最近は思い始めている。

自分の手でクリーニングが出来てあまりに良く出来たので、カメラに収めた。
実物はもっと爽やかで目も覚めるような美しい色合いなのに、私のカメラと私の映し方が良くないようで、本当の色が出てないのが残念だ。
朝鮮の空は、もっと高く美しいと言っていたアボジの言葉が思い出される。

チマ・チョゴリは鮮やかな色が多いのは、朝鮮の空が高く澄んでいるからかとも思っていたが、いつも他国から侵略をされることが多かったので、明日はどうなるか分からないので、今を、今日を、精一杯明るく美しくとの思うからであると言っている人がいた。「今日を精一杯」という心が小さな国であるにも関わらず、文化も言葉も文字も失わずに、生き延びることが出来たのかも知れない。
f0253572_23131873.jpg

○嬉しいことに、今年も胡蝶蘭が蕾をたくさんつけ花を開き始めた。他の鉢も全部健やかに蕾を見せ始めている。
f0253572_23141146.jpg

by pcflily | 2015-12-08 22:58 | アリランエッセー | Comments(2)  

関東大震災時の子供達の作文を読む

 関東大震災朝鮮人虐殺追悼会で子供達の作文を読み学んでいる。
一部の抜粋 言葉が方言なのであろうか、理解しにくいところが多く作文力もあまりよくないと思ったが内容は伝わり、気の弱い私にとっては、とても辛い時間になっている。

南吉田小。
6年(女)
三日はおしるごろからきんぢよのひとたちはかたなおもったりやりおもったりてつぼうをもったりしてなにおするのだろうとおもっていますとほりのうちのほうから一人の人おつれてわあわあといって中村橋の上へきました その一人の人はちょうせんぢんでした。ちょうせんぢんお橋の上でおおぜいの人たちがかたなできったり てっぼうでぶったり やりでつついたりしていました。しまいには川の中へほおりこんでしまいました。
南吉田小6年(女)
其の夜は御飯も食べずに寝てしまいました。明日の朝になると朝鮮人が来るとのうわさがはじまった。僕は赤いきれをまいて竹やりを持てばんをしていましたが朝鮮は一人もきません 其の日の夜になると合言葉やら時の聲をあげるやらおおさわぎ出した それもすんで五日ばかりたってかんずめや米豆などを採りに行きました。途中でしたいをたくさんみました。
南吉田小
それから少し立て中村橋のところへ行くと大勢居るから行ってみると鮮人がぶたれていた こんどは川の中へ投げこんだ するとおよいだ日本委員がどんどん追いかけて来て両岸から一人づつ飛び込んでとび口で頭をつつとしたらとうとう死んでしまった。其れから家へかえって見た すると鮮人がころされて居るといふのでみに行ったらあたまを十箇所ぐらい切られていた
又くびの所が一寸ぐらいで落ちる 僕は家へ帰ろうとすると地震であったのでびっくらして家へ早く行からとしたらたほれてしまった
寿小 高等科一年(女)
とうとう朝鮮人はこなかった。そのあした、朝鮮人がころだれているというので、私は行ちやんと二人でみにいった。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによって見た。するとあたまは」われて血みどりになって、しゃつは血でそまっていた。皆んなはたけの棒で頭をつっついて「にくらしいやつだ、こいつがいうべあばれたやつだ」とさもにくにくしげにつばきをひきかけていったしまった。

☆朝鮮人に間違われ、殺されそうになって危うく助かった大人・根津正志さんが書いている。
この九月一日の朝、『朝日新聞』をみると、「震災時の朝鮮人虐殺・軍が農家に下請けさせた」という記事がある。政府は民衆の不平や反感を朝鮮人などに向けて、労せずして治安を維持しようとした。

昨日は4回目であったが、子供が作文を書いたのは地震があってから何か月もたってからだが、朝鮮人が悪い事をするからといった流言が嘘であったことを、子供達は、誰も知らない。
大人が先生が、朝鮮人に対する流言はッ間違いであったこと話さなかったのだ。口をを閉ざしていたのである。

それにしても、作文を読んでいると人間の性悪説を思い出す。小学生や高等学校の思いを読んで、こんなにも普通の人達が残酷になれるのだと~~~~~。

付和雷同する日本人の特質であると書いている人もいた。かつて朝日新聞で読んだことがある、歴史こぼれ話のような記事を思い出した。
開港した日本や朝鮮に米艦が来た時船内を見せた時に、日本人は誰もが武器に興味を持ち、朝鮮人は誰もが書物に興味を持った。その違いに驚いたという米国人の話があった。
f0253572_23551778.jpg
暗い話だったのできれいな花で慰められたい。
f0253572_00011606.jpg





by pcflily | 2015-12-03 23:55 | アリランエッセー | Comments(2)