人気ブログランキング |

<   2015年 07月 ( 3 )   > この月の画像一覧

 

在日朝鮮人について

 まちだ市民大学HATS     1999年度 まちだ市民国際学 

   体験 韓国・朝鮮の歴史と文化 在日との共生コース

  

  在日朝鮮人の立場から                朴 貞 花 

                                      

 まちだ市民国際学の後期のコース{『在日』との共生――在日韓国・朝鮮人との共生を考える}に日本人の中に朝鮮人として参加した。『在日』ということがいかに知られていないかを再認識させられて、辛かったという一言に尽きる。人は親を選んで生まれるものではないと同じく、その国を選んで生まれるものではない。また、ほんの一握りの人が国政に携わることが出来るだけであろう。一個人の力ではどうしようもない流れの中で精一杯生きるだけだ。

 朝鮮が日本の植民地になり、漸く解放されたと思う間もなく南北に分断されてしまった。何故、分断したのか?それを探しているうちに、私は二つの事を決めた。

(その一)朝鮮人と名乗る。将来、朝鮮が統一した時に決められるであろう新しい国名が出来ればその日に変更する。

(その二))本名を名乗る。ところが、私が朝鮮人と言うと、これを聞いた人から親切にも、「韓国人と呼ばなければいけないのでしょう」と言われることが多い。私は「分断を認めていないのだから「朝鮮人」で良いのです」と言う事にしている。

「在日との共生を考える」というのに、その「在日」が何か分からない人が多く、ひとまず、そこから考えたいと思う。

在日朝鮮・韓国人とは

 朝鮮王朝は1392年より始まり1910年に、日本の植民地になるまで続いた。日本では、紀元前500年ごろから始まり紀元100年に滅んだという古朝鮮と区別する為に李氏朝鮮、略して李朝ともいう。(韓国ではこの呼び方をしない・日本の植民地政策の呼び方である。)

故に「朝鮮人」と508年間、呼ばれた事になる。但し、日本の植民地になる前の三年間の国名は「大韓帝国」であった。

 日本の植民地政策(朝鮮人と呼ばれていた)により日本に在住するようになり、現在では外国人としてさえも扱われないこともある。これについては{百万人の身世打鈴}に詳しい。(前田憲次他・東方出版)

 日本の敗戦で解放されて朝鮮人になる。日本政府が国籍欄に朝鮮と記入したので、朝鮮人となった。日本で「韓国人」とは、米国の軍政のもとで作られた「大韓民国」の国民であることの意思表示として、その個人が、国籍を「朝鮮」から「大韓民国」と変更して韓国人になった人々である。

 1950年の私の「外国人登録原票」の国籍欄には「朝鮮」と記入されている。私はそれを守り続けているだけである。

 広島女学院高等学校朝鮮文化研究会の「朝文研便り」より抜粋させて頂く。

「法的背景」

  法務省の坂中氏の言葉―-朝鮮人は三つに分けられ、一つは帰る人、次に日本人になり帰化する人、もう一つは朝鮮人のままで日本に住み続ける人で、朝鮮人の意識を持ったまま日本に住み続ける人は、少なくなっていくが、自分達としては、そういう人は困る。

「外国人登録方法 1952年4月28日施行」

 「在留外国人の公正な管理に資することを目的とする」情報が握られ管理される。常時携帯義務がある。

「出入国管理法 1951年10月4日施行」

 「日本政府に不都合な事があれば、退去強制」海外に出る場合再入獄許可願いを申請、これがなければ日本に入国出来ない。朝鮮を侵略した結果の在日朝鮮・韓国人と短期間の渡航者と同様の入国管理法で管理している。

「外国人学校法」

 「朝鮮人のみを収容する教育施設の取り扱いについて」の通達で民族学校の不認可を通達している。「永住を許可された者及び、それ以外の朝鮮人の教育については日本人子弟と同様に取り扱うものとして、教育課程の編成実施について特別の扱いをすべきだはない」と、これは一見平等に見えるが、朝鮮の言葉さえ習えない、日本の学校に行って日本の教科書で日本の子供たちと同じく学び、朝鮮人に必要な民族的な事は配慮しないという通達だ。

 日の丸を掲げ、君が代を歌う日本人の学校で、在日朝鮮・韓国人の子供がのびのびと母国の言葉や歴史を学ぶのは無理なことだ。共生と言い、差別なくと言うのは優しいが実現は難しい。現に本名さえ名乗れないでいる人は、9割という。私は息子を日本の高校に通わせた時、本名で申し込んだのに勝手に通名にされ、抗議したら、職員会議に諮ってからと言われた。再度、抗議をして漸く修正してもらった経験がある。

 在日の現状を的確に言っている辛叔玉さんの言葉を『世界』2000年2月号89頁から引用してみよう。

「この国は義務を負う時は国民にしてくれる。しかし権利といった時は国民から外す。植民地支配の名残である日本名をいまだ引きずって生きざるを得ないのは在日朝鮮・韓国人だけです。ここには法律も人権のルールも何もない。

奴隷の子孫が奴隷のように生きているだけです。日本の私達に対する政策は何なのかと言ったら、無視、放置、排除、追放です。

無視してそのまま放置し、死んでくれなければ排除する、これが日本国憲法下において行われているマイノリテイーの人権です。でも食べられるようになったからそれでいいだろうと言うのが、桜井よしこさんの考え方ですね」

 私の父は強制連行で福島県の常磐炭鉱に来た。そうして、辛さんの言葉のように、無視、放置され、賠償も、お詫びも無く、もちろん年金もなかった。癌であることが分って、せめて故郷の土になると、韓国に帰り昨年亡くなった。88歳であった。

朝鮮にこだわるもう一つの理由

 両親も私も生地が分断された38度線の南、ソウルより南だ。また朝鮮民主主義人民共和国に帰国した親族は一人もいない。在日の殆んどが少なくとも9割以上の人々が南の韓国出身だ。それにも拘らず、殆どの人が何故、北を支持してきたのかを考えて見よう。

 金賛汀さんの著書『在日コリアン100年史』よりの抜粋

1948年1月 ロイヤル米陸軍長官は日本をアジアに於ける共産主義との戦争の防波堤とすると演説し米軍占領下の日本の役割を明確にした。

1948年8月 南部朝鮮で米国の支援を受けて樹立された李承晩政権は、在日朝鮮人を統制下に置く目的で民団を強化、GHQの支援を受け様々な働きかけを行ったが、最も重要な在日朝鮮人の生存権や民族権に対する基本的な方針を示せず反共主義を叫ぶだけであった。

1951年10月 東京で日韓予備会談が開かれた。李承晩政権は在日朝鮮人の立場に立って生存権、民族権を保障するように日本政府に要求していく姿勢に欠けていて、主に、その問題を日韓会談の外交的手駒として使う姿勢に終始した。

 たとえば、在日朝鮮人問題で民団に領事事務の一部を委託し、民団を政府の末端機関化するような処置を講じても、民族学校の設立、運営などの民族権、日本で苦しい生活を送っても在日の人々の生活を守るための生存権に対して、何の具体的な対応策も取っていない。民族学校の運営支援などが戦争遂行中で財政的にも困難な時期であったにせよ、物質的支援はできずとも在日朝鮮人の権利は厳然と守るという姿勢が見られず、むしろ踏みにじる行為すらあった。(北は、1957年4月8日の第一次教育援助費及び奨学金の送付をして以来、毎年これを続けてきた)

 韓国政府の在日朝鮮人政策は、その後1980年代に至るまで、対日交渉の外交的手駒扱いと対北朝鮮反共対策の範疇を越える事はなく、在日の人々の生存権・民族権についての確固たる方針は示さなかった。

 朝鮮半島での休戦により本土は分断され、両政権の対立は深まり、それは、そのまま在日社会の分断と対立関係の激化となっていった。

 そのような分断・対立とともに、日本政府のさまざまな抑圧的政策が、事態をさらに複雑にした。
とりわけ出入国管理が厳しく、在日朝鮮人――とくに北朝鮮支持派――の国外への旅行、親族訪問は厳禁され、日本国内に封じ込められる状態が1970年後半頃まで続いた。

 民団は、日本政府の左派勢力に対する激しい抑圧政策という「支援」を受け、なおかつ、韓国政府の末端機関的役割を担いながら、在日社会でその支持勢力を拡大することが出来なかった。

 1954年8月 韓国政府の在日朝鮮人の無策に反して、北朝鮮政府は、「在日朝鮮人は共和国公民である」という南日外相の声明を発表し、在日朝鮮人の権利擁護を強力に訴えた。

 1960年4月 李承晩政権崩壊後、この韓国の大混乱期に、在日社会は帰国運動、民族教育、生存権などで積極的な活動を展開し、意気上がる朝鮮総連は北朝鮮政府と連携し、北朝鮮政府の主導下の朝鮮統一方針を掲げ、在日社会に強く働きかけた。民団系人士の中にも、李承晩政権の独裁・腐敗・展望のない新統一国家樹立方針に嫌悪感を強めていたため、強烈な反共主義者を除いて、その朝鮮統一案に賛意を示す人も多くなっていた。

 韓国内でも北朝鮮政府の朝鮮統一案に学生・知識人の関心が高まり、統一問題で北朝鮮政府との交渉を要求する国民の声が強まった。

 1961年5月 このことに危機感を強めたのは、アメリカと韓国の反共勢力、とくに軍部であった。韓国軍部はアメリカの指示のもと、軍事クーデターを起こして文民政府から政権を奪取した。朴正煕軍事政権は、強烈な反共路線を推進し、あらゆる民主的勢力を厳しく弾圧していった。

 1964年6月 

朴正煕政権は韓国全土に非常戒厳令を敷き、日韓会談には激しく反対する韓国の人々を、力で押さえつけ、第七次日韓会談を開催した。

 1965年6月 朴正煕政権は、日・韓の歴史認識の相違には目をつむり、未来を見据えた両国の友好親善改善の為の基盤を構築することなどはほとんど考慮せず、さらに在日朝鮮人問題なども多くの問題点を残したまま、「日韓基本条約及び諸協定」に調印した。その目的は、東アジア反共陣営の強化と韓国の反共軍事政権の安定化や、「無償供与」などの国内経済のテコ入れに絶対に必要な資金欲しさである。この協定が結ばれた事によって、在日朝鮮人の諸権利は、殆んど見るべき改善は見られず、分野によっては悪化するような状況が生じていた。

 日韓条約が締結された年、文部省は通達を出した。「文官310号」公立学校内での在日朝鮮人子弟を対象とした民族的な教育は行う必要がないとし、さらに各種学校としての朝鮮人学校も認可すべきではないという趣旨である。

 在日朝鮮人は、その後、朴正煕政権によって結ばれた「地位協定」の様々な不足部分を自らの力で獲得していく苦しい運動を日本政府を相手に展開していった。

 1950年代在日の人々の生活は貧困と差別の中で絶望的であった。そこに、北朝鮮政府が祖国での豊かな自由な差別のない社会での生活を約束し「帰国」を促した。しかし、帰国者たちは、北朝鮮の民衆の生活が、朝鮮戦争の傷跡も生々しく、日本の民衆の生活よりも数段に貧しく、その上、社会主義国家の統制の厳しさ・不自由さも痛感し、さらには北朝鮮社会での差別にも直面し、失望感を深めていった。しかし、その実情は、なかなか日本に伝わらなかった。日本政府が北朝鮮との往来を禁じていたからである

 1970年代後半になると帰国者は皆無に近くなる。北朝鮮は帰るところではないと実感したとき、日本での定着を強く意識させる動機となったからである。

 1970年代から80年にかけて、在日社会の共通した思いは、統一された祖国への帰国から、日本での定住と日本社会との「共生」に向けて徐々に変化していった。

 1980年代に入ってからの在日朝鮮人の定住志向は、実態調査などの数字によっても明確に証明されている。

 在日朝鮮人に対する日本政府の処置対応は、世界の先進国と言われている国々の定住外国人政策から見てもきわめて異常である。国籍問題、民族的諸権利問題、市民権、生活問題などで日本政府は常に在日朝鮮人に対して排他的であり、抑圧的であった。それは基本的人権の確立、異民族間の共存、共生という人類共通の大きな理念に照らせば、悪しき事例として取り上げるべき政策であり、実績であっても、人類社会の発展に何ら寄与することはない。

 金賛汀氏の「在日コリアン100年史」より在日朝鮮人の大きな流れを読んで見た。

私は、日本に定住している日々の中で苦労の連続であった高齢者と罪のない子供たちのことを、まず解決して欲しいと思う。高齢者へ安心して老後を送れるように、年金のようなものを作り援助して欲しいことである。

子供達には、伸び伸びと学習できる環境と経済的な援助を与える事である。

 日本国民と同様に納税義務を果たしているのに、その権利は充分に保障されていない。隣人として、市民の中にこのことを疑問に思って行動に移してくれる人、言葉にだし、訴えてくれる人が、どれだけいたであろうか?
 

ここで、町田市の市民大学の学習会なのだから、町田市はどうなっているか見てみたい。

高齢者へ

 在日朝鮮人総連合会の人権協会によると、北海道は道内実施市町村に給付額が1万円になる様に、全額補助しており、市町村に実施を促すなどして1万5千円の市もある。全国的に在日朝鮮人年金除外者に対する地方自冶体の独自給付が成されてきており、3千円から2万円まである。(数字は月額)町田市の場合は皆無である。

子供達へ

 納税義務を負担しているのに、その税金による成る公的助成の恩恵を受けられない。朝鮮学校の子供たちの親が同じ税金を納めているのに、日本の学校に行けば殆んど無料であるのに、どうして大きな負担を背負わなければならないのかという、疑問が出るのは当然である。民族教育は、「世界人権宣言」「国際人権規約」「子どもの権利」にも保障されている筈である。

 在日本朝鮮人教育会編の資料集によると、宝塚市は全国トップの一人当たり11万円の補助金支給などがある。東京都内は23区が児童一人当たり、月額最高は1万4千円、最低は6千円である。

町田市の場合、給付金制度は「町田市奨学資金」月額8千7百円、「町田市専修学校等心身障害者奨学金」月額1万円、「私立小中学校等の保護者補助金」月額五〇〇円がある。朝鮮人の児童には、この最後の五〇〇円だけが補助される。先の二つは該当しないと言う。

 朝鮮学校の場合、教員の給料を始め学校の維持費などをすべてを親たちの寄付金と月謝で賄わなければならないのである。

 町田市は、福祉の町で弱者に優しい街として知られていると思ったのは、私の錯覚であったのか。
或いは辛叔玉さんのおっしゃるように、朝鮮・韓国人に対しては無視、蔑視、放置されているらしい。

 有史以来、朝鮮半島と日本列島の交流は間断なく続けられてきた。日本の敗戦後も周知のようなスポーツ、芸能関係ばかりでなく、朝鮮・韓国人も一緒にこの国を作ってきているのである。帰化したりダブルであったり、生き方は様々であってもその出自を隠さずに暮らせることが大切で 国際化と声高に唱えるだけでなく、まず、目の前の隣人である朝鮮・韓国人を見つめて欲しい。まず、関心を持ち、事実を学び、理解すること。そうしてこそ、初めて真の交流と共生が出来るのである。

2001年8月   「未来」

無年金の高齢者救済学び来て行動に入るはあなたとわたし

朝鮮学校へ年六千円の助成金五千円に減額す福祉の町田市

現にある法のままなる同等の権利をまずは私にください

帰化の道選びし人を結びとし「名前」の連載記事の終われる

招かれし「戦争を語り継ぐ会」主催者と吾と新人三人

その父の軍人たりしこと悲しみて「戦争を語り継ぐ会」を十七年
☆市民大学の在日との共生のグループから、10人で始めた「高齢者への無年金運動」は、最後は2人になってしまった。けれども、4年目に、東京都内では初めて施行されることになった。月額、僅か1万円ではあったけれど。

2002年7月   「未来」

四年経て三人の運動実りたり無年金高齢者に福祉金支給決まる

都内にて初めての実施在日の無年金高齢者に福祉金の支給

福祉金決定するを喜べど月額一万円の支給なり

強制連行のアボジと人質の母と吾に賠償なきまま六十年
高齢者の福祉金支給受くる人運動続けしわれらを知らず

f0253572_21551850.jpg

☆久しぶりにハングルを教えていた人(元教師)に会った。私が、朝鮮語、朝鮮人と言うので北朝鮮の人かと思っていたと言われた。たまたま、終活の為の整理をしていた時に、嘗て書いたものが出てきたのでこれをコピーして渡した。しっかり読んで理解してくれたであろうか?
1999年、16年前に書いたものが、現在まで何も解決されていないのだ。全ての問題が、そのまま置き去りにされている。敗戦とは言わない、終戦70年と言っているが、在日朝鮮人の問題は解決されたものが殆んどない。40年前の私の歌を、新しく詠んだものと言っても良いぐらいだもの。

f0253572_16444297.jpg

○駐車場からの空。最近の政治情勢から恐怖を感じている私の心模様に見える。

f0253572_16425559.jpg
○まだ咲いている胡蝶蘭、何か月も咲き続けている。流石に私も驚いている。



by pcflily | 2015-07-24 17:04 | アリランエッセー | Comments(4)  

本間美智子さんの反核宣言家族と家族新聞「すいとんのひ」

○自宅のベランダに「核兵器も戦争もない平和な21世紀を子どもたちに」と掲げている。自宅にこんな風に、大きな看板を掛けておくことは普通の人にはなかなか出来ないと思う。本当に勇気のある尊敬できる人だ。カメラに納まった写真ががないが、これは東京新聞に載った記事の一部。笑顔の本間美智子さん。
f0253572_20040797.jpg
一人の人に、私の確かな真心を伝えたら、その人が次の人に伝えていく。それが続き最後には大きな一つの夢の花になる。まず、私からあなたへ、あなたから次の人に、次々と伝えて下さることを願いながら、自分の出来ることをしようと決めたけれど、現実にはそんなに簡単な事ではなかった。暖簾に腕押し、反応は殆んどなく、自分は透明人間なのだと思うようになっていた。
けれども、本間美智子さんは、私の投げたボールをしっかりと受け止めて下さった。
町田市民の平和ミュージカルの仲間の一員になれたのは、本間さんのお蔭であった。
二歳の時に、脊椎カリエスを病んだ本間さんは、子供の頃に酷いいじめに遭い、実の父親からさえ不自由な体の事で、嫌な思いをさせられたと言う。大学図書館の司書時代に旦那さんに出会い、その体では子供を産むのは無理と言われたが、三人の子に恵まれ、働きながら立派に育て上げた。母親になり、この子には私しかいないのだと思ったときに、何かが吹っ切れて自分を肯定できるようになったという。私も、母親になってから、しっかり生きる勇気を持つことが出来たので同感できる。
1982年、家族5人で戦争に反対し平和を願う「反核家族宣言」を行った。ベランダに「核兵器も戦争もない平和な21世紀を子どもたちに」と大書した看板を掛けた。
毎月6日にはすいとんを食べて平和のありがたみをかみしめた。すいとんを食べることを、1年に1度ではなく、毎月1度とは、普通の人にはなかなか出来ないことだと思う。
そうして「すいとんのひ」と題した手書きの無料の家族新聞を発行して平和や人権の大切さを訴え続けた。30年間続け、300号を発刊した。
1988年、町田市内に住む広島や長崎の被爆者ら300人の活動を支える「町友会とともに生きる会」を結成。被爆者の体験談に耳を傾ける会を開くなどした行動する人である。
家族新聞「すいとんのひ」は、週刊金曜日から表彰されている。
私にとって貴重な数少ない、尊重できる友人である。

○知り合ってから間もなく、ご自分の発行している「すいとんのひ」に[朝鮮を知る」欄を設けて下さった。これは「朝鮮を知る」の10回目。私が訴えて、4年目に成し遂げた町田市への朝鮮人の高齢者無年金が東京都で始めて給付が決まった喜びを書いたものを載せて下さった。
家族新聞の定期購読者は150人を超えていた。
このチマ・チョゴリ姿の絵は本間さんが描いたもの、今時、手書きの新聞をずっと続けられたことは素晴らしい事と思う。お手紙はいつも手書きであり、素敵な絵も添えられていた。
f0253572_20055823.jpg

すいとんのひ  町田市  朴 貞 花

福祉金支給

 2002年は、私にとって「にこにこの年」になった。長年の思いが、町田市の市民によるミュージカルに盛りこまれ、1月19日の

「LIFE IN PEACE」の公演は、朝日新聞の「声」の1月18日に取り上げて頂けたことも功を奏して、昼の部は満席であったし、夜の部も7割の入場者があり、再演の声も沢山上がり、大成功であった。

 そして、この3月7日に「町田市、四月から在日外国人に福祉金支給」の記事が新聞に載った。これは、国が長年放置してきている在日朝鮮・韓国人の無年金の高齢者に対して、各地方自治体が、救済処置をするものである。私は、4年前からこの運動に取り組んできた。

私以外は日本人である10人ほどいた仲間は、いつの間にかいなくなり、残ったのは、私を含めて2人になってしまった。新しく1人加わり、3人で地道にやってきたことが、4年目にしてはっきりと実現されると発表されたのである。

 ここまでの道程は遠かったが、信じることは、素晴らしいということを、今回も感じることができた。他府県では実施している自治体がたくさんあるが、東京都の中では、町田市が初めて実施に踏み切ったのである。本当に嬉しい。4年の間には多くの人の力を借りた。この場でお礼を申し上げたい。本当に有難うございました。そして、私は次の目標に向かって歩き始めました。放置されている私たち在日朝鮮人の人権の復活のために


○本間さんから頂いた、バースデーカード。私にこんな素敵な贈り物をして下さった。あまりに嬉しくて言葉が出なかった。何時も読める様に、現在も、電話機の傍に張っておいてある。カードの言葉に励まされている。本間さんには学ぶことが沢山あった。
また、私のハングル教室「端(はな)の会」の創設者でもある。端の会を最後まで支えて雑用をこなして下さった山口淳子さんの事も忘れられない。端の会はその後も継続させていると言う。数は少なくても何時も良い友人に恵まれてきたと思う。
f0253572_20084675.jpg
○ベランダから、咲き始めた無窮花の写真を撮っていたら、黒い大きな蝶々が蜜を吸いに来た。初めて見た真っ黒な蝶である。外来種なのだろうか?
f0253572_20102290.jpg
○八重の無窮花(槿)
f0253572_21032560.jpg



by pcflily | 2015-07-19 21:06 | アリランエッセー | Comments(2)  

貞花の平和ミュージカル

2002年5月   未来  20人集

一粒の麦を蒔かむと三十年の運動実るいまミュージカルに

三回の吾が講義活き脚本に在日のこと三割を占む

炭鉱の朝鮮人坑夫を演じいる若者ら歌うアリランの歌

朝鮮人坑夫を叩きのめす場面「もう止めろよ」と客席の声

在日の怒りと悲しみの声響く舞台に演じるは日本の高校生

在日の中学生舞う朝鮮舞踊を初めて見しと涙ぐむ少年

差別する我ら持たざる朝鮮の少女らの笑顔と若者の言う

f0253572_16281362.jpg
○会ったこともなく、電話と手紙で韓国からの手紙の翻訳をしてあげた人に、何故?すぐ隣に住んでいる朝鮮人には関心を持たないのかと詰問をした事で、朝鮮の歴史や、在日の事、私自身の事の話をさせてもらえた。そのうえ、公演にも参加することになった。左側は、私の講演に使った朝鮮の歴史年表や私の短歌やその他の資料を纏めて、当日の観客に配られた冊子。初めて参加したこの公演の内容に嬉しさを抑えきれなくて、朝日新聞の声欄に投稿し掲載されたもの。公演前の掲載であったので、遠く埼玉、東京、神奈川からも足を運んで下さった人が沢山いた。流石に朝日新聞は違うねと思った。頼まれたわけでもなく、書かずにいられなくなる私の病気が起きたのだった。
右側は、その日のアンケート集。監督がこんなに沢山のアンケートを頂いたのは初めての経験と喜ばれ冊子になった。当日観客に渡されたものより分厚くなった。

2002年2月3日   九条を守る会誌   朴貞花  東京(原稿を依頼され書いたもの)

各地の憲法運動~今回は町田

『LIFE IN PEACE―戦争を知らないわたしたち』

あなたが誰かにボールを投げたとする。それを受け取って投げ返してくれればキャッチボールが出来て楽しい。だが、相手がボールを受け取るどころか素知らぬふりをしてしまったらどうだろう。私は投げたボールを受け取って貰えないと思う事が度々であった。

 一月十九日の『町田っ子』出演『LIFE IN PEACE』-戦争を知らないわたしたちー』の公演に参加する事が出来たのは、私の投げたボールをきちんと受け止めてくれた人がいたからである。

韓国の新聞に載った記事の翻訳を頼まれたとき、電話と手紙ぐらいでの意思疎通しかなかった相手の本間美智子さんに対して、なぜ韓国の人に関心を持ちながら、すぐ隣に住んでいる私逹在日朝鮮人には目を向けないのかと詰問をしたのである。

 その直球のボールをしっかりと受け止め、彼女は在日朝鮮人の話を聞く会を設けて下さった。

 そして、次には『町田っ子』に私を紹介してくれたのである。

『町田っ子』のみなさんもしっかりとボールを受け止めた。脚本の中に在日朝鮮人の問題を真摯に取り入れ、演じる人もきちんと表現をしてくれた。

 脚本を書く前の段階で私は話をさせて頂き、出演者の皆さんにも話を聞いて頂ける時間を、演出の黒田雄次さんは設けて下さった。

 真っ直ぐに向き合って貰えた事を嬉しく思う数少ない経験であった。

 在日朝鮮人は、生きる為にボールを投げ続けているが、無視されているのが現状である。

 町田市に於いても市民としての税金を納め続けているのにも関わらず、高齢者への救済もなく、市の教育関係支出金は、年間約四十九億円であるが、朝鮮学校への助成金は、年間二十万円程なのである。このように不条理な事を、誰も真面目に考えようとしないでいる。

 全く関心を持とうとしない。知らなかったと言い、話してもいつのまにか逃げてしまうのだ。

 隣人である朝鮮人の問題からは逃れようとする。これは、政府の方針と全く同じである。

 ボランテイアのもてはやされている昨今であるが、ニューカマーと言われている人達にちょっと手助けをして、自己満足に浸っている人や、途上国に行き、援助をしたと言い、趣味として楽しんでいたりする。

足もとで起きている問題、小泉首相の自衛隊合法化への改憲や靖国公式参拝などに危機感も持たず、むしろ今までに無い高支持率という。そして、米国のアフガンの空爆に率先して駆け付けさせるのである。

 近隣諸国と共有できる近・現代の歴史認識を持ち、世界に誇れる「戦争放棄の平和憲法」を守る意思を明確に持ち、闘い続けることこそ何よりも大切なことである筈だ。

 日本国憲法、九条「戦争放棄」の精神を日本が、日本人が守りぬくことこそ、すべてに優先して為すべき事であろう。


2003年3月1日  朝鮮新報  それぞれの四季  朴貞花 8原稿を依頼された) 

「LIFE IN PEACE」

 2月1日から町田市は、非核平和都市を宣言して20周年の記念のイベントを展開している。初日にわたしの参加しているグループによる「LIFE IN PEACEこの街が好き」の公演があった。これは町田市在住の市民による脚本・演出・出演の平和ミュージカルである。朝鮮人・被ばく者・普通のサラリーマンの家族が、日常生活の中で、出会った差別等に触れながら平和と幸せについて考えるというもの。長い台詞と歌と踊りで構成され、素人とは思えない熱演で観客に大きな感動を与えた。

「戦争中、日本人は朝鮮人を強制的に何十万も連れて来たのよ」町田に朝鮮人が住んでいるのは、昔、日本が武力で朝鮮を植民地にしたからなの。戦争が終わったとき、日本には二百数十万もの朝鮮人がいたのよ」「朝鮮学校には国が1円の助成金も出してくれないの」「日本が過去をきちんと反省すべきだよ」チマ・チョゴリを着て歩くのは、朝鮮人の私がここに居ますよという合図なの」

「目立たないように隠れて生きることは、透明人間にしてしまう事なの」などの台詞があり、朝鮮学校や「慰安婦」のことも取り上げた。

朝鮮人のことを日本人が脚本に取り入れ、演じてくれたのである。老若男女約60人のグループの中で朝鮮人は私だけだった。

 昨年の「平壌宣言」以降のテレビ・新聞・雑誌によるバッシングの中で、このような事が出来たのは、一人の人間としてお互いに強い信頼を持つ事ができたからであり、一朝一夕には成し得ないことと思う。 同胞の中だけでなく、日本人とも本音で話し合うことも大切だ。  


2003年3月3日      朝日新聞  佐佐木幸綱選


(ぱっ)(ちょん)(ふぁ)演じる友は日本人在日の苦を舞台に歌う   朴貞花



f0253572_16530361.jpg
○この平和ミュージカルには3回参加した。3度目は2003年1月、そうしてこの年の5月には現在の居住地に越してきたので参加できなくなってしまった。監督は、何時も突然、私に一人で語れと命を下す人であった。原稿を見ても良いからと。でもこの最後の日には、前日に寝ないで書いた原稿を持ったままで語り、原稿を見ることを忘れていた。一言も間違わずに出来たので、我ながら不思議な経験であった。

2003年3月   未来     朴貞花


盗るよりも盗られし国の民なると耐えて来りしに「拉致」のこと


チマ・チョゴリ切り裂かれたる記憶あり街には出でず若きオモニの


児童への危害恐れて休校にせよと声あぐる若きオモニら


爆破すると朝鮮学校に電話あり警備するとパトカー巡る


北の地に待つ子等のこと思いつつ時雨の夜道を会合に急ぐ


2003年4月  未来    朴貞花


朝・日の架け橋たらむと日本人に一人交わる市民ミュージカル


「拉致られる」という造語あり読み合わせするたび胃痛始まる


三度目の市民ミュージカル拉致事件取り入れられて吾の身の細る


日本人の中に一人交わりて脚本の中の差別に向かう


○この写真、国際交流会、歴史の会など何時も一人で日本人の中にいた。真ん中のチマ・チョゴリの女の子は両親が教師の育成の為の留学生。両親以外に韓国語で話せるのは私だけだったので懐いてくれた。可愛いおばあちゃん、粋なおばあちゃんと素敵な渾名で呼んでくれた。このコウナちゃんは、小学校に入学の都合で、両親は日本に残り、一足先に帰国した。ある日、、韓国から電話をかけてきた。預けられていた祖母の話によると、私の家の電話番号を覚えていて、電話をかけたいとねだられてかけましたとのことだった。うれしい思い出だ。

後に帰国したこのこの両親は町田の朝鮮学校へ届けてと分厚い韓国語の辞書を送って下さった。

韓国から来た留学生や日本人を朝鮮学校へ連れて行き、朝鮮学校を理解して下さいとお願いをしていたのだ。

世間知らずの私にとっては、まじめに自分のできることはしようと真剣に考えての行動であった。

(

f0253572_17292970.jpg
○市民大学で知り合った方たちと歴史愛好会を作った。その会で、町田市の「わいわい祭り」に参加した。私の提案を受け入れてくれて「朝鮮歌舞団」の公演もさせてもらった。町田市で朝鮮人の舞踊を一般市民に見せるのは20年ぶりぐらいだった。祭りと公演のビラを支部に頼んだのだが、隣家の同胞の家にも配られていなかった。見に来てくれた同胞は5名に満たなかった苦い思い出もある。)

(
)


2003年5月   未来    朴貞花
 

時雨るるなか励む老若男女六十名平和ミュージカル公演の近し

みず・みずと言う子に与えず逝かしめし広島の母老いしを演ず

この町に米機の墜落三人の姉妹の命奪いしもミュージカルに

市民が書き出演・演出のミュージカル朴貞花演じる若き母親

戦争を止めよと歌う舞台なり非核平和都市宣言二十周年

拉致されし人に流せる涙はあり強制連行の過去は忘るる

北朝鮮バッシング続けるマスコミの成果か少女のチマ裂かれたり

f0253572_17510916.jpg
○「アジアの舞踊」と題して、相模原の1000名以上収容のグリーンホールをいっぱいにした。右上の人と協力したがどうしているだろうか?左下の写真は、別の国際交流の時に日・朝の若者を集めて話し合いをさせる企画を建てたが、総連の支部にお願いをしても、組織の言いなりにならない私の申し出は、支部からは本部から言われてないと言われ、本部に行けば支部から申し出がないと言って断られた。仕方がないので私の息子や甥や姪に声をかけた。そんな苦境に立たされた私の為に歌手の近藤日佐子さんが、無償で友情出演して下さった。語りも上手な人でる。 今月月の7月31日(金)13時から日暮里サニーホールでの敗戦70年、9条連結成20年の「安倍政権の9条破壊を許さないのオープニングに出演される。
終活の為の写真整理をしていると、世間知らずの私が人間を信じて一生懸命に動いていた頃の懐かしい場面がが沢山思い出される。

by pcflily | 2015-07-04 17:46 | アリランエッセー | Comments(2)