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歌集「身世打鈴」を上梓して(その3)


1975
629日   近藤芳美選  朝日歌壇

受話器取れば話す間あるかとまず問いて預けおきたる子のしゃくりあぐ

1975年
6月29日    宮柊二選・前川佐美雄選  朝日歌壇


  • 君と会う喜び秘めて結い上げし髪崩すとてピンを抜きいる

   評 愛の歌。


19757月      五島美代子選  朝日歌壇

生計(たつき)日々祖国核配備あ

評 知らされない民の憤りを述べて切ない。

1975年8月3日   朝日新聞  宮柊二

朝鮮を分断させし大国の宇宙の握手華やかに見す

評 第一作―米ソ両国の宇宙船の宇宙結合の計画、また成功に関するはなばなしいテレビや新聞の報道。それに対して、否む心情を、朝鮮を祖国とする作者はうたっている。「宇宙の握手」などかるくなるべき語が、歌の心情からそうなってはいない。

19766      五島美代子選  朝日歌壇

熱かりき君の手ほほに触るるとき祖国も吾子も遠く霞みぬ


1999年5月号  未来  歌集歌書書評――未来会員近刊

朴貞花歌集『(しん)()()(りょん)』(砂子屋書房)

あふれる思いを盛り込んで   大田美和

在日コリアンの問題に少しは詳しいつもりでいたが、この歌集を読んでまだ知らないことが多いと痛感した。乗鞍スカイラインが強制徴用によって作られたこと。革新市長を出したくて、選挙権がなくても選挙運動に関わる在日コリアンがいること。一人の生にふりかかった歴史と社会に関わるさまざまなできごとを歌の形で訴えられた時、それまで歴史的事実としてぼんやりと知っていた事柄や言葉が新たな迫力をもって立ち上がる。

著者は二歳の時、強制徴用の父の逃亡を防ぐために、母と共に朝鮮から呼び寄せられた。労働の苦しさに一家で逃亡し、会津で敗戦を迎えたが、帰国の機会を逃した。身世打鈴は、朝鮮語で自分の身の上を物語風に唱えること。まさにその名にふさわしい歌集である。

陽の目見し入選歌わが本名に差別なき場もありし喜び

嬉しい思いが伝わってくる歌だが、ご子息は、フリーライターとしての出発の時にそれとは別の思いを味わっている。

「出版もさせぬ」と言いたる人ありき応募せし子の処女作「もう一人の力道山」

人の言う差別はやっぱりあったよとひとこと言いて子は電話切る

「もう一人の力道山」は、第二回「週刊ポスト」「SAPIO」世紀国際ノンフィクション大賞最終候補作品で、現在は小学館文庫に入っている。権威ある賞の決定の際にそんなことがあったとは、日本人として恥ずかしい。

このように、事実を述べて訴えかける歌が多いが、個人としてのささやかな思いを述べたこんな歌もある。

君と会う喜び秘めて結い上げし髪崩すとてピンを抜きいる

夫を亡くした後、出会った人への思いを詠ったと思われる歌である。髪を結い上げる動作が高揚した作者の気持ちを表しているが、それが、下句ですぐに、せっかくきれいに結った髪を崩す動作によって、一気に崩されている。鏡を見てピンを抜きながら日常の冷静な自己を早くも取り戻す作者。相当の苦労をした人でなければできない恋歌である。

別冊のエッセイ集はわずか三十二ページの小冊子だが、読み応えがあった。短い字数の中にあふれる思いを盛り込むコツは、短歌から学んだことであろう。その中の一つ、「手」は七人の娘を育てたお母上についてのエッセイ。「この手で土方もしたし、飯場で何十人ものご飯を炊いた。闇米も運んだ。(中略)今日まで生きてこられたのも皆、この手があったからだ。キムチもおかずもこの手が味をつけるから、美味しいのだ。本当に有り難いことだ」というお母上の言葉が美しい。

☆この歌集の評を書いて下さった大田美和さんは、私が朝日歌壇に時々投稿をしていた時に、大学生で投稿をしていた人である。私の息子の李淳馹よりも2歳年少である。私が生活に追われている時には学生であった。現在は著名な歌人であり歌集や研究書も何冊も出版している優秀な大学教授となっている。

近藤先生が「朝日歌壇」で取り上げた人の中には何人もの著名な歌人が出ている。

片や、今日一日の事「今」のことで、精一杯の生活しか考えられなかった私は短歌について学ぶこともしなかったし、その時々を無事に過ごせることを感謝する日々を過ごしてきた。現在の私は、そろそろ、お迎えが来るかもしれないからと、こうして、過ぎし日々を綴っている。

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○夫の反対があったが、3か月の約束で近藤先生の教室に通った。年末に写真を撮り、食事会をした。口実を付けて引き伸ばし、先生の歌の碑が広島や東北に建立され、その除幕式に参加した。
沖縄の旅行にも参加した。無理をして参加したことは良い思い出になっている。10歳年長の夫は、比較的現代的な人であったが、女が学ぶことを良しとしなかった。何時も、それ以上学ばなくても良い、十分だと言うのだった。
娘が結婚をする時に、一つだけお願いをしますと朝鮮舞踊を習わせてと言ってくれたのだが、とうとう許可を出してくれなかったし、ハングル試験も私が、話さずに申し込んでしまったので受験できたが、合格したので上の級を受験しようとしたが許されなかった。

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by pcflily | 2015-04-25 18:33 | アリランエッセー | Comments(2)  

歌集「身世打鈴」を上梓して(その2)

2000年7月号 『未来』 歌集共同批評 東めぐみーー高島裕

(ぱく)(ちょん)(ふぁ)歌集 『身世打鈴』 

◎畑よりの強制徴用のわが父も居住許可願の外人登録をす

◎枕辺に地図を広げて床に入る統一朝鮮の夢を見たくて

◎強制連行の孫なる子よ汝がいま慰安婦のこと取材に走る

◎父母の国訪ね帰りて妹は「むぐんふぁ」とするその店の名を

◎日本の土を再び踏まぬこと決めて土葬の待つ祖国に帰るアボジ

                     (東めぐみ選出)

短歌という文学に、記録性という役割があるのを知ったのはずいぶん前であるが、この歌集も、一つの記録として、真に迫る力を十分に持っていると思われた。朴さんの肉声は一人の在日朝鮮人の思いであり、日本に強制連行された人々の肉声なのだと思った。一首目は強制連行されたにもかかわらず外国人登録をしなければならない事実を歌っている。「畑」から連行されたという具体的な事実に、日本人としてこぶしを握りしめたくなるような苛立ちを覚えた。相手の人格を踏みにじるような行為を知って、自分が日本人であることを意識することは何とつらい事か。「職務ゆえ許せとわれの手を取り手外人登録に指紋を押さす」という歌もある。二首目。朝鮮統一も繰り返し歌われる題材の一つである。その思いの強さに、圧倒されながら、歌集を読み進んだ。近藤さんが「序」に書かれているように歌が巧かどうかより、この思いに心を揺さぶられる。言葉が事実の重さを伝え、詩としての役割をきっちりと果たしていると思う。五首目はお父さんが韓国に永久に帰国した時の作品。「八十八歳の父帰国して朝鮮籍の吾には永遠の別れとなれり」に見るように、分断という政治的事実が、一つの家族にも大きな影響を歌っている。『身世打鈴』とは身の上話、自分の不幸な運命を物語風に唱えることの意味だという。

高島 「短歌という文学に、記録性という役割がある」などということは、私には全く理解できないことである。記録は文学ではない。記録と文学とは全く異なる位相に属する。文学は事実の記述ではなく、魂の波動を言葉として発光せしめるものだ。これがいわゆる写実的な作品になっても同じであることは、斎藤茂吉の「短歌に於ける写生の説」などを読んでも明らかなことである。

この誤謬が誤謬を導いた結果、東は朴の作品を“記録”として評価してしまっている。したがって東の批評においては、作者朴のかけがえなさは完全に抹消されてしまっている。「在日朝鮮人の思い」「日本に強制連行された人々の肉声」―こんな一般的なマスコミ言語の紋切り型のコトバの一体どこが作品批評であり、作家批評だというのか。

逆に言えば、このような一般的な読みを導いてしまうところが、朴作品の弱さかも知れない。だが、東は、作者のかけがえなさを読みとる努力を放棄してしまったとき、評者としての己自身のかけがえのなさをも抹消してしまっていることを知るべきだ。

掲出歌は私にはさほど響いてこない。“言いすぎ”なのだ。日常の意識のなかに普通に浮かんでくる言葉を一旦留保し、言葉の選択に苦しんでみることは、技術的修練をこえて詩と人生への真実への、孤独な追及なのである。

◎喪の明けてセーター選ぶわが耳に黒は止してと子が囁けり

◎大丈夫かと子等孫ら問えばにっこりと「生れし地なりと」と母は答えぬ

◎雪残る野辺を巡り(あさ)(つき)を掘り起こしたり春暮るるまで

◎夜半覚めてオモニの指をまさぐれば任せておけと寝言に言えり

◎桜満開朝大卒業の姪の春通称名を使い初むる日(高島裕選出)

高島 公的な物言いの鋳型に、無防備に同化してしまっている歌が目立つ。「統一余祖国統一する夢よg千万同胞が(こぞ)る悲願よ」「韓国軍を光州に派遣すること許したる米国の指揮忘るまじ」「祖国」をめぐる作者のかけがいのない、大切な思い(=モテイーフ)が、マスメデイア環境下の表層言語によって、不当に簒奪されてしまうことを危惧する。

 それとは反対に、効果的な抑制が詩型の生理を生かし、厚みのある抒情を表現している作品を選んだ。

 一、二、四首目は、描写の時間性が詩型のリズムに合致しており、リアルであり且つ味わい深い。四首目に絞って言うと、「任せておけ」という、無意味である筈の「「オモニ」の寝言に着眼し、説明抜きにただ提示すること、無限の感慨を伝えている。深く深く沈められた悲安らぎの色さえうかべて、詩に昇華されている。

 五首目の「通称名」も、価値判断を保留し、卒業の春の明るい風景と配合されることで、怒りを直接に言ってしまう以上の怒りを、重く、そして美しく伝えている。下句の「通称名」を活かして「朝大」を削るべきだろう。

 表層的な政治言語に滑り込もうとする手前に踏み留まったこれらの歌こそ、より多く、より深く、思い伝えている。

東 正直にいえば、この歌集は批評しにくい歌集である。批評を必要としない歌集かもしれない。高島さんの言うことは私にもよく分る。「マスメディア環境下の表層言語」と言われればその通りであり、私自身歌を選ぶのに苦慮したのもそのあたりが原因なのだと思う。けれど、朝鮮から連行された朴さん家族の日本での生活は事実であり、歴史の教科書のように一般化されたものではなく、ここに「朴貞花」という実際の人生の具体があることが大切なのだと思う。この歌集を支えているのはこの人生の具体なのである。だから私は一首目の作品は採らない。「黒」という色彩には死に通じるイメージがあり一首全体が平板な常識的な意識で終わってしまっていると思われるからである。二首目は一首独立して読んでみると全く背景の分らない作品である。「朴貞花」という作者の背景を知ることにより暗黙のうちに夫のもとに強制連行された「母」が祖国を訪れた時の気持ちを補って読んでしまうのである。作者は素朴に歌っているのかもしれないがあらかじめ用意されたようにしか読めない不満が残る。前に書いたことと裏腹になってしまうが、ここにこの歌集の読みづらさがあることも確かである。五首目は高島さんに同感である。また、ごつごつしたリズムが朴さんだと思いつつ言葉を厳選することも必要だろうと感じた。

☆私の歌集「身世打鈴」に対しての共同批評が会員であった『未来』に載った。
二人の読みとり方は、全く反対であった。
東めぐみさんが取り上げた歌は殆んど、近藤芳美先生が「朝日歌壇」に選者として選んで下さった歌である。
最近の朝日歌壇や短歌の月刊雑誌で短歌についての意見を述べられているのを、幾度か読んだ。一流の歌人になられたのであろう。
「未来」を脱会してしまったので、高島裕さんのその後の消息は分からない。

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by pcflily | 2015-04-23 10:13 | アリランエッセー | Comments(2)  

歌集「身世打鈴」上梓して(その1)

1999年4月11日   朝日新聞  近藤芳美選

韓国のアボジに会いに行けよとて主体思想の夫は別れを言う

1999年6月27日   朝日歌壇  近藤芳美選

一人生きむと決めし朝に鍬持ちて耕す土中のミミズにおびゆ

1999年   未来

男児をと望みいて生れし女児なり天雅と名付け子は沐浴させいる

天雅生れし一月八日二日後に離婚切り出す再婚の夫


バブル崩壊われにも及び再婚の夫はその子の生計守ると

統一の喜び分かち合う夢失せし七十の夫は別れ切り出す

「朝鮮籍」守る夫の一念と韓国に病むアボジのことを言う

「折々のうた」に吾が歌載りし朝娘は繰り返し朗唱している

「百万人の身世打鈴」映す前田さん紹介され辛氏李氏と議論重ぬる

一人居のコーヒータイムベランダの鳩は障子の影絵となりて

春疾風吹く夕間暮れ抱卵の交代をして鳩は巣籠る

☆両親の結婚70周年の祝いをする予定であった年は私の還暦だった。簡単な自分史を纏めるつもりが、近藤芳美先生の勧めで歌集を上梓することになった。
アボジが韓国から来なかったので、私の子供達が歌集出版と還暦の為に、親族を呼び祝う会を催してくれた。それが1998年11月22日、良い夫婦の日とも言われる日に、横浜のホテルニュージャパンで催したのであった。思いがけないプレゼントに私は幸せいっぱいであった。
年が明けて、1999年1月8日に息子夫婦が結婚をして10年目に漸く恵まれた子供が生まれた。健康に生まれたことで二重の喜びををかみしめていた。
ところが、孫が生まれた翌日に、夫が離婚をしたいと切り出した。晴天の霹靂であった。離婚すると言う人にしがみ付く理由もないと、私はあっさりと了解したがすでに二人の子供は結婚をしており、私が一人になることに不安を感じたのか反対をして、彼に意見を言ったが話は覆らずに、その月のうちに出て行った。

歌集を出したことで、原稿の依頼や講演の依頼もあり、取材を受けることがあったりしたことで、淋しさを感じている暇はなかった。歌集の送付を頼まれることも重なり、歌集の感想が次々と届いたり、私の為の歌を会誌に投稿して下さる人も有ったりして慰められていた。

1999年5月号  未来    東京   日高陽子

新年歌会に朴さんに賜いし歌集「身世打鈴」の耳新しも

常磐炭鉱に働く父君逃亡させまじと訪日の朴さんはも先生の序に

身の上話とぞ“身世打鈴”柔和なる君の面輪の眼裏に顕つ

柔和なる面輪に秘めし君強し子に母国語教育をと夫と離り来

飾らざる言葉の陰に望郷の思い切なき朴さんの歌

一途なる思いに沁みて文を書く「今の幸せは強さの賜物」

1999年7月号  未来    東京  鵜飼眞子
 

剛き心に病める祖国と君歌えば改めん思い風鳴る夜に

君の希う祖国統一の思い沁み読みたる歌集「身世打鈴」閉ず

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横浜公演のチューリッップ


山国育ちなので、いつも緑の中に居たい、緑が恋しい。昨年、道端のヨモギを見つけて5,6本植えつけた。きれいな柔らかい蓬が顔を出した。植えた数より増えていた、野生のものは強い。
綺麗に摘んで蓬入りのうどんと団子を作った。生まれて初めての作業であったが、息子は美味しいよと褒めてくれた。

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by pcflily | 2015-04-22 20:21 | アリランエッセー | Comments(2)  

夢を追っていた日々

1999年6月号 未来

沖縄よ従軍慰安婦よ朝鮮よ届く通信は苦渋も運ぶ

統一の日までに八十三歳鄭周永金剛山観光事業構想語る

ガイドライン・後方支援の成果のひとつチマ・チョゴリの制服廃止さるる

チマ・チョゴリの制服廃止なる 裂かれし少女は「明日も着る」と言う

チマ・チョゴリを着せたかったと乳飲み子に声をかけつつ涙こぼせり

七十を越えて職探す母なりき帰国せし子に会う旅費得むために

朝鮮学校の模範教員と娘はなりて在日日本人妻七十路を病む

優しさの中で刃を研ぎいたることに気づかずおりし沈丁花咲く

1999年11月号  未来 

取り囲み中学生が服切り裂く朝鮮人と答えし幼に

訓練とて日韓合同軍事演習す北のミサイルを騒ぎ立てつつ

日の丸は血の匂いせり君が代は虐殺されし人らの慟哭

☆在日の人々が、こんな状態で苦しんでるのに、金大中大統領は歴史の清算とか、天皇の訪韓を等と言っていたのだ。政治家とはその様なものなのだろうと思った事であった。権力を持つためには一般民衆の事は考えないのだ。

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2000年3月号  未来

国背負うことなどなかれ在日は己と家族守ればよしと説く

本名にて呼ばれしことなきハングルも学ぶ意思なしと明言の李教授

市民大学「在日との共生」応募減り共生を望まぬ日本人と思う

在日に母国往来の自由なくて天皇の訪韓の支持は六割

分断の悲しみ今も引きずりて「鳳仙花」歌う統一願いて

チマ・チョゴリ懐かしかりと寄りて来る白髪の女涙ぐみつつ

「差別することはなかった」関心を持つ事さえもなかったのだ

☆無力な私の出来る事は殆んどないが、たった一人の人に私の真実が伝われば、その人が次の人に伝えてくれるだろうと、一人の会「(はな)会」っていた。

一人から一人へ、この小さな端くれから始める「端の会」、繋がって、繋がって最後の大きな輪になって、大きな和、それは大きな端は大きな花になるなどと、独りよがりの夢を見ていた。

市民大学での在日の李教授の意見にはびっくりし、だからこそ、日本の大学の教授になれたのだと思った。この社会の実情に気が付き始めた頃である。

私の二人の子供は、今まで何も知らないでいて、夢ばかり追っていた。こんな年令になって、漸く世間の事を知るようになった。それは「幸せなこと」と笑っていた。

○公民館で「在日との共生」の講座を開講して頂いたりして親しくしていた。私の会員になっていた歌の会(10歳以上若い人達)に公民館祭りへの出演を依頼されたが、シャイな人達ばかりで嫌がっていた。漸く一度だけ参加した。公民館からは好評であったからと、何度も再度の出演を依頼されたが叶わなかった。
その日に、私は、町田市にある朝鮮学校について話した。朝鮮学校が町田市に出来た原因を話した。
隣接する相模原は日本がかつて大きな「軍都」の計画を建て、完成をみないで敗戦になった。米軍がその跡を使用している。
「尾根緑道」と呼ばれている市民の憩いの場、花の名所が「戦車道路」と呼ばれていた戦車の試運転をする為に作られた道路であった。「子どもの国」と呼ばれている場所には、現在も「弾薬庫」が残っている。大勢の朝鮮人が朝鮮から連行されてきて、強制労働をさせられた。
全員で民謡を歌い、最後に一人で「鳳仙花」を歌ったのだが、胸が詰まって途中で歌えなくなってしまい、舞台脇の仲間が応援してくれて事なきを得たが、とんだハプニングを起こしてしまった。



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○この歌の会に入っていたお蔭で、在日朝鮮人芸術団の一員として、朝鮮民主主義人民共和国に行くことが出来た。全国の大会で金賞に選ばれたからである。けれども行くことが出来たのは、53歳の私だけであった。若い人達は仕事や、子育てがあって、誰も行けなかった。
訪朝を喜んだオモニの言葉が忘れられない「一生懸命に生きているお前に、神様のご褒美だよ」
どんな場合にも、オモニは私を褒めて勇気を授ける人だった。


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by pcflily | 2015-04-18 16:51 | アリランエッセー | Comments(2)  

南北会談

南北会談

1998年1月26日   朝日歌壇  馬場あき子選

 ☆ 金大中氏選ばれし喜び分かち合う午後の茶房に冬日やさしく

歌集『身世打鈴』

死刑判決受けし金大中氏当選す伽倻琴散調に心昂ぶる

寒風がエネルギーとなるヴィオラ咲き継ぎ金大中氏当選に「ソウル」の春思う

伽倻琴散調聴きつつ心昂ぶりぬ民主化唱えし金大中氏当選す

不死鳥のごと金大中氏蘇る南北朝鮮の和解もあるらむ


2000年7月16日   朝日歌壇  近藤芳美選

☆ 五十五年の分断あれど両首脳車内に語る一つ母国語

評 平壌を訪れた金大中大統領を待ち受けて金正日総書記が手をにぎる。五十五年の分断の後、という思いを同じ民族の血を分け合いながら、どれほどの人々が待ったのであろうか。第一首、在日朝鮮籍のひとりの歌

2000年8月6日  朝日歌壇  馬場あき子選

☆中傷の止みたるソウル放送に母国語うれし終夜聞き継ぐ

 評 第三首は北朝鮮と韓国の状況融和の中で思う故国への愛。眠れぬ感動の「終夜」であったであろう。

2000年8月6日   朝日歌壇  近藤芳美選

☆中傷の止みたるソウル放送に母国語うれし終夜聞き継ぐ

2000年8月号  未来

一人居のコーヒータイムベランダの鳩は障子の影絵となりて

春疾風吹く夕間暮れ抱卵の交代をして鳩は巣籠る

とめどなく涙流るる南北の首脳会談のニュース速報

信じよう信じなければこの度の首脳会談は同胞の決断

2000年9月3日   朝日新聞 近藤芳美選

「アリラン」は統一の曲金大中迎うる宴に尹伊桑編む

2000年9月号   『未来』

首脳会談祝い同胞澄み渡る五月の空に集う三万五千名 

朴保のアリランメドレー同胞のオッケチュム舞う長鼓は続く

みどり児を抱くごとひそと胸に待つ首脳会談の南北共同宣言

空港に歓声続き統一への一歩踏み出す熱き拍手はも

大統領見送る総書記その父に重ね同胞への信頼と願望

儒教により滅びし祖国とのみ思いいき儒教のままに大統領もてなす

2000年9月号   未来     近藤芳美

それよりを行くなかりしを痛みとして吾が心の街平壌もまた

朴貞花よろこび隠さぬ電話あり夏告げて平壌の放映一と日

五十五年の民族分断の歴史の上相抱く彼らひとつ万歳(まんせい)

引き返し得ぬ歴史とし湧き湧く声民族の統一のなお遠くとも

朝鮮戦争の記憶を長く分くといえ血が血を呼ぶ悲しみは民衆のもの

内戦と残さるる憎悪の半世紀終えしむとし用なき感傷も知れ

☆ 朝鮮を生地とする近藤先生も共に喜んで下さったのであろう。近藤先生は、後に、この1連を歌集『岐路』に入れて下さった。「朴貞花」と私の名前を入れて下さっている。会員の皆さんが驚いたことであった。

☆奥さんであり歌人であったとし子夫人も歌集『さいかちの道』に「未来」に載せた歌を入れて下さった。このときも、未来の会員は驚きを隠さなかった。

君のため「愛の讃歌」リクエストし給えりホテルの晩餐に朴貞花さん

遠き祖国にかかわる思い篤くしてかなしく泪ぐましきあなた

 

2000年11月号  未来 
 

半世紀の陣痛を経て生れたる南北首脳の握手今歴史動く

沿道に涙流しつつ歓呼するピョンヤン市民とともに吾も泣く

儒教により滅びし祖国と思いいきその作法守り金大統領迎うる

去年逝きしアボジの植栽に咲き盛る白き無窮花に喜び託す

亡国と分断 在日に生きしウリオモニ両首脳の抱擁に「長生きしたい」

米・肥料・技術援助を論じ合うソウル放送に窓白むまで

在日と在韓・在米コリアンの論聞く七百名一つの念いに

2000年11月  未来  釜田初音

オリオンの三つ星のごと(ぱっ) (ちょん) (ふぁ)ん さすればあなたはあなた

☆未来の会員であった釜田さんは、教室で一緒に学んだ。いつも、褒められていた人だ。歌集『渡河』に入れて下さった。

☆私の名前を短歌の31文字の中に入れて下さったのは、皆さんの私への応援であり、ともに喜びを感じての心の呼びかけであったのだと思う。

☆夢のような日々であった。あの頃迄は心から「朝鮮は統一する」と信じていた。15年後の現在の姿は想像もしなかった。言葉も出ない状態に、最近は、溜息さえ出ない。

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by pcflily | 2015-04-10 16:17 | アリランエッセー | Comments(2)  

金大中大統領の訪日

金大中大統領の訪日

1999年2月号 「未来」入会2度目の作品 20人集選ばれる

◎天皇の訪韓を乞い望郷の在日コリアン置き去りにさるる

◎金大中救援に走り回りたる在日コリアン忘れられにき

◎参政権よりも母国への自由往来のあなたの言葉待っていました

◎過去の歴史の清算という 在日コリアンにあなたは何も答えず

◎統一を望みしことは悪ですか信じしことは浅はかでしたか

◎ミサイルの発射に揺るる炎昼の朝高に集う同胞三万

◎情報にたやすく乗れるありチマ・チョゴリの少女に痰吐き暴力
ふるう

◎末枯るる「統一」抱き同胞の1世は逝き2世の君は病む

チマ・チョゴリに刃を向くるこの国を「過去の歴史の清算」と金大統領 
         
1999年3月   近藤芳美選  朝日歌壇

君が代と日の丸法制化の中チョーセンジンと確かめて小学生に刃をむくる
         1999年9月   近藤芳美選  朝日歌壇

☆「未来に入会して二度目の作品、短歌は1首で表現するものとなっているからであろうか?「未来」では主題を付けないので、その月の投稿作品には誰もが色々な内容がある。
近藤先生は1首で言い足りないことがあるから、連作をと勧めておられた。
金大中大統領が訪日し「過去の歴史の清算」と天皇の訪韓をと、日本を喜ばすことを言った。
けれども、誰もが、尊敬するというこの人を私は信じなくなった。この時ばかりでなく、政界から引退すると公言しておいて、アメリカに勉強?に行った。そして、帰国して政界に復帰して大統領になったのだ。また、自分の死後は大統領の墓地にと言い残した。
盧武鉉大統領は、自分の死後は地方の墓地にと言い残している。
☆在日朝鮮人の誰もが生存中に故郷を訪問したいと熱望しているのにその願いが叶わないでいるのに、そのことについては一言もなく、あろうことか、天皇の訪韓を望むとは信じられないことを言った。朝鮮学校の幼い子供や女子学生が刃を向けられているのに「過去の歴史の清算」とは、一体、誰の為に訪日したのであろうか?と思った。又、日本から韓国に拉致され、死刑判決を受けた時に、救命運動にかけずり回った在日の人達は、彼との話し合いを設けられた席に呼ばれなかったのだ。
「在日との共生」を立ち上げ、何人かの講師を呼んでお話を聞いたが、その講師の中に、この運動をした人がいて、お話を聞いた。山田昭次先生、前田憲二さん等も来て下さり、知ることになった。ちなみにこの時のコーデイネータ―は息子であった。
○世間は嫌なニュースばかりだが、わが狭庭には春が来ている。
胡蝶蘭に対して申し訳ないと思いながら、勝手なもので、早く咲くように陽のあたる場所に移動させたり、寒さから守る為に2重3重に毛布をかぶせ、こうして咲いたら、暖かさから避ける為に玄関に運んで、長く咲いているようにと願っている。暖かい居間には二本だけ残して眺めていることにした。 

○寒風の中で咲いていたバラが散り春になって咲いた薔薇
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カタバミ
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f0253572_17050068.jpg烏野豌豆と
蒲公英












玄関前に、1本を挿し木したものが網をかけてやったら、二階のベランダ迄伸びて、沢山の花を咲かせたカロライナジャスミン。南側の忍冬も一階から伸びて、立派なグリーンのカーテンというより絨毯になった。忍冬は金銀花とも言う、花も咲き、小鳥も遊びに来る。忍冬は野生の花だから強い。
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by pcflily | 2015-04-06 17:30 | アリランエッセー | Comments(2)  

アボジの葬礼


アボジの葬礼

強制連行されたることの憤怒未だ証言拒みアボジは逝けり

土葬願い秋の木の葉は散るものと癌告知受け医療を拒む

秋は木の葉が落ちるもの癌病むを知りて帰国の時期早まりぬ

七十の夫と離別し叶いたる訪韓にアボジは寿衣纏いいる

号泣する妹は別室に連れ出されアボジ土に還る儀式始まる

白絹のパジ・チョゴリ・トゥルマギ纏うアボジ米と路銀持たさるる
麻布に総身くまなく包まれぬ邪気入らぬように骨の崩れぬように
寿衣纏うアボジの遺体はすきまなく麻布に巻かれ物体となる
躑躅・連翹・桃の花の山道に棺を担ぐ村人唄う
私のアボジ・蜜陽朴家 16世 朴宗根
 1910年5月5日         誕生
 1999年2月21日        逝去
 1999年2月22日より25日迄  3日葬

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初日
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その夜は一睡もしてはいけない約束があり、横にはなれなかった。
献酒をし、死者との別れを惜しみ、葬歌を歌い、何度も竹製の杖をついて、遺体の周りを巡る。
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葬輿には派手な飾りが付けられていた、葬輿を運ぶ途上では死者の哀しみ嘆きの葬輿歌が唄われた
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葬輿は途上で何度か動かなくなる、死者が行くのを嫌がるからだと言う、献酒をしたり志を渡したりして立ち上がって貰う。これは、運ぶ人に休憩を与える為の知恵なのかもしれないと思った。
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棺をおさめる場所は、長身の男性が立った状態よりも深い地中に蓋付きの石制の箱があった。
派手に飾られた葬輿は現地で燃やされた。
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3日目の儀式が墓地で行われた。
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墓地での儀式で終わったのかと思ったが、帰宅した中庭で供物の前で大禮をし、室内に入っても、同じことをした。思い返して見れば、最初の日から、室内、中庭、墓地と、出る時と帰った時に供物を並べ、大禮をしていた。
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春逝きしアボジは吾に韓国の世界文化遺産の花の旅めぐむ

鴇色に山肌埋めし躑躅(ちんだるれ)海印寺(へいんさ)目指す車中より見ゆ

五歳のウンナ教えくるる(らっ)東江(とんがん)あふるるばかりの水豊かなり

白木蓮盛る海印寺に「八万大蔵経」木版戦乱逃れて七百余年

アボジの死夫との別れの代償に母国の土踏み花の旅する

韓国は母国にあらずや許可されし在留はアボジの葬りのみに

許可されし()(にゃん)()の語学院身の危険ありと急ぎ戻りぬ

人と物あふるる市場南大門芋虫のごと戦傷者這う

ベトナムに派兵されたる韓国人失いしもの手足ものかは

地を這いて物乞う人に吾もまた見えぬ素振りに通り過ぎたり

祖国なる韓国に詣でしオモニの祖金忠善は日本より帰化なせし

「歴史発見」の画面に韓国の叔父映りオモニの祖は日本人と知る 

馬場あき子選 1996年2月11日

再びの訪韓待つと届きたる金先生の便り白き無窮(むぐん)(ふぁ)盛る

アボジの姓継ぎたる人の初便り梅雨空に読む権限放棄の書類


☆4月は私にとって忘れられない事が多い。
とうに死別したが結婚記念日が陰暦3月3日なので陽暦では4月が多い。
4月5日は長男(李淳馹)の誕生日、4月8日は夫(李鍾根)の命日だ。

1999年4月8日はアボジの葬礼をした。朝鮮籍だったので特別許可で韓国に行った。陰暦で祭祀をするのだが、今年の陽暦4月9日がアボジの命日だ。夫の命日は8日である。

2014年の4月30日はオモニが亡くなった日、陰暦で祭祀を行うので今年は5月になるが陽暦で暮らしているので、4月30日の方が記憶に残る。

韓国でアボジと親子の養子縁組をした従兄が亡くなり、その子供がアボジの祭祀をする。霊の行き場がなくなるので1か所でやらなければならない。

せめて、アボジの事を書き留めておこうと思う。『未来』掲載の短歌も見つかった。

アボジの葬礼の写真も少し整理をしたが、アルバムに7冊もあってびっくりした。あの時でさえ、あまり見られない葬礼であり本家のお兄さんが、自分が居なくなったら、誰もこの方式を知らないから、出来ないと話してくれたので、古い式に則った土葬の方式であるのだと思う。

オモニに男児を生むことを願っていたアボジの事は、朝鮮の儒教精神から来るものとばかり思っていた。親子でありながら、話し合う事は殆んどなかったし、叱られる事もなかった。

アボジとは、私にとって直に話の出来る相手ではなかったが、今になってアボジも寂しかったのかもしれないと思うようになった。

朝日歌壇の入選歌に、アボジの関わる歌を探してみた。やはり少ない。

畑よりの強制徴用のわが父も居住許可願いの外人登録をす 近藤芳美選    不明

強制連行の孫なる子よ汝がいま慰安婦のこと取材に走る1   近藤芳美選  1992年1月

談合にはずされ顔面蒼白の父の代筆震えつつ書く       近藤芳美選  1997年6月

日本の土を再び踏まぬこと決めて土葬の待つ祖国に帰るアボジ 近藤芳美選  不明

また一人朝鮮籍を捨つ帰国せし老父に会わむ自由を得むと   近藤芳美選  1998年3月

韓国のアボジに会いに行けよとて主体思想の夫は別れを言う  近藤芳美選  1999年4月

アボジ逝くこの夏「ふくしまの一〇〇年」の写真入りの記事にわが家の連行                             馬場あき子選 1999年4月


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by pcflily | 2015-04-04 16:18 | アリランエッセー | Comments(2)