<   2014年 09月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 

独島(石)?竹島(松島)?

  • (どっ)()石島(そっと))? 竹島(たけしま)松島(まつしま))? 十二月号 二〇一二年 朴貞花

     
     

晴れた日には     (朝鮮実録・朝鮮王朝の史書) 

鬱陵島が見えると        

『世宗実録地理誌』は記す              

隠岐の島から竹島は見えない

                 (世宗王・在位1418~1450年)
     江戸時代唯一の官選地図

『官板實測日本地圖』に

竹島(鬱陵島)松島(独島)はない

一九五二年版の『日本全図』にもない   
                    (
対日講和条約発効年)

安龍福は江戸幕府に申し立て      (粛宗実録)

竹島・松島を朝鮮の

江原道に属する事を明らかにした

「竹島松島其外両国に

付属の島はない」と鳥取藩   (鳥取県立博物館蔵)

江戸幕府は一六九六年

「渡海禁止令」を出す

一八七七年の太政官指令書

「竹島他一島之儀本邦関係無ト心得事」

「次に一島あり、松島と呼ぶ」 (国立公文書館蔵)

大韓帝国は一九〇〇年

「勅令四一号」公布     

郡守は「本軍所属獨島」と

領有権を明確にした

内務・外務・農商務大臣却下の

独島の領土編入は一九〇五年

ロシア艦隊との決戦に備え

日本軍大隊・望楼を置く

 

日本軍に王宮を包囲させた

伊藤博文の恫喝・暴力による

「第二次日韓協約」は

一九〇五年

外交権をも奪取した

☆「竹島」と日本の呼ぶ竹島には、竹が一本もないと言う。かつての呼び方は松島であったと言う。名前の呼び方からだけ、考えても可笑しいと思う。この問題を研究していて韓国側の意見が正しいと知り、韓国人に帰化して大学教授になった男性の記事を読んだことがある。
島根大学教授の内藤正中さんの著書『竹島・独島問題入門』は梅田さんがプレゼントすると送って下さった。分かりやすい本である。
著者の内藤さんは「私は日本国の名誉の為に、史実に基づいて歴史を解明する意図から本書を執筆した。外務省の主張は、歴史の一部をつまみ食いしている。歴史認識の共有を図ることが課題、史実に基づく研究の成果を正しく受け止めて~~。日本国民が恥をかくことだけは避けたいと願うものである]あとがきから抜粋した。

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    ○居間から見えた昇る朝日、瞬く間に色が変わってゆく。



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by pcflily | 2014-09-30 12:27 | アリランエッセー | Comments(6)  

関東大震災時朝鮮人虐殺 神奈川追悼会

十二月号原稿 二〇一四年

関東大震災時朝鮮人虐殺 神奈川追悼会   朴 貞 花   

土砂降りの雨の中の百余名

石橋大司さん一人で建立の

「関東大震災朝鮮人殉難の碑」の前

虐殺の歴史的事実を

多くの日本人は目撃した

誰もが口を噤んでいる

記憶せよと石橋さん

史実を探り続けた人達の

雨の中の群読が続く

「日本政府と軍隊・警察が

流言を拡大し虐殺を繰り広げた」

「水面に顔を出した朝鮮人の

頭をめがけてトビが飛ぶ

トビで引っかけてズルズルと引き寄せ

刀で切り付け、竹やりで突く」

「東京湾には朝鮮人の死骸が浮き

死骸の上を歩いて渡れるほど――

子安海岸には白骨が

累々と広がり放置されていた」

「国は戒厳令を発動させ

軍隊・警察・自警団は朝鮮人を虐殺した。

責任を認め謝罪せよ」

死者達の怒りの声と悲しみの声

「サムルノリ」の演奏は

私の胸を締め付け、身を震わせる

軍隊・警察・虐殺は認めぬと

副読本を「溶解処分」にした

横浜教育委員会の焚書。

国益の為の隠蔽は

ヘイトスピーチを生んだ

  隠蔽は現在も続けている――

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○出かける時には土砂降りの雨だった。現地についてからも雨は止むことなく降り続き、追悼会は雨の中で行われた。
碑の前には朝鮮人の家では、どの家でも行われる死者へ対しての食物が供えられていた。朝鮮人のする祭祀が行われたといえよう。
 この追悼会は、教科書や副読本から「朝鮮人虐殺」や「虐殺」と言う言葉が教育の現場にふさわしくないと溶解処分にした教育委員会に抗議している人々が立ち上げた。町の中でヘイトスピーチを声高に煽るような排外主義に危機感を感じ、横浜の虐殺事実を究明し、伝え、虐殺された朝鮮人の追悼をしようと思った人たちが集まった。
2012年9月1日に横浜久保山の「朝鮮人慰霊の碑」の前で出会い、2013年1月に「関東大震災時朝鮮人虐殺90年神奈川実行委員会」を立ち上げ「横浜の朝鮮人虐殺」を共に学んできたと言う。誕生まもない新しい会であった。


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by pcflily | 2014-09-28 17:38 | アリランエッセー | Comments(4)  

歌集「小さな抵抗」

歌集「小さなさな抵抗」  十一月号 二〇一二年 朴貞花

  

「汝殺す勿れ」を守り続けた

一兵卒渡部良三の歌

敗戦後四十七年目の出版

現実を直視し主情を(うた)うは

短歌なれど

残酷すぎると選歌を

反対された歌も――

天皇の給う道と

捕虜を殺す演習

刺し殺す数など案ずるな

まっしぐらに突け――

刺突銃は捕虜刺殺専用

教官は胸張り

気合鋭く刺し殺し 

にやにや笑う

捕虜一人を

新兵十人が突き刺し

血にまみれ襤褸となる

地に額をつけ

子の命の助けを乞う母

血まみれの深傷の老婆を

幾度も打ち敲き

井戸に投げ入れる

捕虜を殺すは天皇の命令

虐殺を拒むは国賊と

昼も夜もなく私刑は続く

天皇の賜える罰と

天皇の赤子へのリンチ

水責め・匍匐・捧げ銃・殴打

対抗ビンタ・ゲートルリンチ―

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○ 我が家から20分程離れた根岸森林公園の桜。日本の国花と言えば「菊」であった筈だが、いつの間にか、誰もが桜と言う。
春の桜は本当にきれいだ。「同期の桜」という歌があるが、誰が考えたものか、咲いたと思ったらパッと散ると、人間の命も軽くあしらわれたものである。じわじわと、追い込んでいく手法は現代の日本も同じだが、一度犯した過ちに、又、引きずられているのに気が付かない人々があまりに多い。現政権を支えているのは,他でもないこの国の成人である人々である。
司馬遼太郎の明治栄光論の歴史観のドラマを長い事、NHKでやっていたが、吉田松陰のテレビドラマが始まると言う。この国は、どこまでいくのだろうか?


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by pcflily | 2014-09-24 17:37 | アリランエッセー | Comments(2)  

慰安婦追悼の碑

  • 慰安婦追悼の碑  二〇一二年 八月号   (ぱっ) (ちょん) (ふぁ) 

      

朝鮮は儒教の国

婚約者が死亡した娘は

結婚を許されなかった

帰れなかった 故郷

慰安婦であったと

名乗り出るまでの苦悶――

五〇年の後であった

名乗り出た二三四人

生存者は六三人

ハルモニ達の「水曜集会」

二〇年を超え一〇〇〇回を超えた

帝国日本

皇軍兵士の犠牲になった

数えきれない女性

処女(ちょーにょ)(娘)供出の強制

親は娘の結婚を急いだ

三つ編みの黒髪に赤いテンギ(リボン)の処女

髪型で処女は見分けられ拉致された

蓬を摘んでいた

沈達連さん姉妹

トラックに連れ込まれ船で運ばれ

皇軍兵士の慰安婦に――

日本政府は

公式謝罪と賠償を拒否し

韓国の「平和の碑」の撤去を要求した

米国に「慰安婦追悼の碑」が設置された 
        (ニュージャージー州・パラセイズ・パーク市)

自民党国会議員は訪米し       
           (山谷えり子・古屋圭司・塚田一郎・竹本直一)

投資をすると撤去を求めた

ロトンド市長は拒絶する

「市民の税金で作った・撤去はしない」

○カロライナジャスミン
花が終わった時に、清く散る花だ。未練がましく枝にしがみ付いていないところが気に入っている。ベランダから塀まで繋いだ網の上、空中で咲いてくれる。

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by pcflily | 2014-09-23 21:19 | アリランエッセー | Comments(2)  

短歌とは言えない

  • 短歌とは言えない  二〇一二年 七月号   朴 貞 花  

ありのままを書いた

評者は断言する

リアリズムがあると言えるのか

疑問です

短歌とは三十(みそ)(ひと)文字(もじ)の定型詩

行分け作品もこれに準じる

新日本歌人は短歌の文芸誌だ

短歌とは排悶の文学

感動を抒情を

形式に当て嵌める

言いたいことを述べる場ではない

例えば反対を訴える事は

抒情とは言えない

被害の悲しみを

韻律と定型の中に

定型の三十一文字に装う(すべ)

ゆとりがなかった私

突き上げる思いと

 飢えが激しくて

師の教えが蘇る

上手い歌より良い歌を

花鳥風月より

生のいとなみの「具体」を

一番言いたい事を、端的に、

率直に、普通の言葉で

自分自身の歌を詠め

短歌は

「いかに生きるか」だ

選のあとに
短歌とは三十一文字の定型詩
行分け作品もこれに準じる
新日本歌人は短歌の文芸誌だ
               朴 貞 花
この歌は反語であって、作者の言いたいのは、これと反対の事だ。定型に従属せず、存分に作歌してみたいという考えは私にもある。作者は真剣に自由律を作った。植民地、差別への怒りを込めて―。忽ち反論が上がった。長すぎる。リアリズムでもない。等々批判された。作者は傷つきながら闘った。表現を鍛えた。
一番言いたい事を、端的に
率直に、普通の言葉で
自分自身の歌を詠め
短歌は「いかに生きるか」だ
              
これらは彼女の血の滲むような闘いの結実である。

☆ 選者の言葉が私の涙腺を刺激した。その後も書き続けることが出来たのは、この選者の有難く嬉しい言葉のお蔭でであった。
また、友人の梅田さんも、リアリズムがないと評を下した人の他の作品の読み間違いも指摘して、私への応援の文章を書いて下さった。
何時ものことである。辛い時、落ち込んだ時、素晴らしい人が現れて、私を応援して下さる。振り返ってみると、無力な私が今日まで生きてこられたのは、周りに助けて下さる人がいてくれたからであった。最近の私は、不安感でいっぱいになり、どうしょうもない状態であった。
突然、千葉から会おうとの電話があった。横浜まで来ると言う。お土産を下さり、大好きなお寿司をご馳走して下さり、愚痴を一杯聞いて下さり、素敵なショールまで買って、プレゼントして下さった。日比さん、この度もお世話になり有難うございました。

批判された行分け作品


大韓帝国皇太子英親王李垠伝  十月号(十月集に)二〇一一年               



この腕を斬り落とされようと


「日韓併合の署名には応じない」


皇帝高宗は最後まで拒否をした



日本の横暴を訴え


万国平和会議に密使を送り


皇帝の地位を奪われた高宗   



高宗の末子の李垠は十歳


軍服を着せ留学だと


日本に連れ出した伊藤博文    


天皇から謝礼金を貰った



高宗の突然の崩御は毒殺という


民衆の怒り


全土に拡大した三・一独立運動 



教会に村人を


閉じ込めた日本軍


この子だけは助けてと叫ぶ母の眼前で


子供の頭に銃剣を突き刺す



李垠の婚約の破棄を命じ


梨本宮方子との強制結婚


妹の徳恵・従兄の鍵にも


日本人との結婚が待つ



十歳の李垠の留学は人質


陸軍幼年学校・陸軍大学校


陸軍少将・陸軍中将と


天皇に仕える道だった



敗戦後は無国籍の平民と


放置された李垠


五十六年目の帰国は


祖国の土を自分の足で踏めず


意識不明のまま


ついに戻ることはなかった


居間の網戸にしがみ付いて、何時までも泣いていた蝉、独り居を慰めに来てくれたのだろう。f0253572_22113062.jpg



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by pcflily | 2014-09-20 22:14 | アリランエッセー | Comments(2)  

高校無償化排除の朝鮮学校

  • 高校無償化排除の朝鮮学校  六月号 (六月集)二〇一二年  
     
     

仰げば白梅

あしもとに黄水仙

チューリップも蕾を見せて春

朝鮮学校の春は遠い

高校無償化決定から三年

朝鮮学校は排除されたままだ

排除は誰の意志と喜びなのか?

自分の名前と言葉を学び

自分の歴史を学ぶ

自分たちの手で作り六五年

   今年も朝鮮高校の卒業生は

父母も祖父母も日本生まれ

 国籍は朝鮮・韓国・日本と多彩

学業に運動・美術・吹奏楽・舞踊

 簿記・英語・電卓能力などの検定
   みな青春の汗を流した

群馬から遠距離通学の 
   孫と
足の不自由な友と二人

 三年間ともに無欠席

孫は高校からラグビーを始めた
   都選抜選手となり帝京大への
    入学の道を開いた

朝鮮学校の差別を

国が公言する

両手に余る負担を抱え―

親子代々守り続ける

民族の教育と自負心

東京朝鮮高校一年の孫、農楽の演奏でケンガリを任された。ラグビーを始めて卒業する頃には体重100キロだ。中学生の時には保育士になりたいと言っていた優しい子であった。
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☆身勝手な朝鮮侵略をした秀吉の権力を握った時代は10年余だ。朝鮮と日本は隣国として、古代も近世も江戸時代も友好関係が続いた。江戸時代は260年だ。12回の朝鮮通信使を最高のもてなしをして迎えている。人々は朝鮮からの知識吸収に奔走している。
明治になってから植えつけた朝鮮蔑視政策が現在に及んでいる。朝鮮学校への冷遇はその中でも最たるものだ。日本の政府がこのような差別政策をしていては、日本の子供達に頻繁に起きている「いじめ問題」が解決することはないと思う。未来を担う子供たちに、一番近い隣国と仲良くすることを伝えようとしないのは、何故なのか?まったく理解できない

上京してからの私の心情を書いたエッセーの中から、終わりの纏めの一部分を書き写しました。こんな気持ちで生きてきました。

本名を名乗り、日本人の中に一人で入って、私なりに、頑張ってきました。

私たちは正しい歴史を知ることにより、理解を深め、真の交流が出来るのではないだろうか?
金田一春彦氏の言葉を抜粋して記してみよう。

 言語学の立場から、朝・日両国関係を見ると、日本語の「は」と「が」にあたる朝鮮語、相手によって「です、ます」部分が変化する敬語、擬態語や文法の順序等「他にはどこにもない位、ソックリ」です。古代の高句麗語、百済語などが明らかになれば、両国の関係の深さはより明確になる。

朝鮮というのは民族名で、『朝鮮民族』と言ってきた。『韓国民族』とは言わない。昔から朝鮮語と言っておりましたし、朝鮮と言って親しみこそすれ、馬鹿にしたり、北だけを指すと言う気持ちは全然ない。朝鮮独自の文化に安堵感を覚える。朝鮮の民族衣装チマ・チョゴリは「世界で最も上品で優雅な民族衣装である」

 日本語に「はなから(物事の始めの意)」という言葉がある。

朝鮮語の一(ハナ)からきている。分断祖国の統一と世界の心が一つになって、お互いを認め合い共生することを願い、私は「端(はな)の会を作った。

ハナは朝鮮語で「一」である。「一人」である。
「ハナ」
から、「一人」から「一人」へ、私からあなたへ、あなたからあの人へ、次々と繋がってゆき、最後に大きな「ハナ」・「一つ」になる。共生の大きな幸せの花になる。

好きな言葉の一つに「賢者は砂上に城を築く」がある。すべての始まりは、夢を持つことから始まる。千里の道も一歩から、こんな小さな「ハナ」だが始めている、続けている。

 歩みはどんなに遅くとも、たとえ、一粒の麦の力でしかないであろうが、隣人の日本人を信じ続ける、人間を信じる事で、朝鮮人の私を隣人として扱ってもらえることを信じて歩いてゆくつもりだ。

『学ぶこと、知ることから和解と真の共生がある』が、何時も言っている私のモットーである。 何時までも、大人になれないと批判を受けているが、普通の大人になりたいとは思わない。


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by pcflily | 2014-09-13 18:26 | アリランエッセー | Comments(7)  

大国アメリカは

 

  • 大国アメリカは 十月号  二〇一二年   朴貞花

日本の降伏を確信しながら

原爆を二度も落とした

大国アメリカ

帝国日本は

二度の原爆を予知しながら

国民に知らせなかったのだ――

カイロ会談は

朝鮮の独立を決めていた

ヤルタ協定で

米国はソ連の参戦を要請した

解放の日に備えていた朝鮮人

全国人民代表大会は九月六日           
  「朝鮮人民共和国」の建国宣言 
 

三八度線以南は         

「米国の反共の砦だ」

独立を認めず軍政を敷いたアメリカ
                

 反共・反日の李承晩を育て  

軍政の朴正煕を守る

全斗換の光州市民への武力鎮圧に
    軍隊動員を許可したアメリカ

米国に

沖縄を提供した日本

米軍の維持費を提供し

国民に増税をせまる

核兵器の隠れ蓑の原発

地震国日本に五十四基

「フクシマ」を傷つけたまま

 再稼働だ


  「脱原発」を求め続ける人々

七月十六日は十七万人

☆「まさかまさかが人を殺す」という諺があると、オモニが注意をするようにと、単純に人を信じる私に教えてくれた。
安倍政権が女性起用をうたい文句にして選ばれた人間が、同性でありながら、どうしてこんな暴言を吐くのかと思った人や、靖国参拝に先頭に立って行く人のが選ばれている。
まさかまさかと思う間にどんどん右傾化に進んできている。どこまで行くのだろうか?恐ろしい。

○「萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花(をみなえし)また藤袴あさがおの花」
山上憶良が詠んでいる様に、秋の七草の始まりにある。けれども、我が家の萩の花は四季咲きなのでいつでも咲こうとする。強い花で伐っても伐っても伸びてくる元気な花だ。写真は今年の春の花。

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by pcflily | 2014-09-06 14:26 | アリランエッセー | Comments(2)  

オモニの糸巻

☆子供を朝鮮学校へ通わせたくて上京したのは、1971年。両親が九州へ旅行に行っている時であった。外出先から帰宅した時には一番先に玄関に飛び出してくる貞花がいつまでも姿をを見せなかったので、どうしたのかと姉に聞いてもなかなか返事をしなかったという。事実を聞いた時にはどんなに驚いたか分からないと、後に何度も言われた。
それでも、間もなくオモニは私の所に来ることを、楽しむようになった。午前中に家事をこなし、午後は町の散策を楽しんでいた。近所の商店街の人達とも親しくなり、しばらく上京しないと、何時、来られるのですかと聞かれる程になった。
そんなオモニが還暦を過ぎてからは、今回が最後かもしれないと言うようになっていた。11歳の時には両親に先立たれていたオモニは、寿命の短い家系だから長くは生きられないと言うのが口癖であった。学校には1日も言ってないオモニは仕事をすることだけが生きがいであった。
けれども、オモニはその後も何年も私の為に上京してくれた。10個を覚えれば数字が分かるようになると、嫌がるオモニに数字を覚えて貰ったのがその頃であった。チラシを見て練習したら、そんなにかからないで覚えてしまった。オモニに趣味を持って楽しんでもらおうと折り紙などを勧めたが、遊びには関心が持てず長続きしなかった。そんなオモニが自分の名前を書く練習をしたいと自分から言い出したのは80歳を過ぎてからであった。田舎に帰った時に、自分で医院の予約帳に名前を書けるようになって良かったと喜んでいた。
92歳のオモニを我が家に呼び寄せた時に、手を動かして貰おうと、糸を探したが撒いてない糸はなかなか見つからなかった。あちこち探して漸く見つけたが、黒と白だけであった。かつては小枝を削って心棒にしたが、割箸でするようになっていた。長さを12センチほどに切り、2種類のきれいな布を巻く。それに糸を巻きつけていく。昔、織物をしたのであろうか?織物をする時の糸の巻き方であり、私には真似の出来ないことである。娘も孫も結婚する時には、色々な色の糸を巻いたものを、記念にとオモニは糸を巻いて持たせていた。
○田舎にいる時に巻いてもらって残っていた黄色。白と黒は横浜にきてから巻いてもらった糸。上は巻かないままに残された白糸が2、黒糸1。
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by pcflily | 2014-09-04 23:47 | アリランエッセー | Comments(2)  

アボジとオモニの韓国土産


  
  玄孫まで四十九名の血縁の「在日」遺し白寿のオモニ逝く    神奈川歌壇 

評 九十九歳の大往生、見事な末広がりにも敬服するが、何よりも母上へのいたわりに満ちた哀惜の一首に思いを深くした。 今野寿美選  2014年8月31日

☆8月29日は陰暦で8月5日だ。私の生まれた日でもあり、娘も陰暦では同じ日に生まれ、二人とも陽の昇る頃に生まれた。私は76歳になった。
守護神のオモニが逝ってしまい、オモニっ子から、独り立ちしなければと試行錯誤しているが、不安感は増すばかりであった。
最近、短歌を詠むことはなかったのに、オモニのことを思い詠んだ、たった1首を投稿したものが入選した。初めて作った短歌を「朝日歌壇」に投稿した時に、選者とは、31文字の中から、見も知らぬ私の思いを汲み取れる素晴らしい人であるのだと感動した。あの日、入選した自分の短歌を読み、夫の死をはっきりと再認識して泣いたことをも思い出した。今回の入選でも、私のオモニへの思いを、選者がしっかりと汲み取って下さったことで、気持ちの整理が付けられそうな気がする。
子育ての頃は、子供の事が最優先、子供が結婚した後も長いこと子離れが出来ないままに、オモニのことを最優先にしていた。これからは、自分の為にも、少し何かをしたいと思う。

☆アボジとオモニの初めての帰郷は1970年代。韓国に行きたいとのアボジの思いは早くから強いものであった。1910年生まれのアボジに、還暦が過ぎてからと、家族が引き留めていた。人生五十年の考えが当たり前の頃であったが、南北の統一を信じていた私達であった。アボジの還暦の祝いが済んでも、朝鮮は分断のままだった。アボジは痺れを切らして、痴呆の真似までしたので、一人では行かせられないと家族が心配して、オモニも韓国籍に変更して帰国の夢を果たした。
その日の様子や、夫の逝去の事を詠んだ短歌が、1976年8月の月刊『統一評論』に掲載されている。

初めての帰国の記念と形見にと七人娘に、お揃いの純金のネックレス、指輪、イアリングをお土産に買ってきた。アボジとオモニにとっては、大変な出費だったと思う。その時、私だけに、何時もチマ・チョゴリを着るからと、このビーズのバックを買ってきて下さった。他の姉妹は「貞花にだけとは酷い」と憤慨した。
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姉妹が憤慨したので,2度目の帰郷の時に、特別注文で、7人姉妹に色違いの同じ形のものを買ってきた。大きいので驚いた。(左上のもの)オモニ用のもの(左下)を、あまり使わないからと、私に下さった。
貞花は何でも大切にするからねとー―。でも、最近はこれらのものを使う機会に恵まれない。淋しい。
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by pcflily | 2014-09-02 22:33 | アリランエッセー | Comments(2)  

関東大震災・朝鮮人虐殺フィールドワーク

9月1日は「関東大震災」のあった日であり、朝鮮人にとっても、日本人にとっても悲しい記憶の蘇る日である。昨年は関東大震災の朝鮮人虐殺を31年も演じ続けてきた「荒野座」の公演に招待されていたので、参加できなかったので、今日は雨の中を歩いて現地を観てきた。
募集人員は20名であったのに、40名を越えていたようであった。

見捨てられていた沢山の朝鮮人の遺体を大八車に載せ、供養してもらえる御寺を捜し歩いた李誠七さん。手塚敏明さんの紹介により宝生寺の佐伯妙智さんが引き受けてくれ「朝鮮人法要会」も開かれたと言う。李誠七さんの遺志を受け継いだ鄭東仁さんの奔走により韓国人団体が1971年に「関東大震災韓国人慰霊碑」が建立された。李誠七さんが1924年に始めた追悼会、現在は民団に引き継がれ、朝鮮人による追悼会が今に至るまで行われているのは全国でも此処だけであると言う。

当時、小学2年生だった石橋大司さんは1974年に碑を建立した。
「関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑」小学1年の石橋さんは家族とと一緒に逃げる途中で、電信柱に後ろ手に縛られた朝鮮人の死体を見た。血にまみれていた。
「多くの日本人は朝鮮人を虐殺したり、目撃しているのに、口をつぐんでいる。恥ずべきことだ」と1970年代に入り、当時の飛鳥田一雄市長に手紙をだしたが、受け入れられず、私財を投げ打って、市有地に許可を得て慰霊碑を建てた。震災から51年目だった。自分の名前を入れず「少年の日に目撃した一市民建 之」と記されてある。
  写真は、石橋さんの建てた「関東大震災殉難朝鮮人慰霊の碑」
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西川春海「遭難とその前後」より(横浜市震災誌第5冊)
「けさもやりましたよ。その川っぷちにゴミ箱があるでせう。その中に野郎一晩隠れてゐたらしい。--それを見つけたから、皆でつかまえようとしたんだ。奴、川へ飛び込んで向ふ河岸へ泳いで逃げやうとした。旦那、石ってやつはなかなか当たらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが一つも当たらねえ。でとうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎ぢやねえか。十分くらいも水の中へもぐってゐた。しばらくすると、息がつまったと見えて、舟の直きそばへ頭を出した。そこを舟にゐた一人の野郎が鳶でグサリと頭を引っかけて、ヅルヅル舟へ引寄せてしまった。まるで材木といふ形だァネ。」「舟のそばへ来れば、もう滅茶滅茶だ。鳶口一つでも死んでゐる奴を、刀で斬る、竹槍で突くんだからーー」
 
☆今日の資料より抜粋した。今夜は安眠出来そうにない。

       



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by pcflily | 2014-09-01 22:33 | アリランエッセー | Comments(2)