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時代の奔流のなかで

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胡蝶蘭は無事に16個の花を咲かせてくれた。花期が長いので猶のこと嬉しい。
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 二枚の私の姿が居室に飾ってある。下部の方は写真であるが、都内で行われた福島県の県立女子高の同窓会に50年振りに初めて参加した時の記念写真だ。三年間在籍していたのに、知り合いは一人もいなかった。私の席は8歳年下の人達と一緒であった。
同席の写真を趣味とする人が、チマ・チョゴリ姿を直に見るのは初めてと言って、写真を撮らせてと言われた。チマ・チョゴリを着てみたいと言う人もいて、貸してあげて写真に納まった人もいた。そのカメラを趣味とする人が大きく引き伸ばした姿を額装して送ってくれたものである。嬉しい驚きであった。
 もう一つ、この同窓会に出席して驚き、喜んだことは50年振りであったのに、英語の先生が、私のフルネームを覚えていて、声をかけて下さったことだった。紅顔の美青年であったのに退職校長会の会長さんと頂いた名刺にはあったこ北朝鮮に帰ってしまったかと何時も心配していたと仰った。記憶に留めていて下さる先生がおられたことが私の胸を熱くした。
英語の先生だった大竹正容先生が山ノ内寿太郎校長先生を紹介して下さり、私の歌集『身世打鈴』と息子の李淳馹の著書『もう一人の力道山』『青き闘球部」等を、母校の図書館の蔵書にして頂いた。

 上部の額装は、洋画家という方が私をモデルに描いた水彩画をプレゼントして下さったものである。50年近く続いた「日・朝友好展」の日本側代表になった人である。この年に私も、事務局長の仕事を引き受けた。
友好の為にと言う彼の申し出に、友好の為にならとモデルを引き受けた。この絵はこの年のパンフレットの表紙になる事に決まった。ところがその事が気に入らないとあらゆる方法で止めさせようとしたものがいた。
 お金があるという女性で何でも金で解決してきたのであろう。けれども結局、パンフレットの表紙はこの絵になった。これに怒った彼女は私を事務局長の席から引きずりおろすことを始めた。誰も引き受け手がなかったので、奉仕しようと仕事をしていただけだったから、そのことを知り、私はあっさりと止めた。苦い思い出の絵である。
 それにしても、詩歌、書、絵画、写真の友好展示の会であることは文化人の集まりと思っていたのに、朝鮮人も、日本人も、誰一人として、身勝手なその人を諫める人はいなかったことにショックを受けた。彼女はこの年の最初の会合の時に勝手に止めて、勝手に舞い戻り、誰の許可も得ずに元の席についていた。
 拝金主義はどんな小さな集まりの時にもある。何度も経験してきたことではあるが、文化人の集まりでさえ、変わらないことを知った。
 権力と金にまみれた世界が起こした韓国の「世越号」の事件で、思い出してしまった忘れられない嫌な事件だった。
 今回の韓国での事件は、北朝鮮の拉致事件の発表の時と同じぐらいに、衝撃を受け失望した事件である。あまりにも、酷い人災事件だ。大統領選挙の時も国家情報院が関与する国である。韓国社会の実態でありその腐敗の膿が出たのだ。


   時代の奔流の中で      2005年4月25日  Ⅰ(あい)女の新聞 掲載

  母国なる北も南も塀高く延辺よりの「天池」をめざす

  紺青の水たっぷりと「天池」あり白頭山の頂上に今、立つ

 朝鮮人ですと自己紹介すると北朝鮮ですね、と言われる。けれど私の生まれたところは現在、韓国と呼ばれ ている南である。
 強制連行によって炭鉱で働く父が逃げ出さないために、人質として呼び寄せられた。
 日本の敗戦により解放されたとき、日本に居る朝鮮人は、すべて国籍欄に「朝鮮」と表示された。
  大国の意志により分断された祖国の国名を名乗ることは、自分も分断を認めることになると「朝鮮」を変更 しないでいる。将来必ず統一すると思っていた祖国は、半世紀を越えても分断のままである。
  かたくなに守り続けた、国籍欄の「朝鮮」のために、日常生活では北朝鮮の人間として阻害され、その北朝鮮には親族が一人もいないので、自由に行くことさえできない。
 国交が結ばれていないので親族訪問でない場合には、簡単に許可されないのだ。生まれ故郷の韓国にも「朝鮮籍」であるために簡単に許可がでないのだ。日本人や他の外国人が自由に往来しているにもかかわらず、私には自由往来の権利がないのである。
 この事を知っている人があまりにも少ない。
中国から回り道をして、近年ようやく尋ねることがのできた「白頭山」、その喜びと感激の歌、上記の2首が「朝日歌壇」に上位入選した翌日の新聞とテレビは、小泉首相の北朝鮮訪問で発表された拉致問題一色であった。
 長く続いた南の軍政と韓国政府の在日朝鮮人への無策に失望していた。そこに、北朝鮮の拉致が明らかになったことは、私を悲嘆のどん底に突き落とした。
 マスコミは連日、拉致報道を流し続ける。恐怖で外出を控えたくらいだ。
罪のない朝鮮学校の子どもたちはどうなるのか?私の孫や親戚の子どもも朝鮮学校に通っている。
 在日は、謝罪の意味も込めて大事にされて良いはずなのに、差別され続けどんなに苦しんだことか分からない。

  強制連行のアボジの子なり棄民なり差別・蔑視・無視・放置の六十余年

  呼び寄せしオモニの今宵の身世打鈴釜山より常磐炭鉱に来し日まで

 「朝日歌壇」に載った短歌に読んだアボジの軌跡を「強制連行」にあたらないと言い、書き散らす人が最近でてきた。
 国内法でも国際法でも認められている言葉で表された父の歴史を否定する。そんな現状を私は怒り悲しんでいる。勿論理解している人も大勢いると信じているが。
 南北首脳の握手や韓流が受けているのも嬉しいが、朝・日国交正常化実現が切に待たれる日々である。

  ★日本の右傾化が進んでいるようだ。沖縄の衆院補選で自民勝利という。
消費税を増税し、原発を再稼働、集団的自衛権の行使容認などの恐ろしいことを考えている与党が当選するとはーーー。それも沖縄で―――。韓国に劣らず、拝金主義がはびこっているのだろう。
 収入も資金もない私は、ますます居場所がなくなってゆく。生きて行く為のがむしゃらな若さもなく、知恵もないのだ。この小さな家で草花と会話しながら、引きこもるしか術がない。
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by pcflily | 2014-04-27 19:23 | アリランエッセー | Comments(3)  

  祖国よ、故郷よ     『身世打鈴』別冊より

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     祖国よ、故郷よ         (1992年5月)

 船は朝焼けの光の中を元山港についた。数え切れない沢山の人々の花と旗の波と、マンセーの大歓声で迎えられる。これが祖国だ。夢にも忘れることの出来ない祖国だ。その土を踏んだのだ。1992年3月30日である。
 金日成主席の誕生八十周年、金正日将軍誕生五十周年、朝鮮人民軍六十周年という年に朝鮮民主主義人民共和国を訪問することになったのである。「四月の春親善芸術祝典」に参加する在日朝鮮人芸術団の一人として長年の夢であった祖国訪問が実現した。
 一ケ月にわたる平壌滞在の日々は夢のように過ぎた。建築用地八万平方メートルの人民文化宮殿の開会式と5千名が出演する合唱団などの、歌舞公演、十万人が出演する金日成広場での一糸乱れぬ大集団体操、朝鮮人民軍の閲兵式、松明の示威行進、魔術師のようなサーカス団、私は、ただ感激、驚嘆、興奮のるつぼにおちいるばかりであった。日本にいては分からないこの国の一つになること、一致団結された朝鮮人民の気概を実感した。
 金日成主席は、四月十五日「今日、心が痛むことは統一された祖国で共に幸せを分かち合うことが出来ずにいることだ」とおっしゃった。
 4月18日金日成主席に連合公演を見て頂き、公演終了後、主席とともに記念撮影に入った。八十歳とはとても思えない若さと崇高な面持ち、人民の尊敬と、世界の人々の信頼を受けていることが、私にも納得出来た。
 四月二十八日、在日朝鮮人芸術団の単独公演を金正日書記がご覧になり、その後、牡丹閣に於いて、金正日書記を初め人民軍の人も同席の晩餐に招待された。私の日本での生活では、味わえない豪華なご馳走を前に「ポチョンボアンサンブル」の公演を満喫しながら、延々四時間の刻を楽しく過ごした。
勿論、宴会の最後は、素晴らしい歌劇団による朝鮮の民謡に合わせ、オッケチュムで心置きなく楽しませていただいたのであった。金正日書記は、在日朝鮮芸術団の一人ひとりと祝杯を重ねるということと合わせ、前代未聞の接待をしてくれたのである。臨機応変に、事を運べる人であると、希望を持ったことであった。
 日本を発つときには、想像だに出来なかった夢のような最高の待遇を受けた一ヶ月であった。
 子供だけを見つめ、生きて来たが、それを支えてくれたのは金日成主席を知り、祖国を知ったからであった。私達が三十八度線を自由に踏み越えて、北半部も南半部も等しく往来できる日はそう遠くない筈である。
 統一を望む歌でなく、統一出来た喜びの歌を歌って、春には街路にどこまでも続く、杏の花の淡紅色、柳の木の淡緑、連翹の花の黄色に色付く中を、私の車を、私が運転して、私の生地、忠清道まで走る。そして、秋には白頭山に登ろう。漢拏山に登ろう。
その日は、きっと、来ると信じたい。

☆この訪朝の2年後に金日成主席が亡くなった。後継者として金正日総書記が誕生した。朝日新聞社発行の週刊誌『AERA』の記者が取材に来た。1997年10月20日号に掲載された。あまり総連の色に染まってない私が選ばれたのかもしれない。長年、総連の専任として働いていた町田支部の委員長や町田支部の女性同盟の委員長が、金日成主席と一緒に写真を撮ったことがないので、嫌味を言われた位であったから、私の訪朝は、普通ではなかったことになる。だからこそ『AERA』の記者は訪ねてきたのだろう。
 上記の文章は案内役の総連の中央の女性同盟の人に、どうしても書いてほしいと懇願されて書いたもので女性同盟の月刊雑誌に掲載された。原稿用紙20枚ぐらい書いてほしいと言われ、その通りに書いたのに、これだけに削られていた。彼女は,朝日歌壇に投稿した私の短歌が入選して、朝日歌壇に掲載されていた私の短歌を何時も読んでいたと言って、一人ぽっちの私をずっと大切にしてくれた。最後の日の宴会の時にも役席の人達の傍に呼んでくれたりした。 
 
 ☆この朝鮮訪問に参加できたのは、町田市の同胞の」若い女性の歌の会に誘われ入会していた。そこで、総連の全国芸術大会で最高賞を受賞したので、その時に歌った人は、コーラス団の一員としての訪朝団に参加できることになった。
私の訪朝をオモニを初めとする親族一同が心から喜んでくれた。オモニは神様が下さったご褒美だよと、涙ぐみながら自分の事の様に喜んでくださった。

 3月31日に出発して日本に帰ったのは4月も末の事であった。長引いてしまったのは、在日朝鮮人芸術団として金日成主席に、日本から行った私達「在日朝鮮人芸術団」の単独公演を見てもらう事を実現したい為であった。世界中から金日成主席に会うために要人が来ているので多忙の為に時間が取れないからだった。結局、金正日書記に観覧してもらい、翌朝、早くに平壌を出た。毎日のように、今日こそは公演が出来るだろうと、直ぐに歌い出せる体制で舞台に立って待っていた。世界各国との合同公演の時は金日主席成も客席から拍手を送って下さった。私は背丈が小さいので何時も中央の前列に立ち歌った。だから金日成主席がシアヌーク殿下と話し合っている様子等を初めとする観客席を良く見ることが出来たので楽しかった。

 1ケ月の滞在中に私は一度も美容室に行かなかったが、何故かその日は公演が出来るという予感がして美容室で髪を結ってもらっていた。本当に予感した通りに公演が実現したので、予感が当たり自分でもびっくりしたことを覚えている。周りの人も羨ましがっていた。
どちらかと言えば、予感が当たる方であるが、この日の予感は嬉しかった。

 或る日、息子に言われた。天才と何とかは紙一重というけれど、オモニも、それに近いところがあるる。そんな、酷いことをーーー。その例は何と聞いたら、普通の人より感受性が強すぎること、あまりにも正義感が強すぎる事だと言う。貶されたのか、褒められたのか分からない。   
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by pcflily | 2014-04-15 21:57 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(5)  

韓国併合   

     
   ★韓国併合    八月号  二〇一〇年   『新日本歌人』投稿歌

                       
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「朝鮮の民に国の滅亡を祝す」と社説に福沢諭吉     (時事新報)

親日派育成に努め挫折して脱亜入欧を福沢諭吉     (近攻遠交とも)

憲兵隊・顧問警察監視下に「保護条約」結びし伊藤博文

皇帝の国璽・署名なく結びたり「保護条約」を伊藤博文は

身を挺し闘う義兵の十数万日本軍の殲滅作戦に消ゆ

合併にあらず韓国の廃滅をと「併合」の文字に伊藤博文  

率先し「韓国併合」に加担せる韓国人の数限りなく

親日派活用したる米国の「大韓民国」統治作戦


☆伊藤博文は建前は、朝鮮を中国から独立させると世界に公言しながら、伊藤博文の本音は、朝鮮国の壊滅ばかりでなく、朝鮮民族の壊滅であった。
「合併」でなく「併合」と造語したのも、そのためである。また、10歳の李垠を日本に連れ出し、人質としたばかりでなく、政略結婚を強制した。日本の敗戦により放置された李垠。

 一般民衆にも朝鮮人との結婚を勧めた。朝鮮人を完全に抹殺するためだ。帝国主義の闊歩した時代、植民地として支配した国はたくさんあるが、日本の様に土地を奪ったばかりでなく、言語も名前さえ奪った国はないのだ。
又、植民地の宗主国となった国が、現在まで70年になると言うのに、国交を結ばずに断絶している国はこの日本だけである。

 伊藤博文の狙いは、確実に身を結んでいると言える。日本人に帰化する朝鮮・韓国人は確実に増えている。私の姉妹には帰化した人はまだいないが、その子供達には帰化している人もいる。

○写真は、妹が家を建て替える時に、壁に貼ってあったものを、私に届けてくれたものである。私は、小さい時から、どんなに小さなものでも古いものでも形あるものを簡単に捨てられないのであった。
自分自身が何時も弱かったので、妹達に邪険にされたりしていたので、同類相憐れむの心境になっていたのだった。今でも雑草でさえ直ぐに抜いてしまうことが出来ないでいる。雑草と呼ばれようと、生きようとしているのに、花を咲かせてから、もう良いでしょうと抜かせて貰う。
 わが狭庭には、現在、白と黄色のカタバミと白い花韮が、この世の春を謳歌している。

 私のオモニは、自分の旅行の土産などを他の娘や孫達が大切にしないでいるのを見ると、それを私の家に運んで来ていた。「せっかく、オモニが思いを込めて買って来たのに大切にしてくれないので胸が痛む。貞花なら大事にしてくれるからね」と持ってくるのだった。
 この絵を持って来てくれた妹も、そのことを知っていたのであろう。「理香ちゃん(私の通称名)は、こういうものが好きだからね、捨てるには勿体ないもの」と言った。勿論、喜んで頂いた。どういう意図で描かれたものか分からないが、紫の絹地に描かれ、金粉が施されている。

 朝鮮人であることに誇りを持とうと努力している私だが、この日本的なものを渡される私は、姉妹の中で好みが一番日本人的であると認められているのかとも思える。これはというと、一番日本人化しているのかもしれない。いずれにしても、小さな家に、床から天井までの長さの、幅が半間のこの絵姿は4枚も張られている。

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by pcflily | 2014-04-14 14:06 | アリランエッセー | Comments(3)  

日本軍第14連隊「陣中日誌」 『新日本歌人』投稿歌

★日本軍第十四連隊「陣中日誌」     七月号 二〇一〇年  『新日本歌人』投稿歌

オークションに陽の目を見たる「陣中日誌」日本軍の実態明らかとなる

韓国の軍隊を強制解散させ義兵撲滅に日本軍派遣す

軍資金六万円と食糧費不足は民より略奪なすと

見取り図と戦闘模様と殺傷者の名前も戦果と陣中日誌は

義兵等は首魁・暴徒と詳細に射殺・銃殺の経過を記す

義兵等を匿(かくま)う村は焼き尽くし潜(ひそ)める寺も灰燼と化す

正規軍に一掃せられし義兵等の闘いを知る百年を経て

囚われし義兵と捕えし軍人と「南韓暴徒大討伐写真集」

☆どのような経路をたどって、この「陣中日誌」がオークションに出されたのであろうか?
女性の性奴隷(慰安婦)の事の証拠はないと言い張る日本政府、あってもないと言い張り、731部隊のしたこともなかったと言い張る。生き証人がおられることは何よりも十分な証拠である筈だと私は思うのだが。政治は人間が人間の為にするものであると思うが、彼らは一体誰の為に、何をしようとしているのだろうか?
昨今の日本の閣僚の言動には、腹立たしさを越えて恐怖が募る。
 朝鮮は虎、中国は龍、日本は優美な鶴と私は勝手に決め込んでいた。
大人たちが度々口にしていた言葉は、日本人は猫に似ている、犬の様にワンワンと声を出さないが、表面は静かにしているが、心の中で何を考えているか分からないから注意しなければいけないと言っていた。
又、朝鮮地図は兎の形をしている。それで、日本の犬に食い殺されたのかもしれないとも言っていた。
 日本の歴史を知れば知るほど、確かに日本は犬でも、普通の犬ではなく猟犬だったのかもしれない。敗戦後は猫のように静かにしていたが、最近の日本はかつての様に強い猟犬に戻ろうとしているようだ。
 朝鮮の童話は「昔むかし、虎が煙草を吸っていたころ」と始まるほどに虎が親しまれている。そして、出てくる虎は賢い兎や狐に騙されるものが多い。「民画」の虎もおどけていて本当に可愛い。話は少しずれるが、初めて帰国した時に回った寺の入口の仁王様も日本の仁王様に較べたら,あまりに優しい顔をしていたのでびっくりした。朝鮮は「文」の国であり、日本は「武」の国であることの証であると思ったことである。
 朝鮮が植民地時代に日本人により虎は取りつくされてしまったという。東京の「在日韓人資料館」に寄贈された朝鮮の虎の剥製があった。 また、話はそれるがこの「韓人」という命名が私には、納得できない。
真夜中の韓国放送を聴く機会が多いのだが、「カンゾク」「カンミンゾク」と言っている。韓国の「韓」であると言っているつもりだろうが、音読みでは同じなので、私の意識・認識には中国の「漢民族」に繋がってしまう。誰が決めたものなのか知りたいものである。古代にもあった「朝鮮」、500年以上続いた「朝鮮」を何故使わないのであろうか?韓国は今でも日本から完全に解放されていないような気がする。まだ日本の植民地支配からの束縛と痛みから、解放されていないという事なのであろうか?

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   刺繍画の虎 (写真を写すときには気が付かなかったが、玄関のドアを開けて写したので、玄関前の木々がガラスに反映して映ってしまった)
 訪朝した時に娘の婚家の親戚の女性が声をかけて下さった。その人の紹介で会った婚家のお舅さんの弟さんが、私が寅年であることを知り贈って下さった。朝鮮人は、現在ではご存知の方が多いが、初対面でも必ず年齢を明かすのが常識になっている。今も健在でいらっしゃるだろうか?どの方も、平壌在住であったが。
 その妹さんの一人はケーキを手作りして、寒い日であったのに、外で公演が終わるまで待っていてくださって届けて下さった。(そのケーキを、体に異常が起きてはいけないと食べることを禁じられて、口にすることが出来なかった。申し訳がなくて、今でも胸が痛む)
 もう一人の妹さんは、ご主人が日本で言えば人間国宝になる焼き物を作る陶芸家であったので、その焼き物を持ってきて下さった。祖国の統一を信じて日本から帰国した人達である。
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by pcflily | 2014-04-13 15:15 | 『新日本歌人』 | Comments(4)  

417年目の帰郷        新日本歌人投稿歌

四一七年目の帰郷          七月号  二〇一一年

子孫とて南陽(なみゃん)洪氏(ほんし)の墓前にて額ずき祈る日本人家族
                      (二〇一〇年十一月二九日)

族譜(じょっぽ)には妻子なき洪雲海(ほんうね)の日本に生きたる子孫が詣でる 
                      (族譜は家系図)

洪雲海(ほんうね)の四一七年目の帰郷なり十二代継ぐ子孫の訪韓

十万余の兵送りたる秀吉の人材収奪に拉致の洪雲海(ほんうね)                                               (儒者の姜沆・陶芸の李参平・日遥上人等)

佐賀藩の「洪浩然(こうこうぜん)」は能書家と名を残したる洪雲海(ほんうね)悲し                                                   (こぶ浩然書法・寺名や鳥居に残る)

帰国する夢絶ちし藩主勝茂に殉死をなして「洪の姓」守る                                                  (一六五七年四月八日・追腹帳十六番に記帳された)

「忍」の字を遺訓と子孫に残したる洪浩然の筆跡鮮やか

韓・日の博物館に寄贈せる遺品が明かす洪雲海の史実                                                            (名護屋城博物館・韓国の国立晋州博物館)

☆「忍」の字を家訓として残したという洪雲海。日本で生き延びるには、他に方法がなかったのだ。
現代まで「洪」の姓を引き継いできたという。娘だけの家となり、嫁いでしまったので、本国、韓国の本家に届けられた。幼い少年の日に日本に拉致されてきた洪雲海は417年目に帰国したのだ。
 高宗皇帝が、末子の李垠が伊藤博文によって無理矢理に日本に連れていかれる時に、やっぱり「忍」と李垠に伝えたという。幼い李垠は終生その言葉の通りに生きた。彼の残した言葉は殆んどない。
或る日に、朝鮮から来た「歌舞団」の公演で「アリラン」の歌を聴いた時、彼は涙を流すだけであったという。
 これは現在の在日コリアンにも通じる。私の短歌を続けるようにと、何時も勇気を持たせてくれていた日本人の歌人がいた。在日コリアンに、理解を示していた人間だが、在日コリアンも拉致されてきた人間と同じだ、差別するどころかお詫びとして日本人よりも優遇されてしかるべきだと話したことがあった。それは、とんでもないことを言うとお叱りを受けた。そして、「行わけ作品」に移ってから彼女は私から離れて行った。「忍」を守り私が黙っていたら、大切な友人として、交友は続いていたのかもしれない。

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  カロライナジャスミンが満開だ。敷地が狭いので、この花もベランダから網を垂らして、空中に浮いた状態で、置かれている。でも、今年も頑張って花いっぱいだ。

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 植える場所がなくて残しておいたのは一本。そのマーガレットがこんなに沢山の花をつけている。あの豪雪の時に、雪を片付ける場所がないので、この花の上に沢山積み上げて可哀想だった。
 雪が解けて、真ん中と両脇と前後の枝が折れて捨てるしかなかった。それなのに、こんなに沢山の花を咲かせてくれた。真ん中がなくなってしまったので一時はハート形に見えていた。花が増えてその形は無くなってしまった。
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by pcflily | 2014-04-12 18:57 | 『新日本歌人』 | Comments(2)