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<   2014年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 

大韓帝国皇太子 英親王 李垠伝

★大韓帝国皇太子英親王李垠伝     十月号(十月集に)  二〇一一年  朴貞花              

この腕を斬り落とされようと
「日韓併合の署名には応じない」
皇帝高宗は最後まで拒否をした

日本の横暴を訴え
万国平和会議に密使を送り
皇帝の地位を奪われた高宗   

高宗の末子の李垠は十歳
軍服を着せ留学だと
日本に連れ出した伊藤博文    
天皇から謝礼金を貰った

高宗の突然の崩御は毒殺という
民衆の怒り
全土に拡大した三・一独立運動 

教会に村人を
閉じ込めた日本軍
この子だけは助けてと叫ぶ母の眼前で
子供の頭に銃剣を突き刺す

李垠の婚約の破棄を命じ
梨本宮方子との強制結婚
妹の徳恵・従兄の鍵にも
日本人との結婚が待つ

十歳の李垠の留学は人質
陸軍幼年学校・陸軍大学校
陸軍少将・陸軍中将と
天皇に仕える道だった

敗戦後は無国籍の平民と
放置された李垠
五十六年目の帰国は
祖国の土を自分の足で踏めず
意識不明のまま
ついに戻ることはなかった

★「新日本歌人」に短歌を投稿していた。東北大地震で原発事故が起きてから、私は短歌が詠めなくなってしまった。あいまいにすることが美徳であることの日本という国の体質が、このような大事故を起こしたと思うようになった。「原発が安全だと言う国の言いなり」になっていた大多数の人々。でも原発に反対している仲間が大勢いることを知っていた。
入会していた「未来」にも原発の事を読み続けていた佐藤さん。事故後亡くなられたとの記事を読んだ。
 はっきり言ってはいけない、読者に感じてもらうのが「短歌」である、抒情的に、心の揺らぎを詠め。という事に反感を持った。そんなことを言っているうちに、こんな大事故が起きてしまったのだ。日本の起こした戦争責任をあいまいにし、その権力者がそのまま現在の権力者に繋がっているのだと思うようになった。
 基から絶たなくてははいけないのだ。こんな私が力んでみても致し方のないことと知りながら、出来ることは「行わけ作品」に移ることだった。あるいは、全く無視されるかもしれないだろうと思いながら、投稿した。
 二度目の投稿で「月集」に選ばれたことで「これは短歌じゃない、リアリズムがない」等と、誌上で批判され続けた。この作品の 選者は、新しい息吹を、活性化させたい、この情念は胸を打つと仰って下さった。
友人の梅田悦子さんはご自分のホームページに、批判した人の他の作品に対しての読み取りの間違いも含めて、私の作品への正当性を訴えて下さった。そのお蔭により、現在も作品を読み続けることが出来るようになった。本当に有り難いことである。

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by pcflily | 2014-03-31 08:53 | 『新日本歌人』 | Comments(2)  

大韓帝国皇帝 高宗

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オモニの部屋に飾ってある天女の刺繍画。 娘の朝鮮大学の修学旅行に親戚全員に買ってくるように、私が指示したものだった。私の家にも、天女の刺繍画は飾られている。朝鮮を象徴するものとして、私にとっては、天女と千里馬と虎は欠かせないものであった。

★大韓帝国皇帝高宗        2011年11月号  「新日本歌人」投稿歌

高宗は中立国と宣言し近代化を進める
指導者を育てる王立の「育英公苑」を創った
米国から英語教師を三人招請する 

閔妃を殺害し高宗を厳重に監視する日本
米国人は手料理を運び不寝番をした
高宗の信頼する友人になったハルバート
救援要請の親書を託されアメリカへ

ルーズベルト大統領は自国の利益を優先
朝米修好条約を無視し「桂・タフト密約」締結      
米国のフィリピン統治と日本は朝鮮をと

日本軍に王宮を包囲させた伊藤博文
恫喝・脅迫の調印『乙巳条約』        (第二次日韓協約)
日本は強権で韓国の外交権を奪った
朝鮮全土が憤激のるつぼ 

「乙巳条約に署名していない無効だ」
高宗はハーグ平和会議に密使を送った
伊藤博文はハルバートの監視を命じていた  (日本外交史料館・機密文書)

ハーグに無事に着いた三人の密使 
李ジュン・李サンソル・李ウイジョン
しかし、会議場に入ることさえ許されなかった
平和会議場は列強の侵略を容認し合う場であった――

高宗は三度目の親書をハルバートに託した
「ドイツ銀行の預金2000万ドル」
韓国の再興の為に使う資金の引き出しだ

日本が無断で全額を引き出していた      (統監府に記録あり)
ドイツ銀行は高宗との約束を破った
この資金を引き出す時の条件は
「高宗の親書・署名とドイツ領事の保障」だった
高宗の死に三・一独立運動
朝鮮全土の運動は武力鎮圧された

☆朝鮮の王は何もしなかった駄目な人間ばかりであると思い込んでいた。それでも、周りの人達が酷いことを言っても私は同調することはなかった。その話に同調することは「天に唾すること」と同じことだと思っていたからだ。ひたすら悲しみに耐えていたという事だ。日本人の書いた歴史しか知らないのだから当然の事だ、歴史は勝者のものだからだ。
 上京してから読み漁った本の中に、新しい発見をして胸をなでおろしていた。朝鮮語の勉強の為に韓国のテレビを契約してから、歴史ドキュメンタリーを見ているうちに、又、新しい歴史、韓国人の韓国史を学んだ。

by pcflily | 2014-03-31 08:11 | Comments(2)  

高宗の密使 米国人ハルバート

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胡蝶蘭が咲きました。花の好きな私の為に、娘夫婦が歳拝(年始)の時に毎年持ってきてくれていた。15鉢もあったのに一昨年の夏の猛暑に負けて、この一鉢だけが何とか、生き残っていた。温室がないので、冬の管理が難しかった。段ボールや発泡スチロールの箱に入れ、毛布を掛けて育てていた。最後の一鉢なので、今年も咲いてくれて本当に嬉しい。花を置く場所がないので花はもういらない、もっと実用的なものが良いと言ってしまってからは、花が届かなくなってしまったので、これは最後の花だ。


 ★高宗の密使 米国人ハルバート     朴(ぱっ) 貞(ちょん) 花(ふぁ)

                            「新日本歌人」投稿歌 2011年12月号

太平洋を海で渡った一八八六年    (朝米修好条約 1882年)
地図の上の小国「COREA」と知るのみだった
皇帝高宗の招請に英語教師として
赴任した教育者米国人ハルバート

母語が英語の人にとって
朝鮮語の習得は難しい
朝鮮語とハングルを三カ月で習得
朝鮮語とハングルで
世界地理と歴史の教科書を作った
(ハングルは朝鮮語の文字・ハングル語とは言わない)

ハングルの素晴らしさを論文に纏め
歌を好む民族と「アリラン」を採譜
雑誌「朝鮮の知識」を発行し掲載
世界に朝鮮の姿を知らせた

「敬天寺十層石塔」を日本に搬出した
宮内大臣田中光顕子爵の暴挙を
ニューヨークタイムズに告発
オランダのハーグにて暴露        (万国平和会議開催中)
日本は世界に非難され返還した

ハングルの「独立新聞」を
徐載弼・周時経と共に作る         (一八九六年四月)
ハングルを国内に広め
ハングルを世界に知らせた

「韓国の文化に魅了され愛した      (ハルバートの回顧録)
韓国は自力で近代化出来る国だ
私は信念を持ち高宗の密使となり
闘った――」

「光復節」参席に招待され          (8・15(ぱりろ) 大韓民国成立)
四十年目の訪韓
七日目に不帰の人に―――          (一九四九年七月)
願い続けた韓国の土になった         (揚花津外国人宣教師墓地)

☆真実は誰によって、どれだけの人々に知らされるのだろうか?朝鮮人と言われるのは何故なのかも、まともに知らなかった時が長かった。オモニに宛てた一枚の手紙の為に私は日本の県立高校に通わせてもらうことが出来た。社会科とか世界史は特に好きで熱心に講義を聴いていたし成績も良かったのに、大人になってから新しく知って驚くことが多すぎる―――。
 朝鮮の国王の高宗がオランダの「バンコク平和会議」に密使を送ったことを知ったのは上京してからだ。その時の三人の密使が、無事にオランダに到着出来たのは、ハルバートが別の道を通り、日本の監視の目をハルバートに向けさせていたからだという事を知ったのは70歳を越してからである。
 アメリカという国は、この時から現在に至るまで、自国の利益の為に朝鮮民族を犠牲にしているのだ。表の顔は世界の平和のためと装いながらである。オバマ大統領の当選を知った時には、心から喜び、期待したのだが、本質は変わらないのだ。
 全世界の人々が、ハルバートの様に、人間として、個人の良心を持ち続け、行動に移す時代は来るのであろうか?

by pcflily | 2014-03-30 16:04 | アリランエッセー | Comments(2)  

アリランを歌う 우리동포

 アリランを歌う 우리동포

 母国語を忘れし慰安婦のチョンおばさんチマ・チョゴリ贈られアリラン謡う 
      2000年6月  「朝日歌壇」

 朴保のアリランのメドレー同胞のオッケチュン舞う長鼓も続く    
      2000年9月号『未来』

 アリランは統一の曲金大中迎える迎うる宴に尹伊桑編む      
      2000年9月「朝日歌壇」


 吹雪く中アリラン歌いき帰国の日永田弦二郎は金永吉に還る    

 引かれ行く男の歌う「アリラン」を観衆も歌う朝鮮総督府竣工式の日

 軍刀のアリラン唄う老爺切り抗日遊撃隊引き継ぎ歌う

 バンコクにアリラン歌う廬ハルモニ慰安婦にされし連翹咲く十五歳
      2000年10月号  『未来』

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 1980年初めて訪韓した時に、アボジの蜜陽朴家は始祖が新羅王朝始祖の朴赫居世王であることを本家の伯父さんが「族譜」を見せながら、先祖の話を色々と説明をして下さった。本当に嬉しいお話であった。
写真は慶州にある「天馬塚」古新羅王の木槨墳墓での記念写真の中に、こんな不思議な写真があった。祖先が私に会いにきて下さったのだと思い込んだものだった。伯父さんの話が私に衝撃を与えていたからだ。

 朝鮮人にとってはアリランは大切な存在だ。日本製のこの私のパソコンでさえアリランを覚えてている。
アリランについてはいろいろな解釈があり定説はなく、人々は、それぞれの思いを抱いているのだろうと思う。
そんな中で私にとっての一番好きなアリラン説がある。
 概略を記すと、日本の植民地時代には民族の魂を蘇らせ、民族の灯を燃やし続け、悲哀を慰めてくれた。だが、植民地下では民族性を直接表現できなかった。
「アラリヨ」が比喩の鍵、「アル」は卵の意味「アル」は新羅王朝始祖の朴赫居世王、高句麗王朝始祖高朱蒙王、駕籠洛王朝始祖の金首露王が生まれた卵と関連すると思われる。
 「アリラン」も卵の意味であろう。また朴赫居世の妃アルヨンにより近い。アルヨンは地名、アリラン峠も地名。「アリラン」は結局、祖国、民族、民族魂を喩えたものであろう。すなわち「私を捨てていく君は」の君は祖国、民族、その民族を捨てていく人は一里も行かずに足が痛くなるよーー。
恋人としているが、日本帝国主義の監視を避ける為。私の胸には悩みがー苦しみ、青い夜空の星はー希望は決して失うなと激奨する主旨である。
 卵は、中には動く生命があり、また将来に対する夢がある。「アリラン アリラン アラリヨ」は「祖国よ、民族よ、魂よ」と強調する為に繰り返す列挙法を使ったのであろう。
いまや我々は、もう一つの険しい峠、南北の分断の統一事業という嶮しい峠だ。我々は真に民族的な価値ある我がものを取り戻して、そのアリラン峠をいつ越えて行けるのだろうか。(徐廷範『韓国のシャーマニズム』) 『アリランの誕生』宮塚利雄より


 

by pcflily | 2014-03-20 22:41 | アリランエッセー | Comments(6)  

ウリオモニ 私の母

 

 ウリオモニ(私の母)  金海金家 金英喜      朴(ぱっ) 貞(ちょん) 花(ふぁ)

呼び寄せし今宵のオモニの身世打(しんせた)鈴(りょん)釜山より常磐炭鉱に来し日まで

花(こっ)輿(かま)に揺られ嫁ぎし十三歳オモニの記憶の白梅の花

たちまちに八十路のオモニの面(おも)変わる吾を生みし朝鮮の日々を語るに

生みし子の臍の緒手ずから切り離しその日よりまた洗濯を次ぐ

すり減りしオモニの爪に一生(ひとよ)見え発破の穴掘りトロッコを押す


「歴史発見」に韓国の叔父映りオモニの祖(おや)は日本人と知る(金忠善)

父の名と長女なりと記されてオモニの名前の族(じょっ)譜(ぽ)にあらざり


枕二つ並べて語る母と吾の回想のつづまりは密造酒のこと

飛び下りしホームの雪に顔埋め闇米を背に汽笛聞く

闇米を背に聞く汽笛灰色の雪に埋もる記憶の消えず

三度目は呼び止められて運びいし米も糀も没収されにき

密造酒・闇米・養豚・タバコ巻き子は飢えさずとオモニの覚悟

密造酒・闇米・養豚幼きわが関(かか)わりしこと幻なるか

初恋など知らず家計を支えたるオモニと働きし十代の日々

密造酒を水枕にいれ吾の売りし「大内の宿」テレビに映る


七人の女児育て上げしウリオモニ差別に耐えて艶やかに老ゆ

辛きこと忘るることの巧みなるオモニは人の善意を数える

一点の染みも消さむと煮沸する白きは白くオモニの洗濯

正直に生きろだなんて嘘ばかり教えしオモニと五十八の吾

吾が会える人ごとに深々とお辞儀してこの子を頼むと八十路のオモニ

頬染めて八十路のオモニ本名の「金(きん)英(よん)喜(ひ)」と書く練習をする

己が手で「外登」切り替えの署名せむ八十路のオモニが震えつつ書く

「朴」の姓継げる男子を生まむとし七人の女児生みたるオモニ


オモニへと買いこし折り紙病室に百羽の鶴となりて羽ばたく

手(て)遊(すさ)みの一つも覚えず迎えたる八十路の坂に病負うオモニ

降り止まぬ雪にふるさとも埋もれいむオモニと歌う「故(こ)郷(ひゃん)雪(そる)」


少女期に逝きし父母への甘えかも夕べのオモニは駄々っ子になる

夜半覚めてオモニの指をまさぐれば任せておけと寝言に言えり

引き戻す術はあらざり老いしるきオモニの布団に朝明けを待つ

日めくりを剥ぎつつオモニは悲しみを空に放ちて童女に還る

戻りたる記憶の在りしたまゆらを吾の手握りて涙ぐむオモニ

童女なるオモニの意識蘇る二十二番目の曾孫抱くとき

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 オモニの還暦祝いの日 1975年6月22日(旧暦)

 この日の5年前の5月10日(旧暦)は、アボジの還暦の祝いであった。義兄の言いなりの姉が、アボジの還暦を祝おうとしないので、オモニは悲しんでいた。実家に同居していた私は、朝鮮では還暦のお祝いをして、還暦の時に、寿衣を準備しなければならないと言うオモニの話を聞いた。じゃ、還暦のお祝いもして、寿衣も整えようと決めた。オモニと私は、上京して上野の朝鮮人経営のチマ、チョゴリの販売店に行って、アボジの寿衣と葬儀の日の為のオモニと7人娘の白衣を仕立ててもらった。オモニの教えを守り、後年、私も還暦の年に寿衣を調えた。在日コリアンでこの事を知る人は少ない。
 上野や浅草には何軒もチマ・チョゴリを仕立ててくれる店があった。妹が多いので何度も結婚式の為のチマ・チョゴリを仕立ててもらう為に通った。妹の結婚の度に私も新調した。洋服には興味がなかったが、チマ・チョゴリへの欲求は止められなかった。老人ホームに入れられた時に着ようと思っていたが、見通しは暗い。
箪笥の中の私のチマ・チョゴリはどうなるのだろう。そうして、あの店達は今もあるのだろうか?浅草の方が多かったが、地方の人に便利なために上野の方が繁盛するようになっていた。

 5年後のオモニの還暦祝いの時は、私はすでに上京していて、夫に逝かれて一人で麻雀荘を経営していた。商店街の中にあった店なので、お客さんは近所の商店の店主などが多かったので、自由に使って下さいと鍵を預けて実家に帰り、ゆっくりと祝宴に参加することが出来た。彼らはその他のお客さんを招き入れ、接待もしてくれて売り上げを私に渡してくれた。恵まれていたと思う。町田を去る時には、店を閉めてから10年以上過ぎていたのに、彼らは送別の宴を開いて送ってくれた。

 まさか、入選するとは思わなかったのに、オモニの還暦祝いを祝う気持ちで、間に合えばと「朝日歌壇」に投稿した。オモニの誕生日は、旧暦なので新暦では7月になる。何という事か驚いたことに、2首も入選していた。選者が私のオモニの還暦祝いの事を知っている筈もなく、投稿することもあまりない時期であった。その時の「朝日新聞」の切り抜きが手元にないので分からないが7月第4回と言うメモがある。新聞はオモニに持って行ったので手元にないのである。

 オモニの還暦の祝いのの日の為に、入選歌だけでなく、何首か詠んだものを纏めた。その歌を儀式の後で読み上げてオモニに渡したのだが、その後は家族の思い出話が次々と出て、皆が泣き出した。お祝いの席なのに、私の歌の為に、朝鮮語で言えば、いわゆる「涙の海」になってしまった。入選歌は残っているが、その他の歌は、どんなものであったかさえ思い出せない。

 密造酒、闇米、養豚幼きわが関わりしこと幻なるか          宮 柊二選 7位

 密造防止に母は捕われ妹は習字展にて賞を受けにき        近藤 芳美選 1位

評 敗戦後の焼けあとの町に、彼らは密造酒のどぶろくを作って生きた。その酒の密造のために、母は捕われ、妹はある日習字展で賞を受けて帰って来たりした。幼い遠い日の、暗い思い出の中のことなのであろうか。第一首の作者は、朝鮮半島を祖国とする人である。

 オモニが密造酒で捕われたのは、私が中学生の時であった。オモニと一緒に闇米や麹を買いに行った。売っている人は日本人であったのに、彼らは捕まらなかったのだろうか?その家の娘と、高校の同じクラスになったことで、度々陰湿ないじめに遭ったことが忘れられない。

 妹が習字展で書いた文字は「密造防止」である。福島県代表として選ばれ、東北大会に出展され「佳作」に入賞した。仙台国税局長からの賞状であった。笑うに笑えない話とはこんなことを言うのであろうか。


 

by pcflily | 2014-03-17 15:31 | アリランエッセー | Comments(2)  

ウリブモニン

 ウリブモニン(私の父母)

 父母(ぶも)の結婚六十五周年を祝う   朴(ぱっ) 貞(ちょん) 花(ふぁ)

結ばれて六十五年ウリブモの孫十五人曾孫十四人         (1993年1月)

末の子も四十路過ぎたる七姉妹父母の結婚六十五周年祝う

一言をとマイク差し出せば勝気なるオモニ涙とむせび泣く声

無口なるアボジの挨拶なめらかに六十五年のオモニへの感謝の言葉

父と母同じ血筋の七姉妹四十路過ぎれば異邦人なる

一族の宴たけなわになりぬれば北よ南よ在日よと激す

分断の五十年経て「日本」に墓地購えりわが八十路のオモニ

朝鮮地図・強制連行のこと吾の歌も彫り込み在日一世朴家の墓

韓国の本家のお兄さんから頂いた写真。渡日する前の写真の様だ。私のアルバムの古い時代の写真集に残されている。この写真のオモニのチマが大切に箪笥にしまわれていたのを記憶している。
或る日、行商の人が竹製品を売りに来た。オモニは竹で編んだ一番大きい船を買って、大切に床の間に飾っておいた。「どうして船を床の間に飾るの?」と私が聞いたら、何時の日か船に乗って朝鮮に帰るんだよ。」と朝鮮の話を聞かせてくれた。私が中学生の頃かと思う。生活に追われて朝鮮の話は余りしなかったオモニであったが、心の中では、生地である朝鮮への帰国の日を願っていたのであろう
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 愛する私の故郷 全てをなにもかも置いて 私は異国へ 何故 来たのだろう 
想いだす忘れられない 私は帰る 何時の日にか帰らむ

 いつの間にか耳で覚えた朝鮮語のこの歌の心は今でこそはっきりと理解できる。どうしても分からなかった、意味不明な単語の一つをはっきりと分かったのも、10年前の事であった。

by pcflily | 2014-03-16 08:52 | アリランエッセー | Comments(2)  

ウリアボジ

  ウリアボジ(私の父)    蜜陽朴家 朴宗根      朴(ぱっ) 貞(ちょん) 花(ふぁ)

船艙に閉じ込められて玄界灘をアボジ越えたり一九四十年
残虐な強制労働の報復を恐れて爆殺されし同胞のアイゴー
炭鉱より逃亡の父山間(やまあい)の会津に住みて半世紀過ぐ
今もなお語らぬアボジの炭鉱の日々映画「三たびの海峡」に見る
強制連行の叔父の遺体も坑道に閉じ込めしまま三池炭鉱閉づ

談合にはずされ顔面蒼白の父の代筆震えつつ書く
談合に外され続けし吾が父の落札価格赤字の仕事
工事現場父に付き添い巡りたり出面帳持ち中学生の吾

畑よりの強制連行のわが父も居住許可願の外人登録をす

七人の娘(こ)あれど「表札に本名は貞(ちょん)花(ふぁ)一人」とアボジの憂う
寡黙なるアボジの植栽 子に孫に無(む)窮(ぐん)花(ふぁ)咲き継ぐ夏の真昼を
朝鮮を無窮花の園と呼ぶという統一の花咲く日のあらむ

百年を越したる先祖の文集のなお新しき朝鮮本に
父の祖を族(じょっ)譜(ぽ)に辿れば紀元前五十七年の新羅始祖王
父祖の古書ひもときゆけば朝鮮の楽聖朴蘭渓の裔なる父 
始祖新羅王朝鮮実録に載る朴蘭渓父の誇る族譜とは

亡国の民なる日にもわが父の誇り支えしか「両班(やんばん)」ということ
両班(やんばん)の子孫たること支えとし日本に生きしわがアボジかも
七人の子あれど娘「蜜陽(みらん)朴家(ぱっか)」継げる養子を父は迎えぬ
民族の風習守れば朝鮮五百年アボジの誇る儒教の国

「火葬になどされてたまるか」と土葬なす母国に帰ると吾のアボジ
足萎えのアボジの繰り言「韓国の土になりたし祖国の土に」
両班の裔なるだけが生きがいかアボジ帰国すと七人の娘あるに
「両班」の姓を守りて土葬する身なりと帰国を望む八十五歳
村田喜代子書きたる「龍秘御天歌」にアボジの儒教精神土葬を知る

妻と子と孫と曾孫と五十人置きてアボジは祖国・母国・故郷へ
七十年連れ添いし妻と別れゆき両班の姓守るアボジ帰国す

その妻と生き別れして帰国せしアボジ今年は結婚七十周年
日本の土を再び踏まぬこと決めて土葬の待つ祖国に帰るアボジ
土葬望み帰国のアボジは生きながら黄泉(よみ)の父母と語りいるらむ
帰国せる父思うとき唇に出る「空手来(こんすれぬん)、空手去(こんすごよ)」朝鮮民謡の(太平歌)

故里の土に還ると帰国せる父住む忠清道(ちゅんちょんど)古代文化展 (甲府にて)
忠清道は木、水、鉄と豊かにて世界最古の金属活字成す   (1234年)
現存の世界最古の金属活字本「佛祖直指心體要節」パリにある不思議
七五一年刷られし木版本「無垢浄光大陀羅尼経」則天文字の鮮やけく

強制連行されたることの憤怒未だ証言拒みアボジは逝けり
土葬願い秋に木の葉は散るものとアボジは逝けり医療拒みて
絹のパジ・チョゴリ・トゥルマギ纏うアボジ米と路銀持たさるる
麻布に総身くまなく包まれぬ邪気入らぬように骨の崩れぬように
寿衣まとうアボジの遺体はすきまなく麻布に巻かれ物体となる

春逝きしアボジは吾に韓国の世界文化遺産の花の旅さす

アボジ逝くこの夏「ふくしまの百年」の写真入りの記事わが家の連行  (福島民友・1999年8月7日)

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学生服を着ているが、何歳の時の写真家分からない。今になっては、聞く術がない。

 1999年アボジのお葬式の為に訪韓した時、朝鮮籍であった為に私は再び韓国に行くのは難しいという事で、他の姉妹が帰ってしまった後にもしばらく滞在して親戚の家を巡り歩いた。その時に、歴史にも詳しい本家のお兄さんと色々な話をした。
古い本を入れてある小屋?にも入れてもらったが、虚弱体質の私には無理であったらしく、顔に異常を感じ、その後に顔が鉢に刺されたように膨れ上がってしまった。
 お兄さんは自分がいなくなったら、どうなるか分からないと幾枚かの写真を私に下さった。本家のお兄さんから頂いたアボジの若かりし日の写真だ。

by pcflily | 2014-03-15 22:25 | アリランエッセー | Comments(2)  

オモニの渡日は

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 残された家族が私の私物の残骸の為に苦労するだろうと、「断捨離」を始めたが、遅々として進まない。それどころか全く出来ないでいる。けれども、今日は嬉しいことに。持っていることさえ覚えていない「オモニの若かりし日の写真」が出てきた。全く整理されていない写真があきれるほどにたくさんある。最近は殆んど自分が写真に納まることはない。たまに更新のある外国人登録書と運転免許証の更新の時だけだ。
 この写真は1980年に父母と始めて「墓参団」として、朝鮮籍のままで訪韓したときに、本家のお兄さんから頂いたものであった。渡日してから、元気にしているという証の為に写真を本家に送っていたという。
アボジは男だけの二人兄弟の二男であったから、本家に送っていたのだろう。本家のお兄さんは一人息子であり、自分がいなくなったら、管理する人もいなくなるだろうからと、オモニの写真を私に下さった。家族四人での写真は何度も手に取って見ていたらしく、端の方は破けていた。
この写真を良く見るとパーマをしているようなので、解放後の写真であろう。オモニが40歳ごろであろうか? 



  オモニの渡日は  
         六月号  (六月集に)   二〇一三年  朴(ぱっ) 貞(ちょん) 花(ふぁ)     

ひとことの日本語も知らなかった
二十四歳のオモニ
一歳と四歳の子を連れて
船で渡った玄界灘

下関から平駅まで
鈍行列車の三十時間
渡航証明書一つを頼りに――  (警察署長による証明書・渡航先と目的を明記)

車中で何度も
見知らぬ人に証明書を見せて――
母子は真っ黒に煤けた顔で
常磐炭鉱に着いた

夫の逃亡防止の為の人質――
アボジは坑内の坑夫       (アボジ・父)
オモニは出産の刻まで      (オモニ・母)       
トロッコ押し・発破の穴掘り

逃亡の手筈を整えてくれた  
同郷の朝鮮人監督 
山奥に隠れ住み、終戦――
帰国すると荷造りを済ませた

帰郷は叶わず
五度目の妊娠・出産
その日の糧を得る為に
飯場の炊事・闇米・養豚・密造酒

うら若き二十代の渡日――
「木村組は母ちゃんで持つ」と
男勝りの姉御肌の女にした歳月

帰国の夢を追う夫を支え
七人の娘を育て上げて
九十八歳
本名を忘れ、娘の名を忘れ――

by pcflily | 2014-03-10 19:46 | アリランエッセー | Comments(2)  

水に住む魚の如く

水に住む魚の如く

 水に住む魚の空中とぶごとくチマ・チョゴリの少女雑踏をゆく
                      2002年NHK全国短歌大会入選
 
 私の寿命が、何時まであるのかを、思う日々である。その日の為に、「断捨離」をしようとするのだが、葉書一枚でも、送って下さった方が、心を籠めて書いて下さったと思うと捨てられない。自分の日記を読み返せば、こんなに一生懸命考えていたのだと、読み始めてしまい結局は捨てられずに仕舞い込む。そんな中で見つかったものが、上記の歌で、色紙の形になっていた。
 自分自身の姿を見ているようであった。新宿の雑踏の中を行く朝鮮学校の女生徒の姿だ。一人で足早に去っていく姿に感動した。朝鮮学校の生徒に限らず、友人と一緒に連れ立って歩く姿は良く見かけるが、一人で、あの雑踏の中を、チマ・チョゴリ姿で歩くのは勇気のいることであったと思う。現在は、危険すぎるという事であまり見かけなくなっている。
 町田市に住んでいた頃、新宿で同胞の結婚式があったりすると、殆んどの人が、紙袋などに入れて式場で着替えていた。私は、自分の家から、チマ・チョゴリを身に纏って出かけた。誰もが、結婚式に参加する時はロマンスカーに乗る。私は、新宿までのロマンスカーの料金を節約して、ギュウギュウに混んでいる普通車に乗って出かけた。街中をチマ・チョゴリ姿で歩くことには危険が付きまとうことを承知の上であった。大切な民族衣装を誇りに思っていた。何故、皆が表では着ずに、隠し持って歩くのかを理解できなかった。
 韓国で行われたアジア大会を見に出掛けたときも、家からチマ・チョゴリを来て電車に乗った。自分の生まれた国へ行くのだもの、自分の国の民族衣装を着ていくのは、私にとっては何の不思議もないことであったが、同行者で、チマ・チョゴリ姿の人は、一人もいない。殆んど、総連の役席を持つ人であったのにも拘らずーー。
 横浜へ越してから、京都での南北統一のための「海外コリアンシンポジュウム」に参加することになった。久しぶりの同胞との意義ある会合であった。

         海外コリアンシンポジュウム   『新日本歌人』 9月号 2010年

 チマ・チョゴリ纏い乗り込む新幹線「統一」語る京都に向かう

 残生を祖国統一掲げ行かん呼応せし同胞京都に集う

 分断は解消すべしと四百名コリアン集う国際会館に

 パネラーは在日・在中・日本人・在米・在韓統一語る

 統一は成し遂げるものと韓国の林東源氏語る熱く優しく(ハンギョレ統一文化財団理事長他)

 同胞の貶し合いをば戒める真摯なる言を仲尾宏氏(京都造形大学客員教授他)

 パネラーの意見まとめる司会者は八十一歳の朴鐘鳴氏(同志社大学自主講座顧問)

 三十年「朝日」の入選歌保存すと初対面の日の朴鐘鳴氏

この日も、チマ・チョゴリを着ていたのは、私だけだった。朴鐘鳴氏は自己紹介をする前に私の名前を仰った。びっくりした。その後私への歌を詠んで送って下さった。小さい時から、何時も一人ぼっちであった。私は水の中に住む魚が地上に出てきているから苦しいんだと思い込んでいた。大人になってからも私を理解できる人は少ないようであった。或る日、ドラマの中で占い師が虎年生まれの人は一人で生きるのだ。虎は集団で行動しないじゃないかと言っていた。納得したことであった。
「世界で最も上品で優雅な民族衣装である」と言ったのは、文学博士の金田一春彦氏である。この民族衣装を朝鮮人・韓国人が大切にしないで誰が守ってゆけるのだろうか?最近の南北朝鮮で日本の性奴隷(慰安婦)についてどんどん発言するようになった。嬉しいことであるが、何故、もっと早い時期に今の様に取り組んで、動いてくれなかったのかという不満を持っている。在日コリアン問題についても韓国政府は、本気に取り組んでくれない。米国の反共政策に協力して、北に対する敵視政策に力を入れて、同胞として共に日本政府に対しての取るべき政策をとってきていないのだ。わが同胞の認識不足が大いにあると思う。日本の植民地から解放されて、70年になろうとしているのに、日本国内で民族衣装を着て歩くことが出来ないでいる。
 チマ・チョゴリは一つの指標になっていると私は思っている。インドの人がサリーをきて堂々と街中を歩いている姿を見かけることがある。何故、チマ・チョゴリは着て歩けないのであろうか?
 国際交流・共生と言いながら、心からの共生は望んでいないのかと思う。危険を感じないでチマ・チョゴリを街中で着て歩けるようになった時こそ、本当の共生時代が来たことになる筈である。

by pcflily | 2014-03-07 13:00 | アリランエッセー | Comments(2)