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安重根の記念館

 安重根の記念館   中国のハルピンに開館された

中国は秘密裏に開館の準備をを進めて来たという。1月19日に安重根記念館の開館除幕式が行われた。
日本政府は安重根はテロリストであるのにと怒りを表している。
中国政府は著名な抗日義士で中国でも尊敬されていると発表している。管官房長官は「安重根は犯罪者であると言明した。
本当に、犯罪者であると決めつけて言って良いのか?
反感を抱いた私は会員になっている短歌の同人誌『新日本歌人』に「行わけ作品」として投稿した。
投稿は3か月前に投稿しなければならないので、12月に投稿しているので、3月号に掲載されるはずだが、選者がどこまで理解して、入選させてくれるかは分からないが、原文は下記のとおりである。

三月号原稿

菅官房長官に犯罪者と言われた安重根    神奈川県    朴 貞 花

韓国併合を閣議決定し
哈爾浜に向かった
伊藤博文を撃った安重根      (一九〇九年十月二十六日)

拘束された安重根は論陣を張った
「東洋の平和と韓国の独立の為の戦いだ
伊藤殺害の理由の十五ヵ条は――」

世界の耳目を恐れ
裁判を始める前に
極刑をと打電した      
外務大臣小村寿太郎

旅順監獄の関係者は
安重根の人格に魅了され
畏敬の念と良心の呵責を持った

助命を嘆願し      
毎日通い続けた
典獄の栗原貞吉       
非力を悲しみ辞職した

     
信頼関係を築いた
教誨師補の津田海純
遺墨三幅と写真六八枚を      (寄託 京都市・龍谷大学)
ひそかに持ち帰り保管した

終生追悼を続けた
陸軍憲兵の看守千葉十七
意志は引き継がれ
顕彰碑を建立           (宮城県栗原市・大林寺)
供養を続けている

伊藤に可愛がられた
同郷の満鉄筆頭理事
田中清次郎は言い残した
「日本人を含め一番
偉大な人物は安重根だ」      (一九一〇年三月二十六日死刑執行さる)

 韓国外交部報道官は、韓国の独立と東洋の真の平和を守る為に献身した偉人、韓国はもちろん国際的にも尊敬される英雄であると言明し、
 日本政府の発言は侵略の歴史を美化している。伊藤博文は朝鮮と北東アジアの平和を踏みにじり言葉では言い尽くせない苦痛と害悪を及ぼした元凶だと指摘している。

孫文は安重根義士の功は「三韓を覆いその名は万国に鳴り響く」と。周恩来は「日清戦争後の中・韓抗日運動は安重根の義挙から始まった」と。周恩来夫人は、安重根役の演劇をしたときに知り合い、結婚したという。
中国には安重根を尊敬していた先人が沢山いたのだと、このように、いくつもの例を挙げて朝鮮日報は報道している。

by pcflily | 2014-01-21 11:45 | アリランエッセー | Comments(2)  

小野田少尉

 小野田少尉

 二十九年を悔いなしと言いたまう強さにてわが同胞は虐げられし  近藤芳美選                    朝日歌壇    1974年4月6日の朝日歌壇に掲載された。

 夫の急逝に驚いて初めて作った短歌が入選して掲載されたことがきっかけで、入選の紙面を見ると、素直にその時の思いをそのまま綴って投稿していた。近藤芳美選、五島美代子選、宮柊二選、前川佐美雄選と続いていた。 投稿すれば入選する事にびっくりしていた。

 小野田少尉の帰国で、彼の事が話題になっていた。お客さんとして来ていた人達が興奮して、口角泡を飛ばして小野田少尉を讃えていた。その人に同意している周りの人々。
 彼らの話を聞いていて、納得出来なかった私の気持ちを綴った短歌を投稿した。周りの人々に意見を言えるほどの勇気を持てなかった頃、家出して見知らぬ土地で開業して半年の35歳であった。

 短歌など作ったこともなく、歌集を読んだこともなかったのに、夫が急逝したことで、初めて詠んだ歌を投稿し入選した。誰にも言えなかった思いを投稿した。人は、誰かに話し、それを聴いて貰えると少しは気持ちが軽くなる。見知らぬ東京の片隅で、子供二人を支えに生きていたが、親しく話せる相手は、一人もいなかった。
朝日歌壇に投稿することで胸のつかえを取ることを覚えたばかりであった。

 沢山の話題を提供していた小野田少尉が亡くなったという。彼は、その後も色々と活躍をしていたらしいが、右翼に力を貸していたという事は、テレビでは聞くことはなかった。日本人にとっては尊敬に値する人物だったのだろう。阿倍政権を作り上げた民心もこの辺にあるのだろうと思う。

アメリカで、2007年に下院で通過した「慰安婦問題の決議案」が今回、下院・上院で決議案が通過した、オバマ大統領が署名したという。中国へのアメリカの警戒の為に自分が何をしても味方になるだろうと高をくくっていたであろう靖国参拝、言いたい放題、したい放題の阿部首相は、これからどんな態度を見せるのだろうか?
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   亡き夫の49日の法要の日、町田市内のお寺の庭で。
 幸せを運ぶと言うスズランの花柄のワンピースは夫からの最後の贈り物。
親族の死出の旅への見送りは、私の夫の死が初めてであった。喪服なるものは持っていなかったし、私と私の二人の小学生の子供、姉妹だけの法要の集いであった。

by pcflily | 2014-01-19 11:16 | アリランエッセー | Comments(2)  

白頭山へ登る

白頭山(ペッテウサン)へ登る

 朝鮮半島と中国東北部を分ける国境の山、「白頭山」は朝鮮民族の聖なる山として朝鮮民族の憧れの地でもある。朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の国歌にも歌われている。私の血縁の親族が北に帰国した人が、一人もいないので、自由に行くことが出来なかった。
中国を経由しての白頭山に登るツアーに誘われた。一人身の自由な立場にいたので思い切って参加した。
 一泊目の瀋陽での食事か水が、私の体に合わなかったのか、延辺に着いてから下痢が始まり、2泊目の夜は一睡も出来なかった。同行者に白頭山行きを強力に反対された。 白頭山に行くために馴れない旅行に参加したのに、諦めるわけにいかないと、反対する声の中を、無理に車に乗り込んだ。
 朝食をとる為の食堂に寄ったときだった。又お腹が痛みだしトイレに駆け込んだ。食堂へ戻るときに声をかけられた。粗末なテーブルの上に10個にも満たない品物を載せて、青年が、何か買ってくれと言う。
 小さな木彫りの阿弥陀様に引き寄せられて近づいた。私は連れて行ってくれと言われた気がした。私は迷うことなく阿弥陀様を購入していた。
食堂に戻ると、同行者は口をそろえて騙されたんだよと言うのだった。
 白頭山の麓についた時に、今日は山が荒れているから、このまま戻ろうと引率者が言った。私は、途中でどうしても駄目なら、その時は引き返すにしても、このまま戻るわけにはいかないと主張して譲らなかった。
 曇り空の下を無事に頂上に着いた時には、あんなに空を覆っていた雲が瞬く間に引いて行き、抜けるような青い空が姿を現して、私を迎えてくれた。あんなにひどかった腹痛もいつの間にか治っていた。
全ては、阿弥陀様の御心であったと私は思った。
 帰国してからその喜びを直ぐに「朝日歌壇」に投稿した。思いがけなく、☆の入選であった。☆印は」「同じ日に2首以上の入選があった時につく。そのうえに、1位と2位であった。
 選者の先生方も私の喜びを理解して下さったのだと思っている。本当に有難いことであった。

2002年9月16日   朝日歌壇

母国なる北も南も塀高く延辺よりの「天池・ちょんじ」を目指す    2位 近藤芳美選

紺青の水たっぷりと「天池」あり白頭山の頂上に今、立つ       1位 佐佐木幸綱選

お二人とも丁寧な評まで書いて下さった。
全ては阿弥陀様の御心であると思っている私は、今でも毎日、阿弥陀様に祈りを捧げて、両親の写真にご挨拶をした後に1日の活動を始める。

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by pcflily | 2014-01-11 16:05 | アリランエッセー | Comments(2)  

夢 『身世打鈴』より

 夢

押捺を拒否せし五年あざ笑い更新せし登録書に指紋くっきり     
          馬場あき子選  1990年11月25日 朝日歌壇入選   

外人登録書のカード一枚に小さき吾管理されいて孫悟空を思えり  
          佐佐木幸綱選  1990年11月25日 朝日歌壇入選 

「今度こそ門は開くぞ」と歓喜せしに文牧師の逮捕悲しく悔しき    
          佐佐木幸綱選  1989年5月21日  朝日歌壇入選


白馬岳の頂きに立ついつの日か白頭山と漢拏山に吾は登らむ 
       

枕辺に地図を広げてとこに入る統一朝鮮の夢を見たくて         nhk短歌大会入選

 
☆総連側では、悪法でも法は守るものと指紋押捺を拒否することを応援しなかった。拒否運動は韓国政府が始めは応援していたのに、日本政府と政治決着とかをして、拒否をしていた人たちは、宙に浮いてしまった。
私の場合は民団に加盟していたわけではなかったので、たった一人の拒否であり発表をすることもなかった。
何でも、一人で考えて、思いつくと行動に移していた。実家と実家の家族、婚家の束縛から解放されたからである。あまりにも自分の意志を押さえつけていたから、その反動かも知れない。
 将来に希望を持つことも出来なく、自殺をする勇気もなかった中学生の時に思いついたことが、英語の授業で私は生まされたと表現をすることを知った時だ。私の生命は両親のものであるのだから、両親の言いなり、生きるべきだと思った。親の言いなりに、親の望む結婚をしたが、子供が生まれて、子供は私が責任を持って守らなくてはならないと思うようになった。そうして家出をしてしまった。オモニを悲しませた家出であったが、後に、オモニは家出をして良かったよと褒めてくれた。あのまま、実家にいたら良いことはなかったよとーー。
 
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漢拏山には未だに行けずにいるが、白頭山には、中国まわりで登ることが出来た。忘れられない嬉しい思い出だ。2002年8月12日のことである。

by pcflily | 2014-01-10 21:29 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

世の常  『身世打鈴』より

  世の常

 吾が命よりも愛しみ守りきし子が母われに世の常をいう

 諦むること覚えて大人への切符手にせよとオモニのまた諭す

 帰化したる春山さんが寝たきりの身となり日本語忘れたりしと

 普段着も着物で過ごせし叔母さんが朝鮮語ばかりのベッド生活おくる

 食卓にキムチを載せぬは日本人の同僚持つ身のエチケットとぞ

 紐解けばオモニの匂い手作りのペチュキムチなり八十路の母の

 キーボード打ちつつ蘇る国民学校のオルガンに魂奪われたる日

 朝鮮の童話を語る吾を見つむる子ら思いつつハングル辞書引く

 アリランの曲に合わせて虎の歌踊りの好きな虎の話も


☆どんな時でも、自分は何も出来ない人間だからと、精一杯の心を籠めて行動をし、話をしていた。
或る日、オモニに言われた。『もう可哀そうで見ていられない、そんなに一生懸命にならなくとも良い。ほどほどで良いのだ。諦められることが出来てこそ、大人だよ。オモニの傍から、決して離れることはない子供だと思っていたお前がオモニの懐から飛び出して、東京に家出した。親子でも、人間の心は見えない。自分をもっと大切にしなさい」
 微力な私でも、誰かの役に立つことを、一つでもしたいとの思いで努力をしていた。
自分が知らなかったことが、あまりに多いので、知ることが出来たことを誰かに伝えようともしていた。
この横浜に住むようになってからはすべての事から、手を引いたつもりだったが、いつの間にか、ハングルを教えるようになってしまった。そして、又、傷ついてしまった。今後、又、傷つくかもしれないのにと反省している。
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力持ちの孫だった。何でも一人でやると言い、手伝われることを嫌った。一人でこの自転車を、自力で階段の上まで運び上げたり、下ろしたりして遊んでいた。やり遂げた達成感を楽しんでいるようであった。この自転車を乗っていた為に、この後、5歳になってからの自転車は、補助車をつけないで一日で乗れるようになった。

by pcflily | 2014-01-07 15:14 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(3)  

恋文  歌集『身世打鈴』より

 恋文 『歌集『身世打鈴』より

末期癌の君が彫り呉れし本名の表札に馴染み二十五年経ぬ

末期癌の金さんが彫りくれし表札に清く正しく美しくの文字

ひとめ会うことさえ拒み逝かしめし君の死に病を吾の知らざりき

十二体の白衣観音彫りいると電話の声が最後となりぬ

二十年前書きたかったと余命知り書き遺したる君の恋文

☆このブログは在庫がなくなってしまった私の歌集『身世打鈴』を書き写す為に始めたものである。朝日歌壇に掲載された短歌と重なるものもあるので、朝日歌壇の掲載歌を全部書き写したので、もう、ほとんど残っていないと思っていたが、完成まではなかなか遠い
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 実家は土木建築請負業であった。高校生の頃は、県からも仕事を請け負うこともあった。その頃は殆んど人間が鶴嘴やスコップ等で仕事をすることが多かったので、新しい仕事を請け負うと、働く人を募集に出掛けたりした。仕事を待っている人が宿所にしている専門の宿屋があった。殆んどの人が手荷物を持って現場を渡り歩いていた。一度だけ朝鮮人部落と呼ばれている場所に行ったことがあった。
 冬は仕事がないが、働く人たちの部屋があり、帰る場所のない人は冬でもそこで寝泊りをし、食事も私たちと共にした。オモニはあの人達がいるから自分たちは暮らせるのだからと、私たち子供より彼らを大切にしていたのでみんなから信頼され、親の様に慕われていた。世間の人々は、「母ちゃんがいるから木村組は持っているのだ」と言われていた位であった
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昔から、私の取り柄は素直であることと言われていた。オモニの言葉を信じ切っていた。
 一時間の汽車通学をしていた高校生の時であった。待合室の椅子で寝ている人がいた。私の家で働いたことがある仕事のない冬も我が家で過ごし、年末の障子の張り替えに汗を流した人であった。
大きな仕事が入ったばかりであったので、私の家に行くつもりなのかと声をかけて連れて帰った。そのことが印象に残ったのかもしれない。家族が私と結婚させようと思ったこともあった優秀な人であったが、オモニが占いをして貰ったら良くないと出たと言って、その話はアッサリなくなった。
 私は中学生時代、高校生時代、高校卒業後も家業の事務を受け持ち、実際の結婚は我が家で事務のできる人間をと決まっていた。彼の事は、わが家で働いてくれる大切な人のうちの一人と言う意識以外は持ったことはない。妹たちには好かれていた。労賃が入るとお菓子をいっぱい買ってきてくれたからである。
 上京して、オモニが彼が癌という事でお見舞いに行って来たという話をした。彼に乞われて住所と電話番号を教えたという。届いた手紙は島崎藤村の詩のような言葉が並んでいた。私よりも七歳年上の人であった。
 その頃の彼は、木彫りをしており県展にも入選していたという。麻雀荘の徹夜営業をしていたある日の明け方に電話がかかって来た。何度、呼び掛けても言葉にならない声を出すだけであった。彼の最後の声であったのかもしれない。間もなく、彼が亡くなったとの知らせがオモニから届いた。

by pcflily | 2014-01-05 17:49 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(3)  

或る日の韓国語教室にて

或る日の韓国語教室にて

私は朝鮮で生まれた一世であるが、まだ2歳にもなっていないときに渡日した。母語は日本語である。朝鮮人と言われながら、朝鮮の言葉も歴史も地理もほとんど学ぶ機会はなかった。
子供が成長し、親の家から解放されてから、少しずつ、書籍や講演会などで覚えることが出来た。
まだ、日本に朝鮮人がいたのかと言われたことがきっかけで、朝日交流の為の会等に参加するようになった。朝鮮語を教えるようになったことも、国際交流会に参加していたことから無力ながら、私でお役にたつならと始めるようになった。テレビや書籍が主な私の学ぶ基になった。日本語が母語であるので微妙な発音の違いを音に出せないことがある。現在は殆んどの朝鮮語を学ぶ本にはCDが付いているのでそれを聞いて頂くことにしている。

 近くの地区センターで4回コースの韓国語教室があるのを知り、韓国で生まれ育った人で、とても優秀な人であると、地区センタ-の職員さんに聞いて、私も申し込んだ。韓国に留学する勇気もないので、韓国語が母語である人の言語を聞きたいと思ったからである。
 一言も聞き漏らすまいと、講義に聞き入っていた私は、初日からショックを受けた。私が細々ではあるが、何年もかかって学んだ朝鮮語の母音の読み方が、私が身に付けたものと、違っていたのである。

 (1)   가   が      濁音だ
(2)    다   だ      濁音だ
  (3)    바   ば      濁音だ
 (4)    자   ざ      濁音だ
 (5)    짜   じゃ     濁音だ

○朝鮮語は、単語の最初の音は濁らない。だから、この音が頭にきた時には濁音にならないのに、その説明は、ない儘に濁音であると言って教えているのだ。 
      
〇上記の説明に納得がいかないので説明を求めたら自分が現地で聞いていたことを、教えているのだと言う。他の受講生がそれ以上の質問は止めてくれと、私の質問は遮られてしまった。

(1)から(4)までは、語中は濁音になり語頭は清音になるのだと、私は、しっかりと覚えていたのだ。
語頭になった時に微妙な濁音になることがあるが、日本語を母語とする者にとっては、その音を見分けるのは至難の業と思っていた。だが、この韓国出身の女姓講師は濁音であると、頑として言い張るのだった。

それならば、漬物のキムチはギムチとなり、人名の金(キン)さんはギン(銀)さんとなってしまう。

(4)の(자)はチャ・ジャと言うのが私の覚えていることだった。韓国からくる最近の若い歌手などはしっかりと「アリガトウゴザイマス」と言えるが、かつては殆んどの人が「アリガトゴジャイマス」と言っていた。
それは(ざ)の文字がないからと説明されてきたものだ。けれどもこの講師は(じゃ)でなく(ざ)であると言い張った。ならば「自己・자기・チャギであるのに、ザギ」となり、女性の名前に沢山使われている「子・자・ジャ」であるのに「子・ザ」になってしまう。

一例をあげると、英子さんはヨンジャ・よんじゃと呼ばれてきているのに、ヨンザ・よんざさんになってしまう。
また、明子さんはミョンジャ・みょんじゃと呼ばれてきたのに、ミョンザ・みょんざさんになってしまう。

私の持っているどの本も、辞書・電子辞書もザとはなっていないんですがと言っても、そんなことは関係ないと言って、全く話を聞き入れてくれない。

(5)の짜は(じゃ)だと仮名をふって教えた。この音は(っちゃ・ッチャ)と振り仮名を付けるべきだというのが私の考えだが、講師も受講生も、私の質問を受け入れてくれなかった。「漢字」を「漢子」と書いて説明している講師だが、日本に来て10年になるという。地区センターから信頼されてハングル講座を開講させてもらっていた女性だ。

〇ある友人に「愛しき人に贈る行進曲」の楽譜付歌詞のプリントを頂いたが、朝鮮語を学んだ人が書いたのだろうと思うが、「나가자/ナガジャ」が「ナガザ」となっていた。現在の韓国では、「자・ジャ」を「ザ」と教えているのだろうか?言語が変わってきてしまっているのだろうか?気になって仕方がない。私の持っている何冊もの朝鮮・韓国語の本も辞書も廃棄するべきなのだろうか?

どんなに真面目に頑張っても、在日の私の教えるハングルは信頼されず、(私の教室は閉鎖され)韓国から来た講師の方が信頼されるのだという事を知った寂しい暮れの出来事であった。

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黒い雲間から出てきた月(出た出た月が、まあるいまあるいまんまるい盆のよな月がーーー)居間から見た月、居間からは、朝は太陽が昇るのを見ることが出来、寝室からは夕日の沈む様子を見ることが出来る。このひとときを持てる幸せを感謝している日々である。春は蕗の薹を夕餉の膳に載せ、軽く一杯、蓬を摘み蓬うどん、蓬団子を楽しむ。庭の片隅の小さな空き地に移植したもので、一人の暮らしにはあまるほどである。四季折々の花木を植え、それらの手入れに余念がない、この小さな空間で、花いっぱい、夢いっぱいの暮らしを営めることが、嬉しい。

by pcflily | 2014-01-05 14:12 | アリランエッセー | Comments(2)  

新年ということ

新年ということ

 新しいことは、何もないけれど、今日から新年だという。
子供と孫が挨拶に来て、お年玉を渡す。一緒に食事をする。今日は全員で大阪朝鮮学校の花園でのラグビーの試合を見た。大阪朝鮮学校が勝ったので素直に皆で喜び、しばらく遊んで、子供の家族は自分たちの住処に帰っていった。
 新年ということで、私も昨日も今日も普段の日にすることは一切しないで、好きな朝鮮民謡を聞き続けた。聞くばかりでなくパソコンからテレビに繋げて、大画面にして歌手の姿や舞踊手の姿も見える朝鮮舞踊の画面も見る。かつて、苦しい生活の中でも、一つの事を信じ、それなりに。、共に歌って踊って楽しんだ仲間もいたが、この横浜に住むようになってからは、テレビとパソコンの画面が一番気の許せる友達になった。
 朝日が昇るのを見て、夕日が沈むのを見て穏やかな隠遁生活をしており、新年と言うほどの感慨にひたることもない。

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子供を育てることに全神経を集中している頃が懐かしい。

by pcflily | 2014-01-01 20:33 | アリランエッセー | Comments(2)