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今年の世界 『身世打鈴』別冊より

 今年の世界  『身世打鈴』 別冊より

 天運に見放されたる同胞か金日成主席みまかりたまいぬ

 テレビに映る平壌市民の姿を多くの人が異常だと騒いだが、在日コリアンの大部分の人が彼らと同じく泣き叫びたいのを堪えていたのをしっているだろうか?私が南の生まれでありながら韓国を支持できないのは、韓国政府が統一を望まなかったことが、明白であるからだ。私の八十歳になる母は電話の向こうで嗚咽が止まらずに三度目の電話で漸く話が出来たのである。

 一族の宴たけなわになりぬれば北よ南よ在日よと激す

  大国による分断で半世紀、同じ父母の血を引く我が家の七人姉妹さえ、結婚により、朝鮮人、韓国人、はたまた在日論者と分かれてしまった。両親が健在なために全員が打ち揃うことが度々あって、北にも南にも行かずに日本に住んでいる私たち姉妹は顔を合わせる。
 わが家に限らず在日コリアンのほとんどが南出身であるにも拘わらず、金日成主席の北を支持してきたのは、彼が朝鮮の統一を至上の課題にしてきたからに他ならない。また、韓国政府は日本に居住する同胞を日本政府と一緒になって放棄したのである。
 冷戦終結といわれる中で核疑惑を持ち出し朝鮮を追い詰めた米国が、朝・米会談に合意した。金日成主席は南北首脳会談を目前にして逝ってしまった。私は泣かずにいられなかった。
 二千万の小国が世界の大国米国と渡り合い、合意にこぎつけたのだ。
 今年の世界のニュースの第一位だと思う。半世紀を一国の主として生き抜き、冷戦の残骸の『三十八度線」の処理を出来なかったことは、どんなにか残念であったろう。在日コリアンの無念さはそれ以上のものである。
国益のためにはどんな裏切りも平気でする政治家、米国の今後の出方がどうなるのか、私の胸は休まるときを知らない。   (1994年12月)

☆19年前に書いた文章である。主席を首席と印刷されていたことに、全く気が付かないでいた。歌集を出版するときの私には、短歌を見直してくれる人も、校正をしてくれる人もいなかった。

作家の関川夏央に金日成主義者だと批判をされたが、私の場合は総連の最下位の役員にもなったことはないし、思想教育を受けてもいない。むしろ、総連関係者からは排斥されていた。どんな場合でも、自分の意見をはっきりと話すからであったかもしれない。

 交通事故の後遺症の為に仕事が出来なくなって、ご飯は食べさせてやれるよと言う人と再婚した。10年ほど暮らした時に、彼から離婚したいとの申し出があった。総連で専任で働いていた長男が給料が出ない、看護師になるための勉強をしている嫁の収入だけでは暮らせない状態だ。長男と同居をして、孫の為に自分の年金を使いたいとのことであった。血縁を大切にする朝鮮人だから、当然の事であろうと承知した。
私の子供たちは二人とも、すでに結婚をして独立していた。一人になるオモニを心配して、離婚することに反対して、直接、彼を説得しようと試みたが、彼の決心は固かった。
同胞も近所の人も、私が彼を追い出したのだと言っていた。私の家に彼が住んでいたし、彼が10歳年上であったからである。16年前の事だ。

 最近、或る人に会いたいとの電話を受けて出かけたが、そこで、偶然に、彼の家族の話を聞くことになった。長男は管理職につき、嫁は看護師として大学病院に就職し、一番上の孫は弁護士になり、二番目の孫も就職し、三番目の孫は朝鮮学校の教師となり、それぞれ、立派に活躍をしているという。私と離婚をして支えてやった成果があったのである。さぞ、満足して楽しく暮らしているのだろうと思ったことであった。
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居間の窓から見えた朝日の昇る姿。あまりに強い光でピンクの影?まで映っている。

by pcflily | 2013-12-29 19:40 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)  

統一チーム「コリア」

 統一チーム「コリア」

韓国の甥と並びて応援す統一チーム「コリア」に声はりあげて

同胞は統一「コリア」に祖国の統一重ねみて一心同体の応援

南北の老いも若きも幼らも統一チーム「コリア」「コリア」と

「統一します」と吾がいうテレビ見たりしと東西の友より電話かかりきぬ

勝ち負けのそれより貴重な「統一チーム」優勝なせり同胞の喜び

統一「コリア」優勝の瞬間「ジャレッタ」とオモニも吾もオッケチュムす

統一の成りし如くにマンセーとテレビを見つつオモニのおらぶ

統一「コリア」の優勝の記事読みいるに涙のあふれて活字の見えず

悲願なる統一「コリア」の優勝を誰彼なしに礼を言いたし

☆1991年、卓球の南北の統一チーム「コリア」が優勝した。在日同胞は統一が叶ったかのように喜びを分かち合った。私は緑色のチマ・チョゴリ姿で応援に行った。総連中央の女性同盟委員長に、チマ・チョゴリを来てきたのですねと声をかけられた。彼女は洋服姿であった。私が「雨が降ろうと風が吹こうと,民族衣装を守る為にも着なくては」と言ったら、何も答えなかった。
 あの頃の私は、本当に南北朝鮮の統一を信じていた。チマ・チョゴリを着ていたせいか、あまりに真剣に応援をしていたせいか、何人もの人から取材を受けた。そのうちの一つが、テレビに映し出され、、南北東西の知人から、電話がかかってきた。在日朝鮮人の場合は日本中に知人がいる人が多い。繋がっているのだ。
  まさか現在の様な、厳しい時代が待っているとは思っていなかった。ある意味では、信じる物を持っていたので幸せであったと言える。
今は、未来に期待できるものが、何も見えない。
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東北朝鮮学校の1年生として入学した長男の淳馹。、
東北朝鮮学校は、初級部1年生から高級部3年生までが寮生活をしていた。
淳馹は、入学前に、平仮名を全部書くことが出来ていたので、私宛に表書きを書いた葉書を何枚も預けて、困ったことがあったら、何でも書いてポストに入れるようにと言い聞かせてあった。
ポストに入れることが出来ないでそのまま保管してあった葉書の一枚。文面は「オモニ、きてね すぐきてね」だった。

by pcflily | 2013-12-19 20:37 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(3)  

饒舌

 饒舌

客のなき見せに一人踊りいるジャズを鳴らして眉うすき女

酌み交わすグラスの影にちらほらと裸(うち)なる心見えつ隠れつ

煙草吸う男の仕草見つむれば乳房乞いいる赤児の如し

酔うたとて歌い踊りて饒舌の後にあふるる涙止まらず

振り向けば今開かむとする花のごと少女となりし吾子と眼のあう

声あげて浜辺にはしゃぐ吾子ふたり罪深き母の心気付かず

生計(たつき)たつる術と思いてこらえきしを客の罵声にあらがいし今宵

夢は夢生計はきびし夕されば酒と饒舌と笑顔を切り売りす

☆実家で建ててくれた新築の一戸建てに半年も住まずに、家出して、上京して降り立った場所は町田市だった。1月の早朝の駅前は通勤の人で一杯だった。寒さを凌ぐために駅の地下道に立っていたが、行き交う人の眼が自分たち母子に注がれるのに気が付いて、商店街を徘徊していて、「子供可・平和荘」の求人募集の張り紙を見つけた。探し当てたビルの中にたどり着いた時は、店内には徹夜で麻雀をしている男達がいた。店主が来るまで、待てと言われ、寒い街頭に子供を連れ出せないと思い待たせてもらった。
いくつもの店舗を持っていた老舗の社長は、私に面接することもなく、子供を連れているから、信用できると雇ってくれた。その日から、4畳半のワンルームをあてがわれ、仕事を始めた。
私は、麻雀の牌を見たこともなく麻雀というゲームがあることも知らなかった。掃除とお茶を出すことが主な仕事なので、私にも出来る仕事だった。勤務時間が長いので、店員が長く続かなかったそうだが、出かけることを好まない私にはぴったりであったと言える。
2年後、この店を買い取ったことで、町田市の住民を33年続けることになった。自分の意志で生きることを決め、実現することになった。
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by pcflily | 2013-12-15 13:04 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

オッケチュム 歌集『身世打鈴』より

オッケチュム

 
 杖鼓響(な)ればねじまき人形になれる如「オッケチュム」舞う吾の朝鮮の血

 三人ほど集える宴も同胞の互みに歌い舞いも果てなし

 朝・日の歌惚けし如歌い継ぐ古希の宴の君は在日一世

 即席の歌詞は互みに身世打鈴 他郷の恨の歌垣続く

 朝鮮の舞いは終わりなき円という おわりなき祖国の分断を思う


☆現在地に引っ越しをしてからは、同胞との付き合いは殆んどない。
踊るどころか歌う事さえなくなって9年を越した。カラオケで歌うときも歌詞を替えて自分の気持ちをこめてうたって楽しんでいたのだがーーーー。

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エレクトーンを引く娘、発表会で。
娘には、バレー、書道、絵画、エレクトーン教室に通わせた。そのうちに自分に一番合うものを見つけるだろうと思ったからだが、趣味としても、続けていることはない。
エレクトーン教室は、息子も一緒に通わせたが、女の子ばかりで嫌だと直ぐに止めてしまった。長じていろいろな楽器を、一人で楽しんでいたが、最近は、何れも飾り物にしている。

by pcflily | 2013-12-02 22:19 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)