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緑衣紅裳  『身世打鈴』より

      緑衣紅裳(ろぎほんさん)

 朝鮮の花嫁衣裳 緑衣紅裳まといて歩む子よ亡夫は見るらん

 祖国(おやくに)の花嫁衣裳 緑紅衣裳まといて歩む子のうなじ薄紅に

 嫁ぎゆく子の結婚式吾が娘を抱き退場の新郎を囲む朝大生

 結婚を祝い集える同胞の杖鼓(ちゃんご)に合わせオッケチュム舞い舞う

☆朝鮮大学を卒業した娘は、私の夢を叶えてくれて教員になった。麻雀荘を休業にしてでも、娘の教員生活の応援をしようと思う程に嬉しかった。大学の担任の教員が母子家庭であるから、親子を引き裂くような、遠くへ配置されることはないと仰って下さった。 離れて暮らすことは、私にとっては耐えられないことであった。
ところが、三多摩本部にお願いしたり町田の朝鮮学校にお願いしたりしたけれども。。「町田の学校では女性教員は必要がない」と言われ、娘は愛知県に配置された。
4月になってみると、、町田の学校に配置されてきたのは、娘の同級生の女性だった。

同胞社会でも、私達母子は差別をされつづけた。夫がいないからか、貧しいからか、その両方であろう。
 私が、事故で長期入院をした為に、名古屋の朝鮮学校の校長先生の努力により、横浜の学校に転任することが出来た。

教員という仕事に情熱を注いでいた娘に、無理やり見合いをさせたのは私だった。娘は、私の母に助けを求めた「見合いさせないようにとオモニに話してください」と電話をしたーーーー。
私のオモニは「、明希がまだ若いのに嫌だと言ってるのだから」と電話して来た。仲人さんがあまりにも熱心で、どうしても断れなくなっての話だから「会うだけで良い話」だと返事をした。
 ところが、相手方も、仲人さんの顔を立てて来ただけであった。今時珍しく、仲人さんが熱心な人なのであった。
両家の母親たちがそんな気持ちでいたのに、二人は意気投合してしまって、結婚することになった。
二人は見合いの席で恋をしてしまったようだ。

 娘は私の夢を実現してくれた。教員にもなり、心の通じる相手と喜びを感じて結婚した。結婚式には純朝鮮式の衣裳を着てくれた。その頃は、大多数の人々が、西洋式を真似たのか、どうか知らないが、白いベールと白いチマ・チョゴリを着た花嫁姿が一般的であった。
 かつての私の結婚式は、白いウエディングドレスであった。お色直しには、婚家の義母の手作りのチマ・チョゴリだった。又、式場では、着ていないが、美容院の母子の説得で、高島田の着物姿の写真を撮っている。この母子は、我が家に一泊をして結婚式の日の私の花嫁姿の装いを整えてくれた。f0253572_1951562.jpg
見合いが決まってから、結婚が決まってから、家族のためと思いながらも、私は一人で泣いていたものだから、やはり悲しげな顔をしている。

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by pcflily | 2013-11-27 19:58 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

 娘へ 歌集『身世打鈴』別冊より

 娘へ

 庭の菊が鮮やかな色を見せ、シャコバサボテンもその蕾を膨らませています。
 先日のテレビでの、二夜連続放送の「韓国国宝の旅」を見ましたか?もちろん、私たち在日コリアンが韓国・朝鮮についての放送を見逃す筈はありませんけれど―――。
 それにしても、史実をきちんと伝えてくれていることに驚きもし、感動もしました。少しずつ変わってきているのですね。
「明希」(みょんひ)という名前のせいで、いつも、明るく屈託がない性格になったかと思ったりもしましたが、あなたの性格は、朝鮮学校で十四年間、正しい朝鮮史と民族教育を受けた賜物ですね。自分自身を否定しなくても良いのですもの。自分の名前さえ、はっきりと言えなかった。というより知らずにいた私の学生生活を思うと、今でも胸が痛みます。
 遅々として進まぬ朝・日関係ですけれど、明るい希望を持って見守りましょう。
 そろそろ、清文と清奎に会いたくなりました。元気に相変わらずやんちゃをしてますか?
朝晩、冷え込んできてますが、風邪を引かぬようにしてください。
末筆ながら昌浩さんにも宜しく伝えて下さい。  ( 1991年10月)

千里馬の国の夜明けを信じたり吾子につけたる明希という名  今も夜明けは見えない国になってしまった。

☆22年前に書いた文だが、娘は、三人目の男児、清梧にも恵まれ、もう、成人している。
この9月に、難関の資格試験に合格したことを聞いて私は、大喜びをしていたのに、10月に転勤になった。子供は、それぞれ、成人しているが、夫を置いて単身赴任との事だ。仕事を任せられることは、喜ばしいこととは思うが、「福島市」であるという。原発事故があってから、転居をする人もいると言うのに、心から、喜んであげられないのがさびしい。

     ☆娘の明希は婚家の両親から、今時には珍しく、素直で優しい嫁と可愛がられた。
喫茶店に行くときも、お姑さんは明希を連れて歩いたと言う。
お舅さんは、入院したときに、看護人は明希出ないと嫌だと仰ったと言う。娘のお蔭で、私は、良いプレゼントを頂いた。
朝鮮に帰国した親族に、会いに行ったお姑さんは、この刺繍の絵を見て、直ぐに、私を思い出し、ぴったりだと、直ぐに購入したと仰って、額装して届けて下さった。



f0253572_16535415.jpg「森の泉の水面で髪をととのえる乙女」   刺繍の絵     朝鮮民主主義人民共和国製
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by pcflily | 2013-11-19 16:50 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)  

「寿衣」       『新日本歌人』2010年

  「寿衣」

三十まで生きられない子と言われたる十三の春の堅香子(かたかご)の花

三十を越しての命を付録とし家出なしたり商いもしぬ

父母(ちちはは)に倣(なら)いて寿衣を調(ととの)えし還暦よりはや十二年経ぬ

白絹(しらぎぬ)のチマ・チョゴリまた重ね着る緑衣紅裳(ろぎほんさん)の花嫁衣裳

年年(としどし)の虫干しの日に父母の民族の血を継ぎゆく誓いを

蘭の花送り下さりき われの子の処女出版に安江良介氏        『世界』社長

水茎の跡麗しく吾の歌を「朝日」に見しと安江良介氏

年明けて病の癒えず過ぎし日の思い出ばかり胡蝶蘭咲く

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今年の虫干しは、11月になってしまった。例年より遅い。天候の不順と、雑用に追われてだが、年齢も一因だったかもしれない。もともとスローテンポだったのだが,益々、個性が強調されてきたようだ。

 ☆還暦を迎えると、親より先に逝っても、親不孝と言われないのだ、親への孝行は済んだことになるのだと、教えられた。人生五十年と言われていた時代の事であろうが、還暦の年には、いつでも、お迎えが来ても良いように寿衣(死に装束)を準備するのが、朝鮮の伝統を守る我が家の習わしであった。

 私も、還暦の時に寿衣を調えた。絹の白一色が普通であったが、余裕があれば緑衣紅裳も調えるのだと聞いたので、正式なものにした。濃い緑と赤の掛布団と敷布団。そして、枕、足に、手に、顔を覆う布、また、黄泉路を行くためのお金を入れる袋、下着から、チマ・チョゴリ迄、みな白絹だ。

 私の還暦の年はアボジとオモニの結婚70周年であった。その年は私の当番で、式は私に全てを任されることになっていた。
けれども、アボジが癌になり、韓国の土になりたいと、韓国に帰ってしまって。戻れなかった。私の還暦の祝いの代わりに歌集を出すことを決心し、アボジとオモニの結婚70周年を、盛大にお祝いする予定であったのに、思いはかなわなかった。出来なくなってしまった。

 思いがけないことに、息子が、私の為に還暦の祝いと、歌集『身世打鈴』の出版祝いをしてくれた。
横浜の山下公園の傍の「ホテル、ニューグランド」。歌集が出版されたのが、1998年10月30日だったので、出版祝いは11月22日であった。今月の22日は、あの夢のような日から、15年になる。f0253572_198425.jpg1998年、「ホテルニュージャパン」で家族と共に記念写真を撮った。「寿衣」を着た後に、国際交流会でお世話をした、韓国から留学の教師夫妻がお祝いに送って下さったチマ・チョゴリも着て見せたので、還暦でのお色直しは初めてとーーーーー。
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by pcflily | 2013-11-09 19:09 | 『新日本歌人』 | Comments(3)  

危うき船に

    危うき船に

選挙権持たざる吾が革新派市長出さんと選挙運動す

徹夜明けを自転車走らす雪の道気がつきしとき救急病院にあり

大部屋のベッドに聞ける市長当選115日吾は入院す

退院せし十日の後に娘の入院送迎バスの追突されて

完治せぬ後遺症に守り来し麻雀荘閉じ再婚したり

娘と吾と長期入院に倦みしごと結婚という危うき船に乗る


☆一人で麻雀荘を経営していた。お客さんの中に、東洋羽毛株式会社の社長も社員と共に来ていた。自宅が町田にあったからである。町田市の市長選挙の時に応援を頼まれた。社長は革新派の市長の大下市長の後援会会長であった。今回が最後の立候補になるのだが、完璧に安全でないという事だった。
古物回収業をしていた妹夫婦が、その仕事に嫌気がさして鬱病になっていた。社長に頼み込んで、羽を洗う仕事を回してもらっていた。私は何時も、駄目もとで、その時々の心の思うままに行動を起こすのが常だ。妹夫婦の為に仕事を下さった感謝の心もあったし、社会党系の市長の応援もしたかったのだった。
麻雀組合の理事をしていたので、雀荘仲間を説得する為に、徹夜明けを自転車で出かけた。自動車も持っていたし、免許証も持っていたが、徹夜で仕事をしていたので事故を起こしてはいけないと自転車で出かけたのだが、バスに煽られて自転車ごと倒れ、バスはそのまま行ってしまい自損事故になってしまった。
保険の対象にもならず、自費で入院することになった。麻雀荘はその日から、休業になった。麻雀荘をしながら、保険の勧誘の仕事もしていた。それなのに、自分の保険は切れたままになっていた。又衣料品の行商の仕事もしていた。一人で店を守りながら、合間を見て、保険の勧誘と衣料品の行商をしていた。
入院の知らせを受けて、オモニも姉妹も、良い機会だから体を休めたほうが良い。少しでも長く入院していた方が良いと言ったりした。結局115日の入院生活をした。後遺症が残り仕事が出来なくなり、この結果、再婚をすることになった。
この時、当選した大下市長に、10年ほどたって手紙を出した。朝鮮人の高齢者無年金の人のための運動をしていた時に知り合った女性の国会議員の方が、住所を教えてくれたからである。歌集と私の書いた手紙、感想の返事も欲しかったので、返信用の封筒に切手を貼り便箋も入れて送ったのだが、一言の言葉も書いてくれず、そっくり、書留で送り返してきた。私への差別・蔑視の大きな一つの忘れられない経験である。

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麻雀荘は4階建ての3階にあり4階に息子と娘と3人で暮らしていた。生活をしていたのは、私たち母子だけであったので、屋上に土を運んでもらい花を育て、洗濯物も干し、物置小屋も買って置くことができたし、自由に使える場所だった。冬には子供と、雪だるまを作り、ヒヨコを育てたり、犬も育てて、遊ぶ場所になった。カメラを買ってからは、ここで記念の写真を何時も写す場所でもあった。
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by pcflily | 2013-11-03 20:43 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

アリランを歌ったオモニ

一人ぼっちの私の暮らしに、話し相手となり喜怒哀楽を共有してくれるテレビ、本当に有り難い存在だ。
テレビがなかったなら、一般社会の中に入り込めない私は、どんなにか寂しい日々を送っていたかと思う。

今朝も何時ものように、朝1番に両親に큰절をする8回の挨拶をし、阿弥陀様に、今日1日の無事をお願いした。それから外に出て、草花と会話、先だって植え替えた蕗の葉が青いので枯れてないことを知り、お礼を言う。

今日の韓国テレビは、トーク番組で、それぞれのオモニの話だった。最後に話した男性の俳優は、痴呆症のオモニを連れてドライブしたときの車中で、流していた歌謡曲を聞いて「木浦の涙」を2番まで、歌詞を1語の間違いもなく歌ったことを話した。歌詞をこのように、思い出したのだから、きっと、記憶が戻り、元のオモニになるのを待っていると話していた。

私は小さい時から、下手の横好きというけれども、声も出ないのに歌が大好きであった。何時も一人で口遊んでいた。泣いた烏がもう笑っているともよく言われた。これは、目が垂れ目であるために泣き止めば、笑っているように見えただけなのだ。泣いていた後に、歌を歌い出すこともあって頭がおかしいのではないかとも言われた。歌うと、何故か悲しみが、薄れるからだった。鬼の生まれ変わりではないかと私の恐れていた義兄は女が歌を歌うと、その家が滅びるとの昔からの朝鮮の諺を言って、怒鳴った。普通の家の女性は歌を歌うことは許されなかったのだと思う。

私は、オモニの歌を聴くことは一度もなかった。けれども、ホームを尋ねた私が歌って踊るのを見てオモニは歌った。おそらくオモニの生涯でただ1度の事であったと思う。オモニに会いに行っても何もしてあげられなかったが、幸いなことに個室なので、その部屋にいるときは、歌いながら踊って見せていた。その日は、拍手だけでなくオモニは一緒に歌ったのだった。終わりまできちんと歌詞を覚えていたしメロデーも間違ってなかった。
朝鮮の女の厳しい規律から解放されて、歌えた「アリラン」を謳ったのだ。

漸くに訪ねし吾に笑まいつつコマップタと握る手強き    (コマップタ=有難う)

身だしなみ厳しきオモニが表地の縮み裏地の垂れてるズボンを

重ね着し服そのままに丸められタンスにありぬ涙止まらず

送りたるタオルハンカチ1枚もオモニの手になく箪笥にもなく

たまゆらを楽しませむと酔いしごと歌い踊ればオモニの歌う

唱和するオモニよオモニ「アリラン」の歌詞をあなたは知っていたのですね

      2010年8月7日詠む

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1980年、生地朝鮮を40年ぶりに尋ねた「母国訪問墓参団」の名目で。(朝鮮籍のままで)
夢に描いていたチマ・チョゴリで朝鮮の地を歩く為に着るのだと持って行ったチマ・チョゴリ。オモニも妹も反対したが、私一人でも、チマ・チョゴリを着るよと言い張ったので、オモニも妹も持って行った。何百人もの団体であったが、民族衣装を着たのは、私達親子3人だけだった。カメラマンが付いて歩いて、写し、それを販売したものである。古くなってしまい、あまりきれいに残ってないのが、残念だ。
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by pcflily | 2013-11-03 16:05 | アリランエッセー | Comments(2)