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 旅立ち 『身世打鈴』より

 旅立ち

父の死を知らされし子が髪むしり泣きしが後に父を語らず

僕の世界広げると言い中一の子は家を出ぬ叔母を頼りて

子の発ちて言い忘れしことあるが如ただいらだちて涙こぼるる

受話器とれば話す間あるかとまず問いて預けおきたる子のしゃくりあぐ

泣きじゃくる吾子の言葉は唯一つ十円玉ないから電話きれるよ

わが背丈越えたる吾子と肩並べ ひがな遊べり向ヶ丘遊園地に

子の身丈吾よりも高いと手をかざす亡夫歩みし日にせし仕草

脱ぎ捨てし吾子の靴下手にとれば不意に顕ちくる亡き夫の顔

 
☆両親が私の家族の為に檜建ての50坪の家を建ててくれた。その家に住み始めて6か月ほどで、上京した。これで私たち家族が落ち着いたと、両親が、安心して九州旅行に行っているさ中の事であった。
両親がいるときであったなら、家を出る勇気は持てなかったと思う。何もかも捨て、子供を朝鮮学校へ通わせるための行動であった。
 それにも拘わらず、長男が、日本の学校に行きたいと言い始めたことに、同意して行かせたのは、わが子は天才と思っていた私の親ばかの為せる技であった。
 夫のいない私と知って、声をかける人は多かった。っそれを恐れて、一時、化粧を止めたこともあった。女が化粧をしないでいるのはお客さんへ失礼なことだと叱られたこともあった。或る日、転勤が決まったから、せめて一度食事を共にしたいという誘いを断れなくなった。けれども、この接待は受けることは出来なかった。
 その日、預けてあった息子から電話があったのである。中学生の息子は、夜も昼も仕事をしている私に気遣って、話す時間あるかと、最初に聞いた。どんなにか悲しいことがあったのであろうか?大丈夫よと言ったら、いきなり、泣きじゃくった。そして、「10円玉がなくなったから電話が切れる」と言って、そのまま、電話は切れたのだった。その電話は公衆電話であった。預けた家からは電話を掛けられなかったのであろう。

 「朝日歌壇」1976年5月第5回目に、2首の歌が入選した。

 受話器とれば話す間あるかとまず問いて預け置きたる子のしゃくりあぐ         近藤芳美選

☆君と会う喜び秘めて結い上げし髪崩すとてピンを抜きいる       宮柊二選   前川佐美雄選

子供のいない近藤先生が子供の歌を採って下さった。私の生活状態まで理解できていたのかもしれない。また、朝鮮人の女の生活習慣もーーー。愛の歌を、二人の選者が採って下さった。実らなかったことに、同情して下さったのかもしれない。五島美代子先生は、海外旅行中で選者を休んでいた。
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1980年 韓国に母国訪問 オモニの弟である伯父さん後ろの右、左は従妹の夫、伯父の家で。

by pcflily | 2013-10-28 17:04 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

『身世打鈴』より  結い上げし髪

 結い上げし髪
 
君と会う喜び秘めて結い上げし髪崩すとてピンを抜きいる

熱かりき君の手頬に触るるとき祖国も吾子遠く霞みぬ

朝鮮の国語と歴史学べよと或る日に君は言いて去りにき

世にいえる後家のふんばりも限りあらむ身病み心病み虚しさつのる

私の歌集『身世打鈴』には484首の歌を載せた。手元に残っていた歌の殆んどだ。整理の苦手な私は、「朝日歌壇」に投稿した歌と『未来』に投稿して入選した歌しか残されていなかった。歌集をまとめながら、書き足した歌もいくつかあるがーーーーー。
近藤芳美先生に、歌集を作るように勧められて、何も分からずに、還暦の記念として作ることになった。
歌集に載せる歌を選別してくれる人も、校正をしてくれる人もない状態で、印刷されたのだった。読んで下さった多くの方から、暖かい言葉を頂いたが、今になって考えてみると、酷い出来ですね、未熟な歌ですねなどと言える筈はないのだったと、思うようになった。
唯、間違いのない言葉と思えるのは、短歌にしては、恋の歌が少ないという事だった。それもその筈だと思う。私は恋をしたことがないのだ。
上記の2首目の歌も、実を言えば、君の手は頬に触れていなかったのだ。朝に夕に、日に何度も電話をかけてくる人がいた。1日に10回どころか、20回以上もかけてくる日もあった。その人の言葉が熱くて、頬に触れるまでに感じられたからである。
私にとって、子供と朝鮮以外に考える余裕がなかったのである。齢75歳になって、叶う筈のない夢の一つが恋をすることであると言えば、信じる人がいるだろうか?
子供の頃から、何時も、髪を長くしていた。腰まで伸ばしていたこともある。大人になってからも、ロングであった。ショートにはしたことがない。そして、今でもリボンをつけている。再婚をしたときにバッサリと髪を短く切って、オモニや姉妹に驚かれた。何故と聞かれて「女を止めたの」と言った。
事故の後遺症で仕事が出来なくなり、父もなく、事故の後遺症を持つ母までいては、私の子供が、自由になれない、何も残せないけれども、「子供に自由を上げたい」と言う覚悟で再婚をしたからである。
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1980年1月初めて私の生まれた朝鮮の地を踏んだ記念写真 アボジとオモニと同じ蜜陽朴家の医師と

by pcflily | 2013-10-26 22:40 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(4)