人気ブログランキング |

<   2013年 07月 ( 8 )   > この月の画像一覧

 

ハングルの貞花流 日本語から入る 「朝鮮語・韓国語の学び方」

   ハングルの貞花流 日本語から入る  朝鮮語・韓国語の学び方
 
 家出をして上京して、自立した私は、本名の姓名を母国語の読み方で呼んで欲しいと何時も思っていた。

   振り仮名を付けし名刺を持ち歩く吾ひとりの本名宣言運動

 時間に少し余裕が出来てから、少しずつ勉強を始めた。まず最初に気が付いたことは、朴にパクと振り仮名を付けては正確な発音にならないことであった。病院に行っても、銀行に行っても「パク」でな「パッ」であるからと説明をしていた。貞花は「チョンファ」に落ち着いた。「パッ」と仮名をつけると、間の抜けた「パー」と読む人が多い。殆んどの人が言葉の発音まで正確に言おうとまでは考えていないようだ。そこで、名前を呼ばれる場所に行けば「チョンファ」と呼んで下さいと、お願いする。一度でまともに対応しする人は殆んどいない。
 
日本人は苗字を呼ぶのが当たり前になっているので、中々、私の痛切な願いを聞き入れて呉れなかった。。でも、私は、何度もこの話をする、名前は私自身なのだから、軽く考えて欲しくないのだ。

 月謝を払い続けられないことが一番大きな原因で、時々、教室に申し込んでも、長続きしなかった。本を買ったものを読んだり、テレビを見ること等で思いついた時に独習をした。けれども、最後まで、一冊の本を終えることが出来なかった。挫折を繰り返していた。

 19年前に書店でハングル能力試験の看板が出ていて、今日で締切だという事だったので、衝動的に申し込むことにした。4級が初級であった。3級も同じ日であることを知り、東京まで、出て行くのだからと、ついでに申し込んだ。本屋さんで1冊の朝鮮語入門書を買い、1か月間集中して、本を読んだ。信じられないことに、二つとも、合格した。

 あれから、19年目の今年の6月に、成り行きで試験を受けた。試験勉強とことさら、励んだわけではなかったのに、合格通知書が届いた。本当にうれしかった。因みに、現在の私の年齢は74歳であり、秋の9月には、75歳になる。130人ほど同じ教室で試験を受けた。今回の合格率は4割と言う。

 貞花流の朝鮮語の勉強が功を奏したのだろうと思っている。

 ◎朝鮮語は、日本語と、良く似ている。文法は殆んど同じである。
 ◎朝鮮語も日本語も漢字語が多い。(7割近辺・朝鮮語の方が多いようだ)
 ◎朝鮮語も日本語も音の読み方が似ている。(全く同じ音もある)
 ◎朝鮮語音読みは300音ぐらいであり日本語の音読みは323音と言う。                      (金宗鎮著・『ハイステップ朝鮮語』より)
 ◎朝鮮語と日本語の音読みの違う場合、一定の法則があり、覚えやすい。
 ◎ハングルは、表音文字でありながら、漢字を一字で表記出来る。
 

 私の母語は日本語である。日本人が朝鮮語を学ぼうとする時は私と同じ感性で学ぶことになると思う。
私の経験から言えば、先ず、似ていると言っても、外国語であることを念頭に置き、日本の仮名をつけないことである。進歩が遅れると思う。日本語の仮名では、朝鮮語は正しく表記出来ない。
 だから、遠回りと思っても、まず何よりも先に、ハングルを読めるようにすることだ。朝鮮語の表音文字の、貞花流の基本の基本母音は6個、子音は9個だ。この基本の基本の発音をきちんとまず覚えることだ。全部で母音が21個、子音が19個になるが、基本の基本を覚えればそれをもとにして応用することが出来る
。大雑把に言って日本語の母音は5個、子音は10個だ。日本語で振り仮名を付けていては、朝鮮語の発音は正しく表記出来ない。朝鮮語の表音文字の数は多いので、日本語の表音文字で朝鮮語の発音は表記出来ないことは明白だ。

 ハングルは、表音文字であり、母音が21個、子音が19個。これだけで尻込みするかもしれないが、世界の言語学者が認めているように、科学的であり合理的に創作されたものであるので、覚えるのはびっくりする程に簡単である。記憶力の良い人なら瞬く間に覚えられると思う。ローマ字の様に母音と子音を覚えたら組み合わせて読めば良いのである。
世界の記録遺産に登録されているということにも納得がいく。
 
  ★初めに、基本の母音6個(貞花流)と基本の子音9個(貞花流)を覚える。その後は、-線を加えて読み方が変化してゆくことを覚える。

   ★母音       ㅏ ㅓ ㅗ ㅜ ㅡ ㅣ                      6個

   ★子音       ㄱ ㄴ ㄷ ㄹ ㅁ ㅂ ㅅ ㅇ ㅈ             9個


   「天・人・地」母音に込めて 子音には発音器官を図形化している

   丸と棒の音素文字組み創られし表意文字の豊かに広き

   ハングルは発音の表記細やかに漢字一字を一字にて記す

   創られし時代も人も確かなるハングル 世界記録遺産となる  (1997年)

  ★文章にすると長くなるので、好きな短歌で表現した。私の独習の結果です。
f0253572_19431439.jpg

  一泊旅行の記念写真

 

by pcflily | 2013-07-27 20:12 | アリランエッセー | Comments(1)  

「ハングルの振り仮名について思うこと」  「ふぇみん」掲載

  「ハングルの振り仮名について思うこと」     2004年8月5日

   パクチョンファと振り仮名せるを差し出せばボクサダカですねと念を押さるる



 この歌は、朝日新聞の「折々のうた」に大岡信さんに紹介された拙作だが、かつては通例に従い「朴」に(パク)と振り仮名を付けていたけれども、現在は「朴」に(パッ)と振り仮名を付けることにしている。


 私の母語は日本語だが、母国語(韓国語)を独習している中で気が付いた。朝鮮半島と日本列島の言語には共通点が多い。

 けれども、日本の仮名は数が少ないので発音をそのまま正確に表現できないのである

促音の[ッ]は後続音の種類により音が変化するので
、ハングルの場合は[ k. t. p ] と区別して表現できる。


しかし、日本の仮名の場合は[ッ・っ ] だけで表記する。


 例えば、日本語の「学校」(ガッコウ・がっこう)と振り仮名をするが(ガクコウ)と振り仮名を付けることはない。

それ故に、「朴」も(パッ)であり、(パク)にはならない筈である。本来の発音から考えると――――。
 

次に、撥音の[ン・ん]の場合も後続音の種類によって、
ハングルは[n.m.ng]と区別して表記できる。
辞書の「ん・ン」の項には「これは実際の発音では、後続音の有無や種類により、両唇鼻音、歯茎鼻音、軟口蓋鼻音などがある」と記されている。

 「ん・ン」の場合の例を挙げてみると、
観念(カンネン・かんねん)[n]
感銘(カンメイ・かんめい)[m]
歓迎(カンゲイ・かんめい)[ng]
と、はっきり違うのである。
それ故に「金」はキン・kimでありキム・kimuとはならない筈である。
ちなみにキムチ・kimutiでなく、キンチ・kimtiである。

 挨拶の言葉の「アンnニョンnハシムmuニカ」は、[アンnニョンngハシンmニカ]となる。
 
「カムmuサハムmuニダ」は[カンmサハンmニダ]となる。
後続音がマ行の音、感銘、三枚,秋刀魚のときの「ン」、唇を閉じた「ン」となる。

 学問的にはその理由があるのかも知れないが、
後続音がカ行の時の「ッ」を「ク」にし、
後続音がマ行の時の「ン」を「ム」にして使っていることで誤解を招き、
発音を難しいと思わせてしまっている。

by pcflily | 2013-07-23 07:49 | Comments(0)  

「国際交流は身近なところから」  『身せ打鈴』別冊より

      「国際交流は身近なところから」     一九九三年  町田地域国際交流会、会報に掲載

 国際下の時代に向かって、わが町田にも市民の手により「町田地域国際交流会」が設立されたことは、素晴らしいことだと思う。将来が楽しみであり、市民の一人としてお役に立ちたい。「遠い親戚より近くの他人」というけれど、日本と朝鮮に関しては、あてはまらないようだ。
 町田地域国際交流会設立に携わってきてまず感じたことは、町田に住む外国人の四六パーセントを占める在日コリアンを考える会は一つも無かったことである。勿論、新しくは入ってきた外国人と交流を持つことも大事であるが、少なくとも五十年は日本に居住し、言葉も通じ、感受性も似ている在日コリアンと日本人との交流が出来てこそ、真の国際交流として発展も出来ると思う。
 町田市には朝鮮学校があり、朝鮮信用組合もある。民族衣装のチマ・チョゴリ姿の中学生、高校生が街を歩いている。話しかけてみた日本人は、何人いるだろうか?朝鮮人に対する無関心ぶりは、今に始まったことではないが、淋しいことである。
 先頃、町田市民大学の「町田市民史学」講座を受講して驚いたことがある。古代の町田についての話だが、対照日本史年表という資料の外国事項に、朝鮮を「鮮」という差別的表現で記し、古代国家「古朝鮮」も「高句麗」も、国連に加盟している「朝鮮民主主義人民共和国」も記載されていないのである。
 情報操作の激しい社会であることは認識していたつもりであるが、市民大学で歴史を学ぶ場でさえ事実を教えないということを痛感した。
真の国際交流は、事実を知り、お互いに対等に接して認め合うことが、第一歩である。優越感や同情などでは決して長続きしない。
 日本語で出来る国際交流であり、直ぐ隣に大勢、生活している現状を踏まえて、在日コリアンとの接触から逃げないで欲しい。太平洋の彼方より、身近なアジアの人々と仲良く暮らすことも重要な時代になってきている。
 身近なところから着実に根を張らせてこそ、本物の国際交流という大きな木が育つと思う。私の場合、異国に暮らす外国人の立場を選んで、五十余年日本人社会で生きて来た経験を活かして、「懸け橋」としての仕事をしていきたいと思っている。

☆ 市民大学では「体を考える運動」の講座も受講した。大学の教授という講師は「オリンピック百年」のビデオを見せ、政治的なことで参加できない国の選手の事を話した。その国はとんでもない悪い国であるようなことを言ったのだろう。私の反抗心がむらむらと動きだし手を挙げた。日本人として、オリンピックに出場させられた孫基禎の事はどう思っているのですか?何故?今日、見せて頂いたビデオにはその部分がないのですか?意識して抜いたのですか?講師は、慌てた様子だった。後に、事務室の職員が私に話してくれた。その講師が事務室に行って私の事を話したという。「朴貞花は、いつも、風を起こす女だから」と慰めておいたよと言われた。その講師は私の為に、孫基禎の入っている「100年のオリンピック」のビデオをプレゼントだと送ってくれた。
 日本人は無意識のうちに朝鮮人に対して、差別をしているのである。私は、早いうちから、自分は朝鮮人だと言って来た。後で朝鮮人と分かって態度を変えられるのが嫌だからだ。朝鮮人と分かって付き合ってくださいという私の意思表示なのである。
 小学校の六年の時だ。試験の点数を記入してあるノートを黒板の下に、いつでも誰でも見られるように担任がぶら下げておいた。私の点数は何時も実際より悪い点数にしてあった。先生に違っていると言っても、そうかと言うだけで直してくれなかった。何度言っても直さなかった。
六年の時に、新任の先生が来た、頼んでもないのに何かと言っては私のそばに来た。私のノートに名前を書いてくれたりした。可愛がっていたようだ。ある時から、一切無視するようになった。後でわかったことは朝鮮人と分かったからだという。
 最初に、何もしないなら、傷つくことはなかったのだ。豹変されることは傷がもっと、深くなる。なんとなく、「鳥もな鳴かずば撃たれまい」を思い出す。私を傷つけた人を私は忘れないからである。

 「日本語を教える会」から出発して出来た「町田地域国際交流会」には最初から私は関わり動いていた。けれども、出来上がったころには、その他大勢の立場に立たされていた。この時ばかりではない、いつの間にか、蚊帳の外に出されてしまう。このような経験は、現在まで、とどまることなく続いている。


わが家の裏の荒地に咲かせた松葉菊、このようにびっしり咲くまでに三年もかかった。土だと思っていたのに瓦礫がビッシリ敷いてある場所であった。それでも一年中、いろいろな花で埋まるようになった。来年は待宵草、月見草の花明りでいっぱいになる予定だ。それにしても、私の植えた柿の木は、いっぱいの青い実はなっても熟す前にすっかり散ってしまう。何故なのだろう。
f0253572_186880.jpg

by pcflily | 2013-07-20 17:25 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

『私の愛読書」  『身世打鈴』  歌集 別冊より

    「私の愛読書」       (一九九五年十月)

 私にとっての国語が朝鮮語であることを知ったのは、中学三年の時であった。その国語を学ぶことが出来たのは、それからずっと後のことである。と言っても本による独習であるが―――。
 朝鮮の歴史をぼんやりと知ることができたのも、結婚をし、子の親になってからである。
 朝鮮人である自分がわが子に国語も歴史も教えられないことにこだわり続けた。朝鮮学校に子供を通学させるために、すべてを捨てて上京したのは、一九七一年である。女手で子供を育て上げるのは容易ではなかったが、大学に行かせ、結婚も大卒の同胞と結ばれることが出来た。
 現在、私は自分を朝鮮人に育てている。独学ではあるが朝鮮語を学び、朝鮮の歴史を学び、朝鮮人の生き方を学んでいる。
 けれども、いくら熱心に本を読んでも老化した私の脳は、なかなか知識を吸収してくれない。
 そんな私にとって何時も傍にいて頂いて、お世話になっている本がある。
 平凡社の『朝鮮を知る事典』である。生活、風俗習慣、特徴的な事物、歴史、文化のすべてにわたる一千二百項目とある通りに、五十音配列による項目別になっている。
 アリラン、オンドルなど何にでも答えてくれる。絵あり写真あり年表ありと、サービス満点である。文献案内もあり、索引欄を見れば、どこに掲載されているかが、一目瞭然であることも、うれしい。
 一番うれしかったのは、韓国の父の本家から預かった「朝鮮本」の筆者が確認できたときである。
「朴堧」李朝の音楽家。一四二七年、自作の黄鐘と編馨によって十二律の音階を完成して楽制を整え、その楽譜が「世宗実録」にも残る。高句麗、新羅の于勒とともに三楽聖と呼ばれた我が先祖であった。

f0253572_14382913.jpg

  
木版刷りは朝鮮本の文集、名を遺した先祖、三人の文集。右側は現代の百科事典のように分厚く、印刷されたものになっている「族譜」――コピーしたもの
 


 ☆ 初めての母国訪問の1980年、朝鮮語を話し、聞き取ることを出来た私があまりに熱心に色々と質問をするので、本家の伯父様が、日本に持って行って勉強しなさいと貸して下さったもの。必ず返すようにとの約束のもとで。(漢文なので研究は進まなかったが、大体の事は理解できた)

 アボジのお葬式の時に返そうと持って行ったが、まだ研究が出来ていなかったので、再び貸して下さった。
けれども、私の場合は、三度目の訪韓はないだろうとのことで、親戚巡りをすることになり、この本は先に帰る「韓国籍」の妹に預けたのだが、、何故か、私に渡そうとしない。10年以上経っても、私の手には渡してくれない儘である。本家では、私に貸したと、今でも、思っているという事だ。伯父様は亡くなり、後を継いでる従兄も、高齢であるのに。

 
 ☆ 1980年、両親が、夫のいない私を韓国に連れ出した。このまま、自分が逝ってしまった場合に親戚の顔を知る人が誰もいなくなるのは耐えられないからと。朝鮮籍の私たちは「韓国」に自由に往来出来なかった頃である。韓国寄りの民団で組織の中に人を呼び込むために考えた方法であろう。その当時、殆んどの在日同胞は、総連系に属していたからである。朝鮮籍でも、一度だけ、国籍を韓国に変えなくとも「墓参訪問団」として韓国行きが出来るというものであった。
 
 私は、万が一のことを考えて子供と三人の記念写真を、白黒と、カラーの両方を写真館に行って写した。残す言葉も録音した。
 息子は大学受験、娘は高校受験の年の1月であった。韓国はまだまだ、貧しい生活をしていた。持って行く荷物があまりに多いので、飛行場まで近所の人の軽トラックで運んでもらったりした。又韓国の飛行場では荷物が多すぎると足止めを食い、オモニが何十年ぶりで故国に帰ってきたのだもの多くて当然だ。商売をするために持ってきたわけではない、親戚へのお土産なのに、駄目だとは許せないと、啖呵を切っ他ので、無事に荷物を持って行くことが出来た。オモニの強さを感じたことが忘れられない。
 
 朴正煕大統領が側近に射殺されたばかりで、「ソウルの春」と呼ばれた時期であった。それでも、私達には何時も、監視の人が付いて回っていた。行く先々で、警察が訪ねてきて話をさせられた。何事にも率直に話す私に対して、捕えられたらどうするのかと妹が怒り、姉妹喧嘩が絶えなかった。いくら、注意されても私は、自分の言いたいことを言うのを止めなかったからである。

by pcflily | 2013-07-20 15:37 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

「怒り」  歌集  『身世打鈴』より

        「怒り」

    償うと償わざると戦後四十六年差別の中に死にし人あまた

    過去のこと忘れて未来に生きようと優しき言葉君は日本人

    統一の成る日を信じて四十六年思いを一画ごとに込めて署名する

    核配備撤去せよとのシュプレヒコールともに声あぐ二歳児の孫

    半世紀黙していたる金オモニほとばしる言葉に慰安婦の苦が

    強制連行の孫なる子よ汝が いま慰安婦のこと取材に走る

    本名を捨てず生きて欲し汝が母の願いはこれに勝るものなし

  1998年に歌集『身世打鈴』を上梓した。私の還暦を記念したものだった。15年前の事である。手元に在庫は一冊もない。最近、この歌集『身せ打鈴』を読みたいと仰る方が何人かあった。
せめて、ブログにでも書き写しておけば良いのではないかと思いで、このブログを始めた。書き写しながら、しみじみと感じることがある。歌集の中のうたやエッセーは1973年から1998年までのものである。にも拘らず、この中に書かれていることは現時点で書いたものと言っても良いほどに、何も解決していないのだ。
 金オモニの事もそうである。ハルモニになって、もう、亡くなってしまわれた。償いも謝罪もなく放置されたまま、水曜集会は1000回以上だ。二歳の孫は大学を卒業して社会人になり、慰安婦の取材に走り回っていた青年であった息子は、力あるものが正義であると言って、すべてを放棄してしまって、自分の世界に籠ってしまったようだ。私は、老化現象が進み、朝の5時になるとベッドから出るようになり、忘れることに拍車がかかってきた。
 今年の5月にハルモニ達の水曜集会に参加する為に韓国に行って来た。最後の日に、ハルモニ達の映画を作り、この悲劇をなくすためには、戦争をなくすこと、平和の大切さを守るためには?と、世界を巡りドキュメンタリーの映画を作ろうとしている女性監督さんに、声をかけられた。日本に行った時に会いたいとのことだった。 ハルモ二と一緒に日本に来られるのだろうと勝手に想像をしていた。
 ある日「9条連」から電話があり、私が都内に出掛ける約束をした。それにもかかわらず、約束の日に、電話が鳴り、事の次第を聞くまでに、私は約束の日と時間を綺麗に忘れていたのだった。開いた口が塞がらないとはこのことである。電話が鳴った時には家でのんびりと食後のお茶を飲んでいた。
 監督の方と写真家の方と通訳の方と、三人の方が、外出の不慣れな私の為に、我が家まで足を運んで下さった。暑い日であったのに。 
 私に会うことは日本に来たから、チョット、会って下さる程度のものと軽く考えていたのに私への取材も仕事の一つであったという。あまりにも、ひどい失敗をしてしまって、どうしてよいか分からない日々を過ごしている。どんなに謝っても謝りきれない。「覆水盆に返らず」だ。
 本当に本当に申し訳ありませんでした。ごめんなさい。謝る言葉が見つかりません。取材の内容もまともなことを言えなかったと、後悔することばかりです。あまりにも失礼なことをしてしまったので申し訳なくて、慌てていたせいか、ご住所も、電話番号も聞けないままお別れしてしまった。私の名刺はお渡ししたので、せめてのお詫びのしるしに、いつでも我が家のベッドをお使いください。何時でも、空いております。
 何方か jieun hwangさんを、ご存知の方は、連絡先を教えて下されば、うれしく思います。
f0253572_17535280.jpg

 

by pcflily | 2013-07-18 17:53 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

「処女出版」 歌集『身世打鈴』より

    「処女出版」
 
  北の旗また南の旗も振れないと同胞の悲劇書く『もう一人の力道山』

  三月十一日出版さるるという子の処女作『もう一人の力道山』単行本となりて

  敗戦国日本人に希望与えたる力道山は朝鮮人なりき

  深夜歌う力道山のアリランは幼友達が電話で聞きやる

  オリンピックに統一チーム作ること叶えて帰郷せむとしたるか

  日・朝・韓の暗黒の闇に迷い込み帰郷果たさず三十九の早世

  三百人の聴講者ありホテルまた公民館の子の講演会に

  子の書きし処女作のこと「朝日」に載りオモニの涙を電話が伝える

  二十二年黙していたる亡夫のこと子はその処女作に二十二行の文

  力道山の生と死を追うノンフィクション書き終えて子は知る亡夫の悲しみ

  店頭に平積みされいる子の処女作を確認せむと通い続ける紀伊國屋新宿店

  ただ一度まみえしのみの安江良介氏この著書読みきと母吾に花を賜う

  子の著書を紹介すると節子さんミニ新聞作り送り下されし

  玄関にようやく入りぬ権星子さん喜び祝いて送り下されし花

  吾子の出版祝い励ます一族の五十の顔に満開の笑み

  吾の歌壇賞ともに祝いて花束を手渡す娘と無言の会話

  深夜まで朝鮮の未来語り合う吾が一族の二世・三世と
f0253572_170838.jpg

安井氏から『もう一人の力道山」出版のお祝いとして送られたシンビジュウムの鉢植え

 息子の李淳馹が小学館の21世紀国際ノンフィクション大賞に応募した『もう一人の力道山』は最終段階の5作品にノミネートされた。1995年は日本の敗戦による朝鮮の解放50年だったこともあり力道山の事を書いたものだったので、前評判は大賞間違いないとのことだったが、副賞にも選ばれなかった。審査員の中には出版もさせるなと言ったものもいたという。
 そんななかで、若い編集員たちの2000部でも出版したいという意欲があって、上層部の出版許可の印鑑を貰うたびに部数が増えていった。出版されてからは、朝日新聞、讀賣新聞は言うまでもなく新聞、雑誌などに好意的な書評が掲載された。音楽雑誌や美術雑誌等々、内館牧子さんは最近の三大ノンフィクションの一つと言えるとまで書いて下さった。版を重ね、単行本も出版された。
 安江良介氏の名刺を頂いて持っていた。子供が全てである私は、出版された本を安江良介氏に読んで頂きたくて、贈呈した。小学館の出版記念会には講演の予定が入っていたので出席はして頂けなかったが、私宛にシンビジュウムの鉢植えが送られてきた。安江氏の名刺を私が頂いていたので『もう一人の力道山』を送ることが出来たのである安井氏と、お会いしたのはたった一度だけだった。それは朝銀信用組合が催した講演会に私が出席したときであった。有名な安江良介氏のことは知っていたが、お話を直接聞いたのはその時が初めてであった。安江氏のお話の内容に私は感動して、胸の動悸が止まらなくなっていた。講演終了後、晩餐会が始まったのだが、私は飲食する気持ちになれないでいた。日本人の安江さんのお話は朝鮮人の心を深く深く理解して下さっていると思えたからであった。その様なお話を聞いたのは初めてであった。有難くて、嬉しくて一言でも良い、お礼の言葉を申し上げた意と言う思いが募って、テーブルの上のご馳走には目もくれないでいた。私の隣席の人も付いて行くという事になり思い切って、安江さんのテーブルに行き思いを告げた。一言のお礼の言葉が言えたら、直ぐに自分の席に戻るつもりだったのに、横の席に一緒に座るように何度も言われ、断りきれずに座った。組合長や理事、支店長などが、次々にあいさつに来た。私が、それを邪魔してはいけないと戻ろうとしても、何度も引きとめられてお話を聞かせて頂いた。名刺も下さり、のちに著書も送って下さった。
f0253572_1935476.jpg
f0253572_19371156.jpg『もう一人の力道山』を送るまで、朝日歌壇の投稿者の朴貞花と隣席に座った私が同じ人とは知らないでいたという手紙を頂いた。何時も私の短歌を読んで下さっていたという。安江さんの手紙は巻紙に水茎の後も麗しい筆文字であり、表装して現在も所持している。朝銀の方から一緒に映っている写真が送られてきた。良い記念になっている。真ん中の白いチマチョゴリ姿が私。何時でも、どこでにでも、チマ・チョゴリ姿で出かけていた。小田急線の混雑の中をチマ・チョゴリ姿で乗車した。

「新聞記事の切り抜き」は安井氏が送って下さったもの。お母さんに似ていますねとの文面の手紙もあった。

by pcflily | 2013-07-13 19:44 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

[

     鉄は熱いうちに打て   「それぞれの四季」 朝鮮新報 2003年4月8日掲載

 二人の子供を朝鮮学校に通わせたい一心で、身一つで上京して32年になる。
 初級部1年であった娘は3人の息子の母となった。もちろん3人の息子は朝鮮学校の在学生である。娘と縁あって結ばれた青年は、大学まで朝鮮学校で学んできた。彼の願望は、朝鮮学校を守り抜くことである。それには、「朝鮮籍」「韓国籍」「韓国」から来日する子供も朝鮮学校に通学するようになれば、生徒の数も増えるはずであり、学校も増えるであろう。
 息子と結ばれた相手も大学まで朝鮮学校で学んできた。4歳の孫は「ハルモニ、アンニョンハセヨ」と挨拶する。最近、テレビ朝日で朝鮮高校のラグビー部が紹介され、その画面に息子が映って、彼がコーチをしていることを初めて知った。フリーライターの息子が、こんお不況の中で無給のコーチをしていたことに驚いたが、朝鮮学校を思う気持ちからだろう。
 子供は親の言うことは聞かないが、真似をする。最近は子供の名前を、朝鮮語で読んでも、日本語で読んでも、同じものを選ぶ人が増えているが、これはどういうことだろうか?どちらにも通じるということは、すでに半分、朝鮮人を放棄しているような気がする。私は、孫たちの名前が一読して朝鮮人であることが分かることに満足している。私達には創氏改名という悲しい経験があるではないか?
 「鉄は熱いうちに打て」 初級部から朝鮮学校で学ぶことは、朝鮮人の魂が身につくことだ。朝鮮学校を守ることは、朝鮮人の魂を守ることにつながり、何よりも最優先させなければならない。
f0253572_19431057.jpg


飛行機を直に見るのは、6歳の孫にとっては初めての経験。羽田直通の京急バスに乗って飛行機を見に行って来た。乗り物の好きな孫の為に、慣れないインターネットで調べた。横浜から20分程で到着、走り出したバスを止め、記念写真を撮った。

  三つまで天使・天才4歳はオレハオトコトつなぐ手ほどく

5歳になったある日「オレ男ニ生マレテ良カッタ」と言う孫。どうしてと聞いたら、「男ハ強いカラ何ンデモ出キルンダ」と言う。強さに憧れ、早いうちから、消防署員、警察になりたい。

羽田に行った時に、初めて、パイロットになりたいと言い出した。7月7日の七夕の日であったので、願い事を書いて下さいと大きな笹竹と色紙が準備されていた。短冊に『パイロットになれますように』と書いて笹にぶら下げてきた。
f0253572_207530.jpg
孫の家族に口出しは禁物なので、パイロットも危険な仕事なんだけどと、ハルモニとしては独り言を言うしかなかった。

by pcflily | 2013-07-10 20:22 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

「教壇」 歌集 『身世打鈴』より

           「教壇」 歌集『身世打鈴』より
 
   ありのまま吾の歌の出会い語るとき瞬きもせず朝大生二十人


   どうしても行けなかった大学の教壇に立ち歌との出会いを語る

   先生の講義に泣きしは初めてと吾の手を取りて涙零せり

   朝大生の感想文に涙落つあふるるほどに思い伝わりて


☆朝鮮大学の教授より「短歌との出会い」の講義の依頼があり、初めはお断りしたが、説得されて話をさせて頂いた。「朝日歌壇」の私の入選歌の読者であったという教授からの依頼だった。
 90分の講義が終わり、帰ろうとしたら、学生たちに取り囲まれた。握手を求められ、ある学生は涙を流して私を驚かせた。話しが尽きず、結局、大学の食堂で、食事を一緒にすることになった。
間もなく、教授からお礼の手紙と共に、学生の感想文が送られて来た。感想文を読みながら、私は涙を流し続けた。こんなに喜んでもらえたのかと、また、私の話を聞いて祖国統一への思い、短歌への思いを新たに考える事が出来たと書いた学生が殆んどであった。苦労を乗り越えたからこその笑顔であるとの賛辞も多かった。
  f0253572_22301982.jpg中学生の時の嫌いな言葉は「努力」であった。どんなに努力をしても「朝鮮人の私」には希望のない、意味のない言葉であったからだ。けれども、努力をしなければ生きることが出来ない道が待っていた。



○写真は中学1年生の頃、家でも、学校でも泣いてばかりいた。泣き虫と呼ばれていた。


 現在、子育てを終え、孫さえも成人して、私は、必要とされないか、むしろ、余計な存在になってきていると思える日々である。唯一の楽しみは、ボランティアでハングルを教えに月に何回か出かけることである。
私の教室の生徒が1年も経たないのに、ハングル能力試験を受験して合格したという。ハングル教室の帰路に寄った書店で、何気なく、私も、申込みをしてしまった。衝動買いでなく「ハングル能力試験」の衝動受験だ。
 19年前も、書店で今日が申込みの最終日と言う看板をみて、衝動的に申し込んでしまった「ハングル能力試験」その時は同じ日であると知って、二つを申し込んでしまった。二つとも、合格したから良かったものの、何故なのだろう、時々、突飛なことをする。
 正式に学校に通うこともなく、独習も長く続けられたことがなかった。母国語であるので関心は持ち続けていた。韓国に留学して1か月でも学ぶのが夢であったが、果たせないで、今年75歳の誕生日を迎える。
 合格する自信は、全くなかったのに、本日、2013年7月9日、合格証明書が届いた。19年目の受験だった。
70代の受験者は0,6%だという。

by pcflily | 2013-07-09 22:35 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)