人気ブログランキング |

<   2013年 06月 ( 5 )   > この月の画像一覧

 

左喜真美術館での出会いー丸木美術館『身世打鈴』別冊より

       左喜真美術館での出会いー丸木美術館

 「沖縄戦の図」を初めとする十四部が製作地である沖縄の、個人美術館「左喜真美術館」に納まって、展示されていた。
 丸木ご夫妻の願いが実現されたのは、昨年の十一月ということであった。
「近藤先生と行く沖縄短歌の旅」に参加した二日目の三月六日の事を私は終生忘れることないと思う。
 はるかに続く青い空と海、ブーゲンビリア、寒緋桜などが花開き、自然はあくまでも美しく、まさに夢の島であった。「基地の中に沖縄はある」という言葉を忘れてしまいそうであった。
 しかし、沖縄戦で一般市民の死者が十数万人に上っていたという事実、その中には朝鮮人も含まれていた。従軍慰安婦のことも同性として忘れられない。「辛かったでしょう、会いに来ましたよ」と心の中で祈り続けていた。
 敗戦後五十年、未だに「過去の侵略戦争」の賛否両論がある。「沖縄戦の図」に衝撃を受けていた私に、もう一つの衝撃が与えられた。朝鮮人である故にスパイだとして殺害された絵が描かれてあった。
 丸木先生は日本人の加害者の立場も描き続けておられたのだ。不信の目でしか物事を見られなくなっていた自分自身が恥ずかしかった。別室に茶菓が用意され、私たちは緊張して待っていた。程なく、丸木先生ご夫妻が入室された。杖をつかれ、支えられてのご入室であった。
 あまりにも、静かで優しく穏やかな笑顔に驚いてしまった。真実一路、人間の仕事を全うされた大人の姿であるのだ。
 こんなに素晴らしい方とお会いできたことと、その絵を間近に観ることが出来たこと、そして「沖縄戦」があったことへの憤りなどで私の胸は震え、涙が後から後から溢れ出てきて止まらない。
先生に一言だけでもお礼を申し上げたくて追いかけて行った。
 俊先生は、朝鮮戦争が休戦になったばかりの廃墟と化した平壌の地下で「「原爆の図」の展示をなさったことを教えて下さるのであった。中国で「原爆の図」展をなさっていたときに、朝鮮の大使館の方が来られて、私の国にもいらして下さいと頼まれたのですよ、とおっしゃった。
「「必ず『丸木美術館』に参ります」「何時でもいらっしゃい」と私の手を取り固い握手をして下さった。
 後日、この四月二日に「丸木美術館」を尋ねて、もう一度、先生にお会いすることが出来た。この日の感動は前回に倍するものであった。そうして、「からす」を見た。長崎の三菱造船に強制連行された朝鮮人約五千人が集団被爆し鴉が来て食いつくまで放置されたと言う。朝鮮人への加害責任を明確にした「原爆の図」であった。

 被爆死せる朝鮮人の屍は鴉の食むまで放置されにき     

 灰燼の平壌の地下壕の「原爆の図」爆撃受けし人等行列する

 さりげなく手折りくれたるすみれ花微笑みも添え俊先生は

その後、丸木美術館の説明文に朝鮮語も採用された。隣国の言葉ということで採用された。
(一九九五年四月「丸木美術館ニュース」に掲載)

☆上記の短歌3首のうち2首は「朝日歌壇」に入選した。

☆当時、旅行になどは殆んど行ける状態ではなかった。現在でも、自分からどこかに行きたいと旅行することはない。先生や教室の受講生に強く誘われて、断りきれなくて、出かけたのだが、無理をして、参加して本当に良かったと思っている。
左喜真美術館での茶話会が終わり、同行者と共に、バスに乗ったのだが、このまま黙って丸木先生とお別れ出来なくなり、皆さんに待って頂くようににお願いをして、俊先生を追いかけて行った。
私は、直接、お礼を申し上げたかったのだった。短い時間内で、北朝鮮に行ったことまで話して下さった。
 朝鮮大学で美術を勉強している姪に声をかけたら、その友人もついてきた。俊先生は、位里先生にも会わせて下さろうとしたが、事務局の方がお休み中ですからとのことで、この日は位里先生には会えなかった。
 このエッセーは、丸木美術館からの依頼があって書いたものである。美術館には何度か足を運んだ。
「丸木美術館を支える会」の展示販売の為に友人の須藤英子さんが私の短歌を「色紙」に書いて下さったものや、陶芸家の関谷興人さんが私の短歌を「陶板」にして下さった。
 丸木美術館には関東大震災で虐殺された朝鮮人のための「痛恨の碑」がある。大きく立派なものであり、ハングルも刻まれていた。このエッセーを書き終えてから、うれしい知らせが届いた。丸木美術館の「原爆の図」の説明文に朝鮮語を備えたいので翻訳をして欲しいというお話しであった。現在も、朝鮮語の説明文のそれは其の儘置かれていると思う。
痛恨の碑に、お花を供える心をこめて、私は朝鮮の国花である無窮花(むぐんふぁ)を傍にに咲かせたいと思い、その旨、お願いをした。直ぐに快い返事があり、我が家の苗木を持って行き植えさせて頂いた。元気に根付いて花を咲かせていたのだが、一昨年、インターネットで問い合わせたが、もう、無窮花はないと言われてしまった。私も、何年もご無沙汰してしまったのだから仕方がないと思う。残念だけれども―――。何方かがもう一度無窮花を植えて育てて下さればという願いが叶うことがあれば嬉しい。

この旅行に参加したことで、嬉しいことがほかにもある。友人が出来たこと。又、ホテルの晩餐会の時に、リクエストの時間があったので、私は、先生へ送りたいと「百万本のばら」のリクエストをお願いした。ところがその日の歌手が歌えないというので「愛の讃歌」を頼んだ。近藤先生の奥様のとし子夫人は、このことを歌に詠まれて、ご自分の『歌集』と『未来』に載せて下さった。

 君のため「愛の讃歌」リクエストし給えりホテルの晩餐に朴貞花さん

 遠き祖国にかかわる思い篤くしてかなしく泪ぐましきあなた          近藤とし子

近藤先生は金大中大統領と金正日総書記が会った日の歌を『未来』と『歌集』に載せて下さった。

 朴貞花よろこび隠さぬ電話あり夏告げて平壌の放映一と日          近藤芳美

朴貞花とフルネームを歌に其のまま歌いこんで下さった。とてもビックリした、また嬉しかった。沢山の人が私の名前を入れた歌をいくつも読んで下さっている。なんとお礼を申し上げtら良いのだろう。

 朴貞花が師に送りたる「愛の讃歌」夕茜ながく沖縄の宿に

 在日の五十年を語る朴貞花に俊さんの眼は赤くうるみぬ

 痛恨の碑を仰ぎ貞花さんの肩を抱く丸木俊さんありき小さく丸き背     西村節子

 語る師を見つむる貞花さんのほほえみにわが生れ年強制連行重ねる   加登聰子

 美しく頬くれないに染め朴貞花さん二分されたるふるさとをいう      鳥羽加津子
f0253572_2011865.jpg
丸木俊さんと 会えるのはこの日が最後になった 東京の丸木俊さんの個展会場にて 
f0253572_2084049.jpg
 近藤先生夫妻と「未来」大会にて 
         
 朝日歌壇のみの記憶の朴貞花近藤とし子の歌に親しも          並木薫

 祖国分断の重き歳月語りつつ貞花さんうっすら涙滲ます          日比イチ

 オリオンの三つ星のごと印字せむ朴貞花さすればあなたはあなた    釜田初音

 大学の朝鮮語講座の教材に朴貞花さんの歌が印刷されいる       広岡冨美

 「強制連行アボジの子なり」と朴さんの歌かたわらに三,一独立宣言文読む 柏木文代

 飾らざる言葉の影に望郷の思い切なき朴さんの歌              日高陽子

 分断を認めぬ私は朝鮮人 誇らかな顔朴貞花さん              小川野武伏

 激しさはやさしさならむ朴貞花在日の歌詠む 女歌よみ           柴崎麻紀子

 かをりつつ孤高に咲ける朴の花朝鮮人であることに生きる         武藤雅治

 故郷に清きまなざし同胞に愛しき念い(おもい)一筋に生き越し来たるか朴貞花 朴鐘鳴

 朴貞花演じる友は日本人在日の苦を舞台に歌う     「朝日歌壇」入選 朴貞花

 朴の木の蒼天に立つ純白の貞淑の心花開きつつ                朴貞花
  
   朴貞花と名前入りで贈られた歌の全部を書ききれないのが残念だ。嬉しい思い出だ。

 

by pcflily | 2013-06-30 20:13 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)  

カスバの女(替え歌)

  貞花の歌う カスバの女 (替え歌)

 カスバの女のメロデイーで


   歌ってあげましょう   私で良けりゃ   

   ソウルの漢江(ハンガン) 花咲く平壌(ピョンヤン) 

   分断された  わが祖国  何故に 統一出来ないの

   誰が 統一 妨げる


    어차피 우리는 나라 잃은 나그네 이남에도 이북에도 살수없는 신세

    이제는 도라가는 고향도 없네 밤마다 마시는 술 쓰디쓴 술

    끔속에서 만나리라 부모형제요

     
     どうせ 私は 流浪の民よ   北にも 南も 住めない 身です

     もはや 戻れる 家もない  夜ごと 飲む酒 あびる酒

     夢に 会いたい 父さま 母さま


     あなたにも 私にも 明日がある  確かな ものなど 見えないけれど

     朝の 来ぬ夜 ないという それを信じて 夜明けまで

     われらの 真実 詠おうよ

     われらの 詩(うた)を 謳おうよf0253572_23395687.jpg 




            
          悲しい時、泣きたくなった時には、子供の頃から、何時も歌を歌っていた。朝鮮の歌を殆んど知らなかったので、日本の歌のメロデーに自分の気持ちを込めて、替え歌にして歌っていた。「カスバの歌」は作詞も作曲も朝鮮人であることを知った。物悲しい曲は私の気持ちにピッタリと添っていた。朝鮮人の悲哀が詰まっている。歌の舞台・場所が「カスバ」であるのは、日本では、「朝鮮」では売れないからであったという。現在の私は歌を歌う元気もなくなり、まして、お酒など飲める元気は全くない。ストレスの解消の方法がない。けれども、諦めることを覚えた。オモニが何時も、私に言い聞かせていた言葉がある「早く、諦めることを覚えて、大人になりなさい」「四季の歌」や「ドレミのうた」等も、替え歌にして歌っていた。

by pcflily | 2013-06-27 00:07 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

「隣人に伝える努力」2003年1月 朝鮮新報 それぞれの四季

  「隣人に伝える努力」 20003年1月 朝鮮新報 それぞれの四季 より

 北も南もわが祖国であるが、帰れる土地ではない。そして、この日本に3,4,5世の子供たちが生まれ、育っている。
 「まだ、日本に朝鮮人がいたの」と言われた事をきっかけに、私を知ってもらう事で、朝鮮人を理解してもらおうと、私は草の根運動を一人で30年近く続けてきた。
「アジアと日本を考える会」「日本語を教える会」「町田国際交流会」または図書館での「絵本の読み聞かせ」や「町田市民大学の受講」など、あらゆる場所で朝鮮人として話をしてきた。

  差別することはなかった真実は関心さえももたなかったのだ
 
この短歌は5年前に歌誌「未来」に発表したもの。町田市の朝鮮・韓国人高齢者への福祉金の支給を要請するための話し合いをしている時に「私は朝鮮人を差別したことがない」と一人のクリスチャンという日本人が明言した。それでいて朝鮮人の実態については全く知らないと言う。情報過多の現代に知らなかったというのは通らないし、差別しないと言うなら、まず、関心を持つことから始めなければならない。
 この運動は「無年金を考える会」として10人で始めたもので、日本人が9人、朝鮮人は私一人であった。差別したことはないと言っていた男性を含め8人はいつしか離れていった。残った一人の男性は沖縄出身であったが、なんだ「島か」差別されたという経験を話してくれた。残った2人で諦めずに続け、運動開始から4年目の昨年4月、町田市では東京都で初めて高齢者福祉金支給を決定し、実現した。
 一人の人間として日本人と心を通わせていくことが、必ず良い結果をもたらすと思う。子や孫たちの為に、自分自身の為に、いつも朝鮮人としての誇りと意識を持ち続け、隣人へと伝える努力を惜しまないことである。

 この文章には書いてないが、このときの決定により、障碍者への手当ても加えられた。そして台湾の人々にも同じく適用された。運動をした私達のことは知られていない。協力することに消極的であった支部の成果であると、「朝鮮新報」の記事には書かれていたし、日本の新聞も、もちろん、その経過については取材は受けたが、一言も触れていなかった。
 

現在地に引っ越しをしてからは、やはり、一人で「端(はな)の会」として、朝鮮語を教えている。受講料の工面が出来なくて独習で覚えたものを、私流(貞花流)で教えている。
  
  ◎1番簡単な外国語       ◎1番科学的な文字
  ◎1番近い隣国の文字     ◎1番長い歴史的関係

  「天・人・地」母音に込めて 子音には発音器官を図形化している
 
  丸と棒の音素文字組み作られし 表音文字の豊かに広き

  ハングルは発音の表記細やかに漢字一字を一字にて記す

  作られし時代も人も確かなるハングル世界記録遺産に    (1997年)

どんなに、私が勉強をした経験で気が付いたことを、真面目に真剣に伝えようとしても、どこかに、信頼していないという雰囲気が出ている。悲しい経験を何度かしてきた。
ふと思いついて、今年は「ハングル能力検定試験」に申し込んでしまった。受験しようとしていたわけではないのに、成り行きで、申し込んでしまった。図書館でどの程度のレベルかと、調べてみたら、あまりに、知らない単語が多くてびっくりしてしまった。その時点で受験を放棄してしまったのに、教えている生徒の中で受験をするという人がいて、つい、私も申し込んだと口を滑らせてしまった。駅で待ち合わせて一緒に行きましょうと言われたが、受験しないと断った。
1週間前位になって受験料が勿体ないと思い始め、行ってみようかなとーーーー。結局、当日になって行くことに決めた。まず、会場への案内図があまりに不親切で、私には、試験問題よりも辛かった。
19年前に、衝動的に受験したときは幸いにも二つとも合格していた。今回も、衝動買いのような衝動受験であった。学生の頃、私は試験が好きであった。試験の点数が良ければ、その時だけでも、先生も周りの人達も認めてくれるからだ。久し振りに、その頃の嬉しい経験が出来そうである。
追記、そうして、後日、嬉しい合格通知が届いた。
f0253572_1237367.jpg
植える場所がないので空中に咲かせた  つる薔薇 今年も元気だった。

by pcflily | 2013-06-25 12:41 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)  

「衣服が翼」朝鮮新報2003年5月より

   「衣服が翼」

 さる4月6日は、東京朝鮮中高級学校の入学式であった。初めての孫が高級部の1年生になるので、入学式にハルモニとして私もチマ・チョゴリ姿で出席した。
 入学式に参列して驚いたのは、私の見落としかも知れないが、チマ・チョゴリを着ている人は学生と教員だけのようであった。思えば昨年、韓国で行われたアジア大会での南北朝鮮の統一旗での行進を現地で見たいとの気持ちを抑えきれずに現地入りした。長年の私の夢であった祖国・故国・母国の地にチマ・チョゴリ姿で降り立つことを実現したが、同行者でこの民族衣装を身に着けている人はいなかった。
 年端もゆかない中・高生が北朝鮮バッシングのこの日本で、いつ何時、刃を向けられるかもしれないことを知りながら、「民族の魂」ですと言って通学服として着用している。それなのに大人たちのチマ・チョゴリ姿を見ることがこんなに少なくなってしまったのは一体どういうことだろうか?
 東京芸術大学長の平山郁夫氏は高句麗古墳群の世界遺産登録に奔走して下さっているが、6月のユネスコ世界遺産委員会で承認される可能性が高いという。その中にある5世紀頃の水山里古墳の壁画に、その源が見られ、現在まで続いてきているチマ・チョゴリである。文学博士の金田一春彦氏も「朝鮮の民族衣装チマ・チョゴリは世界で最も上品で優雅である」と称えている。
 朝鮮では「衣服が翼」と言い習わされてきた。学生の制服としてだけでなく、大人が公の場でチマ・チョゴリを着用することがこの美しい民族衣装を真に守り続けていくことになると思う。
f0253572_2126192.jpg

1980年両親と初めて母国墓参団で帰国したときに新調したもので、朝鮮的で古典的で好きなチマ・チョゴリだ。
私のチマ・チョゴリは、殆んど緑色だが、この時には緑色がなかったのだろう。


 韓国では、最近「チマ・チョゴリ」を「韓服(はんぼっ)」と呼ぶようになっているが、日本の着物を「日服」と呼ぶようなもので賛成できない。音もきれいでないと思う。
 チマ・チョゴリは着用するのに、とても楽な衣装だと思う。日本の着物のように何本もの紐で体を締め付けることもなく、私のように背が低くともハイウエストなのでスマートに見え、痩せている人や太っている人の体形も隠してくれて優雅に見せる。運動さえ出来るぐらいに、体に負担をかけない。女性にとっては、ありがたい衣裳だと思う。在日の女性は、成人式、結婚式などには必ず新調するであろう。でも、それ以外の場所ではあまり見かけない。最近は、結婚式に出席するときでさえ、洋服に変わってきている。とても残念だ。
 遠い昔の私の結婚式を取り仕切って下さった方、金化均氏のお祝いの挨拶の中で、印象に残った忘れられない言葉がある。それを守り続けてきた。同胞の結婚式や大会などで女性たちがチマ・チョゴリを持参してトイレの中で着替えるが大切な民族衣装をトイレの中で着替えるとは何事かと仰っていた。また、子供にアボジ・オモニと呼ばせるべきとも仰っていた。私は、子供が生まれてから、アボジ・オモニ・ハラボジ・ハルモニと呼ばせた。朝鮮語をすべては知らなくとも、この言葉だけは、まず、吾が子に伝えた。そして私には伝えることが出来ない朝鮮語と朝鮮の歴史を学ばせるために、家出をし、朝鮮学校に通学させた。

by pcflily | 2013-06-13 22:21 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(3)  

光州事件 歌集『身世打鈴』より

 光州事件

万を越すわが同胞の集いきて光州声援の行進一行の記事

韓国軍を光州に派遣すること許したる米国の指揮許すまじ

光州の市民虐殺に抗議する朴寛鉉食絶ちて死す

光州の市民虐殺指揮したる全斗煥が大統領という

 逮捕

光州事件に抗議の行動蘇る全斗煥・廬泰愚の逮捕されたり

わが悲苦の十五年を埋むる土ありや光州事件解明に入る

判決を受けるに二人つなぎ合う光州の街に銃を向けし手

同胞をあまた殺めし全斗煥判決の日も軍人の顔

元大統領に死刑を宣し統一を叫ぶ学生五千名逮捕す

☆1980年5月の光州事件。二人の子供を連れて上京したのは1971年だ。資金を借りて小さな麻雀荘を一人で切り盛りしていた。4時間の睡眠が取れたら不服は言わないと思っていた時であった。
この1980年の2月に父母と渡日して以来、初めての母国訪問で韓国に行って来た。朝鮮籍でも1度は入国させるという墓参団の政策が行われていた。帰国への思いが強かったアボジの為にオモニも韓国籍に変えて、アボジの韓国への往来に付き添っていた。夫のいなかった私と妹を親戚に会わせておきたいとの両親の願いから私の韓国行が実現された。私も勿論、自分の生まれた国であるのだから一度は言っておきたいと思っていた。或いは、日本に戻れないかも知れないという危惧もあって、子供と三人の記念撮影を専門店に行き撮り、万が一を考えての遺言まで録音して訪韓した。朴正煕大統領が射殺され、一時「ソウルの春」と呼ばれていた時期だった。それでも、私達には、監視の人が付いていた。

光州の人々への応援のデモが行われると聞いて、仕事で一睡もしていなかったが、私も参加した。1万人以上が示威行動に参加しているのに「朝日新聞」の記事は見逃してしまうほど小さなものだった。
その時期に、オモニは私の家に来ていた。テレビのニュースを見てオモニは食事が喉を通らなくなってしまった。どんなに惨憺たるものであったか、口では言い表すことが出来ない。
国民を守るための軍隊が国民を虐殺したのだ。これを指揮した全斗煥と慮泰愚が続けて大統領になった。死刑判決を受けていながら釈放されてしまった。理解できない。
そして、朴大統領が射殺されたとき、全斗煥は青瓦台にあった金庫を開け、現金(国民の税金)9億6千万ウオンのうち6億1千万ウオンを朴槿恵にプレゼントした。現在の価格では数千億ウオンになるらしい。去年の大統領選挙の時に朴槿恵はこれを認めた。
又、全斗煥と慮泰愚の巨額追徴金のことが、いま韓国で問題にされている。朴槿恵が大統領として正しい指揮が出来るのであろうか?
独裁者であった李承晩・朴正煕を美化し、見直そうとする者たちが現れているという。光州事件を暴動とするなど歴史の書き換えを始めようとしているという。権力を握ると、良心は消えてしまうのであろうか?


安重根義士 
     
f0253572_18405779.jpg
   この度の大統領選挙で、朴正煕の娘であり、全斗煥を兄と慕っている朴槿恵を選んだのも、戦犯であった岸信介の孫の安倍信三を選んだのもその国の国民だ。私には理解出来ないことが多すぎる。

by pcflily | 2013-06-03 18:52 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(4)