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入選歌  「朝日歌壇」

 「朝日歌壇」 入選歌
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1997年2月3日     近藤芳美選

「慰安婦」は民族蔑視、女性蔑視人権蹂躙私自身のこと

1997年3月9日     近藤芳美選

拉致であれ亡命であれ関わりなきチマ・チョゴリの少女への刃をば恐るる

1997年4月8日     佐佐木幸綱選

朝鮮の花嫁衣裳緑衣紅裳(ろぎほんさん)まといて歩む子よ亡夫は見るらん

1997年5月5日     佐佐木幸綱選・・・・近藤芳美選

☆ 強制連行の叔父の遺体も坑道に閉じ込めし三池炭鉱閉ず

1997年6月        近藤芳美選

談合にはずされ顔面蒼白の父の代筆震えつつ書く

1997年7月13日     近藤芳美選

朝鮮学校の処置改善の署名求めベル押し梅雨の街歩む物乞いのごと

1997年10月6日     近藤芳美選

校庭に七輪並べ焼肉パーテイ八・一五祝う老若男女三百余名
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by pcflily | 2013-03-28 17:31 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

私のオモニ 『身世打鈴』別冊より

 私のオモニ

 早起きは三文の得と言うけれど、長年の仕事のせいで私は夜型人間になってしまった。だがその朝は、明け方の眠りが途中で遮られてしまった。いつもと違う音がするのだ。何の音か分からないのだが、かすかに耳に伝わってくる。とぎれては、また聞こえてくるのだった。目をしょぼつかせながら、階段を下りる。
 だれかが風呂場にいる。そっと覗いてみると、オモニが掃除をしているのだ。
「どうしたの、こんな時間に―――」
「やっぱり聞こえてしまった。悪かったね、起こしてしまって。静かに、静かにやってたんだけれどね」
 久し振りに上京したオモニであった。何時でも何かこつこつと仕事をしていないと落ち着かないと言う。朝は夜が明け初めるともう布団の中にいられない。仕事癖がついてしまっているのだ。そうして、娘の家や孫娘の家に来たときでさえ、隠れて仕事をしている。
 今年七十七歳になるオモニは、十一歳のときには、すでに両親がなかった。結婚相手のアボジは余り仕事のできない病弱な人であった。 強制連行で炭鉱で働かされて、なお、躰を壊してしまったらしい。

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   雪柳(雪噴草とも)

  朝鮮の身分制度では特権階級である「両班(やんばん)」であることだけが生きがいの人であった。アボジの姓を継がせる男の子を産むために七人も子供を産んだ母だったが、皮肉にも女の子ばかりである。
 「娘だから良いようなものの、お嫁さんなら逃げてしまうわ」と言われるほどに、座ったままでは居られないくらい、呼吸するのと同じ位に、働くことが、身に付いてしまっているオモニだ。 (一九九一年十二月)


☆オモニの年齢に近くなって、オモニの気持ちが分かるようになった。私も、片親で、二人の子を育て、子供に十分なことをしてやれなかったのに、立派に育ってくれて家庭を守っていること、孫たちを立派に育てていることを思うと感謝の気持ちが湧いてくる。
せめて、出来ることをしてあげたいと思うのだが、子供の立場からすると、自立している大人なのだからという思いが強いようだ。
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by pcflily | 2013-03-26 20:44 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

[朝日歌壇」入選歌

 「朝日歌壇」   入選歌

「歴史発見」の画面に韓国の叔父映りオモニの祖は日本人と知る
   1996年2月11日    馬場あき子選
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 我が家から3分ほど離れた駐車場から見た夕日を背にした黒い富士山

わが悲苦の十五年を埋むる土ありや光州事件解明に入る
   1996年3月3日      島田修二選

慰安婦は商行為だと宣う人を支え続ける「明るい日本」
   1996年7月14日     近藤芳美選

判決を受けるにふたりつなぎ合う光州の街に銃を向けし手
   1996年9月16日     近藤芳美選


密造酒を水枕に入れ吾の売りし「大内の宿」テレビに映る
   1996年12月23日    近藤芳美選 



「トラワヨ釜山港へ」の歌はこの政策を推し進める為のものだったろう。1980年正月、朝鮮籍でも1度だけは韓国に行けることを知り、両親と母国訪問墓参団の一員として、私の初めての故郷訪問をした。1歳で日本に来たのだから、記憶は何もない。それでも、チマ・チョゴリを来て祖国の土を踏みしめる願いは達成した。
誰もチマ・チョゴリを来て歩く人などいないと反対をされたが、自分の意思を押し通した。オモニもチマ・チョゴリを持って行った。観光地を案内されているときも、食事の時も歓迎されカメラを向けられる事が多かった。
母方の伯父から、教えられた日本人が祖先だ。教科書にも載っているという祖先の金忠善(沙也可)のお話。日本に戻ってから、そのことに関する資料などを探していたのだが、小説を見つけた位であった。
nhk番組の「歴史発見」に取り上げられた。この番組の中で沈寿官さんなどの考証もあり納得をした。やはり史実であったのだ。

現在は、驚くことに、アベ首相自らが慰安婦のことを否定する発言をしているが、国会議員の妄言はその頃も、度々あった。この人たちにも母や妻や娘もいることだろうにと、私の怒りは募るばかりである。

光州事件の主導者である元大統領二人が逮捕された。統帥権はアメリカにあった。アメリカが銃撃を許可したのだ。アメリカは表の顔と、裏の顔が違うと、この時から思うようになった。
韓国の国民を守る韓国の大統領が国民に銃を向け大虐殺をした。二人は何を思いながら手を繋いでいたのだろう。亡くなった人々が大勢いるのに釈放されて、元大統領として扱われていることは納得し難いことだ。

密造酒を水枕に入れ、背負って、山奥の「大内」や「芦ノ原」まで届けた、まだ幼い子供には遠い道のりの徒歩であった。大内は「大内の宿」として全国に知れ渡る観光地となっている。

     
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by pcflily | 2013-03-20 16:56 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

 朝日歌壇賞  『身世打鈴』より

 朝日歌壇賞

歌壇賞と電話を受けしがその後のいく日を悩むいたずら電話かと

初入選に吾を救いましし近藤先生に二十三年経て「歌壇賞」賜う

泣きぼくろに涙の日々を重ねたる吾が賜いたる「朝日歌壇賞」

娘の婚家の長老より赤き薔薇届く「朝日」に歌壇賞受賞知りしと
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   居間から見えた「朝日の昇る姿」


☆1996年1月28日 朝日歌壇賞受賞    

選者 近藤芳美  選者の一言 一歳のとき両親と共に日本に来たという。重い歌である。

呼び寄せしオモニの今宵の身世打鈴(しんせたりょん)釜山より常磐炭鉱に来し日まで

入選の言葉
 朝鮮学校に子どもを通学させたい一念で、家出して上京したのが三十二歳の時。その後、二年間、別居していた夫が急逝し、初めて作った短歌が、近藤先生と五島先生に選ばれたのが一九七三年十二月。三十四歳の時でした。歌は十年以上作れない時期もありました。
 必ず統一すると信じていた祖国は五十年も分断のまま。八十路を迎えてからのオモニは心身ともに弱り、涙を見せる人になりました。オモニの渡日が、父の炭鉱からの逃亡を防ぐための命令によるものであったことも改めて知りました。

☆歌壇賞に選ばれたことは、信じられないことだった。字余りで破調の歌。短歌を学ぶ機会もなくその時の感情の赴くままに、自然に体の中から出てきた言葉を、そのまま文字にしたものが、私の歌だった。 
 けれども、この歌は、自然に生まれたものではなく、オモニのシンセタリョン(身の上話)を聞いて、どうしても短歌として詠みたいと思って、何度も、手を入れた。朝鮮語を入れたこと、我が家の渡日の実態と歴史を入れられたことで私の気に入っている歌だ。
 1995年のこの歌で歌壇賞を頂けたことは本当に嬉しい忘れられないことだ。近藤先生であればこそ選んで下さったのだ。本当に有り難いことであった。
 この歌は日本の敗戦により、朝鮮がが解放されて五十年の年、1995年の9月の入選歌だから、八月に読んだ歌であり、私の強い思いを込めた歌だ。
 
 入選を祝って婚家の長老から薔薇の花が送られてきたが、両家の一番の長老者であり一番の学識のある人であった。漢詩・漢文の分かる人であり、何時も能筆の手紙を下さった。日本の植民地時代の光州事件に関わり、少年であったために日本に逃亡できたとのことであった。今は鬼籍の人である。
 
 
 朝鮮の解放50年・1995年には息子の李淳馹が小学館の21世紀国際ノンフィクション大賞に応募した年でもある。処女作である『もう一人の力道山』は、最終の5作品にノミネートされたが、受賞はなかった。
 その後、もう一度『青き闘球部』で再挑戦し、最後の5作品にノミネートされたが、受賞はなかった。
何故か、この選考会で、息子が応募した時は、副賞の二名が、二度とも選ばれていなかった。このことについて、わが息子李淳馹に賞をやりたくなかったからでは?と、いまだに私は不信感を持っている。
 応援してくれた猪瀬直樹さんは、現在東京の都知事になって健在だが、他の選考者は、殆んど亡くなった。
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by pcflily | 2013-03-20 13:31 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

大国の握手 『身世打鈴』より

 大国の握手
 
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 観光と人はたやすく海越えぬ韓国は吾に果て遠き祖国

 買春ツアー公認するという妻のいて夫への慰労とためらわずいう

 韓国に妓生(きーせん)ありきとニッポンより男達通う妻も認めて

 生計(たつき)負う日々重たくて祖国(おやくに)に核配備ありと吾知らざりき

 朝鮮を分断させし大国の宇宙の握手華やかに見す


☆一人で麻雀荘を経営していた。同業の理事会の会合で男たちは、韓国に妓生を買いに行って来たと堂々と話していた。その妻たちは、夫を行かせてあげるのを妻としては当然のこととして話すのだった。
 私は「朝鮮籍」であったために自由に韓国に行けない時期であった。

米・ソの宇宙船の握手を大々的に報道していた。当時も現代も大国の理不尽な行動は続いている。アメリカの核実験には、口を閉ざしている。一部の人々の抗議について大方は知らぬふりを決め込んでいる。
 韓国は同じ民族を敵とし、米・韓軍事演習を続けている。分断を解消する気持ちはないのだろうか?理解に苦しむ。
小学校の頃、学芸会で「北風と南風」のお話の劇をやった。北風より南風が頑なな心を解くという劇を、小学生でも理解できる話であるからであろう。
 国を守り、指導する人々の考え方が分からない。 日本は、被爆国であるのに、核実験に対して、アメリカに対して政府が抗議しないのは、何故なのか?独立国、日本として言うべきことは言って欲しい。北朝鮮の核実験も、アメリカの核実験も同じく抗議するべきだ。。
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by pcflily | 2013-03-16 22:02 | Comments(0)  

チマ・パラム  『身世打鈴』より

  チマ・パラム 

蝶になり舞いいる吾子は十五歳秋晴れのしたチマ・パラム吹く

分断の現実忘れ秋空に喚声、歓声ウリウンドンフェ

閉会は園児の「農楽」とともに舞う朝鮮民族の楽天性見す

  初孫

金銀の清らな心たたなわる文読む心君を成さしむ

金(こがね)成り清き銀(しろがね)満つるとも文武備えし君子たれ

  聞き分けて

スイッチ押せば窓が開くと気が付きて歓声あぐる一歳児の孫

朝鮮語も日本語も等しく聞き分けて日がな遊べる三歳児
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by pcflily | 2013-03-14 21:53 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

笑顔 「身世打鈴」より

笑顔
 
 「泣き虫」と渾名をつけられたぐらいだから、子供の頃から、私は泣くことが多かった。その反面「今泣いた烏がもう笑った」と言われることも多かった。女手一つで、子供を育てるのに、昼夜の別なく働いているときでさえ、「何時も幸せそうね、何がそんなに楽しいの」と声をかけられることが、度々であった。姉は二重瞼の美人なのに、妹の私の眼は一重であり、おまけに、垂れ目である。それで悩んだこともあった。
 ある日、娘の顔を見ていて気がついた。私にそっくりだ。目尻が下がっていてにこにこ笑っているように見える。美人とは程遠い。けれども、とても幸せそうな笑顔をしている。何の不自由もなく両親に守られている子供より遥かに明るい顔をしている。
 母子ともに、体が丈夫なほうでなく、手は不器用で、指は太くて、白魚のような指とは縁遠い。動作も機敏とは言えず、根性もない。他人より勝るものは、たった一つもないと思い続けていた。
「そうだ、この笑顔こそが神様が私に与えて下さった贈り物なのだ。大事にしよう」
 娘が結婚をした時の送る言葉は、唯一つ「笑顔と優しさを、決して忘れないことよ」と言ったら、「もちろん、分かっています」と頼もしい答えだった。一年後、そっくりな男児を産んだ。三歳になる孫は、笑い上戸である。男の子なのに笑ってばかりでもと心配でもf0253572_22173992.jpgある。
 因みに、息子は笑ったときに、くっきりと笑窪を見せる。三十歳で。
 (1991年11月)


☆あの日、三歳であった孫は昨年、韓国の延世大学校を卒業した。娘は四十九歳、息子は五十二歳になった。あまり、笑顔を見せにくる機会に恵まれない。私にも、笑くぼがあったのに皺になってしまった。あんなに欲しかった睡眠時間が沢山あるのに、長くベッドにいる気になれなくなっている。時間も短く眠りも浅い老人病になってしまった。
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笑い過ぎては皺が増えると思うのだが、何時も膨れっ面をしているわけにもゆかないので、自由に気兼ねなく笑って過ごしている。
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by pcflily | 2013-03-12 22:19 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

「朝日歌壇」 入選歌 1994年1月12日より

f0253572_22521863.jpg 1994年12月11日     近藤芳美選

一族の宴たけなわになりぬれば北よ南よ在日よと激す

 1995年1月22日      近藤芳美選

孫六歳朝鮮語も日本語もゲームの如く楽しみて学ぶ

 1995年1月29日      佐佐木幸綱選・近藤芳美選 

☆「七三一部隊」劇演じたる高校生が知ることの旅始むるという

 1995年2月15日      近藤芳美選

たちまちに八十路の母の面変わる吾を生みし朝鮮の日々を語るに

 1995年4月16日      佐佐木幸綱選

「朝鮮」籍守り来しは統一のへの夢その夢に溺れまた逝きし友あり

 1995年5月28日      近藤芳美選 

「国際交流会」朝鮮のこと言いいずるとき潮引くごとく言葉とぎれぬ

評 「国際交流会」と言う集まりの中にきている。その席に立ち、祖国である「朝鮮」のことを言い出そうとして、潮の引くように自分の言葉がとぎれていくのを気付いているのか。第1首の作者は在日朝鮮国籍の人。祖国分断の悲しみを負ってわたしたちの間に生きている。

 1995年9月3日        馬場あき子選

被爆死せる朝鮮人の屍は鴉の食むまで放置されにき

評 戦後半世紀の時点から振り返られている。

 1995年9月24日        近藤芳美選

呼び寄せしオモニの今宵の身世打鈴(しんせたりょん)釜山(ぷさん)より常磐炭鉱に来し日まで

評 身世打鈴ーーシンセタリョン。朝鮮民族の人らの間の身の上語りをいう。呼び寄せて住むこととなる母親に、一夜、その半生を聞こうとしているのであろう。
第1首、戦争の暗い歴史の思いが作品の背後に重なる。

 1995年11月12日       島田修二選・近藤芳美選

☆分断の五十年経て「日本」に墓地購えりわが八十路のオモニ

評 国と国のはざまにあって、揺れる感情を正面からとらえた作品は、悩みを持つ読者を動かす。第1首、オモニ(母)はもう訳語も不要であろう。墓地を買うということは日本の土になることで、断を下した母なる人に頭が下がる。

 1995年12月17日       近藤芳美選

灰燼の平壌の地下壕の「原爆の図」爆撃受けし人ら行列す
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by pcflily | 2013-03-06 22:56 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

 手  「身世打鈴」より

    手

  
   ひも解けばオモニの匂い手作りのペチュキムチが届く八十路の母の

 母の住む会津は雪国である。雪国ながら、新しくできた大きなスーパーが冬でも白菜などを売る時がある。
 腰が痛い胃が痛いと、病院通いが日課である母なのに、スーパーに白菜や青物が入荷したときは、姉を連れて買い出しに行く。
 かりだされる姉は、家事以外に家業の事務をとっていて、多忙な身であるが、母の唯一の生きがいに、一緒につきあって、材料を仕入れる。
 母には、姉以外に六人の娘がおり、それぞれ独立して一家を構えている。また、結婚した孫娘、孫息子が五人いる。この十一家族に交互にキムチを作って送るのである。
 事ある毎に母は自分の手を見せて、この手は太く短く、爪はすりへっていてみてくれは悪いが、有難い手だという。この手で土方もしたし、飯場で何十人ものご飯も炊いた。闇米も運んだ。また焼酎も作って売った。
病身のアボジを支え、七人の子供も育てた。今日まで生きてこられたのも、皆、この手があったからだ。
キムチもおかずもこの手が味をつけるから、美味しいのだ。本当に有り難いことだ、と称えるのが常だ。
 昔、私は我が家で働いていた人にこんなことを言われた。
「親に似ぬ子は鬼っ子だというが、こんなに似ている母子も珍しいねーー」
 それ程、母に似ているのに、私の手は母のように縫い物もしないし、美味しいものも作らない。顔も手も歩く後ろ姿までそっくりだと言われる。外見はうり二つであるのに、中身は何一つ似ていないのである。
面長な顔の父は手足も長く形もいいが、体は弱く不器用である。そんなところは私は父に似たようだ。
 この手で父のない子供二人を、結婚するまで面倒を見たのだから、まあよしとしようか。(1995年2月)
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 ☆白梅は私にとってオモニを思い出す花だ。厳しい冬の寒さを乗り越えて春を知らせる梅の花。
暖かくなるとすぐに散ってしまい、梅の実を作るために密かにエネルギーを使う。


  朝鮮では古来より実よりも花を愛でるという。
オモニのことを思いながら植えたしだれ梅なのに、場所が狭くて、剪定せざるをえなかった。今年は枝垂れ梅とは言えない姿になってしまった。私の望み、花木をもっと植えられる庭が欲しい。
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by pcflily | 2013-03-05 23:27 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

 月見草 『身世打鈴』より

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 月見草
 
吾が母の生き越し道に較ぶれば軽きと思えど身に重き日々

四時間の睡眠時間も取り得ずに麻雀荘を一人守れる

夕食はカレーの立ち食い朝食は寝るのが吾にご馳走なりき

甘えむと呼び寄せし母のめっきりと老け込みし脊に物言いそびる

「朝・日」のサッカー試合見つめいるオモニの眼より涙あふるる

ふるさとの藤花恋いてその花をかたどりし衣求め来たりぬ

眼閉ずれば青葉に映り藤色の花房ゆれて風過ぎゆきぬ

ふるさとを恋いて植えたる月見草星降りしごと今宵は咲ける


☆屋内の仕事であり、小学生の子供を近くに見ながら、仕事が出来るので幸いであると、常々、自分に言い聞かせていた。
店は、ビルの3階であり、住まいは4階にあったので仕事の合間に子供の様子を見ることが出来た。
 同じビルに小さな広告雑誌を作っている事務所があった。そこで働く同年代の女性が、私の田舎での思い出の月見草の話を聞いて、苗を届けてくれた。ビルに住んでいるのは、私たち親子三人だけだったので、屋上は自由に使うことが出来、人の手が加えられた大輪の月見草は、元来、野の花なので丈夫で、どんどん増やすことが出来た。
 あれから40年以上過ぎたが、引っ越しの度に苗を運び、現在でも毎年優しい黄色い花を見せてくれる。




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by pcflily | 2013-03-03 14:58 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)