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「朝日歌壇」 入選歌 

  「朝日歌壇」 入選歌
 
1987年1月28日

七人の女児育て上げしウリオモニ差別に耐えて艶やかに老ゆ   昭和万葉集

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1987年12月5日島田修二選

八十路坂越えししゅうとめ惚けたり指紋押捺拒否せるままに


                                   

(居間から見たのぼる月)

1989年5月5月21日  佐佐木幸綱選

「今度こそ門は開くぞ」と歓喜せしに文牧師の逮捕悲しく悔しき

1990年11月25日    馬場あき子選
 
押捺を拒否せし五年あざ笑い更新せし登録書に指紋くっきり

1990年11月25日    佐佐木幸綱選

外人登録書のカード一枚に小さき吾管理されいて孫悟空を思えり

1991年5月26日      島田修二選

悲願なる「統一コリア」の優勝を誰彼なしに礼を言いたし

(評)第二首、日本にいて祖国の統一を願う真情が、下句の率直な思いとなって万人の心を打つ。

1992年1月12日      近藤芳美選

強制連行の孫なる子よ汝がいま慰安婦のこと取材に走る

(評)かつて慰安婦と呼ばれた人たちの取材に、若い吾が子は専心する。同じように朝鮮半島から強制連行された父らの、孫の世代でもある子に、その日はすでに遠い。第一首。なお今、日本人に答えなければならないものを突き付ける。


☆24時間営業の店を一人で経営しながら、保険の勧誘、ニット製の衣料品の行商をしていた。寝不足で目が痛く、荷物は重く、持っている荷物に引っ張られながら歩いた。人が目の前にいない時は両目を瞑り、人がいる所では片目で歩いた。1日1日を過ごすことで精一杯で、明日のことを考える余裕はなかった。
子どもの成長を願う中で、祖国統一を願う心は誰にも負けないぐらい強かったのだと思う。その思いを、たまに、「朝日歌壇」に投稿するだけなのに、入選することがあった。
指紋押捺を拒否するときは子供たちは、強制送還もあると聞いて反対したが、明日のことを考えるよりも、今を、精一杯生きることにかけていたので、後悔したくないと家族には内緒で押捺を拒否した。




   

by pcflily | 2013-02-28 16:32 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

 うそ   『身世打鈴』別冊より

 うそ

 「なんの意味なの、明希(みょんひ)が、悪いことをしたから、妹も弟も生まれないとは――」
 久しぶりに上京したオモニに詰問された。オモニの手を握り、娘の明希は肩を震わせて泣いていた。
  学校に通うようになって娘の明希は毎日、毎日「オモニー、赤ちゃん産んでちょうだい」と言っていた。
 困ってしまった私は「明希が生まれるときに、早く生まれたくて暴れたから、オモニのお腹が破れて、明希のせいでもう赤ちゃん生まれないの。ホーラ、傷があるでしょう」と、不妊手術の傷あとを見せて納得させた。
  夫は、高校を卒業する春に父親が急逝した。七人兄弟の長男としての重責に疲れていた。 一九五〇年代の朝鮮人の仕事は、土工か遊技場の店員だった。子供は家を継ぐ男の子一人と決めてあったが、勿論長男は可愛いが、私は女の子も欲しかった。幸いにも娘が生まれたので、堕胎手術はすまいと決心し、不妊手術をしていた。
 当時、夫とは別居していて仕事に追われており、、それっきり、私は娘との話を忘れていたのだ。
 自分の責任を罪のないおさない子に押しつけて、幼な心を傷つけていたのだった。「ゴメンネ」と娘を抱きしめ、しばらく私も泣いた。      (1991年3月)
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一昨年は、私のオモニ(金英喜・きんよんひ)の干支の兎年であった。オモニの96歳になった年であった。近所の町内婦人会で、この兎の人形の手作り教室の募集を見て申し込んだ。オモニの為に縫物の針など、殆んど持ったことのない私だった。だからこそ、真心を込めて、自分の手で作ってあげたかった。すべてありあわせのものでの手作りである。自分の手で形のあるものに仕上げることの楽しさを味わった。合計五体も作ってしまった。

by pcflily | 2013-02-28 14:44 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

「朝日歌壇」  

   朝日歌壇  入選歌

 1977年9月4日     宮柊二選

 朝鮮の国語と歴史学べよとある日に君は言いて去りにき

 1977年9月4日     前川佐美雄選

 観光と隣人(ひと)はたやすく海越えぬ韓国はわれに果て遠き祖国

 1977年11月13日

 畑よりの強制徴用のわが父も居住許可願の外人登録をす

 1977年11月20日     前川佐美雄選

 逆らえず生きゆく術(すべ)と外人登録に罪人のごとf0253572_21441250.jpg指紋を押しき











                 李賢純作                 (朝鮮民主主義人民共和国) 


 1977年12月第3週     宮柊二選

 職務ゆえ許せとわれの手をとりて外人登録に指紋を押さす

 1980年6月29日       近藤芳美選

 万を越すわが同胞の集いきて光州声援の声一行の記事


    ★李賢純さんのこと
                  娘の婚家の叔父さん。写真の白磁は私に贈呈されたもの。

1989年4月、東京松屋銀座店で「現代高麗青磁と絵画名作展」が開催された。
朝鮮の万寿台創作社と高麗美芸社主催(朝鮮民主主義人民共和国)であった。
その時に手に入れた写真集には、制作者の履歴も載っている。
「李賢純さんは、1938年東京に生まれる。1961年に京都市立美術大学陶芸科を出て、1965年までスエーデンの首都ストックホルムに留学、王立工芸美術大学に学ぶ傍らウプサラエケビ製陶所で作陶を始める。1966年朝鮮に帰国し、朝鮮の悠久な陶磁史の研究に取り組んだ。高麗に次ぐ李朝鉄砂や白磁の伝統的作陶技法を開発し呉須や鉄砂、辰砂などの巧みに調和された現代的文様美、乳白色無光沢釉、窯変釉、茶褐色焼締釉など独自の作風を探っている。伝統的器形を現代的美感でアレンジした花瓶,茶器、徳利、盃、急須、手鉢、人形、鳥獣など幅広く手懸けている。国宝指定の秀作もあり、ますます期待されている。」
あの頃の私たち、在日朝鮮人は南北統一を喧伝していた朝鮮を心から信頼していた。   才能のある人々、私と同年代の優秀な若者が沢山、祖国の為に働くと帰国した。皆、その日を信じていたので幸せであった。頑張ろうと―――。
李賢純さんも、信じていたからこそ帰国したのだろう。
私と生まれた年が同じなのに、何年も前に亡くなってしまわれた。 

by pcflily | 2013-02-25 22:10 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

「朝日歌壇」投稿歌

    「朝日歌壇」投稿歌 初めての入選、短歌との出会い

 何も知らなかった。辛くて、悲しくて、誰かに話したかった、でも、家出をして見知らぬ土地、東京に住んでいた。  誰ももいなかった。胸の想いを広告の裏に書き付けていた。ふと、思いついて葉書に写し、ポストに入れた。書いたものを目の前に置くよりスッキリとした。ある日、朝日歌壇を読んでいたら、自分と似ている名前を見つけた。☆印が付いていた。二人目の選者の歌を読んだときになって、自分の投稿したものであることに気が付いた。その年の4月8日に夫が急逝していた。その日以来、初めて大声を上げて泣いた日であった。

1973年12月15日       近藤芳美選     五島美代子選
☆嫁ぎ来て疎い続けし夫逝きぬうりふたつなる姑と児のこして
  五島美代子 評 思い切って正直な作、不幸な結婚の三代にわたる悲しみを直視させられる

1974年1月26日         宮柊二選
今年こそ祖国統一と同じこと賀状に書きていくとせ経しか

1974年2月第4週        前川佐美雄選
統一せし祖国に骨を埋めてとう舅(ちち)の言果たさず夫はもう逝きぬ

1974年3月30日         近藤芳美選
陽の目見し入選歌わが本名に差別なき場もありし喜び

1974年4月6日          近藤芳美選
二十九年を悔いなしと言いたまう強さにてわが同胞は虐げられし (小野田少尉帰国)

1974年8月11日         宮柊二選
祖国統一目的はみな一つなるに意に添わぬとし死刑を宣すか  (金大中死刑判決)

1974年 9月15日       近藤芳美選
多民族襲いしことなきわが祖国 内なる戦いの涯なく続く     (南北分断)

1975年6月第5週        近藤芳美選
受話器とれば話す間あるかとまず問いて預けおきたる子のしゃくりあぐ

1975年6月第5週        宮柊二選(評 愛の歌)         前川佐美雄選
君と会う喜び秘めて結い上げし髪崩すとてピンを抜きいる

1975年7月13日         五島美代子選
生計(たつき)追う日々重たくて祖国(おやくに)に核配備ありとは吾知らざりき

1975年7月27日         近藤芳美選    (昭和万葉集)
密造防止に母は捕われ妹は習字展にて賞を受けにき
 評 敗戦後の焼けあとの町に、彼らは密造酒のどぶろくを作って生きた。その酒の密造のために、母は捕われ、妹はある日習字展で賞をうけて帰ってきたりした。幼い遠い日の、暗い思い出の中のことであろうか。
第一首の作者は朝鮮半島を祖国とする人である。
 
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1975年7月27日         宮柊二選
密造酒・闇米・養豚幼きわが関わりしこと幻なるか    
(昭和万葉集掲載、上記の歌とともに誰が投稿したのか分からない)




1975年8月3日          宮柊二選
朝鮮を分断させし大国の宇宙の握手華やかに見す    

 評 米ソ両国の宇宙結合の計画、また成功に関するはなばなしいテレビや新聞の報道。それに対して否む心情を、朝鮮を祖国とする作者はうたっている。「宇宙の握手」などかるくなるべき語が歌の心情からそうなってはいない。
(私はこの歌が昭和万葉集に掲載されていないことを、とても残念に思っている)

1976年6月第1週         五島美代子選
熱かりき君の手ほほに触るるとき祖国も吾児も遠く霞みぬ

by pcflily | 2013-02-24 18:30 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

  本名  『身せ打鈴』より

   本名

 陽の目見し入選歌わが本名に差別なき場もありし喜び   
                    ( 朝日歌壇 近藤芳美選 1973年12月15日)

 スンジャ・チョンヒ・立花・梨花・理香・木村貞花たどりつきたる本名朴貞花

 リッカ・テイカと呼ばるる時に胸疼く「チョーセン」を罵声に浴びし日顕ちきて

 振り仮名をつけし名刺を持ち歩く吾ひとりの本名宣言運動

 パクチョンファと振り仮名せるを差し出せばボクサダカですねと念を押さるる
                   (新 折々のうた 大岡信著 岩波新書)
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by pcflily | 2013-02-23 23:39 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(1)  

望郷  『統一評論』『身世打鈴』より

f0253572_09554.jpg   望郷
 老いたりとある日つぶやきその夜より祖国を恋いて呆けたる父

 死にてもよし祖国の土になりたしと望郷の想いに父は狂いぬ

 「朝・日」のサッカー試合見つめいる老い母の眼より涙あふるる

 
 無窮花(むぐんふぁ)とコスモス鳳仙花(ぽんそな)月見草(たるまじこっ)母に見せむと庭に咲かせき 

 足萎えぬ今を踏みたき祖国(くに)の土老父母の願い年を経にけり

 
 
祖国に帰る父母

 よろよろと地に足つかぬ身をかがめ手を取り父母は祖国に発ちぬ

 異国の日々深く刻みし相貌の老いたる父母は祖国に発ちぬ

 大丈夫かと子等孫ら問えばにっこりと「生れし地なり」と母の一言

 焦がれ死にせむかと憂いし老父母は祖国の空に「今」飛び立ちぬ



 1970年代の在日朝鮮人の韓国への自由往来はきびしかった。再び日本へ戻れないことを覚悟をしての出発であった。
 信じられないことが、当たり前のこととして認識されていた。

by pcflily | 2013-02-23 00:15 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)  

外国人登録証明書  『身世打鈴」より

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外国人登録証明書


畑よりの強制徴用のわが父も居住許可願いの外人登録をす   
(朝日歌壇   1977年11月  近藤芳美選)


逆らえず生きゆく術と外人登録に罪人のごと指紋を押しき
(朝日歌壇   1977年11月  前川佐美雄選)


職務ゆえ許せとわれの手を取りて外人登録に指紋を押さす
(朝日歌壇   1977年10月   宮柊二選)


八十路坂越えし姑ほうけたり指紋押捺拒否せるままに
(朝日歌壇   1987年12月)

by pcflily | 2013-02-19 16:43 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

舞い   『身世打鈴』より

☆扇の舞
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       舞い 

 祖国(おやくに)の踊りと思いつつ皺深き吾が顔忘れ覚えむとせり

 師の舞える基本動作を二度三度吾は繰り返す瞳凝らして

 波の上歩む思いが歩行動作沈まむとするとき浮き上がれよと

 爪先と頭上に神経張らせよと師のその動作は一筆画のごと

 扇持ち舞台に舞えば舞姫になりて私も喝采あびる

 屋上に舞台衣装に装いて子にポーズする記念写真とf0253572_19592838.jpg  

by pcflily | 2013-02-18 20:00 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

       ハングル試験  『身世打鈴』より

           ハングル試験
 

 ハングル試験受けると決めて三十日夢にも出づるサランハヌンハングル

 ハングル試験ともに受けたるそのあまた若き日本人に明日を思えり

 合格証届けば吾が身の軽くなり掃除・洗濯・電話もハイ、ハイ

 ハングルを学ぶに対話をする人なくて鏡の吾にアンニョンハセヨ


 ある日、駅前の大きな書店に立ち寄った時、ハングル試験があることを知った。その締切が今日であること
 を知り、衝動買いとはこんな時の気持ちかもと思いながら申し込んだ。4級をを申し込んだが、3級
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( 前列右から4人目は孫の清梧、ケンガリを持つ指揮者でした)
 
 

 も同じ日の午後に受験できることに気が付いて、経験のためと申し込んだ。
 届いた合格証は、3級と4級のものだった。その瞬間はは、嬉しさよりびっくりした気持ちが、強かった。
 そのまま、勉強を続けていれば、良かったと思うばかりである。後悔先に立たずだ。    

by pcflily | 2013-02-18 15:53 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

飛び立ちかねつ鳥にしあらねば  別冊『身世打鈴』より

f0253572_1324365.jpg        飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 学校で習う国語という教科が、自分にとっては外国語であるということを知ったのは、中学三年の時であった。
 私が朝鮮人である為に「チョーセン」といじめられたり、先生でさえ、無視し、差別して、笑いものにする理由が分からなかった。戦後の、日本政府の朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮人に対する態度と同じだ。
 朝鮮について教えてくれる人もなく、調べてみるほどの力もなかった。本屋さんの一軒もなかったし、たとえあったとしても、本を買える状態の暮らしをしていなかった。どんなに努力をしても、朝鮮人には生きる道はないと、真剣に悩んでいた。朝鮮人は高校にも入れないと言われ、将来の希望も持てず、いつも、暗い不安と焦燥の中にいた。

    世間(よのなか)を憂しとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 そうなのだ、鳥じゃないもの朝鮮へ飛んで行けるわけでもないし、死んでもいけないのだ。私は人間なのだと、辛くなると、山上憶良の歌を暗唱する。
 なんとまあ、強者だけのための不条理な世界であることよ。日本は、在日朝鮮人にとっていつも冷たい。
この歌の作者の山上憶良も渡来の人の裔らしい。彼の生きた奈良時代も現代も、よそ者はつらい。
  
               (1991年2月)
    居間から見た朝日の昇るたまゆらを映しました

by pcflily | 2013-02-18 13:29 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)