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1348回の水曜集会なり

この12月5日の1364回目の水曜デーの日に、性奴隷被害者のキムスンオクさんが逝去された。12月5日は性奴隷被害者の公式謝罪と賠償を求める駐韓日本大使館前で行われている水曜デーの日だ。韓国政府に登録された240人は生存者が、わずかに26人になってしまった。

日本の公式謝罪と賠償を求めて、運動の先頭に立って闘って来たキンスンオクさんは、病を得て入院していた病院でなくなってしまった。

日本は、どこまでしらを切り逃げ続けるのだろうか?

世界記録遺産に登録しようとした記録関連文献は2744件だ。ユネスコ小委員会は「唯一で代替え不可能な資料である」と評価した。韓国、日本、中国等7か国の民間団体が集まって、世界記録遺産登録の決定を促す集会をした。日本は2017年にユネスコの分担金の先送りをした。日本の圧力と反対で手続きを止められているからである。


十一月号原稿  (二〇一八年八月詠)

1348回の水曜集会なり  (ぱっ) (ちょん) (ふぁ) 

  

日本軍慰安婦問題解決をと

39度の猛暑のソウルに

1348回目の水曜集会


「私が証拠だ」と名乗り出た

金学順さん

八月十四日はメモリアルデー

国家記念日となった


「日本軍の性奴隷」を

「日韓合意」を口実に

解決したと拒否する日本


慰安婦問題

在日へのヘイトスピーチ

沖縄住民への基地被害等

人権無視の国――


国連人種撤廃委員会の

度重なる解決要望と叱責に

無視を続ける日本国


日本軍の性奴隷だった

人類普遍の女性人権問題と

世界が謝罪と賠償を求めている


安倍政権を支える半数は女性かもーー

日本のMe Tooも進まない

あいまいと忖度の国らしい


沈黙せず正義を取り返そうと

コンゴ・イラクからも参加した

世界連帯集会

1348回目の水曜集会

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by pcflily | 2018-12-10 15:24 | アリランエッセー | Comments(0)  

権星子さんの短歌

☆夫の急死で短歌を詠むようになったのは1973年、上京して三年目の12月であった。初めて詠んだ短歌が「朝日歌壇」に入選したことから、気の向いた時に投稿するだけだった。「朝日歌壇」に入選した事で、未知の人であった権星子さんから手紙が届き知り合う事になった。

実際に会えたのは三度だけである。けれども、私にとっては無二の親友となった。共に喜び共に泣ける人である。

権星子さんは私よりも早い時期から「朝日歌壇」の入選者として知られた人であった。近藤芳美先生の「無名者の歌」にも権星子さんの短歌は採り上げられている。

「楡」という短歌誌の会員でもあった。その一部を今回送って下さった。同感する歌が続いている。私のこのブログを読んで下さる人はいるのかいないのか、コメントが全くないので、分からないが、権星子さんの歌を読んで欲しいと思って、ほんの一部を抜き書きであるがこのブログに載せた。まだまだ沢山あるのに、書ききれない。

彼女は現在、病と闘っている。七歳年長なので私の記憶にない植民地時代の生活も経験して、確かな記憶として残っている。

今年の文在寅大統領と金正恩委員長の会談の時は電話で楽しいい会話を続けて過ごした。朝米会談の時も喜びを分かちあったのに、最近は声を聴くこともまれになってしまったので、私の心は沈むばかりだ。

権 星 子さんの短歌

傷跡 (初期作品) 19719

貧しさに耐え易く身を馴らされて花散らす雨に屑鉄を積む

底ごもる苛立ちに花をむしりつつ不意に来る死を拒まぬかとも

たどたどと朝鮮のうたそらんじて吾が知らぬ祖国愛おしむこころよ

母国語を書かず話さぬ吾が支えうたの幾つは夫も知らざる

夜をしげく飲み帰る夫かわれになき豊かなる匂い身に漂わせ

風花        197111月号

みいくさと疑いわざりし少女期よ雪深き峡に炭を運びて

引綱の肩に食い入る峠越え生木の杖の香にむせびにき

風花は頬をやさしく伝い落ちてふくらみ初めし乳房濡らしき

 汗拭ういとまさえなく積み終えて駐車禁止の区間のがるる

好奇の眼浴びつつ心すでに萎え白バイに鎧うポリスに従きて

力こめて縛りし故紙も幾屯か方にいかつき肉育ちいる

錆色の花        19721

「ソンミの芽はすでに朝鮮にありし」と侵略の惨朝日紙は明らかに載す

「殺される側」たりしは二十年前いまチュチェの朝鮮の子らは豊かに肥る

手の甲の腫れ引かぬまま入荷せし故紙幾百キロにに縄かけてゆく

数枚の千円紙幣に不況見すトラック一車の労賃にして

休耕の谷帰化菊群生し浮遊塵被りて錆色に咲く

醜くも諍えば顔をそむけつつ夕餉の卓に子らは食み居り

「楡」にのりし吾が歌に父は悪役と指摘せる次子のこころ恐れき

いのち燃ゆ        19724

異国語たる日本語にて思考する虚しさに捉われしことも幾たび

幾個所の基地の備えは北を向く吾が祖国をも標的となし

主体思想かかげたゆまぬ民なりき化粧せぬおとめの清しき職場

ハンピラァの力走見したかぶりも阻まれし逢いも淡あわと過ぐ

日本の風土に紛れふたつ()に生き継ぐ日々の根付かぬ理由
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権星子さんの病状の回復を祈りつつ—――。
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by pcflily | 2018-12-04 20:23 | アリランエッセー | Comments(0)  

差別語について

驚くほどの速さで今年も12月になってしまった。

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私も会員になっているいる『新日本歌人』は前月の20日以降に翌月号が届く。

昨年の12月号に「北鮮」と言う言葉を使った作品がいくつも掲載されていた。作者本人にとっては何

の抵抗もない言葉であろうが、一言一句を大切に吟味して歌に詠む込む人が使うとはーーーー。

私の胸が痛み始めた。日本人は私達朝鮮人への差別語であることを知らないのかもしれないと思うよ

うになった。そこで、新日本歌人の編集部に、資料を添えて手紙を送った。

けれども、全く音沙汰がなかった。一年を過ぎた現在でも、編集部からは返事がない。

近藤芳美先生の教室で知り合った梅田さんに、この内容を話し、彼女は編集部の一人に伝達をして下

さった。そのいきさつも話して下さったのだが、編集部からは全く音沙汰がなかったのである。

私は、堪忍袋の緒を切った状態になり、10月号に掲載された「透明人間にされた私」を投稿した。


幸いにも、私の作品を誠意を込めて読んで下さる選者であった為に「選のあとで」に取り上げて下さり、励まされた。


「選のあとで」「民主的団体の編集部」は 無視し放置し 未だに音沙汰無しだ

朴さんの作品のいくつかは、一首独立の立て前をとる短歌形式からははみ出ているかもしれないが、内容上無視できないと思い、あえて選歌した。

何を無視されたかといえば、明治期に国策で造語された差別語ーー「北鮮」「半島」など聞くたびに「肺腑が煮えくりかえる」「朝鮮人全員の思い」である。

問題の第二点は次の歌に歌われている。

朝鮮学校への 「行政の差別を司法が擁護」 痛恨の極みのわが思いを 詩情がないと切り捨てる

「痛恨の極み」が「詩情がない」と切り捨てられたのは、プロレタリア短歌が批判されたのを想起させるが、しかしプロレタリア短歌と朴短歌は同じではない。

プロレタリア短歌は実感がとぼしいスローガン短歌だと言われているが(これとても再吟味が必要である)、朴さんの短歌は民族差別のきざみこまれた実感がある。その実感と詩情との関係も再考してみる必要があろう。

文字数批判の投稿文 古来の三十一文字を守れと 寄らば大樹・編集長の下

文字数の多さ批判して「古来の三十一文字」を守れという意見に対して、朴さんは不満を述べている。行分け作歌は定型を基準として作歌しているのがほとんどだが、しかし定型に従うのではなく、批判的に扱って破調している点に注目すべきであろう。


この12月号に、下記の梅田悦子さんの投稿文が掲載された。

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「北鮮」、「北朝鮮」についての一私見      梅田悦子

一九一〇年の韓国併合により「大韓帝国」は「朝鮮」という日本の一地域となりました。植民地「朝鮮」の始まりでした。併合の条約発布の日、日本は勅令をもって「大韓帝国」の国号を廃止して、「朝鮮」と改めました。独立国家の「大韓帝国」から、日本の植民地としての「朝鮮」の誕生でした。各地で強い抵抗運動がおこり、「大韓」や「韓」の語は当時抵抗のシンボルとみなされ、「朝鮮」の呼称の強制がなされました。条約公布の翌日には『大韓民報』は『民報』へ、『大韓新聞』は『漢陽新聞』へと新聞名の変更が行われました。「韓人」が「鮮人」となり、「日韓」は「日鮮」となり、「鮮」の語が植民地政策の進展につれて定着していきました。

韓国併合の祝宴で、初代朝鮮総督・寺内正毅が「小早川 加藤 小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらん」と秀吉の朝鮮侵略に参加した武将たちを忍んだ歌を詠んでいます。日本にとって、韓国併合は、秀吉の「朝鮮征伐」と同じなのです。このような過酷な植民地支配によって、日本人の間で朝鮮民族を見下す目線が急速に広がりました。

「北鮮」という言葉は、韓国併合以降に、日本人が朝鮮北部を指して広く使うようになった言葉で、今の朝鮮民主主義人民共和国を指す言葉ではありません。日本の植民地支配と切り離せない植民地用語です。

一九九一年、広島市で開かれた「国連と軍縮シンポジウム」で、明石康・国連軍縮担当事務次長が、朝鮮民主主義人民共和国の国名を「北鮮」と紹介し、その場で聴衆から「差別語で不適切だ」と批判されました。明石氏に差別的意図がなく、単なる略称として使用したとしても、受け手は略称としてではなく、社会的な文脈の中で理解することになります。「鮮人」などと同じ文脈において、「北鮮」という言葉を差別語として受けとめるわけです。差別表現は、話し手の差別意識の有無の問題ではなく、表現内容の差別性の客観的評価(社会的文脈)で判断すべき問題です。

南北の和解が進む中でも、「だまされるな、核は放棄しないだろう、日本の経済支援を期待しているのだろう」などというマスコミの朝鮮パッシングは続いています。朝鮮半島分断の責任は大いに日本にあるということが、意識の隅にでもあれば、そんなパッシングは出ないはずです。

三八度線は、半島北部は関東軍が、中・南部は大本営が対米戦に備えて引いた分割線でした。そしてそれは、日本の武装解除にあたって、米ソの担当地域を分けるための軍事的分界線とされました。南北分断は朝鮮戦争により起こった事ですが、日本の植民地支配が無ければ起きえなかったことでもあります。したがって、南北和解の動きに対し、日本は、その実現ために協力する歴史的責任があります。しかし、日本政府は真逆の動きをしています。マスコミの報道もこの歴史的責任については言及していません。

あまり深く考えずに、「北鮮」を国名として使うことと、南北融和を冷ややかに見る眼はどこか繋がっているような気がします。そこには、現状認識や歴史認識の甘さが見え隠れします。

日本の新聞が「北朝鮮」と書くようになったのは、拉致問題の後からです。それ以前の新聞は「朝鮮民主主義人民共和国 以下北朝鮮」と書いていました。今はそんな但し書きもなく、「北朝鮮」と表記しています。ひどいときには「北」と書くときもあります。二〇〇三年に、朝鮮の『労働新聞』は「北朝鮮」と呼称し始めた『朝日新聞』を名指しして「わが共和国の国号を歪曲する」と批判しています。昔からの蔑視感情と拉致問題による「反北朝鮮」の世論などが絡み合い、朝鮮民主主義人民共和国には何を言ってかまわないという認識が広まってしまったのです。『赤旗』でさえ「北朝鮮」と書くこの国名表記は一般的になっています。

朝鮮民主主義人民共和国を略すなら「朝鮮」か「共和国」ではないでしょうか。北という文字は朝鮮民主主義人民共和国という国名の中にはありません。この「北朝鮮」表記に関しては「(朝鮮民主主義人民共和国の略称としては)「北朝鮮」か「共和国」にすべきでしょう」『差別語・不快語』(にんげん出版)と「北朝鮮」を容認する差別語解説本もあります。マスコミもほとんど全部と言っていいほど「北朝鮮」表記です。ですから、『新日本歌人』の投稿歌のなかにも「北朝鮮」表記は散見されます。私もこの問題を調べるまでは差別語という認識がなく、何度か「北朝鮮」表記を使いました。しかし、この言葉で不快になる人がいると知ってしまったからには、今後は使わないようにします。

先日、『「北鮮」も「北朝鮮」も使わない短歌を詠まん墨黒々と』という歌を、反省をこめて本誌に投稿しました。

文章を書くのが苦手な上に不勉強な私がこの投稿文を書く後押しをしてくれたのは、朴貞花さんの「透明人間にされた私」(『新日本歌人』行わけ作品・二〇一八年一〇月号)です。

「鮮人と言われたら

 肺腑が煮えくり返る」

 金石範氏の言葉だ」

(在日朝鮮籍作家「火山島」)

  この言葉は

朝鮮人全員の思いだ

「北鮮」「半島」もー

明治期の国策で

造語された差別語を

今なお使い続ける人々

 「選のあとに」に選者の宮田さんが「朴さんの短歌は民族差別の刻み込まれた実感がある。その実感と詩情との関係も再考してみる必要があろう」と書いていますが私も同感です。刻み込まれた実感は詩情を生み出しています。「定型に従うのではなく、批判的に扱って破調している」も同感です。朴さんの歌は定型には収まり切れないエネルギーがあり、そこが彼女の歌の魅力になっています。

 「鮮人と言われたら肺腑が煮えくり返る」のは朝鮮人全員の思いであるのに、今なお私たちはその言葉を使い続けているのです。侵略という国策で造語された言葉を傷つく人がいるのも知らずに歌に詠みこんでいるのです。

 福沢諭吉は「武力をもって朝鮮を保護し、文明国へ誘導しなければならない」といい、憲政の神様と言われた犬養毅は「世界で一番卑しい朝鮮」といい、新渡戸稲造は「政治的に無力で、経済的にも自立できず、知識欲もない朝鮮民族のような女性的で薄弱な国民」と言いました。明治の日本をリードしたこれら思想家の朝鮮蔑視は国民の中に浸透してゆき、朝鮮侵略の強力な推進力となったのです。

 「今なお使い続ける人々」という告発は痛烈です。侵略戦争への反省も戦争責任追及もほとんどしないまま来てしまった日本人への告発でもあります。

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by pcflily | 2018-12-02 07:16 | アリランエッセー | Comments(1)  

共生ラウンジの輪を広げよう

☆10月25日の近くの中学校の文化祭に参加して、チマ・チョゴリやいつもは家の中で鎮座している人形やタンスの中で眠っているものを、沢山持ち出して展示したが、終えてから、虫干しをしたり、細かなものまでを整理していたら、1日が瞬く間に過ぎてしまった。10月の訪韓の前から決まっていた講演会の他に、決められていた行
事に参加する事になっているなっている事があった。それは、11月11日、日曜日に開催される多文化共生ラウンジのまつりの「みんなのわっフエスタ」に「ハングルを学ぶコーナー」を作る事であった。まだ仕舞い込んでない人形や小物も展示した。男女老若を問わず希望者が多く盛況であったのに場所が狭くて諦めて帰る人も多かった。三度目に漸く、話を聞けた女性は、まだ30代の様だった。中学生は韓国の歌が好きで、言葉を覚えて、原語で歌いたいと言っていた。これは男女を問わずであった。私の知らない歌手の名前や歌を教えてくれた。高齢の男性は、同じドラマを5回も見たと言っていた。現在の政治状況などは、全く関係なく親近感を持っている事が良く分かりほっとした。何年振りかで日本でちま・チョゴリで過ごし、帰路は心配であったが、バスで帰りバスの中では好意的に話しかけてくれる人もいて嬉しかった。
孫の為に買ってきたハングルの勉強に使うこれらの物が、初めてハングルに接する人の為に説明するのに役に立ち成果与えられた場所が狭かったのは残念であった。
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☆翌日からは、毎月、投稿している作品の締め切りを忘れるほど熱心に片づけをしていた。ふと思い出してビックリしたが、集中できない儘に作歌を始めた。それでも、作品の投稿の締め切りになんとか間に合わせることが出来てほっとした。

ところが、今度は、私の病気ともいえる、部屋の模様替えを始めてしまった。家具迄を一人で動かすので、夜になると体中が痛む。でも、気のすむまでやり続ける。子供たちには病気だと言われていた。手伝ってと言えば、小言が返って来るだけなので、言えない。引き出しの中までは、まだ整理出来てないが漸く手を止める事が出来た。
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〇いつの間にか、蔓薔薇のピース・平和も開き始めていた。
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〇これも蔓薔薇のゴールドハニー、忙しくて面倒を見なくとも秋にも咲いてくれた。
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〇伐っても伐っても新しい枝が出る南天、今年も実の大方は鳥が摘まんで行った。
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〇忍冬・金銀花も、伐っても伐っても伸び続けるのは南天と同じ。花が素晴らしい。
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〇寝室からの沈む夕陽、私のカメラでは真の姿を見せられないけどーーー。
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by pcflily | 2018-11-25 15:56 | アリランエッセー | Comments(0)  

多忙な10月が終わった

◎ある日玄関に漸く入り、二階にはそのままでは運べない大きな箱が届いた。あて名は、きちんと朴貞花様とあるのに、送り主の名前がなかった。あて名に私の名前が有るので、息子に開けて貰った。中身は籐の椅子であった。高齢者向けらしく立ち上がる時に、ひじあてに手を付けて立ち上がると、楽に立ち上がれると使用方法が書いてあった。娘に問い合わせたら、二番目の孫が送ったという。転勤で京都に住んでいるらしい。住所も分からず、未だにお礼も言ってない。
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◎韓国に10月3日に出発して、11日に返ってきた。何時ものように、パソコンで安い航空券を手に入れ、宿泊は、ソウル駅から0,7キロメートルというゲストハウスを探した。両親のお墓詣りをする為にはソウル駅から、新幹線のように早い電車に乗るからだ。もう一つの目的は、韓・日の民間の人達で立ち上げて、公的な援助は受けない「植民地歴史博物館」を尋ねるツアーの一員として参加する為であった。
私は経費節約の為に(航空券)一足先に出かけ、帰るのも遅らせたのである。
最初は両親のお墓詣りをした。ツアーの皆さんんと行動をした後は、一人で博物館に通い、詳しく見て勉強をさせて貰った。また、国立中央博物館には何度か行ったのだが、その近くに、ハングル博物館があることを知り一人で訪ねた。夕方6時には韓国居住の友人が宿所に訪ねて来る事になっていたので傍に居た方に「今、何時でしょうか」と聞いた事で、50代の初めと思われるその男性は、宿所迄送って下さり、そればかりではなく、逢いに来た友人もご一緒にと仰って、夕食をご馳走して下さった。
何という事でしょう。今回も又、見知らぬ人の初見の人に食事をご馳走になってしまった。本当に有難うございました。
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〇植民地歴史館の資料集
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〇歴的土地を探査している時に、ある場所で、5,6人の女性がこの人形を作っていた。皆がアンニョンハセヨと声をかけたので私も、アンニョンハセヨと声を掛けたら、何故か、私にだけ、この人形を下さった。ビックリした。どうして私にだけ下さったのだろう。後ろの刺繍入りの小物入れも今回の訪韓で頂いたものだ。下段のスプーンと箸のセットも頂いたものだ。
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◎両親のお墓詣りをすませて、帰る時に、日本の形態は使えないので、平地に降りてきてから、近くの居住者にお願いをして、昨年も今年もタクシーを呼んで頂いた。
東邦がお願いをしたのに、初見のその女性は、去年はブローチを下さったが、今年もなた、生栗と茸を下さった。辛子も。私はどうして頂くばかりの人間なのだろう。
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◎近所の中学校の文化祭に町内の婦人部が参加する。誘われて手伝っていたが、朝鮮の文化を知る為のコーナーを頂いた。手持ちのこけしや人形で風俗を知ってもらう事にした。また、横浜に来てからは、全く身に着ける機会がないままに、箪笥にしまい込まれているチマ・チョゴリも一部を展示する事にした。結婚する新郎新婦の衣装と、現在まで誰にも触れさせていなかった私の寿衣、即ち来世への旅立ちの為の衣装も展示した。その上ハングルのすばらしさを知ってもらうコーナーも作り、簡単に覚えられることを、学生たちに知らせる事もした。中学生からの良い反響があり、充実した日々を送ることが出来た。
折り鶴を作ったのはオモニが入院した時に、看病の為に一か月ほどオモニと病室で共に過ごした時に、作ったことがあり、すっかり忘れていたが、この文化祭に参加する事で、折り鶴を作り、出し物を次々と思い付き、それを実現する為に、毎日を楽しく過ごした。毎日のように、幸せで楽しいと電話をしていたので、その幸せを見たいと、千葉から、友人の日比さんが遠路はるばると見に来て下さった。嬉しい思い出が又一つ増えた。今日は町内会の参加者や、役員さんと食事会があってウイスキーも頂き、楽しい一時を過ごした。当日も、今日も久し振りにチマ、チョゴリで参加した。
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◎上記の講演をさせて下さった先生とその会員の方が、朝一番でお手伝いに来て下さって、私を驚かせた。本当に、嬉しい事であった。

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◎本来は、折り紙アートという事で、折り紙で色々な物を作る筈であったが、折り紙を手伝っているうちに、私は、朝鮮の「統一旗」と同じ色を見ているうちに「統一旗」を作りたくなり、皆さんがその色を下さって作る事が出来た。そればかりではなく「祝」のハングル「축」まで作ってしまった。そうして、植民地博物館に持っていき差し上げた。館内を案内されて出てきたら、驚いたことに、受付のカウンターの後ろの棚の中央に飾られてあった。本当に、嬉しかった。韓国と日本の一般の人が力を合わせて10年近くをかけて、こんなに素晴らしい事を成し遂げたことに感動をして、私の感謝の気持ちを表したいと、生来の不器用の見本みたいな自分を顧みずに作り始めたのだった。あまりに苦労をして作ったので📷に納める事も忘れ、韓国に行く時もカメラを持って行くのも忘れてしまったので、写真が残せなかったのが、返す返すも残念で仕方がない。
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◎婦人会の皆さんと9月から折り紙で折り鶴を折り始めて10月25日に展示した作品群。
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◎希望者に折り鶴等の折り方を教えるコーナー。
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by pcflily | 2018-10-31 19:54 | アリランエッセー | Comments(0)  

人事を尽くし天命を待つ

文在寅大統領の訪朝に続く訪米と国連への出席しての誠意を込めたお話の内容を聞いて、私の胸は熱くなる。
朝鮮で民衆を前にしての言葉、皆様の厳しい環境の中での「祖国統一への思いと民族を守る心」は事実をしっかりと認識している言葉であった。日本に住まざるを得なかった私達の思いも、全く同じである。将来、ゆとりが出来た時に、私達「在日」の人達にも、同じ言葉をかけて欲しいとの思いが沸き上がってきた。
文在寅大統領の行動を見ていて思い出された言葉が「人事を尽くして天命を待つ」である。同胞の南北が終戦宣言を固く決意をしているのに、米国の諾が残っているとは、この世界の不条理が嘆かわしい。今に始まった事ではないが、悔しさが募る。
私の場合は、人事を尽くして天命を待っていた甲斐があったような結果が出ている。
「新日本歌人」への実権を持っている人たちへの抗議であった「透明人間にされた私」の掲載紙・10月号が届いた。選者を一人が続けるのではなく、交代制になっている。選者への抗議も書いているので抗議された選者であったなら、私の作品は全て没になる可能性もあった。けれども、神は私を見捨てなかった。選者は宮田哲夫さんであった。透明人間にされていた私が見える人であった。選者は、選のあとにで何人かの作品に意見を書いて下さるのだが、この度は私・朴貞花についての言葉だけであった。

選のあとで
  「民主的団体の編集部」は
   無視し放置し
   未だに音沙汰無しだ    

 朴さんの作品のいくつかは、一首独立の建前をとる短歌形式からははみでているかもしれないが、内容上無視できないと思い、あえて選歌した。
何を無視されたかといえば、明治期に国策で造語された差別語ーー「北鮮」「半島」など聞くたびに「肺腑が煮えくり返る」「朝鮮人全員の思い」である。
 問題の第二点は次の歌に歌われている。

  朝鮮学校への 
  「行政の差別を司法が擁護」
  痛恨の極みのわが思いを 
  詩情がないと切り捨てる    

「痛恨の極み」が「詩情がない」と切り捨てられたのは、プロレタリア短歌が批判されたのを想起させるが、しかしプロレタリア短歌と朴短歌は同じではない。
プロレタリア短歌は実感がとぼしいスローガン短歌だといわれているが(これとても再吟味が必要である)朴さんの短歌は民族差別のきざみこまれた実感がある。その実感と詩情との関係も再考してみる必要があろう。

  文字数批判の投稿文
  古来の三十一を文字守れと
  寄らば大樹・編集長の下  

 文字数の多さを批判して、「古来の三十一文字を守れ」という意見に対して、朴さんは、不満を述べている。
 行分け短歌は定型を基準として作歌しているのがほとんどだが、しかし、定型に従うのではなく批判的に扱って破調している点に注目すべきであろう。

☆人事を尽くしては私の指針としている事だ。希望が通らなかったとしても自分の医師で行動した事であるので、自分自身に対して納得できるので後悔はしないで済む。
しなければならない事がいくつか続いている。この29日に80歳になるので、最後の仕事になるのかも知れないが、楽しみである。
10月初旬は韓国に開館した「植民地歴史博物館」に行く。日本人と韓国人がこうてきな援助を受けないで作った博物館だ。寄与した人たちの博物館訪問だ。
10月17日は「経済を学ぶ会の」の会長さんのお世話で「朝鮮と日本の間で私の歩んだ道」と会長さんがポスターと資料を作って下さって、話をすることになった。
10月25日は傍にある中学校の文化祭に町内の婦人会が参加する中に「隣国朝鮮を知る」コーナーを頂き、ハングルや色々な物で朝鮮を理解して貰える事になった。11月11日は横浜市の南市民活動・多文化共生ラウンジ主催の「みんなの わっ フェスタ」に参加する。殆どの人はグループだが、私は、いつもの如く一人で「ハングル」のことを通して隣国朝鮮を理解してもらおうと考えている。
電話を下さると思っていた人からの連絡がない。けれども、捨てる神あれば拾う神ありなのだろう。思いがけない嬉しい事が続いている。
「人事を尽くして天命を待つ~~~待てば海路の日和あり」かと思う。
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花冠、結婚式の新婦のの冠。
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訪朝の突起の記念品。

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訪韓の時、従妹からプレゼントされた。
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日本で手にいれた。両端は朝銀の記念品だけれど真ん中の人形は忘れている。
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。背負い子を背何つけている。気の形を用ずに使用しているので、びっくりだ。朝鮮では当たり前の事だが。
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薔薇の木に百日紅とオーシャンブルーが絡み合って、競り合って二階のベランダまで伸び続けている。薔薇の為に剪定するときに苦労しそうだ。


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by pcflily | 2018-09-27 11:57 | アリランエッセー | Comments(0)  

透明人間にされた私

十月号原稿

透明人間にされた私      (ぱっ) (ちょん) (ふぁ)

「鮮人と言われたら

肺腑が煮えくりかえる」

金石範氏の言葉だ

(在日朝鮮籍作家「火山島」大佛次郎賞・毎日芸術賞)


この言葉は

朝鮮人全員の思いだ

「北鮮」「半島」も――


明治期に国策で

造語された差別語を

今もなお使い続ける人々


知らぬ人もいるかと

編集部に資料と手紙を送った

会誌に説明文載せるかと


「民主的団体の編集部」は

無視し放置し

未だに音沙汰無しだ


朝鮮学校への

「行政の差別を司法が擁護」

痛恨の極みのわが思いを

詩情がないと切り捨てる


文字数批判の投稿文

古来の三十一(みそひと)文字(もじ)を守れと

寄らば大樹・編集長の下に


知りたくない聞きたくない

見たくないと

透明人間にされた私


在日の傷み悲しみ余所(よそ)事か信じ続けし「新日本歌人」


☆自分は絶対に朝鮮人を差別しないと言った人がいた。町田市に住んでいた時に受講した「市民大学」の仲間たちと「在日コリアンを考える会」を作って、会員の話し合いをしていた時である。何時ものように、朝鮮人は私だけであった。他の会員からそんな事はないと言われていた。彼は、次の会合の時に又家内と話し合った。自分達はクリスチャンである、朝鮮人を差別しない人間であると言っていた。そんな彼が町田市に朝鮮学校がある事さえ知らないでいた。

別することはしないという人は関心さえも持たない事だ と認識した出来事であった。その後「朝鮮人の無年金の高齢者の為に年金を」という活動を始めた。年金を支払う権利もなく、高齢になった人たちである。中国からの帰国者には、特例を作って支給されていた。4年かかったが、東京都内で、初めて町田市は、月額1万円という少額ではあるが支給する事になった。私達の運動が実ったのだが、10人いた仲間はいつの間にかいなくなり、最後に残ったのは私と沖縄出身の元高校教員の二人だけになっていた。最後まで行動を共にして下さった沖縄出身のこの方は、ある飲食店で、沖縄出身の人に会った時に沖縄のどこかと聞かれて出身地の島の名前を言ったら「なんだ、島か」と言われたという。


実現のきっかけになったのは、4年の間には、沢山の人に協力のお願いをしていたのだが、その中でも、一番親身に対応して下さっていた国会議員の石毛えい子さんが人権問題の集会があることを教えて下さったので、一人で、その集会に出席をした。最後に3人だけの質問を受けるという司会者の言葉に「いの一番」に手を挙げた。そうして人権の町として知られた町田市であるのに、朝鮮人は人間じゃないのですか?と市長に意見を言った。集会が終わってから話しましょうとの返事を貰い、二人で話し合って、次回の選挙が近い時期であったので、選挙に当選して、もう一度市長になった時には実現するとの約束を貰う事が出来た。

そうして朝鮮人韓国人台湾人が受給できる事に制定された。制定されて、初めて手続きをする人を連れて、挨拶に行った時であった、市長の開口一番の言葉は「あなたは怖い人だ」であった。


この日本の中に巣食っている、朝鮮人に対する差別の心は何処までも、根が深いようである。当方が、へいこらし続けているとある時期まで、続くが、相手の奥に潜む事を安心して正直に話せば、開き直り怒る。こんなに優しくしてやっているのに、一人前の口をきくなという事だろう。


〇私の瓦礫の空き地に咲いている花たち。一般に雑草と呼ばれる花々だ。でも、一つ一つよく見ると、いずれも、本当にきれいな花を咲かせ種を実らせ、花を咲かせてくれる。人間も同じだし、この世界の全てのものが、精一杯生きている事が分かる。だから、私はどんな小さなものに対しても、自分の身の事を考え優しく接するように努めている。だから、今日まで生かされていると信じているからだ。


上から、蛍草,露草とも。金雀枝の一種、葉が三角形だ姫紫苑、無窮花。
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by pcflily | 2018-09-16 17:21 | アリランエッセー | Comments(0)  

9月1日 関東大震災時に虐殺された「犠牲同胞慰霊法要祭」

 関東大震災時朝鮮人虐殺は1923年だ。
今年も各地で慰霊祭が行われている事だろう。私は、近くの宝生寺に出かけた。例年のように、息子に現地まで送ってもらった。口には出さないが息子も出席はしないが思いは同じなのだろう。毎年忙しい中を、時間を割いて送ってくれる。例年のように昔からの朝鮮の国花の無窮花そして百日紅と溢れ咲いている百日草を持って行き参加した。花は慰霊碑の前に供えられた。民団の主催なので、私は異端者だが、快く迎えてくれる。この度の出席で一番驚いた事は、神奈川韓国総合教育院の方が挨拶をしてくれたので少し会話をした。その中で、彼は李誠七さんはハラボジ、即ちご自分が李誠七の孫であるという事であった。また、帰路には隣席の女性が紹介して下さった方にバスの停留所まで、私一人をのせて送って頂いたのだが、その方は民団の団長であると、私が車から降ろして頂く時に仰っていた。再度会う事があっても、顔を覚えていないのでお礼を言う事も出来ない。その車が豪勢であった事だけは分かったのだけれど~~~。

 今日、渡された資料より一部を抜粋。
この横浜の高野山真言宗・宝生寺では虐殺された朝鮮人の供養の為1924年から毎年9月1日の午前11時58分(大震災の発生十国)に法要が営まれ現在も続いている。
 この法要は当時、在日朝鮮人の同胞救済団体、愛隣園を主催していた李誠七氏が、虐殺された朝鮮人の慰霊の為、白木の位牌を寺にもってきて供養を頼んだのがきっかけである。虐殺事件の後一年しか経っていないので、いくつもの寺を訪れて頼んだが、いずれも断られ、ようやく宝生寺の当時の住職である佐伯妙智師(現住職の祖父)が引き受け今日に至る。李誠七氏の生存中は宝生寺と李誠七氏によって法要が営まれていたが、その後は同寺と民団神奈川県地方本部が中心となって続けてきた。
 宝生寺に納められている位牌は、その表面に「大正12年9月1日造位1946年9月1日改造 施主 愛隣園 李誠七」とある。第二次大戦後、位牌が作りなおされている。
(いつも、この位牌が中央に安置され読経がなされる)

同寺の境内には1971年9月1日に「関東大震災韓国人慰霊碑」が、施主日韓協会で建立されている。建立委員には民団神奈川県地方本部孫張翼団長、神奈川韓国商工会洪勺杓会長、横浜商銀信用組合李鐘大理事長、韓国学園崔春植理事等の八氏が名を連ねている。
 李さんは亡くなる前に佐伯住職と住職の母を読んで「私が死んだ後も震災犠牲者の供養は毎年続けて欲しい」と~~~。
宝生寺は末寺51寺を持つ中本寺であり、この地方の高野山真言宗の古刹だが、現在でも檀家は70軒ほどであり関東大震災当時は20軒ほどしかなかった。ほかのお寺では引き受けなかったのに、当時の社会情勢の中で李さんの頼みを聞き入れて供養を引き受けられたのは、檀家が少なかったからという事も言える。

宝生寺は800年前の平安時代承安(じょうあん)元年(1171年)に民部卿大僧都、覚清法印によって草創され、高野山金剛峰寺を本山とする古刹である。


宝生寺の犠牲同胞慰霊法要祭

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〇30分ほどの読経があげられる。
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〇慰霊碑
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〇慰霊碑の裏面、建立時の協力者の名前が刻まれている
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〇出席者全員のの焼香
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〇日の前方のこの建物い鐘があり読経中に鐘が鳴らされてた
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〇白い芙蓉の花が咲いていた
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●宝生寺は山腹に有るのでた沢山の木々が鬱蒼としている


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by pcflily | 2018-09-01 18:10 | アリランエッセー | Comments(0)  

終戦宣言の約束は?

九月号原稿     (6月詠)


米韓軍事演習の中止決定

                (ぱっ) (ちょん) (ふぁ)       

待ちに待ち続けた

米韓軍事演習の中止

銃を突きつけて挑発の

覇権国の米国だった


核大国のアメリカに

世界は追従して来た

被爆国日本が忠犬の体たらく


戦争屋の

既得権層を撥ね退けた

トランプ大統領に

賛辞を伝えたい


「南北統一チーム、

南北の共同入場、

統一旗とアリランの使用」と

嬉しい報道が届く


米朝会談は両首脳の署名

七十年の冷戦解消

北東アジア平和への転換だ


朝鮮は終始一貫

軍事的威嚇中止を要求してきた

トランプ大統領は

朝鮮の安全を約束した


「ここに辿り着く道は遠かった」

金正恩委員長の言葉に

滂沱の涙を流した私


幾十年を闘い苦悶の

南北、在日、世界の同胞

鬼籍の同胞も胸を熱くした筈だ

真の平和の訪れを祈る


☆かつての金大中大統領の訪朝の時に、あまりにも、単純に信じ喜んで、その後の深くて長い失望を、もう二度と味わいたくないと、冷静に見ていたのは私ばかりではないと思う。これが、今年の南北会談と朝米会談であった。

そんな中で、朝鮮とアメリカの首脳が直に会談をして、韓米軍事演習をしないと聞いた時には、これで、前向きに進むだろうと思ったのであった。終戦宣言に署名をするとの約束をしたともいう。

あれから、2ヶ月ぐらいで、もう、韓米軍事演習をするかもしれないというニュースが流れてくる。誰の為に、どんな利益を得る為に人間が人間を殺す戦争の練習に大枚をはたき続けるのだろうか?言葉が出ない。


〇幼かった時の娘にあまりにも似ていたので買ってしまった。九州旅行に行った時の記念の人形
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〇息子・李淳馹の著書『もう一人の力道山』が韓国で翻訳本が出版され、映画化した時に韓国のテレビ局が我が家に取材に来られた時のお土産に下さった人形
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〇我が家の今年の夏の花たち。猛暑の中で咲き続けている。朝夕に話しかけてお礼を言っている。
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by pcflily | 2018-08-31 16:59 | アリランエッセー | Comments(0)  

靖国合祀反対集会

☆8月11日、都内で朝鮮人の靖国合祀を反対し合祀を取り消せと、集会を行った。今年も、韓国から何人も遺族が来日して、合祀取消の願いを訴えた。会場には通路まで一杯の参加者でうずまった。
パネリストには韓国から権赫泰さん、吉田裕さん、高橋哲也さん、司会は内海愛子さん。いずれ劣らぬ論客で、私の胸を打ち改めて考える事が多かった。
何故、靖国神社は、嫌だと言うのに、こうして合祀を取り消さないのか、摩訶不思議な事を続けているのだろうか?子供に聞いても、間違っていると答えるであろう理の通らないことを続けている。
À級戦犯をも合祀しておいた靖国神社に首相や国会議員が大勢押しかけて参拝を続けている。国を挙げて、戦争神社に参拝をするのは、再び戦争をしたいという願望の為なのだろうと思ってしまう。
猛暑の中を出かけたが、気持ちは恐ろしさに寒気を覚えた。夕方からは今年も、靖国の闇に灯りをと、靖国合祀反対、安倍は止めろ、戦争反対、平和を守ろうと明かりを掲げてデモ行進をした。例年のごとく、街宣車が騒ぎ立てていたが今年は猛暑の為か昨年よりは少なかった。
韓国から来日した若者も参加した。ノー合祀・ノーハプサとこの闘いに参加するために来日した。若者の参加は嬉しいが、世代を超えて「ノー合祀」の闘いを続けなければならないとは、悔しさが募る。日本という国は、何故?こんなことを何時までもさせるのか?理性がないのか?良心が無いのか?どこまで図々しいのであろうかと考えた。
〇靖国に囚われている我が同胞に花を捧げたい。
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by pcflily | 2018-08-19 20:40 | アリランエッセー | Comments(0)