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カテゴリ:アリランエッセー( 177 )

 

町田に住んで33年の思い

〇喜怒哀楽分かち合いたる星子さん身罷りしこと宜えぬ日々
〇呆けたるごと君思うベル鳴りて会話楽しむ事のあるかと

療養中であったが、いつも明るく前向きで私が励まされていた。昨年は、毎日のように電話で話し合い、南北の和解を喜び合い、平和協定の成る日まで頑張って生きていようと話し合っていた。我が家のばらのゴールドハニーとピースは今、真っ盛りだ。昨年は、この薔薇を一杯摘んで花籠にして送ったのに、送る事も出来ない。
人間は誰でも別れて旅立つことは、承知している筈だが、何の遠慮もなく話し合い、意見の一致を見ることの出来る人は少ない。
2ヵ月が過ぎて、漸く終活の整理に入ることが出来た。忘れていたものが出てきて、真面目に一生懸命であった事を、愛おしく思える。
町田に住んでいた時に学んでいた市民大学のレポート集の中にあった。16年前も今も同じことを考えているのだ。。

町田市民大学 HATS 「町田郷土史2」 
2003年後期 受講生レポート集
町田に住んで33年の思い   (ぱっ) (ちょん) (ふぁ)
 ようやく、受講資格を得た2003年度「町田の郷土史」であったのに、体調を崩して欠席が多かったのが、残念であり、また皆様に申し訳ないと思う。
それでも、第6回の浜田弘明先生の「軍都相模原の形成と町田」の講義を聞くことが出来たのは幸いなことであった。出来る事ならこの講義をもう一度聞きたいと思う。
冷静に事実を淡々とお話なさるのを聞いて感動した。
 広辞苑の「歴史」を紐解いてみると
1、 人類社会の過去における変貌、興亡の有様。また、その記録。
2、 物事の現在に至る来歴。と記されている。
町田市の郷土史、まして町田の土地に刻まれた「戦争」の郷土史に在日朝鮮・韓国人のことが取り上げられていないことを、情けなく思ったことであった。
 93年度の「町田市民史学」から始まり、町田市民大学HATSでは何度も勉強させて頂いたが、市民として長いこと生活している在日コリアンについて関心がないのか、気が付かないのか取り上げられない事が多い。
「町田の考古・考現学講座」を受講した時は、対象日本史年表が資料として渡されたのだが、朝鮮と表記すべきところを「鮮」となっていた。これは、朝鮮の朝は朝廷(皇室)の朝と同じであるから、不敬であるという思想から来ている。差別語である。高句麗、百済も表記せず、国連に加盟している朝鮮民主主義人民共和国の記入もなかった。
町田の土地に刻まれた「戦争」には、在日朝鮮・韓国人は忘れてはならないことと私は思うのだが、間違っているのだろうか?
在日朝鮮人運動史研究家の平林久枝氏の聞き書きによると、韓国慶尚南道出身のTさんは次のように話している。
わたしの故郷は釜山からそう遠くない農村で、生家は小作農だった。小作料は、収量の半分を取られていた。家族は父母と、私と妹の四人だった。父が強制的に連れて行かれたのは一九三九年だったと思う。
家族四人が田んぼへ出て、両親が仕事をしていた。そこへ突然、黒い帽子をかぶりあごひもをかけて剣を下げた巡査がやってきた。その姿が強く印象に残っている。
父を縄でしばって無理やりに連れて行った。それもただ縛るのではなくて、ちゃんばらや西部劇でやる投げ縄で父の首に縄をかけて、その縄で後ろ手に縛って引きずるように父を連れて行ってしまった。そのまま父は日本へ、現在の相模原へ軍事基地(日本陸軍のもの)を作る為に連れてこられた。
父が働かされた場所は、東京都と神奈川県の境になっている「さかい川」の東京都側で、当時の堺村の山林を崩して戦車道路を作ることだった。
一年後に母は、父を頼って私と妹をつれて日本にきた。当時の堺村には朝鮮人の飯場があり、四千人が住んでいた。
多摩丘陵の山林を切り開いて戦車道路を作るのが主な仕事だった。父達の労働はすべて手仕事だった。スコップや鶴嘴を使って土を掘り、すくい、モッコを二人で担いで土を運んだ。その作業現場には剣を下げた憲兵が見張っていて、一言でも文句を言えば、剣で切り付けたり腹を突っついたりして、朝鮮人に怪我をさせること等なんとも思わない様子だった。
わたしは怪我をさせられた人を何人も見ている。道路が出来たのは1944年、私は11歳になっていた。飯場暮らしの独身者は食料が少なくて空腹を我慢できずに、夜になると食料に融通のきく所帯持ちのところに忍んできてジャガイモなどを食べて帰ったが、そんなことでも見つかれば往復ビンタだった。(以下省略)
浜田先生の講義でも良く分かるが、日本最大の大規模な軍都相模原に隣接する町田市に戦中・戦後、大勢の朝鮮人がこのような悲惨な状態で暮らしていたことは、疑問の余地がないだろう。
現在の「こどものくに」には、弾薬庫があった。ここでも、1000人近くの朝鮮人が働かされていたという。旧国鉄原町田駅からは行幸道路も作られている。
町田の土地に刻まれた『戦争』及び、町田市の郷土史に」在日朝鮮・韓国人の足跡・事績が、ない筈はないのである。
 朝鮮を植民地にしてからの日本に、朝鮮人は労働力として移住してきている。本人の意思の有無にかかわらず、この事実は確固としたものである。
現在も、朝鮮・韓国人と呼ばれて町田市に住む人々がいる。両国の歴史に奔流され、取り残されてしまった人々である。彼らは声を挙げる場さえ持たない。
日本の植民地政策で思いだすのも悍ましい体験をさせられた。そして、その後、半世紀も過ぎているというのに、未だに無視・放置されているのはどういうことであろうか?
町田に暮らすようになって、私は33年になる。喜怒哀楽に揺れる熱い血の通っているあなたと同じ人間です。透明人間にしないで下さい。私を隣人として見て下さいと言い続けてきた。この私の悲痛な声が何人に届いただろうか?
町田市には朝鮮学校がある。町田に朝鮮学校があるという事は、其の由って来る原因がある。朝鮮を植民地にした事、そして戦争を遂行するために朝鮮人を労働力として連れてきたことである。
けれども、朝鮮学校の為にと言う補助金は一円も出していない。私立学校として年間一人の生徒に5000円を出しているだけだ。
朝鮮・韓国人も市民税、都民税、国税も納めている。介護保険料も払っている。市民としての義務は果たしているのである。何故、その恩恵は受けられないのだろうか?日本の各地の地方自治体は、独自に朝鮮学校に助成金を出しているところもある。
福祉の街として名をはせた町田市は、朝鮮人にはその福祉の心を届けていない。
私の父は、1940年福島県の常磐炭鉱に連れてこられて働かされた。そこへ、私達母子は命令により渡日した。家族がいれば簡単に逃げられないと思った為の人質であった。
日本の敗戦により私達は漸く自由の身になった。母が身重であったために船に乗れず、そのまま日本に住み着くことになった。こうして、私は日本の学校に通ったが、どんなに努力をしても認められることはなく、むしろ満点を取った事で、先生に「朝鮮人は先生にも看護婦にもなれないんだよ」と笑いものにされた。
結婚して母親になったとき、可愛いわが子には、差別される悲しみを経験させたくないと、家族の反対を押し切って上京し、一人で二人の子供を、朝鮮学校に通わせた。
けれども、朝鮮学校に対する差別があり、経済的に苦しい思いをした。一時は、三つの仕事を掛け持ちした。四時間の睡眠時間が確保されれば不足は無いのにと思ったものだが、女は弱しされど母は強しと、無事乗り越えた。
私の祖国朝鮮は、アメリカとソ連の冷戦の生贄になり南北に分断されてしまっている。
日本の敗戦後、私達は国籍を選ぶ権利も、他の市民権も全く与えられずに放り出されてしまった。そして、朝鮮人を管理する外国人登録の国籍欄に「朝鮮」と記載された。いわば記号だ。北も南もなく、皆、朝鮮人である。私が朝鮮人ですというと、殆どの人が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と結びつける。これは誤解である。
現在日本に定住する在日朝鮮・韓国人は朝鮮から来た人とその子孫である。誰もが皆「朝鮮人」だった。南と北に分ければ9割が南の出身である。我が家も、ソウルより南に位置する忠清北道から来ている。
朝鮮の分断後、韓国国籍を習得した人が「在日韓国人」であり、変更していない人が「在日朝鮮人」と呼ばれているのである。
「朝鮮」とは民族名であり、「朝鮮」という国は現存していないのである。
1965年にアメリカの意向により日本と韓国の政府は両国民の反対を押さえ付けて「日韓条約」に調印した。日本は朝鮮の南半分だけを正式に国として認めた。
そして、朝鮮の北半分とは未だに国交を樹立していない。他の国を植民地にした宗主国が半世紀以上も断絶ししたままでいるのは世界に例がないという。即ち日本だけである。
世界でもアメリカに次ぐ国が、米もない貧しい国と言いながら、人口が2000万程の国を恐ろしいと騒ぎ立てているのは何故なのか?私には理解できない。
韓国籍の方が、日本で暮らす場合には軋轢が少なく暮らしやすいので、韓国籍に変える人が増えて来た。むしろ、現在は韓国籍の方が多いという。
 けれども、私は、誰もが同じく朝鮮人と言われ続け、最初に「朝鮮」と記入された国籍を変えないでいる。「朝鮮」と呼ばれた国は500年である。紀元前にも「朝鮮」と呼ばれることがあった。意固地だと言われたりするが、私は『朝鮮籍』を守っている。
南北に分断された祖国の半分だけを意味する「韓国」に変えるつもりにはなれない。その為に自分の生まれた場所であり母国と慕う場所に自由に往来出来ないでいる。日本人や他の国の人が楽しく自由に往来しているにも関わらずである。この事を知らない人も多いと思う。自由な国、韓国という印象が強いと思うが、これが現実である。
この現実、日常生活に入ってくる日本人とは違う境遇や差別に日々向き合っている為に「戦争」に無関心ではいられない。
町田市と相模原市の堺にある境川(高座(たかくら)川と呼ばれていた)を散歩していたら、案内の看板が立っていた。金森、金目、秦野は渡来人の氏名に関係がある地名。因みに「たかくら」は高倉、高句麗に通じるという。ここ相模の国、武蔵の国一帯は、かつて高句麗からの渡来人が多く住んでいたという。
朝鮮学校は高ヶ坂にあるが、生粋の町田の人間だという方に言われた。高ヶ坂(こうがさか)ではない。高ヶ坂(こがさか)と「こう」と伸ばさずに「こ」と短く言うのだと言われた。
朝鮮語も「高」の場合「こ」と言うのである。高句麗はコクリョと読む。朝鮮語を勉強したことがある人はご存知と思うが、朝鮮語は長音が少ない。コーヒーは「コピ」ユニークはユニク。ポーズはポズ。
そこで、私は「成瀬」まで朝鮮語で結びついてしまう。「ナルダ」は飛ぶ。「セ」は鳥で「飛ぶ鳥」「あすか」になってしまう。ちょっと穿ち過ぎかも?古代史の本の読みすぎかもしれない。
 
相模、武蔵は朝鮮語から来ているという。
ヒントは、(から)(むし)。朝鮮では、現在でもモシと言う。
(から)から来たモシでカラモシ、カラムシとなったと我が家にある古い日本語の辞書に載っている。
モシガミ(モシ上)ムサガミ、サガミ・相模。モシシモ(モシ下)ムシシモ、ムシシ、ムサシ・武蔵。
富士山はかつて火の山と呼ばれた。古代史の本に出ている。朝鮮語で火はプル、山はサンで、プルサンがプチサン、プジサン、富士山となった次第である。
朝鮮語の1はイル、7はチル、8はパル。日本語になるとイチ、シチ、ハチとルがチに変わる。
「だるまさんがころんだ」という遊びがある。コロオンダは、現在もそのまま使われている「歩いてくる」という朝鮮語である。この遊びに転ぶ場面はない。
だるまさんは歩けない筈だが、この遊びには歩く場面が出てくる。この様な事は数え上げればきりがない。
日本文化のルーツは、中国文化をイメージする人が多い。朝鮮を中国文化の経由地であるだけと考える人も多い。けれども、朝鮮からの渡来人はその文物・文化を使いこなし、独自に発展させた人々である。文物・文化だけを運んできたのではない。文物・文化を使いこなせる人々が渡来して、文物・文化と共に日本に住み着いたのである。
朝鮮と日本は古代から現代まで、地理的にも近く、歴史的に切るに切れない深い繋がりがある。
朝鮮側からすれば、全く理解できない身勝手な秀吉の朝鮮侵略。この時、人口の3分の1の人々(兵士ではない、老人、女、子供まで)が、ローラー作戦で殺戮された。この秀吉の朝鮮侵略と、これも日本の身勝手な明治以降の植民地政策が、両国を引き裂いていると思われるが、2000年の間の朝・日間の関係では友好的であった時期が長い。
日本にとって一番争いのなかった期間、260年続いた江戸時代。鎖国をしていたと言われているが、朝鮮国と正式な国交を結んでいたのである。「朝鮮通信使」のことは今更私の説明は必要と思われないが、知らない人は調べてみて欲しい。
国家の争いは、政権を持つ者の欲望から来ている。それにより、犠牲となるのは善良な民衆であり、特に女、子供、老人である。私達は正しい歴史を知る事により、理解を深めることが出来るのではないだろうか?
金田一春彦氏の言葉を抜粋して記してみよう。
「言語学の立場から朝・日両国関係を見ると、日本語の「は」と「が」に当たる朝鮮語、相手によって語尾の「です、ます」部分が変化する敬語、擬態語や文法の順序など「他のどこにもないくらいそっくり」です。古代の高句麗、百済語などが明らかになれば、両国の関係はより明確になる。朝鮮と言うのは民族名で、「朝鮮民族」と言って来た。「韓国」民族とは言わない。昔から朝鮮語と言っておりましたし、朝鮮と言って親しみこそすれ、馬鹿にしたり、北だけを指すという気持ちは全然ない。朝鮮独自の文化に安堵感を覚える。朝鮮の民族衣装チマ・チョゴリは「世界で最も上品で優雅な民族衣装である」
日本語に(はな)から(物事の初めの意がある)という言葉がある。朝鮮語の(はな)から来ている。
分断祖国の統一と世界の心が一つになって、お互いを認め合い共生する事を願い、わたしは「端の会」を作った。ハナは朝鮮語で「一」である。「一人」である。「一」から「一人」へ、ハナからハナへ、私からあなたへ、あなたからあの人へ、次々と繋がってゆき、最後に大きなハナ、一つに成る。共生の幸せの花になる。
物事はすべて夢を持つことから始まる。千里の道も一歩から、こんな小さなハナだが、始めている。続けている。
図書館で長いこと絵本の読み聞かせの仲間の一人として参加して来た。いろんな会に参加して心を伝えてきた。二月七日に市民フォーラムで行われる、part4 life in peace「平和に生きる子守歌」の公演がある。これは、脚本も出演も町田市民によるオリジナルミュージカルで、この一員として参加している。Part3は、昨年の21日に市民ホールで公演され市民の好評を得た。
町田市の核廃絶平和都市宣言20周年記念のイベントとして認められ、市からの後援も受ける事が出来た。私は、part1から参加している。ここでも多くの友を得た。
歩みは遅くとも、たとえ、一粒の麦でしかないであろうとも、隣人の日本人を信じ続ける。人間を信じる事で、朝鮮人の私を隣人として扱ってもらえることを信じて歩いてゆくつもりだ。
「知る事から和解と真の共生がある」これが私のモットーである。

by pcflily | 2019-05-10 23:49 | アリランエッセー | Comments(0)  

安川寿之輔さんの千葉県松戸市での講演の案内

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隠遁生活の私に今年は、楽しい信頼できる人との出会いが続く。
健康な時には、3度しか会ってないのに、何事も通じ合う、心の通じ合う信頼関係が続いていた友人の権星子さん、癌を患っている事を知り、名古屋まで会いに行って来た。励まされて帰ってきた。介護している息子さんの姿に感動して来た。
権星子さんの生きざまをしっかり見て来たのだと思った。
私が、オモニの身代わりと思っている梅の花も元気なきれいな姿を見せている。
帰宅してから、九州の玉井史太郎さんの、仲立ちにより、安川寿之輔さんと直接の連絡を取ることが出来る事になった。上に案内状を示してあるが、千葉県の松戸市で講演をなさるとのことだ。千葉県の松戸市にの近隣にお住まいの方は、是非参加して頂きたいと思う。今月の2月22日、会費は500円、松戸駅西口から徒歩7分です。
ほくとビル4階会議室です。福沢諭吉への間違った観点を、見つけた有能な方です。
素晴らしいお話をが聞けると思う。是非、是非、時間を作って参加して欲しいと思います。日本の歴史観と、真実の世界が大きく変わる事を受け合います。

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〇梅の木の後ろは隣家、枝垂れ梅なのに土地に余裕がないので剪定して、この姿。
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〇名古屋に行く日の天気予報は雪であったが、朝から晴天。
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〇星子さんは87歳、私は80歳、同胞で私の作品を読んで下さる唯一の友の歌人。

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〇白色の金雀枝、野草でいつの間にか住み着いた。
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〇黄色の金雀枝、私の家の周りに咲き盛る強い花、勝手に住み着いた押しかけ花。
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by pcflily | 2019-02-20 15:13 | アリランエッセー | Comments(2)  

余命が気になる

『新日本歌人』の1月号が暮れに届いた。この選者は、現在の選者の中ではただ一人の女性の選者であり、70代とのことで親しみを持って電話で話す事もあったので、理解力のある選者と思っていた。

けれども、作品のタイトルは、一番言いたい事、大切な事として付けるのに、タイトルの内容の入っている3連を(下線の部分)すっぽりと抜いてしまった。タイトルも作品の1部である。

「余命が気になる」ようになったのは、80歳になったことで、漸く子離れをして、まだ、私の命が残されているのなら、学びたい事、経験をしたい思いが初めて私に出てきたからである。

長年の私達の夢、南北朝鮮の和解も進んできたからである。そのことを、この選者は読み取れなかったのだろう?後半の3連全部を没にしてしまった。

☆2017年12月号の私の「行政の差別と司法の擁護」も「行政の差別を司法が擁護」の文言を選者は詩情がないと切り捨てた。(この時に、今回の女性の選者に電話で私の思いを話している)


2018年の10月号に「透明人間にされた私」のタイトルの作品で「痛恨の極みのわが思いを詩情がないと切り捨てる」と詠んで抗議をしている。


読者は何故?このタイトルなのかと理解できなかったと思う。形が整っていないから、字数が多いからと切り捨てたのなら、人間に例えれば、美男美女なら認める、障害のある人は認めないという事になると思う。実質的な中身はどうであろうと~~、もっと言わせてもらえば悪人であろうと美形であれば良いという事になる。


一月号原稿

余命が気になる        ぱっ ちょん ふぁ     神奈川


三十迄生き延びたら

儲けもんの筈だった

いつの間にか八十歳


この世に生きる命は

父母からの賜物

父母に従うだけだった


母となり

子の未来を守ると

父母に背いて家出


目覚めの床で

今日を生きていけるかーー

夜のベッドで

今日も生きられたーー


ひたすら祖国と

吾子を思い、走り続け

乗り越えた幾年月


人生は練習時間がない

毎日が初めての経験

そして、今日が一番若い日


一泊千百円のゲストハウスと     

格安航空券をパソコンで探し

韓国の父母の墓参りと博物館巡り


八十路の子離れは

知識欲と行動欲に駆られる

南北和解も嬉しくて。

余命が気になる


☆いつの間にか、新年2019年1月8日になっている。あまりにも、早い日々が続いている。昨年から、「終活」とやらを始めたが、全く仕上げは見えずに、毎日毎日、時間に追われている。

自分が如何に色々な事を学ぼうとし、また、関わって来たのかを、膨大な資料を見て、、改めて感慨を覚える。そしてえ、純粋だった過去の自分に対して愛おしさを覚え、捨てることが出来ない。

 

☆例年の如くに、息子の家族、娘の家族が新年のあいさつに来た。今年は娘の孫と嫁が新入りしたので、総勢12人だ。私は、80歳にして、曾孫を見る事になった。曾孫を見ても、80歳であることに実感がわかない。他人事の様だった。この様に、老いた事を自覚出来ないままに、人間は生き延びてきたのだろう。

私は、いつも男女の差別に反対であるが、女性は子を産むことが出来る、この素晴らしい能力を使わないのはあまりにも勿体ない、愛しあった二人が結婚できなかった場合でも、子どもを産むべきだと言っていた。

私のオモニは22番目の曾孫が、私の5番目の孫であった。その後も甥や姪が結婚をしているので、もっと増えているが、未婚の子もいるので、我が家の姿を見ても、人口が減っている事が分かる。


〇庭の花の水仙全部は、部屋の中の花瓶に納められ、外には、火鉢に植えた小さな花ばかりだ。

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新年の夕陽は写せなかったので夕陽をカメラに納めた。

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by pcflily | 2019-01-08 15:46 | アリランエッセー | Comments(0)  

修学旅行生の土産物を没収した日本国

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十二月号原稿 


高校生の土産物を没収した日本の実態とは?

               (ぱっ) (ちょん) (ふぁ)   

烏はカーカーと

鳩はポッ、ポッと鳴く

日本人は日本語で話す


朝鮮人は朝鮮語を話したい

その基本的な事の為に

朝鮮学校は作られた


朝鮮人は、そして私も、日本に、

自由意思で来たのではない

日本の植民地政策の結果だ


米国の覇権と,利権は 

朝鮮を分断させ

朝鮮人の帰国を阻んだ


分断に日本の罪責がある

謝罪を込めた待遇もなく

朝鮮人への法的排斥を続ける


祖国に修学旅行をした

高校生の土産物を

没収した日本国


拉致問題、北の核脅威ばかりを喧伝 

 (米国は休戦協定違反の核を韓国に配備した)

宗主国の支配地との国交断絶は

世界で唯一、日本だけだ


アジアの平和を招く 

南北の和解に反旗を翻し(分断の利益甘受ける為)

軍事費計上は過去最大の

5兆3千億円超という


☆信頼している友人が入院中で、時々電話を下さるのでいつも、励まされていたのに、病状が芳しくなかったのだ。長い事、声を聴くことが出来なかった。唯一の意思の疎通が出来る同胞女性の友人である。誰も信じられないと鬱の状態が続いて、ブログを書く気持ちにもなれないでいた。彼女の声を聴くと、私はもっと努力をしようと言う気持ちになるのであった。大切な人、権星子さんが今日電話を下さった。嬉しくて、しっかりしなくてはと思うことが出来た。思いがけない事に、今日も又、日比さんからの母の愛のように心のこもった贈り物が届いた。8歳年長の彼女は、娘に送るつもりで送って下さるという。本当に有難い人である。今年ももう残り少ないというより、三時間ぐらいしか残っていない。

「終わり良ければすべて良し」と言うから、今年も私にとっては、本当に良い一年であったとしみじみと思う事が出来る幸せな2018年の大晦日の夜になった。


by pcflily | 2018-12-31 18:32 | アリランエッセー | Comments(0)  

1348回の水曜集会なり

この12月5日の1364回目の水曜デーの日に、性奴隷被害者のキムスンオクさんが逝去された。12月5日は性奴隷被害者の公式謝罪と賠償を求める駐韓日本大使館前で行われている水曜デーの日だ。韓国政府に登録された240人は生存者が、わずかに26人になってしまった。

日本の公式謝罪と賠償を求めて、運動の先頭に立って闘って来たキンスンオクさんは、病を得て入院していた病院でなくなってしまった。

日本は、どこまでしらを切り逃げ続けるのだろうか?

世界記録遺産に登録しようとした記録関連文献は2744件だ。ユネスコ小委員会は「唯一で代替え不可能な資料である」と評価した。韓国、日本、中国等7か国の民間団体が集まって、世界記録遺産登録の決定を促す集会をした。日本は2017年にユネスコの分担金の先送りをした。日本の圧力と反対で手続きを止められているからである。


十一月号原稿  (二〇一八年八月詠)

1348回の水曜集会なり  (ぱっ) (ちょん) (ふぁ) 

  

日本軍慰安婦問題解決をと

39度の猛暑のソウルに

1348回目の水曜集会


「私が証拠だ」と名乗り出た

金学順さん

八月十四日はメモリアルデー

国家記念日となった


「日本軍の性奴隷」を

「日韓合意」を口実に

解決したと拒否する日本


慰安婦問題

在日へのヘイトスピーチ

沖縄住民への基地被害等

人権無視の国――


国連人種撤廃委員会の

度重なる解決要望と叱責に

無視を続ける日本国


日本軍の性奴隷だった

人類普遍の女性人権問題と

世界が謝罪と賠償を求めている


安倍政権を支える半数は女性かもーー

日本のMe Tooも進まない

あいまいと忖度の国らしい


沈黙せず正義を取り返そうと

コンゴ・イラクからも参加した

世界連帯集会

1348回目の水曜集会

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by pcflily | 2018-12-10 15:24 | アリランエッセー | Comments(0)  

権星子さんの短歌

☆夫の急死で短歌を詠むようになったのは1973年、上京して三年目の12月であった。初めて詠んだ短歌が「朝日歌壇」に入選したことから、気の向いた時に投稿するだけだった。「朝日歌壇」に入選した事で、未知の人であった権星子さんから手紙が届き知り合う事になった。

実際に会えたのは三度だけである。けれども、私にとっては無二の親友となった。共に喜び共に泣ける人である。

権星子さんは私よりも早い時期から「朝日歌壇」の入選者として知られた人であった。近藤芳美先生の「無名者の歌」にも権星子さんの短歌は採り上げられている。

「楡」という短歌誌の会員でもあった。その一部を今回送って下さった。同感する歌が続いている。私のこのブログを読んで下さる人はいるのかいないのか、コメントが全くないので、分からないが、権星子さんの歌を読んで欲しいと思って、ほんの一部を抜き書きであるがこのブログに載せた。まだまだ沢山あるのに、書ききれない。

彼女は現在、病と闘っている。七歳年長なので私の記憶にない植民地時代の生活も経験して、確かな記憶として残っている。

今年の文在寅大統領と金正恩委員長の会談の時は電話で楽しいい会話を続けて過ごした。朝米会談の時も喜びを分かちあったのに、最近は声を聴くこともまれになってしまったので、私の心は沈むばかりだ。

権 星 子さんの短歌

傷跡 (初期作品) 19719

貧しさに耐え易く身を馴らされて花散らす雨に屑鉄を積む

底ごもる苛立ちに花をむしりつつ不意に来る死を拒まぬかとも

たどたどと朝鮮のうたそらんじて吾が知らぬ祖国愛おしむこころよ

母国語を書かず話さぬ吾が支えうたの幾つは夫も知らざる

夜をしげく飲み帰る夫かわれになき豊かなる匂い身に漂わせ

風花        197111月号

みいくさと疑いわざりし少女期よ雪深き峡に炭を運びて

引綱の肩に食い入る峠越え生木の杖の香にむせびにき

風花は頬をやさしく伝い落ちてふくらみ初めし乳房濡らしき

 汗拭ういとまさえなく積み終えて駐車禁止の区間のがるる

好奇の眼浴びつつ心すでに萎え白バイに鎧うポリスに従きて

力こめて縛りし故紙も幾屯か方にいかつき肉育ちいる

錆色の花        19721

「ソンミの芽はすでに朝鮮にありし」と侵略の惨朝日紙は明らかに載す

「殺される側」たりしは二十年前いまチュチェの朝鮮の子らは豊かに肥る

手の甲の腫れ引かぬまま入荷せし故紙幾百キロにに縄かけてゆく

数枚の千円紙幣に不況見すトラック一車の労賃にして

休耕の谷帰化菊群生し浮遊塵被りて錆色に咲く

醜くも諍えば顔をそむけつつ夕餉の卓に子らは食み居り

「楡」にのりし吾が歌に父は悪役と指摘せる次子のこころ恐れき

いのち燃ゆ        19724

異国語たる日本語にて思考する虚しさに捉われしことも幾たび

幾個所の基地の備えは北を向く吾が祖国をも標的となし

主体思想かかげたゆまぬ民なりき化粧せぬおとめの清しき職場

ハンピラァの力走見したかぶりも阻まれし逢いも淡あわと過ぐ

日本の風土に紛れふたつ()に生き継ぐ日々の根付かぬ理由
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権星子さんの病状の回復を祈りつつ—――。
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by pcflily | 2018-12-04 20:23 | アリランエッセー | Comments(0)  

差別語について

驚くほどの速さで今年も12月になってしまった。

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私も会員になっているいる『新日本歌人』は前月の20日以降に翌月号が届く。

昨年の12月号に「北鮮」と言う言葉を使った作品がいくつも掲載されていた。作者本人にとっては何

の抵抗もない言葉であろうが、一言一句を大切に吟味して歌に詠む込む人が使うとはーーーー。

私の胸が痛み始めた。日本人は私達朝鮮人への差別語であることを知らないのかもしれないと思うよ

うになった。そこで、新日本歌人の編集部に、資料を添えて手紙を送った。

けれども、全く音沙汰がなかった。一年を過ぎた現在でも、編集部からは返事がない。

近藤芳美先生の教室で知り合った梅田さんに、この内容を話し、彼女は編集部の一人に伝達をして下

さった。そのいきさつも話して下さったのだが、編集部からは全く音沙汰がなかったのである。

私は、堪忍袋の緒を切った状態になり、10月号に掲載された「透明人間にされた私」を投稿した。


幸いにも、私の作品を誠意を込めて読んで下さる選者であった為に「選のあとで」に取り上げて下さり、励まされた。


「選のあとで」「民主的団体の編集部」は 無視し放置し 未だに音沙汰無しだ

朴さんの作品のいくつかは、一首独立の立て前をとる短歌形式からははみ出ているかもしれないが、内容上無視できないと思い、あえて選歌した。

何を無視されたかといえば、明治期に国策で造語された差別語ーー「北鮮」「半島」など聞くたびに「肺腑が煮えくりかえる」「朝鮮人全員の思い」である。

問題の第二点は次の歌に歌われている。

朝鮮学校への 「行政の差別を司法が擁護」 痛恨の極みのわが思いを 詩情がないと切り捨てる

「痛恨の極み」が「詩情がない」と切り捨てられたのは、プロレタリア短歌が批判されたのを想起させるが、しかしプロレタリア短歌と朴短歌は同じではない。

プロレタリア短歌は実感がとぼしいスローガン短歌だと言われているが(これとても再吟味が必要である)、朴さんの短歌は民族差別のきざみこまれた実感がある。その実感と詩情との関係も再考してみる必要があろう。

文字数批判の投稿文 古来の三十一文字を守れと 寄らば大樹・編集長の下

文字数の多さ批判して「古来の三十一文字」を守れという意見に対して、朴さんは不満を述べている。行分け作歌は定型を基準として作歌しているのがほとんどだが、しかし定型に従うのではなく、批判的に扱って破調している点に注目すべきであろう。


この12月号に、下記の梅田悦子さんの投稿文が掲載された。

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「北鮮」、「北朝鮮」についての一私見      梅田悦子

一九一〇年の韓国併合により「大韓帝国」は「朝鮮」という日本の一地域となりました。植民地「朝鮮」の始まりでした。併合の条約発布の日、日本は勅令をもって「大韓帝国」の国号を廃止して、「朝鮮」と改めました。独立国家の「大韓帝国」から、日本の植民地としての「朝鮮」の誕生でした。各地で強い抵抗運動がおこり、「大韓」や「韓」の語は当時抵抗のシンボルとみなされ、「朝鮮」の呼称の強制がなされました。条約公布の翌日には『大韓民報』は『民報』へ、『大韓新聞』は『漢陽新聞』へと新聞名の変更が行われました。「韓人」が「鮮人」となり、「日韓」は「日鮮」となり、「鮮」の語が植民地政策の進展につれて定着していきました。

韓国併合の祝宴で、初代朝鮮総督・寺内正毅が「小早川 加藤 小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらん」と秀吉の朝鮮侵略に参加した武将たちを忍んだ歌を詠んでいます。日本にとって、韓国併合は、秀吉の「朝鮮征伐」と同じなのです。このような過酷な植民地支配によって、日本人の間で朝鮮民族を見下す目線が急速に広がりました。

「北鮮」という言葉は、韓国併合以降に、日本人が朝鮮北部を指して広く使うようになった言葉で、今の朝鮮民主主義人民共和国を指す言葉ではありません。日本の植民地支配と切り離せない植民地用語です。

一九九一年、広島市で開かれた「国連と軍縮シンポジウム」で、明石康・国連軍縮担当事務次長が、朝鮮民主主義人民共和国の国名を「北鮮」と紹介し、その場で聴衆から「差別語で不適切だ」と批判されました。明石氏に差別的意図がなく、単なる略称として使用したとしても、受け手は略称としてではなく、社会的な文脈の中で理解することになります。「鮮人」などと同じ文脈において、「北鮮」という言葉を差別語として受けとめるわけです。差別表現は、話し手の差別意識の有無の問題ではなく、表現内容の差別性の客観的評価(社会的文脈)で判断すべき問題です。

南北の和解が進む中でも、「だまされるな、核は放棄しないだろう、日本の経済支援を期待しているのだろう」などというマスコミの朝鮮パッシングは続いています。朝鮮半島分断の責任は大いに日本にあるということが、意識の隅にでもあれば、そんなパッシングは出ないはずです。

三八度線は、半島北部は関東軍が、中・南部は大本営が対米戦に備えて引いた分割線でした。そしてそれは、日本の武装解除にあたって、米ソの担当地域を分けるための軍事的分界線とされました。南北分断は朝鮮戦争により起こった事ですが、日本の植民地支配が無ければ起きえなかったことでもあります。したがって、南北和解の動きに対し、日本は、その実現ために協力する歴史的責任があります。しかし、日本政府は真逆の動きをしています。マスコミの報道もこの歴史的責任については言及していません。

あまり深く考えずに、「北鮮」を国名として使うことと、南北融和を冷ややかに見る眼はどこか繋がっているような気がします。そこには、現状認識や歴史認識の甘さが見え隠れします。

日本の新聞が「北朝鮮」と書くようになったのは、拉致問題の後からです。それ以前の新聞は「朝鮮民主主義人民共和国 以下北朝鮮」と書いていました。今はそんな但し書きもなく、「北朝鮮」と表記しています。ひどいときには「北」と書くときもあります。二〇〇三年に、朝鮮の『労働新聞』は「北朝鮮」と呼称し始めた『朝日新聞』を名指しして「わが共和国の国号を歪曲する」と批判しています。昔からの蔑視感情と拉致問題による「反北朝鮮」の世論などが絡み合い、朝鮮民主主義人民共和国には何を言ってかまわないという認識が広まってしまったのです。『赤旗』でさえ「北朝鮮」と書くこの国名表記は一般的になっています。

朝鮮民主主義人民共和国を略すなら「朝鮮」か「共和国」ではないでしょうか。北という文字は朝鮮民主主義人民共和国という国名の中にはありません。この「北朝鮮」表記に関しては「(朝鮮民主主義人民共和国の略称としては)「北朝鮮」か「共和国」にすべきでしょう」『差別語・不快語』(にんげん出版)と「北朝鮮」を容認する差別語解説本もあります。マスコミもほとんど全部と言っていいほど「北朝鮮」表記です。ですから、『新日本歌人』の投稿歌のなかにも「北朝鮮」表記は散見されます。私もこの問題を調べるまでは差別語という認識がなく、何度か「北朝鮮」表記を使いました。しかし、この言葉で不快になる人がいると知ってしまったからには、今後は使わないようにします。

先日、『「北鮮」も「北朝鮮」も使わない短歌を詠まん墨黒々と』という歌を、反省をこめて本誌に投稿しました。

文章を書くのが苦手な上に不勉強な私がこの投稿文を書く後押しをしてくれたのは、朴貞花さんの「透明人間にされた私」(『新日本歌人』行わけ作品・二〇一八年一〇月号)です。

「鮮人と言われたら

 肺腑が煮えくり返る」

 金石範氏の言葉だ」

(在日朝鮮籍作家「火山島」)

  この言葉は

朝鮮人全員の思いだ

「北鮮」「半島」もー

明治期の国策で

造語された差別語を

今なお使い続ける人々

 「選のあとに」に選者の宮田さんが「朴さんの短歌は民族差別の刻み込まれた実感がある。その実感と詩情との関係も再考してみる必要があろう」と書いていますが私も同感です。刻み込まれた実感は詩情を生み出しています。「定型に従うのではなく、批判的に扱って破調している」も同感です。朴さんの歌は定型には収まり切れないエネルギーがあり、そこが彼女の歌の魅力になっています。

 「鮮人と言われたら肺腑が煮えくり返る」のは朝鮮人全員の思いであるのに、今なお私たちはその言葉を使い続けているのです。侵略という国策で造語された言葉を傷つく人がいるのも知らずに歌に詠みこんでいるのです。

 福沢諭吉は「武力をもって朝鮮を保護し、文明国へ誘導しなければならない」といい、憲政の神様と言われた犬養毅は「世界で一番卑しい朝鮮」といい、新渡戸稲造は「政治的に無力で、経済的にも自立できず、知識欲もない朝鮮民族のような女性的で薄弱な国民」と言いました。明治の日本をリードしたこれら思想家の朝鮮蔑視は国民の中に浸透してゆき、朝鮮侵略の強力な推進力となったのです。

 「今なお使い続ける人々」という告発は痛烈です。侵略戦争への反省も戦争責任追及もほとんどしないまま来てしまった日本人への告発でもあります。

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by pcflily | 2018-12-02 07:16 | アリランエッセー | Comments(1)  

共生ラウンジの輪を広げよう

☆10月25日の近くの中学校の文化祭に参加して、チマ・チョゴリやいつもは家の中で鎮座している人形やタンスの中で眠っているものを、沢山持ち出して展示したが、終えてから、虫干しをしたり、細かなものまでを整理していたら、1日が瞬く間に過ぎてしまった。10月の訪韓の前から決まっていた講演会の他に、決められていた行
事に参加する事になっているなっている事があった。それは、11月11日、日曜日に開催される多文化共生ラウンジのまつりの「みんなのわっフエスタ」に「ハングルを学ぶコーナー」を作る事であった。まだ仕舞い込んでない人形や小物も展示した。男女老若を問わず希望者が多く盛況であったのに場所が狭くて諦めて帰る人も多かった。三度目に漸く、話を聞けた女性は、まだ30代の様だった。中学生は韓国の歌が好きで、言葉を覚えて、原語で歌いたいと言っていた。これは男女を問わずであった。私の知らない歌手の名前や歌を教えてくれた。高齢の男性は、同じドラマを5回も見たと言っていた。現在の政治状況などは、全く関係なく親近感を持っている事が良く分かりほっとした。何年振りかで日本でちま・チョゴリで過ごし、帰路は心配であったが、バスで帰りバスの中では好意的に話しかけてくれる人もいて嬉しかった。
孫の為に買ってきたハングルの勉強に使うこれらの物が、初めてハングルに接する人の為に説明するのに役に立ち成果与えられた場所が狭かったのは残念であった。
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☆翌日からは、毎月、投稿している作品の締め切りを忘れるほど熱心に片づけをしていた。ふと思い出してビックリしたが、集中できない儘に作歌を始めた。それでも、作品の投稿の締め切りになんとか間に合わせることが出来てほっとした。

ところが、今度は、私の病気ともいえる、部屋の模様替えを始めてしまった。家具迄を一人で動かすので、夜になると体中が痛む。でも、気のすむまでやり続ける。子供たちには病気だと言われていた。手伝ってと言えば、小言が返って来るだけなので、言えない。引き出しの中までは、まだ整理出来てないが漸く手を止める事が出来た。
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〇いつの間にか、蔓薔薇のピース・平和も開き始めていた。
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〇これも蔓薔薇のゴールドハニー、忙しくて面倒を見なくとも秋にも咲いてくれた。
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〇伐っても伐っても新しい枝が出る南天、今年も実の大方は鳥が摘まんで行った。
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〇忍冬・金銀花も、伐っても伐っても伸び続けるのは南天と同じ。花が素晴らしい。
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〇寝室からの沈む夕陽、私のカメラでは真の姿を見せられないけどーーー。
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by pcflily | 2018-11-25 15:56 | アリランエッセー | Comments(0)  

多忙な10月が終わった

◎ある日玄関に漸く入り、二階にはそのままでは運べない大きな箱が届いた。あて名は、きちんと朴貞花様とあるのに、送り主の名前がなかった。あて名に私の名前が有るので、息子に開けて貰った。中身は籐の椅子であった。高齢者向けらしく立ち上がる時に、ひじあてに手を付けて立ち上がると、楽に立ち上がれると使用方法が書いてあった。娘に問い合わせたら、二番目の孫が送ったという。転勤で京都に住んでいるらしい。住所も分からず、未だにお礼も言ってない。
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◎韓国に10月3日に出発して、11日に返ってきた。何時ものように、パソコンで安い航空券を手に入れ、宿泊は、ソウル駅から0,7キロメートルというゲストハウスを探した。両親のお墓詣りをする為にはソウル駅から、新幹線のように早い電車に乗るからだ。もう一つの目的は、韓・日の民間の人達で立ち上げて、公的な援助は受けない「植民地歴史博物館」を尋ねるツアーの一員として参加する為であった。
私は経費節約の為に(航空券)一足先に出かけ、帰るのも遅らせたのである。
最初は両親のお墓詣りをした。ツアーの皆さんんと行動をした後は、一人で博物館に通い、詳しく見て勉強をさせて貰った。また、国立中央博物館には何度か行ったのだが、その近くに、ハングル博物館があることを知り一人で訪ねた。夕方6時には韓国居住の友人が宿所に訪ねて来る事になっていたので傍に居た方に「今、何時でしょうか」と聞いた事で、50代の初めと思われるその男性は、宿所迄送って下さり、そればかりではなく、逢いに来た友人もご一緒にと仰って、夕食をご馳走して下さった。
何という事でしょう。今回も又、見知らぬ人の初見の人に食事をご馳走になってしまった。本当に有難うございました。
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〇植民地歴史館の資料集
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〇歴的土地を探査している時に、ある場所で、5,6人の女性がこの人形を作っていた。皆がアンニョンハセヨと声をかけたので私も、アンニョンハセヨと声を掛けたら、何故か、私にだけ、この人形を下さった。ビックリした。どうして私にだけ下さったのだろう。後ろの刺繍入りの小物入れも今回の訪韓で頂いたものだ。下段のスプーンと箸のセットも頂いたものだ。
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◎両親のお墓詣りをすませて、帰る時に、日本の形態は使えないので、平地に降りてきてから、近くの居住者にお願いをして、昨年も今年もタクシーを呼んで頂いた。
東邦がお願いをしたのに、初見のその女性は、去年はブローチを下さったが、今年もなた、生栗と茸を下さった。辛子も。私はどうして頂くばかりの人間なのだろう。
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◎近所の中学校の文化祭に町内の婦人部が参加する。誘われて手伝っていたが、朝鮮の文化を知る為のコーナーを頂いた。手持ちのこけしや人形で風俗を知ってもらう事にした。また、横浜に来てからは、全く身に着ける機会がないままに、箪笥にしまい込まれているチマ・チョゴリも一部を展示する事にした。結婚する新郎新婦の衣装と、現在まで誰にも触れさせていなかった私の寿衣、即ち来世への旅立ちの為の衣装も展示した。その上ハングルのすばらしさを知ってもらうコーナーも作り、簡単に覚えられることを、学生たちに知らせる事もした。中学生からの良い反響があり、充実した日々を送ることが出来た。
折り鶴を作ったのはオモニが入院した時に、看病の為に一か月ほどオモニと病室で共に過ごした時に、作ったことがあり、すっかり忘れていたが、この文化祭に参加する事で、折り鶴を作り、出し物を次々と思い付き、それを実現する為に、毎日を楽しく過ごした。毎日のように、幸せで楽しいと電話をしていたので、その幸せを見たいと、千葉から、友人の日比さんが遠路はるばると見に来て下さった。嬉しい思い出が又一つ増えた。今日は町内会の参加者や、役員さんと食事会があってウイスキーも頂き、楽しい一時を過ごした。当日も、今日も久し振りにチマ、チョゴリで参加した。
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◎上記の講演をさせて下さった先生とその会員の方が、朝一番でお手伝いに来て下さって、私を驚かせた。本当に、嬉しい事であった。

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◎本来は、折り紙アートという事で、折り紙で色々な物を作る筈であったが、折り紙を手伝っているうちに、私は、朝鮮の「統一旗」と同じ色を見ているうちに「統一旗」を作りたくなり、皆さんがその色を下さって作る事が出来た。そればかりではなく「祝」のハングル「축」まで作ってしまった。そうして、植民地博物館に持っていき差し上げた。館内を案内されて出てきたら、驚いたことに、受付のカウンターの後ろの棚の中央に飾られてあった。本当に、嬉しかった。韓国と日本の一般の人が力を合わせて10年近くをかけて、こんなに素晴らしい事を成し遂げたことに感動をして、私の感謝の気持ちを表したいと、生来の不器用の見本みたいな自分を顧みずに作り始めたのだった。あまりに苦労をして作ったので📷に納める事も忘れ、韓国に行く時もカメラを持って行くのも忘れてしまったので、写真が残せなかったのが、返す返すも残念で仕方がない。
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◎婦人会の皆さんと9月から折り紙で折り鶴を折り始めて10月25日に展示した作品群。
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◎希望者に折り鶴等の折り方を教えるコーナー。
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by pcflily | 2018-10-31 19:54 | アリランエッセー | Comments(0)  

人事を尽くし天命を待つ

文在寅大統領の訪朝に続く訪米と国連への出席しての誠意を込めたお話の内容を聞いて、私の胸は熱くなる。
朝鮮で民衆を前にしての言葉、皆様の厳しい環境の中での「祖国統一への思いと民族を守る心」は事実をしっかりと認識している言葉であった。日本に住まざるを得なかった私達の思いも、全く同じである。将来、ゆとりが出来た時に、私達「在日」の人達にも、同じ言葉をかけて欲しいとの思いが沸き上がってきた。
文在寅大統領の行動を見ていて思い出された言葉が「人事を尽くして天命を待つ」である。同胞の南北が終戦宣言を固く決意をしているのに、米国の諾が残っているとは、この世界の不条理が嘆かわしい。今に始まった事ではないが、悔しさが募る。
私の場合は、人事を尽くして天命を待っていた甲斐があったような結果が出ている。
「新日本歌人」への実権を持っている人たちへの抗議であった「透明人間にされた私」の掲載紙・10月号が届いた。選者を一人が続けるのではなく、交代制になっている。選者への抗議も書いているので抗議された選者であったなら、私の作品は全て没になる可能性もあった。けれども、神は私を見捨てなかった。選者は宮田哲夫さんであった。透明人間にされていた私が見える人であった。選者は、選のあとにで何人かの作品に意見を書いて下さるのだが、この度は私・朴貞花についての言葉だけであった。

選のあとで
  「民主的団体の編集部」は
   無視し放置し
   未だに音沙汰無しだ    

 朴さんの作品のいくつかは、一首独立の建前をとる短歌形式からははみでているかもしれないが、内容上無視できないと思い、あえて選歌した。
何を無視されたかといえば、明治期に国策で造語された差別語ーー「北鮮」「半島」など聞くたびに「肺腑が煮えくり返る」「朝鮮人全員の思い」である。
 問題の第二点は次の歌に歌われている。

  朝鮮学校への 
  「行政の差別を司法が擁護」
  痛恨の極みのわが思いを 
  詩情がないと切り捨てる    

「痛恨の極み」が「詩情がない」と切り捨てられたのは、プロレタリア短歌が批判されたのを想起させるが、しかしプロレタリア短歌と朴短歌は同じではない。
プロレタリア短歌は実感がとぼしいスローガン短歌だといわれているが(これとても再吟味が必要である)朴さんの短歌は民族差別のきざみこまれた実感がある。その実感と詩情との関係も再考してみる必要があろう。

  文字数批判の投稿文
  古来の三十一を文字守れと
  寄らば大樹・編集長の下  

 文字数の多さを批判して、「古来の三十一文字を守れ」という意見に対して、朴さんは、不満を述べている。
 行分け短歌は定型を基準として作歌しているのがほとんどだが、しかし、定型に従うのではなく批判的に扱って破調している点に注目すべきであろう。

☆人事を尽くしては私の指針としている事だ。希望が通らなかったとしても自分の医師で行動した事であるので、自分自身に対して納得できるので後悔はしないで済む。
しなければならない事がいくつか続いている。この29日に80歳になるので、最後の仕事になるのかも知れないが、楽しみである。
10月初旬は韓国に開館した「植民地歴史博物館」に行く。日本人と韓国人がこうてきな援助を受けないで作った博物館だ。寄与した人たちの博物館訪問だ。
10月17日は「経済を学ぶ会の」の会長さんのお世話で「朝鮮と日本の間で私の歩んだ道」と会長さんがポスターと資料を作って下さって、話をすることになった。
10月25日は傍にある中学校の文化祭に町内の婦人会が参加する中に「隣国朝鮮を知る」コーナーを頂き、ハングルや色々な物で朝鮮を理解して貰える事になった。11月11日は横浜市の南市民活動・多文化共生ラウンジ主催の「みんなの わっ フェスタ」に参加する。殆どの人はグループだが、私は、いつもの如く一人で「ハングル」のことを通して隣国朝鮮を理解してもらおうと考えている。
電話を下さると思っていた人からの連絡がない。けれども、捨てる神あれば拾う神ありなのだろう。思いがけない嬉しい事が続いている。
「人事を尽くして天命を待つ~~~待てば海路の日和あり」かと思う。
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花冠、結婚式の新婦のの冠。
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訪朝の突起の記念品。

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訪韓の時、従妹からプレゼントされた。
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日本で手にいれた。両端は朝銀の記念品だけれど真ん中の人形は忘れている。
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。背負い子を背何つけている。気の形を用ずに使用しているので、びっくりだ。朝鮮では当たり前の事だが。
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薔薇の木に百日紅とオーシャンブルーが絡み合って、競り合って二階のベランダまで伸び続けている。薔薇の為に剪定するときに苦労しそうだ。


by pcflily | 2018-09-27 11:57 | アリランエッセー | Comments(0)