左喜真美術館での出会いー丸木美術館
「沖縄戦の図」を初めとする十四部が製作地である沖縄の、個人美術館「左喜真美術館」に納まって、展示されていた。
丸木ご夫妻の願いが実現されたのは、昨年の十一月ということであった。
「近藤先生と行く沖縄短歌の旅」に参加した二日目の三月六日の事を私は終生忘れることないと思う。
はるかに続く青い空と海、ブーゲンビリア、寒緋桜などが花開き、自然はあくまでも美しく、まさに夢の島であった。「基地の中に沖縄はある」という言葉を忘れてしまいそうであった。
しかし、沖縄戦で一般市民の死者が十数万人に上っていたという事実、その中には朝鮮人も含まれていた。従軍慰安婦のことも同性として忘れられない。「辛かったでしょう、会いに来ましたよ」と心の中で祈り続けていた。
敗戦後五十年、未だに「過去の侵略戦争」の賛否両論がある。「沖縄戦の図」に衝撃を受けていた私に、もう一つの衝撃が与えられた。朝鮮人である故にスパイだとして殺害された絵が描かれてあった。
丸木先生は日本人の加害者の立場も描き続けておられたのだ。不信の目でしか物事を見られなくなっていた自分自身が恥ずかしかった。別室に茶菓が用意され、私たちは緊張して待っていた。程なく、丸木先生ご夫妻が入室された。杖をつかれ、支えられてのご入室であった。
あまりにも、静かで優しく穏やかな笑顔に驚いてしまった。真実一路、人間の仕事を全うされた大人の姿であるのだ。
こんなに素晴らしい方とお会いできたことと、その絵を間近に観ることが出来たこと、そして「沖縄戦」があったことへの憤りなどで私の胸は震え、涙が後から後から溢れ出てきて止まらない。
先生に一言だけでもお礼を申し上げたくて追いかけて行った。
俊先生は、朝鮮戦争が休戦になったばかりの廃墟と化した平壌の地下で「「原爆の図」の展示をなさったことを教えて下さるのであった。中国で「原爆の図」展をなさっていたときに、朝鮮の大使館の方が来られて、私の国にもいらして下さいと頼まれたのですよ、とおっしゃった。
「「必ず『丸木美術館』に参ります」「何時でもいらっしゃい」と私の手を取り固い握手をして下さった。
後日、この四月二日に「丸木美術館」を尋ねて、もう一度、先生にお会いすることが出来た。この日の感動は前回に倍するものであった。そうして、「からす」を見た。長崎の三菱造船に強制連行された朝鮮人約五千人が集団被爆し鴉が来て食いつくまで放置されたと言う。朝鮮人への加害責任を明確にした「原爆の図」であった。
被爆死せる朝鮮人の屍は鴉の食むまで放置されにき
灰燼の平壌の地下壕の「原爆の図」爆撃受けし人等行列する
さりげなく手折りくれたるすみれ花微笑みも添え俊先生は
その後、丸木美術館の説明文に朝鮮語も採用された。隣国の言葉ということで採用された。
(一九九五年四月「丸木美術館ニュース」に掲載)
☆上記の短歌3首のうち2首は「朝日歌壇」に入選した。
☆当時、旅行になどは殆んど行ける状態ではなかった。現在でも、自分からどこかに行きたいと旅行することはない。先生や教室の受講生に強く誘われて、断りきれなくて、出かけたのだが、無理をして、参加して本当に良かったと思っている。
左喜真美術館での茶話会が終わり、同行者と共に、バスに乗ったのだが、このまま黙って丸木先生とお別れ出来なくなり、皆さんに待って頂くようににお願いをして、俊先生を追いかけて行った。
私は、直接、お礼を申し上げたかったのだった。短い時間内で、北朝鮮に行ったことまで話して下さった。
朝鮮大学で美術を勉強している姪に声をかけたら、その友人もついてきた。俊先生は、位里先生にも会わせて下さろうとしたが、事務局の方がお休み中ですからとのことで、この日は位里先生には会えなかった。
このエッセーは、丸木美術館からの依頼があって書いたものである。美術館には何度か足を運んだ。
「丸木美術館を支える会」の展示販売の為に友人の須藤英子さんが私の短歌を「色紙」に書いて下さったものや、陶芸家の関谷興人さんが私の短歌を「陶板」にして下さった。
丸木美術館には関東大震災で虐殺された朝鮮人のための「痛恨の碑」がある。大きく立派なものであり、ハングルも刻まれていた。このエッセーを書き終えてから、うれしい知らせが届いた。丸木美術館の「原爆の図」の説明文に朝鮮語を備えたいので翻訳をして欲しいというお話しであった。現在も、朝鮮語の説明文のそれは其の儘置かれていると思う。
痛恨の碑に、お花を供える心をこめて、私は朝鮮の国花である無窮花(むぐんふぁ)を傍にに咲かせたいと思い、その旨、お願いをした。直ぐに快い返事があり、我が家の苗木を持って行き植えさせて頂いた。元気に根付いて花を咲かせていたのだが、一昨年、インターネットで問い合わせたが、もう、無窮花はないと言われてしまった。私も、何年もご無沙汰してしまったのだから仕方がないと思う。残念だけれども―――。何方かがもう一度無窮花を植えて育てて下さればという願いが叶うことがあれば嬉しい。
この旅行に参加したことで、嬉しいことがほかにもある。友人が出来たこと。又、ホテルの晩餐会の時に、リクエストの時間があったので、私は、先生へ送りたいと「百万本のばら」のリクエストをお願いした。ところがその日の歌手が歌えないというので「愛の讃歌」を頼んだ。近藤先生の奥様のとし子夫人は、このことを歌に詠まれて、ご自分の『歌集』と『未来』に載せて下さった。
君のため「愛の讃歌」リクエストし給えりホテルの晩餐に朴貞花さん
遠き祖国にかかわる思い篤くしてかなしく泪ぐましきあなた 近藤とし子
近藤先生は金大中大統領と金正日総書記が会った日の歌を『未来』と『歌集』に載せて下さった。
朴貞花よろこび隠さぬ電話あり夏告げて平壌の放映一と日 近藤芳美
朴貞花とフルネームを歌に其のまま歌いこんで下さった。とてもビックリした、また嬉しかった。沢山の人が私の名前を入れた歌をいくつも読んで下さっている。なんとお礼を申し上げtら良いのだろう。
朴貞花が師に送りたる「愛の讃歌」夕茜ながく沖縄の宿に
在日の五十年を語る朴貞花に俊さんの眼は赤くうるみぬ
痛恨の碑を仰ぎ貞花さんの肩を抱く丸木俊さんありき小さく丸き背 西村節子
語る師を見つむる貞花さんのほほえみにわが生れ年強制連行重ねる 加登聰子
美しく頬くれないに染め朴貞花さん二分されたるふるさとをいう 鳥羽加津子

丸木俊さんと 会えるのはこの日が最後になった 東京の丸木俊さんの個展会場にて

近藤先生夫妻と「未来」大会にて
朝日歌壇のみの記憶の朴貞花近藤とし子の歌に親しも 並木薫
祖国分断の重き歳月語りつつ貞花さんうっすら涙滲ます 日比イチ
オリオンの三つ星のごと印字せむ朴貞花さすればあなたはあなた 釜田初音
大学の朝鮮語講座の教材に朴貞花さんの歌が印刷されいる 広岡冨美
「強制連行アボジの子なり」と朴さんの歌かたわらに三,一独立宣言文読む 柏木文代
飾らざる言葉の影に望郷の思い切なき朴さんの歌 日高陽子
分断を認めぬ私は朝鮮人 誇らかな顔朴貞花さん 小川野武伏
激しさはやさしさならむ朴貞花在日の歌詠む 女歌よみ 柴崎麻紀子
かをりつつ孤高に咲ける朴の花朝鮮人であることに生きる 武藤雅治
故郷に清きまなざし同胞に愛しき念い(おもい)一筋に生き越し来たるか朴貞花 朴鐘鳴
朴貞花演じる友は日本人在日の苦を舞台に歌う 「朝日歌壇」入選 朴貞花
朴の木の蒼天に立つ純白の貞淑の心花開きつつ 朴貞花
朴貞花と名前入りで贈られた歌の全部を書ききれないのが残念だ。嬉しい思い出だ。