カテゴリ:『身世打鈴』エッセー( 25 )

 

今だから言えること

歌集『身世打鈴』別冊エッセー集より
「今だから言えること」 
一九七一年一月二八日、4月から就学の娘の手をしっかりと握り、決して戻るまいと片道切符だけを持って、粉雪の舞う寒い日、東京を目指して夜行列車に乗った。その町は東北の片田舎で両親とも朝鮮人の家族は二、三軒しかなかった。家の中では女であること、外に出れば朝鮮人であることで、差別を受け続け、「差別」という言葉を聞くだけで今でも胃痛をおこす。その頃、朝鮮人と言われても朝鮮の言葉も歴史も知らなかった。山の名前一つ、川の名前一つ、自分の本名さえ定かでない悔しさ悲しさ。
 適齢期になり、相手の顔もはっきり知らぬままに、家業を手伝うという人と結婚をした。二人の子の親になり、この子達には名前ばかりの中身のない朝鮮人には決して育てまいと心に決めた。長男を「東北朝鮮初中級学校」に入学させた。
 長女の就学期が近づくにつれ悩みが大きくなった。経済的に二人も寮生活をさせる学校には入れられない。しかし、どんな事があっても、日本人の為の教育しかしない日本学校には入学させる気にはならない。
 同じ屋根の下にいれば一つの卵でも三人でわけて食べることが出来る。朝鮮学校に通学させるためにも、東京に出ようと決心した。
 その頃の私にとっての東京は、今の外国よりも遠い所だった。知人は一人もいないけれど朝鮮学校がある。同胞がたくさん居る、同胞の経営するパチンコ店があるだろう。住み込みで働かせてもらおうと考えがまとまると居ても立っても居られず、お正月気分も落ち着いた一月末、両親の留守を見計らって、暗くなってから家を出た。
 あれから十八年、泣いて笑って、疲労で倒れ、この東京の見知らぬ町で、子どもを置き去りにして死ぬのかと思ったこともあったが、「無事に今日一日が終わった」という日々を重ね、かさねてきた。
 けれども、私のたった一度の人生を生きる中で、たった一つの生きがいであり、夢であり、希望であった二人の子供を、祖国統一を目指す純粋な朝鮮人に育てあげることが出来た。
 あの上京の日の朝「東京って寒いね」と震えていた娘は、朝鮮大学校卒業後、朝鮮学校の教員を勤めて結婚し、子供にも恵まれ、母としても幸せに暮らしている。そして、息子は、この十一月、祖国統一に尽くす仕事をし続けたいと言う女性と結婚した。
 結婚式には、長年の私の願いであった紗帽冠帯、花冠の朝鮮の伝統を守った古典的な衣装、お色直しには、新郎はパジ・チョゴリ、神父はちょっと新式を盛り込んだチマ・チョゴリと、全て民族衣装だった。
 嬉しいことには、もう一つの秘めた私の夢であった「書くこと」を、このカップルは職業としている。
 ペンは剣よりも強し「KORIA IS ONE」と、祖国統一に向かって生きる事を誓い船出した。
 二人は、外国人はお断りと何度も断られ、アパート探しで苦労をしたが、日本人の友人の世話でなんとか住む所も決まった。今はしばし休養の新婚旅行中である。五十年の人生を生きている私の頭とからだの中にあったものは「朝鮮と二人の子供」だけだった。他のものは何も見えなかった。その二人の子供からは卒業したい。
 そして、足を踏み入れたことのない朝鮮民主主義人民共和国を尋ねてみたい。
 平壌、金剛山、白頭山などを巡り、最後に四十五年もの間、私たち朝鮮人を苦しめている、三十八度線―――林秀卿さんが、若く清い命をかけて渡った三八度線を、この目で、しっかりと見て、残りの人生の指針をにしたいと思っている。
                     (1989年11月「朝鮮時報」掲載)

☆実家で私たち家族の為に、檜造りの50坪の家を建てた。この新築の家に入居したのは前年の7月であった。けれども、6か月後にはこの家を捨てて、朝鮮学校があることを知るだけの東京の町田市へ向かったのである。所持金は汽車賃と小銭を少々だけしかなかったのに~~~。夫は、自分の親や弟妹の為に送金していたので、給料の全てを管理していたからだ。
冷静に考えれば、なんと世間知らずの無鉄砲な事をしたものかと、冷や汗が出るが、現在も私は同じことをしているような気がする。
 
〇ケーキを買って誕生日を祝う。幸せいっぱい。
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●この日も誕生を祝った。息子は4月5日、娘は9月10日。
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〇上京したばかりの頃、ビルの屋上、このビルに住んでいるのは私たち親子三人だけなので、屋上は自由に使えた。洗濯物干し場、土を運んで貰い花を育て、後には物置き小屋も設置した。買ったヒヨコが大きくなり、ここで、娘と遊んだりしていたが、ある日いなくなってしまった、近所の銭湯の前にいたのだが名前を付けていたわけではなかったので連れてこれなかった。悲しむ娘の為に小鳥屋さんから一匹の小鳥を購ってやることになった。この小鳥が娘に懐いているのを見て、娘の友達がつがいで買ってもらったが、全く懐かなかった。小鳥同士で仲良くなってしまい、飼い主には懐かなかったようである。我が家では一匹だったので娘に懐くのだと話し合った。
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〇追ってきた夫が、子ども達を遊園地に連れて行った日の記念写真。
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〇ふるさとを捨てて来た身には帰る故郷はなかった。
   ふるさとの藤花こいてその花をかたどりし衣求めきたりぬ
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〇同じ日に生まれた母子の記念撮影。ミニスカートでした。
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〇誘われて海を見に〇海を見に行きました。
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〇誘われて、桃の花を見に行きました。
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〇誘われて紫陽花を見に行きました。雨になってしまいました。
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〇また、日比さんからビールとリンゴなどが送られてきました。
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○余りにも明るい月に誘われ、お前も何時も一人ぽっちだねとビールを飲みました。
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by pcflily | 2017-12-22 17:42 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)  

  祖国よ、故郷よ     『身世打鈴』別冊より

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     祖国よ、故郷よ         (1992年5月)

 船は朝焼けの光の中を元山港についた。数え切れない沢山の人々の花と旗の波と、マンセーの大歓声で迎えられる。これが祖国だ。夢にも忘れることの出来ない祖国だ。その土を踏んだのだ。1992年3月30日である。
 金日成主席の誕生八十周年、金正日将軍誕生五十周年、朝鮮人民軍六十周年という年に朝鮮民主主義人民共和国を訪問することになったのである。「四月の春親善芸術祝典」に参加する在日朝鮮人芸術団の一人として長年の夢であった祖国訪問が実現した。
 一ケ月にわたる平壌滞在の日々は夢のように過ぎた。建築用地八万平方メートルの人民文化宮殿の開会式と5千名が出演する合唱団などの、歌舞公演、十万人が出演する金日成広場での一糸乱れぬ大集団体操、朝鮮人民軍の閲兵式、松明の示威行進、魔術師のようなサーカス団、私は、ただ感激、驚嘆、興奮のるつぼにおちいるばかりであった。日本にいては分からないこの国の一つになること、一致団結された朝鮮人民の気概を実感した。
 金日成主席は、四月十五日「今日、心が痛むことは統一された祖国で共に幸せを分かち合うことが出来ずにいることだ」とおっしゃった。
 4月18日金日成主席に連合公演を見て頂き、公演終了後、主席とともに記念撮影に入った。八十歳とはとても思えない若さと崇高な面持ち、人民の尊敬と、世界の人々の信頼を受けていることが、私にも納得出来た。
 四月二十八日、在日朝鮮人芸術団の単独公演を金正日書記がご覧になり、その後、牡丹閣に於いて、金正日書記を初め人民軍の人も同席の晩餐に招待された。私の日本での生活では、味わえない豪華なご馳走を前に「ポチョンボアンサンブル」の公演を満喫しながら、延々四時間の刻を楽しく過ごした。
勿論、宴会の最後は、素晴らしい歌劇団による朝鮮の民謡に合わせ、オッケチュムで心置きなく楽しませていただいたのであった。金正日書記は、在日朝鮮芸術団の一人ひとりと祝杯を重ねるということと合わせ、前代未聞の接待をしてくれたのである。臨機応変に、事を運べる人であると、希望を持ったことであった。
 日本を発つときには、想像だに出来なかった夢のような最高の待遇を受けた一ヶ月であった。
 子供だけを見つめ、生きて来たが、それを支えてくれたのは金日成主席を知り、祖国を知ったからであった。私達が三十八度線を自由に踏み越えて、北半部も南半部も等しく往来できる日はそう遠くない筈である。
 統一を望む歌でなく、統一出来た喜びの歌を歌って、春には街路にどこまでも続く、杏の花の淡紅色、柳の木の淡緑、連翹の花の黄色に色付く中を、私の車を、私が運転して、私の生地、忠清道まで走る。そして、秋には白頭山に登ろう。漢拏山に登ろう。
その日は、きっと、来ると信じたい。

☆この訪朝の2年後に金日成主席が亡くなった。後継者として金正日総書記が誕生した。朝日新聞社発行の週刊誌『AERA』の記者が取材に来た。1997年10月20日号に掲載された。あまり総連の色に染まってない私が選ばれたのかもしれない。長年、総連の専任として働いていた町田支部の委員長や町田支部の女性同盟の委員長が、金日成主席と一緒に写真を撮ったことがないので、嫌味を言われた位であったから、私の訪朝は、普通ではなかったことになる。だからこそ『AERA』の記者は訪ねてきたのだろう。
 上記の文章は案内役の総連の中央の女性同盟の人に、どうしても書いてほしいと懇願されて書いたもので女性同盟の月刊雑誌に掲載された。原稿用紙20枚ぐらい書いてほしいと言われ、その通りに書いたのに、これだけに削られていた。彼女は,朝日歌壇に投稿した私の短歌が入選して、朝日歌壇に掲載されていた私の短歌を何時も読んでいたと言って、一人ぽっちの私をずっと大切にしてくれた。最後の日の宴会の時にも役席の人達の傍に呼んでくれたりした。 
 
 ☆この朝鮮訪問に参加できたのは、町田市の同胞の」若い女性の歌の会に誘われ入会していた。そこで、総連の全国芸術大会で最高賞を受賞したので、その時に歌った人は、コーラス団の一員としての訪朝団に参加できることになった。
私の訪朝をオモニを初めとする親族一同が心から喜んでくれた。オモニは神様が下さったご褒美だよと、涙ぐみながら自分の事の様に喜んでくださった。

 3月31日に出発して日本に帰ったのは4月も末の事であった。長引いてしまったのは、在日朝鮮人芸術団として金日成主席に、日本から行った私達「在日朝鮮人芸術団」の単独公演を見てもらう事を実現したい為であった。世界中から金日成主席に会うために要人が来ているので多忙の為に時間が取れないからだった。結局、金正日書記に観覧してもらい、翌朝、早くに平壌を出た。毎日のように、今日こそは公演が出来るだろうと、直ぐに歌い出せる体制で舞台に立って待っていた。世界各国との合同公演の時は金日主席成も客席から拍手を送って下さった。私は背丈が小さいので何時も中央の前列に立ち歌った。だから金日成主席がシアヌーク殿下と話し合っている様子等を初めとする観客席を良く見ることが出来たので楽しかった。

 1ケ月の滞在中に私は一度も美容室に行かなかったが、何故かその日は公演が出来るという予感がして美容室で髪を結ってもらっていた。本当に予感した通りに公演が実現したので、予感が当たり自分でもびっくりしたことを覚えている。周りの人も羨ましがっていた。
どちらかと言えば、予感が当たる方であるが、この日の予感は嬉しかった。

 或る日、息子に言われた。天才と何とかは紙一重というけれど、オモニも、それに近いところがあるる。そんな、酷いことをーーー。その例は何と聞いたら、普通の人より感受性が強すぎること、あまりにも正義感が強すぎる事だと言う。貶されたのか、褒められたのか分からない。   
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by pcflily | 2014-04-15 21:57 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(5)  

今年の世界 『身世打鈴』別冊より

 今年の世界  『身世打鈴』 別冊より

 天運に見放されたる同胞か金日成主席みまかりたまいぬ

 テレビに映る平壌市民の姿を多くの人が異常だと騒いだが、在日コリアンの大部分の人が彼らと同じく泣き叫びたいのを堪えていたのをしっているだろうか?私が南の生まれでありながら韓国を支持できないのは、韓国政府が統一を望まなかったことが、明白であるからだ。私の八十歳になる母は電話の向こうで嗚咽が止まらずに三度目の電話で漸く話が出来たのである。

 一族の宴たけなわになりぬれば北よ南よ在日よと激す

  大国による分断で半世紀、同じ父母の血を引く我が家の七人姉妹さえ、結婚により、朝鮮人、韓国人、はたまた在日論者と分かれてしまった。両親が健在なために全員が打ち揃うことが度々あって、北にも南にも行かずに日本に住んでいる私たち姉妹は顔を合わせる。
 わが家に限らず在日コリアンのほとんどが南出身であるにも拘わらず、金日成主席の北を支持してきたのは、彼が朝鮮の統一を至上の課題にしてきたからに他ならない。また、韓国政府は日本に居住する同胞を日本政府と一緒になって放棄したのである。
 冷戦終結といわれる中で核疑惑を持ち出し朝鮮を追い詰めた米国が、朝・米会談に合意した。金日成主席は南北首脳会談を目前にして逝ってしまった。私は泣かずにいられなかった。
 二千万の小国が世界の大国米国と渡り合い、合意にこぎつけたのだ。
 今年の世界のニュースの第一位だと思う。半世紀を一国の主として生き抜き、冷戦の残骸の『三十八度線」の処理を出来なかったことは、どんなにか残念であったろう。在日コリアンの無念さはそれ以上のものである。
国益のためにはどんな裏切りも平気でする政治家、米国の今後の出方がどうなるのか、私の胸は休まるときを知らない。   (1994年12月)

☆19年前に書いた文章である。主席を首席と印刷されていたことに、全く気が付かないでいた。歌集を出版するときの私には、短歌を見直してくれる人も、校正をしてくれる人もいなかった。

作家の関川夏央に金日成主義者だと批判をされたが、私の場合は総連の最下位の役員にもなったことはないし、思想教育を受けてもいない。むしろ、総連関係者からは排斥されていた。どんな場合でも、自分の意見をはっきりと話すからであったかもしれない。

 交通事故の後遺症の為に仕事が出来なくなって、ご飯は食べさせてやれるよと言う人と再婚した。10年ほど暮らした時に、彼から離婚したいとの申し出があった。総連で専任で働いていた長男が給料が出ない、看護師になるための勉強をしている嫁の収入だけでは暮らせない状態だ。長男と同居をして、孫の為に自分の年金を使いたいとのことであった。血縁を大切にする朝鮮人だから、当然の事であろうと承知した。
私の子供たちは二人とも、すでに結婚をして独立していた。一人になるオモニを心配して、離婚することに反対して、直接、彼を説得しようと試みたが、彼の決心は固かった。
同胞も近所の人も、私が彼を追い出したのだと言っていた。私の家に彼が住んでいたし、彼が10歳年上であったからである。16年前の事だ。

 最近、或る人に会いたいとの電話を受けて出かけたが、そこで、偶然に、彼の家族の話を聞くことになった。長男は管理職につき、嫁は看護師として大学病院に就職し、一番上の孫は弁護士になり、二番目の孫も就職し、三番目の孫は朝鮮学校の教師となり、それぞれ、立派に活躍をしているという。私と離婚をして支えてやった成果があったのである。さぞ、満足して楽しく暮らしているのだろうと思ったことであった。
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居間の窓から見えた朝日の昇る姿。あまりに強い光でピンクの影?まで映っている。
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by pcflily | 2013-12-29 19:40 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)  

 娘へ 歌集『身世打鈴』別冊より

 娘へ

 庭の菊が鮮やかな色を見せ、シャコバサボテンもその蕾を膨らませています。
 先日のテレビでの、二夜連続放送の「韓国国宝の旅」を見ましたか?もちろん、私たち在日コリアンが韓国・朝鮮についての放送を見逃す筈はありませんけれど―――。
 それにしても、史実をきちんと伝えてくれていることに驚きもし、感動もしました。少しずつ変わってきているのですね。
「明希」(みょんひ)という名前のせいで、いつも、明るく屈託がない性格になったかと思ったりもしましたが、あなたの性格は、朝鮮学校で十四年間、正しい朝鮮史と民族教育を受けた賜物ですね。自分自身を否定しなくても良いのですもの。自分の名前さえ、はっきりと言えなかった。というより知らずにいた私の学生生活を思うと、今でも胸が痛みます。
 遅々として進まぬ朝・日関係ですけれど、明るい希望を持って見守りましょう。
 そろそろ、清文と清奎に会いたくなりました。元気に相変わらずやんちゃをしてますか?
朝晩、冷え込んできてますが、風邪を引かぬようにしてください。
末筆ながら昌浩さんにも宜しく伝えて下さい。  ( 1991年10月)

千里馬の国の夜明けを信じたり吾子につけたる明希という名  今も夜明けは見えない国になってしまった。

☆22年前に書いた文だが、娘は、三人目の男児、清梧にも恵まれ、もう、成人している。
この9月に、難関の資格試験に合格したことを聞いて私は、大喜びをしていたのに、10月に転勤になった。子供は、それぞれ、成人しているが、夫を置いて単身赴任との事だ。仕事を任せられることは、喜ばしいこととは思うが、「福島市」であるという。原発事故があってから、転居をする人もいると言うのに、心から、喜んであげられないのがさびしい。

     ☆娘の明希は婚家の両親から、今時には珍しく、素直で優しい嫁と可愛がられた。
喫茶店に行くときも、お姑さんは明希を連れて歩いたと言う。
お舅さんは、入院したときに、看護人は明希出ないと嫌だと仰ったと言う。娘のお蔭で、私は、良いプレゼントを頂いた。
朝鮮に帰国した親族に、会いに行ったお姑さんは、この刺繍の絵を見て、直ぐに、私を思い出し、ぴったりだと、直ぐに購入したと仰って、額装して届けて下さった。



f0253572_16535415.jpg「森の泉の水面で髪をととのえる乙女」   刺繍の絵     朝鮮民主主義人民共和国製
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by pcflily | 2013-11-19 16:50 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)  

「国際交流は身近なところから」  『身せ打鈴』別冊より

      「国際交流は身近なところから」     一九九三年  町田地域国際交流会、会報に掲載

 国際下の時代に向かって、わが町田にも市民の手により「町田地域国際交流会」が設立されたことは、素晴らしいことだと思う。将来が楽しみであり、市民の一人としてお役に立ちたい。「遠い親戚より近くの他人」というけれど、日本と朝鮮に関しては、あてはまらないようだ。
 町田地域国際交流会設立に携わってきてまず感じたことは、町田に住む外国人の四六パーセントを占める在日コリアンを考える会は一つも無かったことである。勿論、新しくは入ってきた外国人と交流を持つことも大事であるが、少なくとも五十年は日本に居住し、言葉も通じ、感受性も似ている在日コリアンと日本人との交流が出来てこそ、真の国際交流として発展も出来ると思う。
 町田市には朝鮮学校があり、朝鮮信用組合もある。民族衣装のチマ・チョゴリ姿の中学生、高校生が街を歩いている。話しかけてみた日本人は、何人いるだろうか?朝鮮人に対する無関心ぶりは、今に始まったことではないが、淋しいことである。
 先頃、町田市民大学の「町田市民史学」講座を受講して驚いたことがある。古代の町田についての話だが、対照日本史年表という資料の外国事項に、朝鮮を「鮮」という差別的表現で記し、古代国家「古朝鮮」も「高句麗」も、国連に加盟している「朝鮮民主主義人民共和国」も記載されていないのである。
 情報操作の激しい社会であることは認識していたつもりであるが、市民大学で歴史を学ぶ場でさえ事実を教えないということを痛感した。
真の国際交流は、事実を知り、お互いに対等に接して認め合うことが、第一歩である。優越感や同情などでは決して長続きしない。
 日本語で出来る国際交流であり、直ぐ隣に大勢、生活している現状を踏まえて、在日コリアンとの接触から逃げないで欲しい。太平洋の彼方より、身近なアジアの人々と仲良く暮らすことも重要な時代になってきている。
 身近なところから着実に根を張らせてこそ、本物の国際交流という大きな木が育つと思う。私の場合、異国に暮らす外国人の立場を選んで、五十余年日本人社会で生きて来た経験を活かして、「懸け橋」としての仕事をしていきたいと思っている。

☆ 市民大学では「体を考える運動」の講座も受講した。大学の教授という講師は「オリンピック百年」のビデオを見せ、政治的なことで参加できない国の選手の事を話した。その国はとんでもない悪い国であるようなことを言ったのだろう。私の反抗心がむらむらと動きだし手を挙げた。日本人として、オリンピックに出場させられた孫基禎の事はどう思っているのですか?何故?今日、見せて頂いたビデオにはその部分がないのですか?意識して抜いたのですか?講師は、慌てた様子だった。後に、事務室の職員が私に話してくれた。その講師が事務室に行って私の事を話したという。「朴貞花は、いつも、風を起こす女だから」と慰めておいたよと言われた。その講師は私の為に、孫基禎の入っている「100年のオリンピック」のビデオをプレゼントだと送ってくれた。
 日本人は無意識のうちに朝鮮人に対して、差別をしているのである。私は、早いうちから、自分は朝鮮人だと言って来た。後で朝鮮人と分かって態度を変えられるのが嫌だからだ。朝鮮人と分かって付き合ってくださいという私の意思表示なのである。
 小学校の六年の時だ。試験の点数を記入してあるノートを黒板の下に、いつでも誰でも見られるように担任がぶら下げておいた。私の点数は何時も実際より悪い点数にしてあった。先生に違っていると言っても、そうかと言うだけで直してくれなかった。何度言っても直さなかった。
六年の時に、新任の先生が来た、頼んでもないのに何かと言っては私のそばに来た。私のノートに名前を書いてくれたりした。可愛がっていたようだ。ある時から、一切無視するようになった。後でわかったことは朝鮮人と分かったからだという。
 最初に、何もしないなら、傷つくことはなかったのだ。豹変されることは傷がもっと、深くなる。なんとなく、「鳥もな鳴かずば撃たれまい」を思い出す。私を傷つけた人を私は忘れないからである。

 「日本語を教える会」から出発して出来た「町田地域国際交流会」には最初から私は関わり動いていた。けれども、出来上がったころには、その他大勢の立場に立たされていた。この時ばかりではない、いつの間にか、蚊帳の外に出されてしまう。このような経験は、現在まで、とどまることなく続いている。


わが家の裏の荒地に咲かせた松葉菊、このようにびっしり咲くまでに三年もかかった。土だと思っていたのに瓦礫がビッシリ敷いてある場所であった。それでも一年中、いろいろな花で埋まるようになった。来年は待宵草、月見草の花明りでいっぱいになる予定だ。それにしても、私の植えた柿の木は、いっぱいの青い実はなっても熟す前にすっかり散ってしまう。何故なのだろう。
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by pcflily | 2013-07-20 17:25 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

『私の愛読書」  『身世打鈴』  歌集 別冊より

    「私の愛読書」       (一九九五年十月)

 私にとっての国語が朝鮮語であることを知ったのは、中学三年の時であった。その国語を学ぶことが出来たのは、それからずっと後のことである。と言っても本による独習であるが―――。
 朝鮮の歴史をぼんやりと知ることができたのも、結婚をし、子の親になってからである。
 朝鮮人である自分がわが子に国語も歴史も教えられないことにこだわり続けた。朝鮮学校に子供を通学させるために、すべてを捨てて上京したのは、一九七一年である。女手で子供を育て上げるのは容易ではなかったが、大学に行かせ、結婚も大卒の同胞と結ばれることが出来た。
 現在、私は自分を朝鮮人に育てている。独学ではあるが朝鮮語を学び、朝鮮の歴史を学び、朝鮮人の生き方を学んでいる。
 けれども、いくら熱心に本を読んでも老化した私の脳は、なかなか知識を吸収してくれない。
 そんな私にとって何時も傍にいて頂いて、お世話になっている本がある。
 平凡社の『朝鮮を知る事典』である。生活、風俗習慣、特徴的な事物、歴史、文化のすべてにわたる一千二百項目とある通りに、五十音配列による項目別になっている。
 アリラン、オンドルなど何にでも答えてくれる。絵あり写真あり年表ありと、サービス満点である。文献案内もあり、索引欄を見れば、どこに掲載されているかが、一目瞭然であることも、うれしい。
 一番うれしかったのは、韓国の父の本家から預かった「朝鮮本」の筆者が確認できたときである。
「朴堧」李朝の音楽家。一四二七年、自作の黄鐘と編馨によって十二律の音階を完成して楽制を整え、その楽譜が「世宗実録」にも残る。高句麗、新羅の于勒とともに三楽聖と呼ばれた我が先祖であった。

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木版刷りは朝鮮本の文集、名を遺した先祖、三人の文集。右側は現代の百科事典のように分厚く、印刷されたものになっている「族譜」――コピーしたもの
 


 ☆ 初めての母国訪問の1980年、朝鮮語を話し、聞き取ることを出来た私があまりに熱心に色々と質問をするので、本家の伯父様が、日本に持って行って勉強しなさいと貸して下さったもの。必ず返すようにとの約束のもとで。(漢文なので研究は進まなかったが、大体の事は理解できた)

 アボジのお葬式の時に返そうと持って行ったが、まだ研究が出来ていなかったので、再び貸して下さった。
けれども、私の場合は、三度目の訪韓はないだろうとのことで、親戚巡りをすることになり、この本は先に帰る「韓国籍」の妹に預けたのだが、、何故か、私に渡そうとしない。10年以上経っても、私の手には渡してくれない儘である。本家では、私に貸したと、今でも、思っているという事だ。伯父様は亡くなり、後を継いでる従兄も、高齢であるのに。

 
 ☆ 1980年、両親が、夫のいない私を韓国に連れ出した。このまま、自分が逝ってしまった場合に親戚の顔を知る人が誰もいなくなるのは耐えられないからと。朝鮮籍の私たちは「韓国」に自由に往来出来なかった頃である。韓国寄りの民団で組織の中に人を呼び込むために考えた方法であろう。その当時、殆んどの在日同胞は、総連系に属していたからである。朝鮮籍でも、一度だけ、国籍を韓国に変えなくとも「墓参訪問団」として韓国行きが出来るというものであった。
 
 私は、万が一のことを考えて子供と三人の記念写真を、白黒と、カラーの両方を写真館に行って写した。残す言葉も録音した。
 息子は大学受験、娘は高校受験の年の1月であった。韓国はまだまだ、貧しい生活をしていた。持って行く荷物があまりに多いので、飛行場まで近所の人の軽トラックで運んでもらったりした。又韓国の飛行場では荷物が多すぎると足止めを食い、オモニが何十年ぶりで故国に帰ってきたのだもの多くて当然だ。商売をするために持ってきたわけではない、親戚へのお土産なのに、駄目だとは許せないと、啖呵を切っ他ので、無事に荷物を持って行くことが出来た。オモニの強さを感じたことが忘れられない。
 
 朴正煕大統領が側近に射殺されたばかりで、「ソウルの春」と呼ばれた時期であった。それでも、私達には何時も、監視の人が付いて回っていた。行く先々で、警察が訪ねてきて話をさせられた。何事にも率直に話す私に対して、捕えられたらどうするのかと妹が怒り、姉妹喧嘩が絶えなかった。いくら、注意されても私は、自分の言いたいことを言うのを止めなかったからである。
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by pcflily | 2013-07-20 15:37 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

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     鉄は熱いうちに打て   「それぞれの四季」 朝鮮新報 2003年4月8日掲載

 二人の子供を朝鮮学校に通わせたい一心で、身一つで上京して32年になる。
 初級部1年であった娘は3人の息子の母となった。もちろん3人の息子は朝鮮学校の在学生である。娘と縁あって結ばれた青年は、大学まで朝鮮学校で学んできた。彼の願望は、朝鮮学校を守り抜くことである。それには、「朝鮮籍」「韓国籍」「韓国」から来日する子供も朝鮮学校に通学するようになれば、生徒の数も増えるはずであり、学校も増えるであろう。
 息子と結ばれた相手も大学まで朝鮮学校で学んできた。4歳の孫は「ハルモニ、アンニョンハセヨ」と挨拶する。最近、テレビ朝日で朝鮮高校のラグビー部が紹介され、その画面に息子が映って、彼がコーチをしていることを初めて知った。フリーライターの息子が、こんお不況の中で無給のコーチをしていたことに驚いたが、朝鮮学校を思う気持ちからだろう。
 子供は親の言うことは聞かないが、真似をする。最近は子供の名前を、朝鮮語で読んでも、日本語で読んでも、同じものを選ぶ人が増えているが、これはどういうことだろうか?どちらにも通じるということは、すでに半分、朝鮮人を放棄しているような気がする。私は、孫たちの名前が一読して朝鮮人であることが分かることに満足している。私達には創氏改名という悲しい経験があるではないか?
 「鉄は熱いうちに打て」 初級部から朝鮮学校で学ぶことは、朝鮮人の魂が身につくことだ。朝鮮学校を守ることは、朝鮮人の魂を守ることにつながり、何よりも最優先させなければならない。
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飛行機を直に見るのは、6歳の孫にとっては初めての経験。羽田直通の京急バスに乗って飛行機を見に行って来た。乗り物の好きな孫の為に、慣れないインターネットで調べた。横浜から20分程で到着、走り出したバスを止め、記念写真を撮った。

  三つまで天使・天才4歳はオレハオトコトつなぐ手ほどく

5歳になったある日「オレ男ニ生マレテ良カッタ」と言う孫。どうしてと聞いたら、「男ハ強いカラ何ンデモ出キルンダ」と言う。強さに憧れ、早いうちから、消防署員、警察になりたい。

羽田に行った時に、初めて、パイロットになりたいと言い出した。7月7日の七夕の日であったので、願い事を書いて下さいと大きな笹竹と色紙が準備されていた。短冊に『パイロットになれますように』と書いて笹にぶら下げてきた。
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孫の家族に口出しは禁物なので、パイロットも危険な仕事なんだけどと、ハルモニとしては独り言を言うしかなかった。
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by pcflily | 2013-07-10 20:22 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

左喜真美術館での出会いー丸木美術館『身世打鈴』別冊より

       左喜真美術館での出会いー丸木美術館

 「沖縄戦の図」を初めとする十四部が製作地である沖縄の、個人美術館「左喜真美術館」に納まって、展示されていた。
 丸木ご夫妻の願いが実現されたのは、昨年の十一月ということであった。
「近藤先生と行く沖縄短歌の旅」に参加した二日目の三月六日の事を私は終生忘れることないと思う。
 はるかに続く青い空と海、ブーゲンビリア、寒緋桜などが花開き、自然はあくまでも美しく、まさに夢の島であった。「基地の中に沖縄はある」という言葉を忘れてしまいそうであった。
 しかし、沖縄戦で一般市民の死者が十数万人に上っていたという事実、その中には朝鮮人も含まれていた。従軍慰安婦のことも同性として忘れられない。「辛かったでしょう、会いに来ましたよ」と心の中で祈り続けていた。
 敗戦後五十年、未だに「過去の侵略戦争」の賛否両論がある。「沖縄戦の図」に衝撃を受けていた私に、もう一つの衝撃が与えられた。朝鮮人である故にスパイだとして殺害された絵が描かれてあった。
 丸木先生は日本人の加害者の立場も描き続けておられたのだ。不信の目でしか物事を見られなくなっていた自分自身が恥ずかしかった。別室に茶菓が用意され、私たちは緊張して待っていた。程なく、丸木先生ご夫妻が入室された。杖をつかれ、支えられてのご入室であった。
 あまりにも、静かで優しく穏やかな笑顔に驚いてしまった。真実一路、人間の仕事を全うされた大人の姿であるのだ。
 こんなに素晴らしい方とお会いできたことと、その絵を間近に観ることが出来たこと、そして「沖縄戦」があったことへの憤りなどで私の胸は震え、涙が後から後から溢れ出てきて止まらない。
先生に一言だけでもお礼を申し上げたくて追いかけて行った。
 俊先生は、朝鮮戦争が休戦になったばかりの廃墟と化した平壌の地下で「「原爆の図」の展示をなさったことを教えて下さるのであった。中国で「原爆の図」展をなさっていたときに、朝鮮の大使館の方が来られて、私の国にもいらして下さいと頼まれたのですよ、とおっしゃった。
「「必ず『丸木美術館』に参ります」「何時でもいらっしゃい」と私の手を取り固い握手をして下さった。
 後日、この四月二日に「丸木美術館」を尋ねて、もう一度、先生にお会いすることが出来た。この日の感動は前回に倍するものであった。そうして、「からす」を見た。長崎の三菱造船に強制連行された朝鮮人約五千人が集団被爆し鴉が来て食いつくまで放置されたと言う。朝鮮人への加害責任を明確にした「原爆の図」であった。

 被爆死せる朝鮮人の屍は鴉の食むまで放置されにき     

 灰燼の平壌の地下壕の「原爆の図」爆撃受けし人等行列する

 さりげなく手折りくれたるすみれ花微笑みも添え俊先生は

その後、丸木美術館の説明文に朝鮮語も採用された。隣国の言葉ということで採用された。
(一九九五年四月「丸木美術館ニュース」に掲載)

☆上記の短歌3首のうち2首は「朝日歌壇」に入選した。

☆当時、旅行になどは殆んど行ける状態ではなかった。現在でも、自分からどこかに行きたいと旅行することはない。先生や教室の受講生に強く誘われて、断りきれなくて、出かけたのだが、無理をして、参加して本当に良かったと思っている。
左喜真美術館での茶話会が終わり、同行者と共に、バスに乗ったのだが、このまま黙って丸木先生とお別れ出来なくなり、皆さんに待って頂くようににお願いをして、俊先生を追いかけて行った。
私は、直接、お礼を申し上げたかったのだった。短い時間内で、北朝鮮に行ったことまで話して下さった。
 朝鮮大学で美術を勉強している姪に声をかけたら、その友人もついてきた。俊先生は、位里先生にも会わせて下さろうとしたが、事務局の方がお休み中ですからとのことで、この日は位里先生には会えなかった。
 このエッセーは、丸木美術館からの依頼があって書いたものである。美術館には何度か足を運んだ。
「丸木美術館を支える会」の展示販売の為に友人の須藤英子さんが私の短歌を「色紙」に書いて下さったものや、陶芸家の関谷興人さんが私の短歌を「陶板」にして下さった。
 丸木美術館には関東大震災で虐殺された朝鮮人のための「痛恨の碑」がある。大きく立派なものであり、ハングルも刻まれていた。このエッセーを書き終えてから、うれしい知らせが届いた。丸木美術館の「原爆の図」の説明文に朝鮮語を備えたいので翻訳をして欲しいというお話しであった。現在も、朝鮮語の説明文のそれは其の儘置かれていると思う。
痛恨の碑に、お花を供える心をこめて、私は朝鮮の国花である無窮花(むぐんふぁ)を傍にに咲かせたいと思い、その旨、お願いをした。直ぐに快い返事があり、我が家の苗木を持って行き植えさせて頂いた。元気に根付いて花を咲かせていたのだが、一昨年、インターネットで問い合わせたが、もう、無窮花はないと言われてしまった。私も、何年もご無沙汰してしまったのだから仕方がないと思う。残念だけれども―――。何方かがもう一度無窮花を植えて育てて下さればという願いが叶うことがあれば嬉しい。

この旅行に参加したことで、嬉しいことがほかにもある。友人が出来たこと。又、ホテルの晩餐会の時に、リクエストの時間があったので、私は、先生へ送りたいと「百万本のばら」のリクエストをお願いした。ところがその日の歌手が歌えないというので「愛の讃歌」を頼んだ。近藤先生の奥様のとし子夫人は、このことを歌に詠まれて、ご自分の『歌集』と『未来』に載せて下さった。

 君のため「愛の讃歌」リクエストし給えりホテルの晩餐に朴貞花さん

 遠き祖国にかかわる思い篤くしてかなしく泪ぐましきあなた          近藤とし子

近藤先生は金大中大統領と金正日総書記が会った日の歌を『未来』と『歌集』に載せて下さった。

 朴貞花よろこび隠さぬ電話あり夏告げて平壌の放映一と日          近藤芳美

朴貞花とフルネームを歌に其のまま歌いこんで下さった。とてもビックリした、また嬉しかった。沢山の人が私の名前を入れた歌をいくつも読んで下さっている。なんとお礼を申し上げtら良いのだろう。

 朴貞花が師に送りたる「愛の讃歌」夕茜ながく沖縄の宿に

 在日の五十年を語る朴貞花に俊さんの眼は赤くうるみぬ

 痛恨の碑を仰ぎ貞花さんの肩を抱く丸木俊さんありき小さく丸き背     西村節子

 語る師を見つむる貞花さんのほほえみにわが生れ年強制連行重ねる   加登聰子

 美しく頬くれないに染め朴貞花さん二分されたるふるさとをいう      鳥羽加津子
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丸木俊さんと 会えるのはこの日が最後になった 東京の丸木俊さんの個展会場にて 
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 近藤先生夫妻と「未来」大会にて 
         
 朝日歌壇のみの記憶の朴貞花近藤とし子の歌に親しも          並木薫

 祖国分断の重き歳月語りつつ貞花さんうっすら涙滲ます          日比イチ

 オリオンの三つ星のごと印字せむ朴貞花さすればあなたはあなた    釜田初音

 大学の朝鮮語講座の教材に朴貞花さんの歌が印刷されいる       広岡冨美

 「強制連行アボジの子なり」と朴さんの歌かたわらに三,一独立宣言文読む 柏木文代

 飾らざる言葉の影に望郷の思い切なき朴さんの歌              日高陽子

 分断を認めぬ私は朝鮮人 誇らかな顔朴貞花さん              小川野武伏

 激しさはやさしさならむ朴貞花在日の歌詠む 女歌よみ           柴崎麻紀子

 かをりつつ孤高に咲ける朴の花朝鮮人であることに生きる         武藤雅治

 故郷に清きまなざし同胞に愛しき念い(おもい)一筋に生き越し来たるか朴貞花 朴鐘鳴

 朴貞花演じる友は日本人在日の苦を舞台に歌う     「朝日歌壇」入選 朴貞花

 朴の木の蒼天に立つ純白の貞淑の心花開きつつ                朴貞花
  
   朴貞花と名前入りで贈られた歌の全部を書ききれないのが残念だ。嬉しい思い出だ。

 
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by pcflily | 2013-06-30 20:13 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)  

カスバの女(替え歌)

  貞花の歌う カスバの女 (替え歌)

 カスバの女のメロデイーで


   歌ってあげましょう   私で良けりゃ   

   ソウルの漢江(ハンガン) 花咲く平壌(ピョンヤン) 

   分断された  わが祖国  何故に 統一出来ないの

   誰が 統一 妨げる


    어차피 우리는 나라 잃은 나그네 이남에도 이북에도 살수없는 신세

    이제는 도라가는 고향도 없네 밤마다 마시는 술 쓰디쓴 술

    끔속에서 만나리라 부모형제요

     
     どうせ 私は 流浪の民よ   北にも 南も 住めない 身です

     もはや 戻れる 家もない  夜ごと 飲む酒 あびる酒

     夢に 会いたい 父さま 母さま


     あなたにも 私にも 明日がある  確かな ものなど 見えないけれど

     朝の 来ぬ夜 ないという それを信じて 夜明けまで

     われらの 真実 詠おうよ

     われらの 詩(うた)を 謳おうよf0253572_23395687.jpg 




            
          悲しい時、泣きたくなった時には、子供の頃から、何時も歌を歌っていた。朝鮮の歌を殆んど知らなかったので、日本の歌のメロデーに自分の気持ちを込めて、替え歌にして歌っていた。「カスバの歌」は作詞も作曲も朝鮮人であることを知った。物悲しい曲は私の気持ちにピッタリと添っていた。朝鮮人の悲哀が詰まっている。歌の舞台・場所が「カスバ」であるのは、日本では、「朝鮮」では売れないからであったという。現在の私は歌を歌う元気もなくなり、まして、お酒など飲める元気は全くない。ストレスの解消の方法がない。けれども、諦めることを覚えた。オモニが何時も、私に言い聞かせていた言葉がある「早く、諦めることを覚えて、大人になりなさい」「四季の歌」や「ドレミのうた」等も、替え歌にして歌っていた。
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by pcflily | 2013-06-27 00:07 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(0)  

「隣人に伝える努力」2003年1月 朝鮮新報 それぞれの四季

  「隣人に伝える努力」 20003年1月 朝鮮新報 それぞれの四季 より

 北も南もわが祖国であるが、帰れる土地ではない。そして、この日本に3,4,5世の子供たちが生まれ、育っている。
 「まだ、日本に朝鮮人がいたの」と言われた事をきっかけに、私を知ってもらう事で、朝鮮人を理解してもらおうと、私は草の根運動を一人で30年近く続けてきた。
「アジアと日本を考える会」「日本語を教える会」「町田国際交流会」または図書館での「絵本の読み聞かせ」や「町田市民大学の受講」など、あらゆる場所で朝鮮人として話をしてきた。

  差別することはなかった真実は関心さえももたなかったのだ
 
この短歌は5年前に歌誌「未来」に発表したもの。町田市の朝鮮・韓国人高齢者への福祉金の支給を要請するための話し合いをしている時に「私は朝鮮人を差別したことがない」と一人のクリスチャンという日本人が明言した。それでいて朝鮮人の実態については全く知らないと言う。情報過多の現代に知らなかったというのは通らないし、差別しないと言うなら、まず、関心を持つことから始めなければならない。
 この運動は「無年金を考える会」として10人で始めたもので、日本人が9人、朝鮮人は私一人であった。差別したことはないと言っていた男性を含め8人はいつしか離れていった。残った一人の男性は沖縄出身であったが、なんだ「島か」差別されたという経験を話してくれた。残った2人で諦めずに続け、運動開始から4年目の昨年4月、町田市では東京都で初めて高齢者福祉金支給を決定し、実現した。
 一人の人間として日本人と心を通わせていくことが、必ず良い結果をもたらすと思う。子や孫たちの為に、自分自身の為に、いつも朝鮮人としての誇りと意識を持ち続け、隣人へと伝える努力を惜しまないことである。

 この文章には書いてないが、このときの決定により、障碍者への手当ても加えられた。そして台湾の人々にも同じく適用された。運動をした私達のことは知られていない。協力することに消極的であった支部の成果であると、「朝鮮新報」の記事には書かれていたし、日本の新聞も、もちろん、その経過については取材は受けたが、一言も触れていなかった。
 

現在地に引っ越しをしてからは、やはり、一人で「端(はな)の会」として、朝鮮語を教えている。受講料の工面が出来なくて独習で覚えたものを、私流(貞花流)で教えている。
  
  ◎1番簡単な外国語       ◎1番科学的な文字
  ◎1番近い隣国の文字     ◎1番長い歴史的関係

  「天・人・地」母音に込めて 子音には発音器官を図形化している
 
  丸と棒の音素文字組み作られし 表音文字の豊かに広き

  ハングルは発音の表記細やかに漢字一字を一字にて記す

  作られし時代も人も確かなるハングル世界記録遺産に    (1997年)

どんなに、私が勉強をした経験で気が付いたことを、真面目に真剣に伝えようとしても、どこかに、信頼していないという雰囲気が出ている。悲しい経験を何度かしてきた。
ふと思いついて、今年は「ハングル能力検定試験」に申し込んでしまった。受験しようとしていたわけではないのに、成り行きで、申し込んでしまった。図書館でどの程度のレベルかと、調べてみたら、あまりに、知らない単語が多くてびっくりしてしまった。その時点で受験を放棄してしまったのに、教えている生徒の中で受験をするという人がいて、つい、私も申し込んだと口を滑らせてしまった。駅で待ち合わせて一緒に行きましょうと言われたが、受験しないと断った。
1週間前位になって受験料が勿体ないと思い始め、行ってみようかなとーーーー。結局、当日になって行くことに決めた。まず、会場への案内図があまりに不親切で、私には、試験問題よりも辛かった。
19年前に、衝動的に受験したときは幸いにも二つとも合格していた。今回も、衝動買いのような衝動受験であった。学生の頃、私は試験が好きであった。試験の点数が良ければ、その時だけでも、先生も周りの人達も認めてくれるからだ。久し振りに、その頃の嬉しい経験が出来そうである。
追記、そうして、後日、嬉しい合格通知が届いた。
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植える場所がないので空中に咲かせた  つる薔薇 今年も元気だった。
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by pcflily | 2013-06-25 12:41 | 『身世打鈴』エッセー | Comments(2)