カテゴリ:貞花の短歌『身世打鈴』( 46 )

 

「核なき世界」の行方

「核なき世界」の行方

原爆投下責任 米に問え

2016年2月9日の朝日新聞の見出しの記事だ。
懐かしい名前に出会った。元広島市長の平岡敬さん。近藤芳美先生の紹介で、広島でお会いして、私の歌集『身世打鈴』を送り、ご返事を頂いた。歌集を送っても、著名な方が返事を下さるのはあまりないので、強く印象に残ったお名前だ。
新聞には3名の考えが載っているが、平岡さんの意見が私を納得させるものであった。その大要は次のとおりである。

被爆50年の広島市長として「核兵器は国際法違反の非人道兵器だ」と訴えたと平岡さん。

日本政府は米国に追随して、「人道主義の精神にに反する兵器」と述べるだけで核兵器の違法性に踏み込まない。日本が米国の「属国」であることが非常にはっきりしてきた。

その根源が日米安保条約と地位協定にあり、米国に逆らえない従属した政治構造。政府は「人間」の側に立っていない。兵器の破壊力を見せつけることにより国益を守ろうとする。それは間違いであり、人間的悲惨があると言うことを、被爆者は訴えてきた。

平和記念公園にある「過ちは繰り返しませぬから」は「米国の過ち」を「人類の過ち」にすり替えている。米国の原爆投下責任を厳しく追及してこなかった。日米友好を妨げるとか言ってごまかしてきた。

ヒロシマは許してはいけない。責任を問い続けなければいけない。米国が「悪い」と認定した相手に対しては、今後も核兵器を使って良いという倫理につながる。
その倫理をヒロシマは認めない。米国は少なくとも、広島・長崎への原爆投下は誤りだったと認めるべきだ。

それは正しかったと言い、自分は核兵器にしがみつき続けながら、北朝鮮に核兵器を止めろと言っても何ら説得力はない。

核兵器の非人道性をめぐる議論から、米国や日本は逃げないでほしい。広島・長崎の死者の声に答えてほしい。原爆投下の責任を問うことなしに、「核なき世界」は生まれない。

私の胸に素直に入ってきた論理だ。米国に追随し米国の核の傘の下で、何を言っても、人の心を世界の心を動かすことは出来ない。
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ブロッコリーを2本植えた。、元気に育ちみずみずしい緑の葉が大きく育って、楽しみにしていたのに、いつの間にかその葉は殆どなくなっていた。虫なのかと思っていたが、ある日、見に行った私に驚いてブロッコリーの傍から逃げていったのは鳩であった。葉があってこそ育つのに何たることか。
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by pcflily | 2016-02-24 17:20 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(4)  

夢 『身世打鈴』より

 夢

押捺を拒否せし五年あざ笑い更新せし登録書に指紋くっきり     
          馬場あき子選  1990年11月25日 朝日歌壇入選   

外人登録書のカード一枚に小さき吾管理されいて孫悟空を思えり  
          佐佐木幸綱選  1990年11月25日 朝日歌壇入選 

「今度こそ門は開くぞ」と歓喜せしに文牧師の逮捕悲しく悔しき    
          佐佐木幸綱選  1989年5月21日  朝日歌壇入選


白馬岳の頂きに立ついつの日か白頭山と漢拏山に吾は登らむ 
       

枕辺に地図を広げてとこに入る統一朝鮮の夢を見たくて         nhk短歌大会入選

 
☆総連側では、悪法でも法は守るものと指紋押捺を拒否することを応援しなかった。拒否運動は韓国政府が始めは応援していたのに、日本政府と政治決着とかをして、拒否をしていた人たちは、宙に浮いてしまった。
私の場合は民団に加盟していたわけではなかったので、たった一人の拒否であり発表をすることもなかった。
何でも、一人で考えて、思いつくと行動に移していた。実家と実家の家族、婚家の束縛から解放されたからである。あまりにも自分の意志を押さえつけていたから、その反動かも知れない。
 将来に希望を持つことも出来なく、自殺をする勇気もなかった中学生の時に思いついたことが、英語の授業で私は生まされたと表現をすることを知った時だ。私の生命は両親のものであるのだから、両親の言いなり、生きるべきだと思った。親の言いなりに、親の望む結婚をしたが、子供が生まれて、子供は私が責任を持って守らなくてはならないと思うようになった。そうして家出をしてしまった。オモニを悲しませた家出であったが、後に、オモニは家出をして良かったよと褒めてくれた。あのまま、実家にいたら良いことはなかったよとーー。
 
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漢拏山には未だに行けずにいるが、白頭山には、中国まわりで登ることが出来た。忘れられない嬉しい思い出だ。2002年8月12日のことである。
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by pcflily | 2014-01-10 21:29 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

世の常  『身世打鈴』より

  世の常

 吾が命よりも愛しみ守りきし子が母われに世の常をいう

 諦むること覚えて大人への切符手にせよとオモニのまた諭す

 帰化したる春山さんが寝たきりの身となり日本語忘れたりしと

 普段着も着物で過ごせし叔母さんが朝鮮語ばかりのベッド生活おくる

 食卓にキムチを載せぬは日本人の同僚持つ身のエチケットとぞ

 紐解けばオモニの匂い手作りのペチュキムチなり八十路の母の

 キーボード打ちつつ蘇る国民学校のオルガンに魂奪われたる日

 朝鮮の童話を語る吾を見つむる子ら思いつつハングル辞書引く

 アリランの曲に合わせて虎の歌踊りの好きな虎の話も


☆どんな時でも、自分は何も出来ない人間だからと、精一杯の心を籠めて行動をし、話をしていた。
或る日、オモニに言われた。『もう可哀そうで見ていられない、そんなに一生懸命にならなくとも良い。ほどほどで良いのだ。諦められることが出来てこそ、大人だよ。オモニの傍から、決して離れることはない子供だと思っていたお前がオモニの懐から飛び出して、東京に家出した。親子でも、人間の心は見えない。自分をもっと大切にしなさい」
 微力な私でも、誰かの役に立つことを、一つでもしたいとの思いで努力をしていた。
自分が知らなかったことが、あまりに多いので、知ることが出来たことを誰かに伝えようともしていた。
この横浜に住むようになってからはすべての事から、手を引いたつもりだったが、いつの間にか、ハングルを教えるようになってしまった。そして、又、傷ついてしまった。今後、又、傷つくかもしれないのにと反省している。
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力持ちの孫だった。何でも一人でやると言い、手伝われることを嫌った。一人でこの自転車を、自力で階段の上まで運び上げたり、下ろしたりして遊んでいた。やり遂げた達成感を楽しんでいるようであった。この自転車を乗っていた為に、この後、5歳になってからの自転車は、補助車をつけないで一日で乗れるようになった。
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by pcflily | 2014-01-07 15:14 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(3)  

恋文  歌集『身世打鈴』より

 恋文 『歌集『身世打鈴』より

末期癌の君が彫り呉れし本名の表札に馴染み二十五年経ぬ

末期癌の金さんが彫りくれし表札に清く正しく美しくの文字

ひとめ会うことさえ拒み逝かしめし君の死に病を吾の知らざりき

十二体の白衣観音彫りいると電話の声が最後となりぬ

二十年前書きたかったと余命知り書き遺したる君の恋文

☆このブログは在庫がなくなってしまった私の歌集『身世打鈴』を書き写す為に始めたものである。朝日歌壇に掲載された短歌と重なるものもあるので、朝日歌壇の掲載歌を全部書き写したので、もう、ほとんど残っていないと思っていたが、完成まではなかなか遠い
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 実家は土木建築請負業であった。高校生の頃は、県からも仕事を請け負うこともあった。その頃は殆んど人間が鶴嘴やスコップ等で仕事をすることが多かったので、新しい仕事を請け負うと、働く人を募集に出掛けたりした。仕事を待っている人が宿所にしている専門の宿屋があった。殆んどの人が手荷物を持って現場を渡り歩いていた。一度だけ朝鮮人部落と呼ばれている場所に行ったことがあった。
 冬は仕事がないが、働く人たちの部屋があり、帰る場所のない人は冬でもそこで寝泊りをし、食事も私たちと共にした。オモニはあの人達がいるから自分たちは暮らせるのだからと、私たち子供より彼らを大切にしていたのでみんなから信頼され、親の様に慕われていた。世間の人々は、「母ちゃんがいるから木村組は持っているのだ」と言われていた位であった
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昔から、私の取り柄は素直であることと言われていた。オモニの言葉を信じ切っていた。
 一時間の汽車通学をしていた高校生の時であった。待合室の椅子で寝ている人がいた。私の家で働いたことがある仕事のない冬も我が家で過ごし、年末の障子の張り替えに汗を流した人であった。
大きな仕事が入ったばかりであったので、私の家に行くつもりなのかと声をかけて連れて帰った。そのことが印象に残ったのかもしれない。家族が私と結婚させようと思ったこともあった優秀な人であったが、オモニが占いをして貰ったら良くないと出たと言って、その話はアッサリなくなった。
 私は中学生時代、高校生時代、高校卒業後も家業の事務を受け持ち、実際の結婚は我が家で事務のできる人間をと決まっていた。彼の事は、わが家で働いてくれる大切な人のうちの一人と言う意識以外は持ったことはない。妹たちには好かれていた。労賃が入るとお菓子をいっぱい買ってきてくれたからである。
 上京して、オモニが彼が癌という事でお見舞いに行って来たという話をした。彼に乞われて住所と電話番号を教えたという。届いた手紙は島崎藤村の詩のような言葉が並んでいた。私よりも七歳年上の人であった。
 その頃の彼は、木彫りをしており県展にも入選していたという。麻雀荘の徹夜営業をしていたある日の明け方に電話がかかって来た。何度、呼び掛けても言葉にならない声を出すだけであった。彼の最後の声であったのかもしれない。間もなく、彼が亡くなったとの知らせがオモニから届いた。
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by pcflily | 2014-01-05 17:49 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(3)  

統一チーム「コリア」

 統一チーム「コリア」

韓国の甥と並びて応援す統一チーム「コリア」に声はりあげて

同胞は統一「コリア」に祖国の統一重ねみて一心同体の応援

南北の老いも若きも幼らも統一チーム「コリア」「コリア」と

「統一します」と吾がいうテレビ見たりしと東西の友より電話かかりきぬ

勝ち負けのそれより貴重な「統一チーム」優勝なせり同胞の喜び

統一「コリア」優勝の瞬間「ジャレッタ」とオモニも吾もオッケチュムす

統一の成りし如くにマンセーとテレビを見つつオモニのおらぶ

統一「コリア」の優勝の記事読みいるに涙のあふれて活字の見えず

悲願なる統一「コリア」の優勝を誰彼なしに礼を言いたし

☆1991年、卓球の南北の統一チーム「コリア」が優勝した。在日同胞は統一が叶ったかのように喜びを分かち合った。私は緑色のチマ・チョゴリ姿で応援に行った。総連中央の女性同盟委員長に、チマ・チョゴリを来てきたのですねと声をかけられた。彼女は洋服姿であった。私が「雨が降ろうと風が吹こうと,民族衣装を守る為にも着なくては」と言ったら、何も答えなかった。
 あの頃の私は、本当に南北朝鮮の統一を信じていた。チマ・チョゴリを着ていたせいか、あまりに真剣に応援をしていたせいか、何人もの人から取材を受けた。そのうちの一つが、テレビに映し出され、、南北東西の知人から、電話がかかってきた。在日朝鮮人の場合は日本中に知人がいる人が多い。繋がっているのだ。
  まさか現在の様な、厳しい時代が待っているとは思っていなかった。ある意味では、信じる物を持っていたので幸せであったと言える。
今は、未来に期待できるものが、何も見えない。
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東北朝鮮学校の1年生として入学した長男の淳馹。、
東北朝鮮学校は、初級部1年生から高級部3年生までが寮生活をしていた。
淳馹は、入学前に、平仮名を全部書くことが出来ていたので、私宛に表書きを書いた葉書を何枚も預けて、困ったことがあったら、何でも書いてポストに入れるようにと言い聞かせてあった。
ポストに入れることが出来ないでそのまま保管してあった葉書の一枚。文面は「オモニ、きてね すぐきてね」だった。
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by pcflily | 2013-12-19 20:37 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(3)  

饒舌

 饒舌

客のなき見せに一人踊りいるジャズを鳴らして眉うすき女

酌み交わすグラスの影にちらほらと裸(うち)なる心見えつ隠れつ

煙草吸う男の仕草見つむれば乳房乞いいる赤児の如し

酔うたとて歌い踊りて饒舌の後にあふるる涙止まらず

振り向けば今開かむとする花のごと少女となりし吾子と眼のあう

声あげて浜辺にはしゃぐ吾子ふたり罪深き母の心気付かず

生計(たつき)たつる術と思いてこらえきしを客の罵声にあらがいし今宵

夢は夢生計はきびし夕されば酒と饒舌と笑顔を切り売りす

☆実家で建ててくれた新築の一戸建てに半年も住まずに、家出して、上京して降り立った場所は町田市だった。1月の早朝の駅前は通勤の人で一杯だった。寒さを凌ぐために駅の地下道に立っていたが、行き交う人の眼が自分たち母子に注がれるのに気が付いて、商店街を徘徊していて、「子供可・平和荘」の求人募集の張り紙を見つけた。探し当てたビルの中にたどり着いた時は、店内には徹夜で麻雀をしている男達がいた。店主が来るまで、待てと言われ、寒い街頭に子供を連れ出せないと思い待たせてもらった。
いくつもの店舗を持っていた老舗の社長は、私に面接することもなく、子供を連れているから、信用できると雇ってくれた。その日から、4畳半のワンルームをあてがわれ、仕事を始めた。
私は、麻雀の牌を見たこともなく麻雀というゲームがあることも知らなかった。掃除とお茶を出すことが主な仕事なので、私にも出来る仕事だった。勤務時間が長いので、店員が長く続かなかったそうだが、出かけることを好まない私にはぴったりであったと言える。
2年後、この店を買い取ったことで、町田市の住民を33年続けることになった。自分の意志で生きることを決め、実現することになった。
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by pcflily | 2013-12-15 13:04 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

オッケチュム 歌集『身世打鈴』より

オッケチュム

 
 杖鼓響(な)ればねじまき人形になれる如「オッケチュム」舞う吾の朝鮮の血

 三人ほど集える宴も同胞の互みに歌い舞いも果てなし

 朝・日の歌惚けし如歌い継ぐ古希の宴の君は在日一世

 即席の歌詞は互みに身世打鈴 他郷の恨の歌垣続く

 朝鮮の舞いは終わりなき円という おわりなき祖国の分断を思う


☆現在地に引っ越しをしてからは、同胞との付き合いは殆んどない。
踊るどころか歌う事さえなくなって9年を越した。カラオケで歌うときも歌詞を替えて自分の気持ちをこめてうたって楽しんでいたのだがーーーー。

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エレクトーンを引く娘、発表会で。
娘には、バレー、書道、絵画、エレクトーン教室に通わせた。そのうちに自分に一番合うものを見つけるだろうと思ったからだが、趣味としても、続けていることはない。
エレクトーン教室は、息子も一緒に通わせたが、女の子ばかりで嫌だと直ぐに止めてしまった。長じていろいろな楽器を、一人で楽しんでいたが、最近は、何れも飾り物にしている。
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by pcflily | 2013-12-02 22:19 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

緑衣紅裳  『身世打鈴』より

      緑衣紅裳(ろぎほんさん)

 朝鮮の花嫁衣裳 緑衣紅裳まといて歩む子よ亡夫は見るらん

 祖国(おやくに)の花嫁衣裳 緑紅衣裳まといて歩む子のうなじ薄紅に

 嫁ぎゆく子の結婚式吾が娘を抱き退場の新郎を囲む朝大生

 結婚を祝い集える同胞の杖鼓(ちゃんご)に合わせオッケチュム舞い舞う

☆朝鮮大学を卒業した娘は、私の夢を叶えてくれて教員になった。麻雀荘を休業にしてでも、娘の教員生活の応援をしようと思う程に嬉しかった。大学の担任の教員が母子家庭であるから、親子を引き裂くような、遠くへ配置されることはないと仰って下さった。 離れて暮らすことは、私にとっては耐えられないことであった。
ところが、三多摩本部にお願いしたり町田の朝鮮学校にお願いしたりしたけれども。。「町田の学校では女性教員は必要がない」と言われ、娘は愛知県に配置された。
4月になってみると、、町田の学校に配置されてきたのは、娘の同級生の女性だった。

同胞社会でも、私達母子は差別をされつづけた。夫がいないからか、貧しいからか、その両方であろう。
 私が、事故で長期入院をした為に、名古屋の朝鮮学校の校長先生の努力により、横浜の学校に転任することが出来た。

教員という仕事に情熱を注いでいた娘に、無理やり見合いをさせたのは私だった。娘は、私の母に助けを求めた「見合いさせないようにとオモニに話してください」と電話をしたーーーー。
私のオモニは「、明希がまだ若いのに嫌だと言ってるのだから」と電話して来た。仲人さんがあまりにも熱心で、どうしても断れなくなっての話だから「会うだけで良い話」だと返事をした。
 ところが、相手方も、仲人さんの顔を立てて来ただけであった。今時珍しく、仲人さんが熱心な人なのであった。
両家の母親たちがそんな気持ちでいたのに、二人は意気投合してしまって、結婚することになった。
二人は見合いの席で恋をしてしまったようだ。

 娘は私の夢を実現してくれた。教員にもなり、心の通じる相手と喜びを感じて結婚した。結婚式には純朝鮮式の衣裳を着てくれた。その頃は、大多数の人々が、西洋式を真似たのか、どうか知らないが、白いベールと白いチマ・チョゴリを着た花嫁姿が一般的であった。
 かつての私の結婚式は、白いウエディングドレスであった。お色直しには、婚家の義母の手作りのチマ・チョゴリだった。又、式場では、着ていないが、美容院の母子の説得で、高島田の着物姿の写真を撮っている。この母子は、我が家に一泊をして結婚式の日の私の花嫁姿の装いを整えてくれた。f0253572_1951562.jpg
見合いが決まってから、結婚が決まってから、家族のためと思いながらも、私は一人で泣いていたものだから、やはり悲しげな顔をしている。

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by pcflily | 2013-11-27 19:58 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

危うき船に

    危うき船に

選挙権持たざる吾が革新派市長出さんと選挙運動す

徹夜明けを自転車走らす雪の道気がつきしとき救急病院にあり

大部屋のベッドに聞ける市長当選115日吾は入院す

退院せし十日の後に娘の入院送迎バスの追突されて

完治せぬ後遺症に守り来し麻雀荘閉じ再婚したり

娘と吾と長期入院に倦みしごと結婚という危うき船に乗る


☆一人で麻雀荘を経営していた。お客さんの中に、東洋羽毛株式会社の社長も社員と共に来ていた。自宅が町田にあったからである。町田市の市長選挙の時に応援を頼まれた。社長は革新派の市長の大下市長の後援会会長であった。今回が最後の立候補になるのだが、完璧に安全でないという事だった。
古物回収業をしていた妹夫婦が、その仕事に嫌気がさして鬱病になっていた。社長に頼み込んで、羽を洗う仕事を回してもらっていた。私は何時も、駄目もとで、その時々の心の思うままに行動を起こすのが常だ。妹夫婦の為に仕事を下さった感謝の心もあったし、社会党系の市長の応援もしたかったのだった。
麻雀組合の理事をしていたので、雀荘仲間を説得する為に、徹夜明けを自転車で出かけた。自動車も持っていたし、免許証も持っていたが、徹夜で仕事をしていたので事故を起こしてはいけないと自転車で出かけたのだが、バスに煽られて自転車ごと倒れ、バスはそのまま行ってしまい自損事故になってしまった。
保険の対象にもならず、自費で入院することになった。麻雀荘はその日から、休業になった。麻雀荘をしながら、保険の勧誘の仕事もしていた。それなのに、自分の保険は切れたままになっていた。又衣料品の行商の仕事もしていた。一人で店を守りながら、合間を見て、保険の勧誘と衣料品の行商をしていた。
入院の知らせを受けて、オモニも姉妹も、良い機会だから体を休めたほうが良い。少しでも長く入院していた方が良いと言ったりした。結局115日の入院生活をした。後遺症が残り仕事が出来なくなり、この結果、再婚をすることになった。
この時、当選した大下市長に、10年ほどたって手紙を出した。朝鮮人の高齢者無年金の人のための運動をしていた時に知り合った女性の国会議員の方が、住所を教えてくれたからである。歌集と私の書いた手紙、感想の返事も欲しかったので、返信用の封筒に切手を貼り便箋も入れて送ったのだが、一言の言葉も書いてくれず、そっくり、書留で送り返してきた。私への差別・蔑視の大きな一つの忘れられない経験である。

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麻雀荘は4階建ての3階にあり4階に息子と娘と3人で暮らしていた。生活をしていたのは、私たち母子だけであったので、屋上に土を運んでもらい花を育て、洗濯物も干し、物置小屋も買って置くことができたし、自由に使える場所だった。冬には子供と、雪だるまを作り、ヒヨコを育てたり、犬も育てて、遊ぶ場所になった。カメラを買ってからは、ここで記念の写真を何時も写す場所でもあった。
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by pcflily | 2013-11-03 20:43 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(2)  

 旅立ち 『身世打鈴』より

 旅立ち

父の死を知らされし子が髪むしり泣きしが後に父を語らず

僕の世界広げると言い中一の子は家を出ぬ叔母を頼りて

子の発ちて言い忘れしことあるが如ただいらだちて涙こぼるる

受話器とれば話す間あるかとまず問いて預けおきたる子のしゃくりあぐ

泣きじゃくる吾子の言葉は唯一つ十円玉ないから電話きれるよ

わが背丈越えたる吾子と肩並べ ひがな遊べり向ヶ丘遊園地に

子の身丈吾よりも高いと手をかざす亡夫歩みし日にせし仕草

脱ぎ捨てし吾子の靴下手にとれば不意に顕ちくる亡き夫の顔

 
☆両親が私の家族の為に檜建ての50坪の家を建ててくれた。その家に住み始めて6か月ほどで、上京した。これで私たち家族が落ち着いたと、両親が、安心して九州旅行に行っているさ中の事であった。
両親がいるときであったなら、家を出る勇気は持てなかったと思う。何もかも捨て、子供を朝鮮学校へ通わせるための行動であった。
 それにも拘わらず、長男が、日本の学校に行きたいと言い始めたことに、同意して行かせたのは、わが子は天才と思っていた私の親ばかの為せる技であった。
 夫のいない私と知って、声をかける人は多かった。っそれを恐れて、一時、化粧を止めたこともあった。女が化粧をしないでいるのはお客さんへ失礼なことだと叱られたこともあった。或る日、転勤が決まったから、せめて一度食事を共にしたいという誘いを断れなくなった。けれども、この接待は受けることは出来なかった。
 その日、預けてあった息子から電話があったのである。中学生の息子は、夜も昼も仕事をしている私に気遣って、話す時間あるかと、最初に聞いた。どんなにか悲しいことがあったのであろうか?大丈夫よと言ったら、いきなり、泣きじゃくった。そして、「10円玉がなくなったから電話が切れる」と言って、そのまま、電話は切れたのだった。その電話は公衆電話であった。預けた家からは電話を掛けられなかったのであろう。

 「朝日歌壇」1976年5月第5回目に、2首の歌が入選した。

 受話器とれば話す間あるかとまず問いて預け置きたる子のしゃくりあぐ         近藤芳美選

☆君と会う喜び秘めて結い上げし髪崩すとてピンを抜きいる       宮柊二選   前川佐美雄選

子供のいない近藤先生が子供の歌を採って下さった。私の生活状態まで理解できていたのかもしれない。また、朝鮮人の女の生活習慣もーーー。愛の歌を、二人の選者が採って下さった。実らなかったことに、同情して下さったのかもしれない。五島美代子先生は、海外旅行中で選者を休んでいた。
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1980年 韓国に母国訪問 オモニの弟である伯父さん後ろの右、左は従妹の夫、伯父の家で。
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by pcflily | 2013-10-28 17:04 | 貞花の短歌『身世打鈴』 | Comments(0)