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町田に住んで33年の思い

〇喜怒哀楽分かち合いたる星子さん身罷りしこと宜えぬ日々
〇呆けたるごと君思うベル鳴りて会話楽しむ事のあるかと

療養中であったが、いつも明るく前向きで私が励まされていた。昨年は、毎日のように電話で話し合い、南北の和解を喜び合い、平和協定の成る日まで頑張って生きていようと話し合っていた。我が家のばらのゴールドハニーとピースは今、真っ盛りだ。昨年は、この薔薇を一杯摘んで花籠にして送ったのに、送る事も出来ない。
人間は誰でも別れて旅立つことは、承知している筈だが、何の遠慮もなく話し合い、意見の一致を見ることの出来る人は少ない。
2ヵ月が過ぎて、漸く終活の整理に入ることが出来た。忘れていたものが出てきて、真面目に一生懸命であった事を、愛おしく思える。
町田に住んでいた時に学んでいた市民大学のレポート集の中にあった。16年前も今も同じことを考えているのだ。。

町田市民大学 HATS 「町田郷土史2」 
2003年後期 受講生レポート集
町田に住んで33年の思い   (ぱっ) (ちょん) (ふぁ)
 ようやく、受講資格を得た2003年度「町田の郷土史」であったのに、体調を崩して欠席が多かったのが、残念であり、また皆様に申し訳ないと思う。
それでも、第6回の浜田弘明先生の「軍都相模原の形成と町田」の講義を聞くことが出来たのは幸いなことであった。出来る事ならこの講義をもう一度聞きたいと思う。
冷静に事実を淡々とお話なさるのを聞いて感動した。
 広辞苑の「歴史」を紐解いてみると
1、 人類社会の過去における変貌、興亡の有様。また、その記録。
2、 物事の現在に至る来歴。と記されている。
町田市の郷土史、まして町田の土地に刻まれた「戦争」の郷土史に在日朝鮮・韓国人のことが取り上げられていないことを、情けなく思ったことであった。
 93年度の「町田市民史学」から始まり、町田市民大学HATSでは何度も勉強させて頂いたが、市民として長いこと生活している在日コリアンについて関心がないのか、気が付かないのか取り上げられない事が多い。
「町田の考古・考現学講座」を受講した時は、対象日本史年表が資料として渡されたのだが、朝鮮と表記すべきところを「鮮」となっていた。これは、朝鮮の朝は朝廷(皇室)の朝と同じであるから、不敬であるという思想から来ている。差別語である。高句麗、百済も表記せず、国連に加盟している朝鮮民主主義人民共和国の記入もなかった。
町田の土地に刻まれた「戦争」には、在日朝鮮・韓国人は忘れてはならないことと私は思うのだが、間違っているのだろうか?
在日朝鮮人運動史研究家の平林久枝氏の聞き書きによると、韓国慶尚南道出身のTさんは次のように話している。
わたしの故郷は釜山からそう遠くない農村で、生家は小作農だった。小作料は、収量の半分を取られていた。家族は父母と、私と妹の四人だった。父が強制的に連れて行かれたのは一九三九年だったと思う。
家族四人が田んぼへ出て、両親が仕事をしていた。そこへ突然、黒い帽子をかぶりあごひもをかけて剣を下げた巡査がやってきた。その姿が強く印象に残っている。
父を縄でしばって無理やりに連れて行った。それもただ縛るのではなくて、ちゃんばらや西部劇でやる投げ縄で父の首に縄をかけて、その縄で後ろ手に縛って引きずるように父を連れて行ってしまった。そのまま父は日本へ、現在の相模原へ軍事基地(日本陸軍のもの)を作る為に連れてこられた。
父が働かされた場所は、東京都と神奈川県の境になっている「さかい川」の東京都側で、当時の堺村の山林を崩して戦車道路を作ることだった。
一年後に母は、父を頼って私と妹をつれて日本にきた。当時の堺村には朝鮮人の飯場があり、四千人が住んでいた。
多摩丘陵の山林を切り開いて戦車道路を作るのが主な仕事だった。父達の労働はすべて手仕事だった。スコップや鶴嘴を使って土を掘り、すくい、モッコを二人で担いで土を運んだ。その作業現場には剣を下げた憲兵が見張っていて、一言でも文句を言えば、剣で切り付けたり腹を突っついたりして、朝鮮人に怪我をさせること等なんとも思わない様子だった。
わたしは怪我をさせられた人を何人も見ている。道路が出来たのは1944年、私は11歳になっていた。飯場暮らしの独身者は食料が少なくて空腹を我慢できずに、夜になると食料に融通のきく所帯持ちのところに忍んできてジャガイモなどを食べて帰ったが、そんなことでも見つかれば往復ビンタだった。(以下省略)
浜田先生の講義でも良く分かるが、日本最大の大規模な軍都相模原に隣接する町田市に戦中・戦後、大勢の朝鮮人がこのような悲惨な状態で暮らしていたことは、疑問の余地がないだろう。
現在の「こどものくに」には、弾薬庫があった。ここでも、1000人近くの朝鮮人が働かされていたという。旧国鉄原町田駅からは行幸道路も作られている。
町田の土地に刻まれた『戦争』及び、町田市の郷土史に」在日朝鮮・韓国人の足跡・事績が、ない筈はないのである。
 朝鮮を植民地にしてからの日本に、朝鮮人は労働力として移住してきている。本人の意思の有無にかかわらず、この事実は確固としたものである。
現在も、朝鮮・韓国人と呼ばれて町田市に住む人々がいる。両国の歴史に奔流され、取り残されてしまった人々である。彼らは声を挙げる場さえ持たない。
日本の植民地政策で思いだすのも悍ましい体験をさせられた。そして、その後、半世紀も過ぎているというのに、未だに無視・放置されているのはどういうことであろうか?
町田に暮らすようになって、私は33年になる。喜怒哀楽に揺れる熱い血の通っているあなたと同じ人間です。透明人間にしないで下さい。私を隣人として見て下さいと言い続けてきた。この私の悲痛な声が何人に届いただろうか?
町田市には朝鮮学校がある。町田に朝鮮学校があるという事は、其の由って来る原因がある。朝鮮を植民地にした事、そして戦争を遂行するために朝鮮人を労働力として連れてきたことである。
けれども、朝鮮学校の為にと言う補助金は一円も出していない。私立学校として年間一人の生徒に5000円を出しているだけだ。
朝鮮・韓国人も市民税、都民税、国税も納めている。介護保険料も払っている。市民としての義務は果たしているのである。何故、その恩恵は受けられないのだろうか?日本の各地の地方自治体は、独自に朝鮮学校に助成金を出しているところもある。
福祉の街として名をはせた町田市は、朝鮮人にはその福祉の心を届けていない。
私の父は、1940年福島県の常磐炭鉱に連れてこられて働かされた。そこへ、私達母子は命令により渡日した。家族がいれば簡単に逃げられないと思った為の人質であった。
日本の敗戦により私達は漸く自由の身になった。母が身重であったために船に乗れず、そのまま日本に住み着くことになった。こうして、私は日本の学校に通ったが、どんなに努力をしても認められることはなく、むしろ満点を取った事で、先生に「朝鮮人は先生にも看護婦にもなれないんだよ」と笑いものにされた。
結婚して母親になったとき、可愛いわが子には、差別される悲しみを経験させたくないと、家族の反対を押し切って上京し、一人で二人の子供を、朝鮮学校に通わせた。
けれども、朝鮮学校に対する差別があり、経済的に苦しい思いをした。一時は、三つの仕事を掛け持ちした。四時間の睡眠時間が確保されれば不足は無いのにと思ったものだが、女は弱しされど母は強しと、無事乗り越えた。
私の祖国朝鮮は、アメリカとソ連の冷戦の生贄になり南北に分断されてしまっている。
日本の敗戦後、私達は国籍を選ぶ権利も、他の市民権も全く与えられずに放り出されてしまった。そして、朝鮮人を管理する外国人登録の国籍欄に「朝鮮」と記載された。いわば記号だ。北も南もなく、皆、朝鮮人である。私が朝鮮人ですというと、殆どの人が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と結びつける。これは誤解である。
現在日本に定住する在日朝鮮・韓国人は朝鮮から来た人とその子孫である。誰もが皆「朝鮮人」だった。南と北に分ければ9割が南の出身である。我が家も、ソウルより南に位置する忠清北道から来ている。
朝鮮の分断後、韓国国籍を習得した人が「在日韓国人」であり、変更していない人が「在日朝鮮人」と呼ばれているのである。
「朝鮮」とは民族名であり、「朝鮮」という国は現存していないのである。
1965年にアメリカの意向により日本と韓国の政府は両国民の反対を押さえ付けて「日韓条約」に調印した。日本は朝鮮の南半分だけを正式に国として認めた。
そして、朝鮮の北半分とは未だに国交を樹立していない。他の国を植民地にした宗主国が半世紀以上も断絶ししたままでいるのは世界に例がないという。即ち日本だけである。
世界でもアメリカに次ぐ国が、米もない貧しい国と言いながら、人口が2000万程の国を恐ろしいと騒ぎ立てているのは何故なのか?私には理解できない。
韓国籍の方が、日本で暮らす場合には軋轢が少なく暮らしやすいので、韓国籍に変える人が増えて来た。むしろ、現在は韓国籍の方が多いという。
 けれども、私は、誰もが同じく朝鮮人と言われ続け、最初に「朝鮮」と記入された国籍を変えないでいる。「朝鮮」と呼ばれた国は500年である。紀元前にも「朝鮮」と呼ばれることがあった。意固地だと言われたりするが、私は『朝鮮籍』を守っている。
南北に分断された祖国の半分だけを意味する「韓国」に変えるつもりにはなれない。その為に自分の生まれた場所であり母国と慕う場所に自由に往来出来ないでいる。日本人や他の国の人が楽しく自由に往来しているにも関わらずである。この事を知らない人も多いと思う。自由な国、韓国という印象が強いと思うが、これが現実である。
この現実、日常生活に入ってくる日本人とは違う境遇や差別に日々向き合っている為に「戦争」に無関心ではいられない。
町田市と相模原市の堺にある境川(高座(たかくら)川と呼ばれていた)を散歩していたら、案内の看板が立っていた。金森、金目、秦野は渡来人の氏名に関係がある地名。因みに「たかくら」は高倉、高句麗に通じるという。ここ相模の国、武蔵の国一帯は、かつて高句麗からの渡来人が多く住んでいたという。
朝鮮学校は高ヶ坂にあるが、生粋の町田の人間だという方に言われた。高ヶ坂(こうがさか)ではない。高ヶ坂(こがさか)と「こう」と伸ばさずに「こ」と短く言うのだと言われた。
朝鮮語も「高」の場合「こ」と言うのである。高句麗はコクリョと読む。朝鮮語を勉強したことがある人はご存知と思うが、朝鮮語は長音が少ない。コーヒーは「コピ」ユニークはユニク。ポーズはポズ。
そこで、私は「成瀬」まで朝鮮語で結びついてしまう。「ナルダ」は飛ぶ。「セ」は鳥で「飛ぶ鳥」「あすか」になってしまう。ちょっと穿ち過ぎかも?古代史の本の読みすぎかもしれない。
 
相模、武蔵は朝鮮語から来ているという。
ヒントは、(から)(むし)。朝鮮では、現在でもモシと言う。
(から)から来たモシでカラモシ、カラムシとなったと我が家にある古い日本語の辞書に載っている。
モシガミ(モシ上)ムサガミ、サガミ・相模。モシシモ(モシ下)ムシシモ、ムシシ、ムサシ・武蔵。
富士山はかつて火の山と呼ばれた。古代史の本に出ている。朝鮮語で火はプル、山はサンで、プルサンがプチサン、プジサン、富士山となった次第である。
朝鮮語の1はイル、7はチル、8はパル。日本語になるとイチ、シチ、ハチとルがチに変わる。
「だるまさんがころんだ」という遊びがある。コロオンダは、現在もそのまま使われている「歩いてくる」という朝鮮語である。この遊びに転ぶ場面はない。
だるまさんは歩けない筈だが、この遊びには歩く場面が出てくる。この様な事は数え上げればきりがない。
日本文化のルーツは、中国文化をイメージする人が多い。朝鮮を中国文化の経由地であるだけと考える人も多い。けれども、朝鮮からの渡来人はその文物・文化を使いこなし、独自に発展させた人々である。文物・文化だけを運んできたのではない。文物・文化を使いこなせる人々が渡来して、文物・文化と共に日本に住み着いたのである。
朝鮮と日本は古代から現代まで、地理的にも近く、歴史的に切るに切れない深い繋がりがある。
朝鮮側からすれば、全く理解できない身勝手な秀吉の朝鮮侵略。この時、人口の3分の1の人々(兵士ではない、老人、女、子供まで)が、ローラー作戦で殺戮された。この秀吉の朝鮮侵略と、これも日本の身勝手な明治以降の植民地政策が、両国を引き裂いていると思われるが、2000年の間の朝・日間の関係では友好的であった時期が長い。
日本にとって一番争いのなかった期間、260年続いた江戸時代。鎖国をしていたと言われているが、朝鮮国と正式な国交を結んでいたのである。「朝鮮通信使」のことは今更私の説明は必要と思われないが、知らない人は調べてみて欲しい。
国家の争いは、政権を持つ者の欲望から来ている。それにより、犠牲となるのは善良な民衆であり、特に女、子供、老人である。私達は正しい歴史を知る事により、理解を深めることが出来るのではないだろうか?
金田一春彦氏の言葉を抜粋して記してみよう。
「言語学の立場から朝・日両国関係を見ると、日本語の「は」と「が」に当たる朝鮮語、相手によって語尾の「です、ます」部分が変化する敬語、擬態語や文法の順序など「他のどこにもないくらいそっくり」です。古代の高句麗、百済語などが明らかになれば、両国の関係はより明確になる。朝鮮と言うのは民族名で、「朝鮮民族」と言って来た。「韓国」民族とは言わない。昔から朝鮮語と言っておりましたし、朝鮮と言って親しみこそすれ、馬鹿にしたり、北だけを指すという気持ちは全然ない。朝鮮独自の文化に安堵感を覚える。朝鮮の民族衣装チマ・チョゴリは「世界で最も上品で優雅な民族衣装である」
日本語に(はな)から(物事の初めの意がある)という言葉がある。朝鮮語の(はな)から来ている。
分断祖国の統一と世界の心が一つになって、お互いを認め合い共生する事を願い、わたしは「端の会」を作った。ハナは朝鮮語で「一」である。「一人」である。「一」から「一人」へ、ハナからハナへ、私からあなたへ、あなたからあの人へ、次々と繋がってゆき、最後に大きなハナ、一つに成る。共生の幸せの花になる。
物事はすべて夢を持つことから始まる。千里の道も一歩から、こんな小さなハナだが、始めている。続けている。
図書館で長いこと絵本の読み聞かせの仲間の一人として参加して来た。いろんな会に参加して心を伝えてきた。二月七日に市民フォーラムで行われる、part4 life in peace「平和に生きる子守歌」の公演がある。これは、脚本も出演も町田市民によるオリジナルミュージカルで、この一員として参加している。Part3は、昨年の21日に市民ホールで公演され市民の好評を得た。
町田市の核廃絶平和都市宣言20周年記念のイベントとして認められ、市からの後援も受ける事が出来た。私は、part1から参加している。ここでも多くの友を得た。
歩みは遅くとも、たとえ、一粒の麦でしかないであろうとも、隣人の日本人を信じ続ける。人間を信じる事で、朝鮮人の私を隣人として扱ってもらえることを信じて歩いてゆくつもりだ。
「知る事から和解と真の共生がある」これが私のモットーである。

by pcflily | 2019-05-10 23:49 | アリランエッセー | Comments(0)  

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