9月1日 関東大震災時に虐殺された「犠牲同胞慰霊法要祭」

 関東大震災時朝鮮人虐殺は1923年だ。
今年も各地で慰霊祭が行われている事だろう。私は、近くの宝生寺に出かけた。例年のように、息子に現地まで送ってもらった。口には出さないが息子も出席はしないが思いは同じなのだろう。毎年忙しい中を、時間を割いて送ってくれる。例年のように昔からの朝鮮の国花の無窮花そして百日紅と溢れ咲いている百日草を持って行き参加した。花は慰霊碑の前に供えられた。民団の主催なので、私は異端者だが、快く迎えてくれる。この度の出席で一番驚いた事は、神奈川韓国総合教育院の方が挨拶をしてくれたので少し会話をした。その中で、彼は李誠七さんはハラボジ、即ちご自分が李誠七の孫であるという事であった。また、帰路には隣席の女性が紹介して下さった方にバスの停留所まで、私一人をのせて送って頂いたのだが、その方は民団の団長であると、私が車から降ろして頂く時に仰っていた。再度会う事があっても、顔を覚えていないのでお礼を言う事も出来ない。その車が豪勢であった事だけは分かったのだけれど~~~。

 今日、渡された資料より一部を抜粋。
この横浜の高野山真言宗・宝生寺では虐殺された朝鮮人の供養の為1924年から毎年9月1日の午前11時58分(大震災の発生十国)に法要が営まれ現在も続いている。
 この法要は当時、在日朝鮮人の同胞救済団体、愛隣園を主催していた李誠七氏が、虐殺された朝鮮人の慰霊の為、白木の位牌を寺にもってきて供養を頼んだのがきっかけである。虐殺事件の後一年しか経っていないので、いくつもの寺を訪れて頼んだが、いずれも断られ、ようやく宝生寺の当時の住職である佐伯妙智師(現住職の祖父)が引き受け今日に至る。李誠七氏の生存中は宝生寺と李誠七氏によって法要が営まれていたが、その後は同寺と民団神奈川県地方本部が中心となって続けてきた。
 宝生寺に納められている位牌は、その表面に「大正12年9月1日造位1946年9月1日改造 施主 愛隣園 李誠七」とある。第二次大戦後、位牌が作りなおされている。
(いつも、この位牌が中央に安置され読経がなされる)

同寺の境内には1971年9月1日に「関東大震災韓国人慰霊碑」が、施主日韓協会で建立されている。建立委員には民団神奈川県地方本部孫張翼団長、神奈川韓国商工会洪勺杓会長、横浜商銀信用組合李鐘大理事長、韓国学園崔春植理事等の八氏が名を連ねている。
 李さんは亡くなる前に佐伯住職と住職の母を読んで「私が死んだ後も震災犠牲者の供養は毎年続けて欲しい」と~~~。
宝生寺は末寺51寺を持つ中本寺であり、この地方の高野山真言宗の古刹だが、現在でも檀家は70軒ほどであり関東大震災当時は20軒ほどしかなかった。ほかのお寺では引き受けなかったのに、当時の社会情勢の中で李さんの頼みを聞き入れて供養を引き受けられたのは、檀家が少なかったからという事も言える。

宝生寺は800年前の平安時代承安(じょうあん)元年(1171年)に民部卿大僧都、覚清法印によって草創され、高野山金剛峰寺を本山とする古刹である。


宝生寺の犠牲同胞慰霊法要祭

f0253572_16213231.jpg
〇30分ほどの読経があげられる。
f0253572_16153299.jpg
〇慰霊碑
f0253572_16091489.jpg
〇慰霊碑の裏面、建立時の協力者の名前が刻まれている
f0253572_16195839.jpg
〇出席者全員のの焼香
f0253572_16063707.jpg
〇日の前方のこの建物い鐘があり読経中に鐘が鳴らされてた
f0253572_16113938.jpg
〇白い芙蓉の花が咲いていた
f0253572_16104457.jpg
●宝生寺は山腹に有るのでた沢山の木々が鬱蒼としている


[PR]

by pcflily | 2018-09-01 18:10 | アリランエッセー | Comments(0)  

<< 透明人間にされた私 終戦宣言の約束は? >>