アボジとオモニの祭祀とお墓詣り,本家の古書の確認、植民地歴博物館への資料。

秋、9月に私も80歳になる。人生の終盤に来た。30歳まで持てば儲けもんと言われた虚弱児が倍以上生き延びている。何時も死を意識して来た。夜、床に就く時は今日も生きたと思い、朝の目覚め時も同様な思いになっていた。だから、今思った事、出来る事は直ぐにすることが、身についていて驚くような突飛な事もしでかしてきたと思う。
実家で50坪の檜建ての家を半年住んだだけで家出をしてしまうと言うような無謀な事もしてしまった。自分の無力さを顧みる事もなく、子どもを朝鮮学校に通学させたい思いからであった。あれから、47年が過ぎたことになる。如何に無謀な事をしたのかとの思いが募る。何時も、心配して下さった両親も他界した。
気にかけていた私の墓所も思いがけず、希望していた通りに両親の傍に設置できた。日本に作られていた両親のお墓にも、遺品を納めたことにより、私なりに両親の魂を、納めたと思っている。実は、韓国でアボジは墓地にオモニは納骨堂に、離れていた。けれど、甥に在日となった私達の思いを伝えて、なくそうとしていたアボジの墓地を守ることが出来た。オモニのお骨をアボジの傍に埋葬する事も出来た。アボジとオモニには7人の娘がいるのだけれども、誰一人としてこの大きな仕事について、手伝ってくれなかった。全員に無視された。
アボジとオモニの祭祀が、韓国で4月5日に行われるので、4日に出かけ10日に帰ってきた。祭祀のほかに、本家の古書を、専門家に見てもらう目的もあった。又、5月に開館予定の「植民地歴史博物館」に資料を届けたいとも考えた。
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祭祀をすませソウルから離れている忠清道迄一人で行き、お墓詣りをして、本家により本を見せて頂いた。本家のお兄さんが亡くなりその妻のお姉さんも90歳を越している。老婆二人では、しっかり包装されていたり高所にあり重くて下ろせなかったりしたが、とりあえず手に取れるものを出して写真を写したが、電池が切れてしまった。専門家に見て頂くので借りたいと話したら快く貸して下さった。やっぱり貴重な古書であることが判明した。土、日は休みで月曜日も休みであったが、電話をしたら、見て下さるとの事で、迎えに出て、裏口から特別に入れて下さり目的を達成することが出来た。
「植民地歴史博物館」も開館準備で忙しいなかを、鄭重に接して下さり食堂にまで案内されて、御馳走になった。
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快く大切な先祖の古書を貸して下さったお姉さん。昨年お兄さんが亡くなり、90歳を越えての一人暮らしだ。
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初対面の私に、自宅を自由に使ってと解放して下さった方は、手作りのブローチを手ずから私の洋服につけてプレゼントして下さった。ソウルへ帰る駅までのタクシーを呼んで下さいと頼んだ方も、一度も使って無いと言いながらブローチを手ずから付けプレゼントして下さった。私が断るので手ずから付けて下さる。韓国では始めて会った人にこうしてプレゼントする風習があるのかと甥に聞いたがそんな事はないと言う。泊まるお宅を紹介して下さった方も自分の母の形見でおそろいだと言って、既に最初に会った時に紫色の指輪を下さったのに、この度も、母の形見という対の指輪の一つを、私の指にはめようとしたが入らなかったので、諦めてくれた。手土産一つ持って行かない私に対して、何故だろうとずっと考えている。
「植民地歴史博物館」では日本の植民地政策による被害。1945年以降在日朝鮮人、韓国人が現在まで、今も猶、被害を受けていることを知って欲しいと思って来日した時に私的な資料を渡したが、理解して下さった。日本に暮らしていても同じ民族であると、今回持って行った資料も、有難いと受け取って下さった。民族問題研究所の皆さんに感謝している。私の死後には捨てられてしまうものであろうから、お役に立てば嬉しいと大切にしていた物を渡してきた。私にとっては生きて来た証である唯一の宝物であるけれど。お役に立てればと思う。

夫が突然死した頃の写真、左下は49日。右は上京した頃、娘と私が同じ月日の同じ明け方に生まれたので毎年記念に写真を撮っていたうちの一つ。
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落合恵子氏が発行している月刊雑誌「COOYON・クーヨン」に取材されもの
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韓国・中国・の日本の高齢者の文化祭、植民地時代に日本に留学した人と日本人の友好の為の会、着物姿の日比さんに韓国から大勢いらっしゃるからと見に行ったのに、突然舞台わきに呼び出され司会の一員にと頼まれて2日間、手伝いをしたことがきっかけで10年以上過ぎて韓国にも同行し、初めて西大門刑務所に行った。
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町田での平和ミュージカル、私の講演の話も脚本に取り入れられた。感想文が余りに多かったので、監督がこんなに多いのは今まで市民ミュージカルを続けてきたが初めてであると、冊子が作られた。一つは公演当日に渡されたパンフレット。
町田に来て、私の娘のチョゴリ姿を見て、まだ朝鮮人が日本にいたのかと言った人がいた。町田には朝鮮学校があるのにも関わらずだ。私は一人で、たった一人にでも朝鮮人の私を見せる事によって真実を、理解してもらえたら、その人が朝鮮人の真実を他の人に伝えてくれるだろう、それが次々と伝わり大きな輪になり、将来大きな和になる事を願って細々と努力を続けた。「端・はなの会」と自称するようになった。こんな小さな端切れに過ぎない私、「ハナ」は朝鮮語の「一」だ。一人で一から初めて将来は大きな友好の夢の花が咲くことを願った。けれども、夢は夢であって、蒔いた種は芽生えたが,蕾のままに散ったのだろうか?あるいはどこ小さな花になって咲き続けているだろうか?町田で始めたハングル教室「端・はなの会」は今でも続いていると言うが、他のものはどうであろうか?花は小さくとも、咲き続けていることを願うばかりだ。

現在も、この日本に朝鮮人が暮らしている、生きていることを知ってもらおう。
私の名前は朴貞花だ、パッチョンファだ、パクではない。せめて名前だけはきちんと読んで欲しいと言うのが私の願いであった。何の肩書もないが、本名を読んで欲しいと名刺を作り渡していた。集いがある時にはチマ、チョゴリをまとって行った、同胞の集う場所でもチマ・チョゴリを着て行く人は、少なかった。同胞の結婚式があると紙袋に入れて持って行き、現地で着替える人が多かったが、私は、新宿に行く時も小田急線の混雑しているラッシュアワーの中をチマ・チョゴリのままに乗車するのが常であった。他の人はお金を余分に出してロマンスカーに載っていた。
右上の写真は卒業して50年目に初めて参加した県立若松女子高校の同窓会。この日は、緑色のチマ・チョゴリで参加。前回参加した時には、自分のカメラで映したいと仰った方が後に沢山の写真の他に大きく引き伸ばしたものを、額装して送って下さった。高校の名前は変わっていて中高生男女同学の学校になっていた。
下の写真は江川村立江川中学校の同級会。白色のチマ・チョゴリで参加。

「植民地歴史博物館」に差し上げるつもりでファイルに挟んだものを、思い出すために少しカメラに収めたので、写真が、それぞれ可笑しな状態になってる。また、もっと沢山あるのに出てこない。ブログに載せるつもり等なかったのに、何故かこうして載せている。自分の心がこうして変わるのだから、誰かの心変わりを云々する事は出来ない。
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。神奈川県関東大震災時朝鮮人虐殺の追悼会、一人でチマチョゴリを来た。
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by pcflily | 2018-04-13 23:07 | アリランエッセー | Comments(2)  

Commented by Nimura Takeshi at 2018-04-16 10:52 x
差別や迫害にあっても、民族や歴史を意識せざるを得なかった朴貞花さまの心意気はブログ読者の胸を打ちます。
暫く、ブログの更新がないので韓国にお出かけでは、と思っておりました。元気でご活躍ですね。韓国で初対面の方がブローチや指輪を下さるというのは朴貞花さまの熱意が伝わったからではないでしょうか。50年近く前、赤旗等の新聞で朝鮮学校の女学生がチマチョゴリを着ていたために罵声や暴力を振るわれたと報道されていました。私自身は良く覚えています。あの時代チマチョゴリを着て街中を歩くのにどれだけ勇気のいることだったでしょう。保守日本に憤然と立ち向かう朴貞花さまの若き姿が目に浮かぶようです。差別、抑圧されているがゆえに民族の文化や習慣、言葉を大切にした「漂泊の人々」の情熱や信念に思いを致さなければとブログを拝読して感じ入っております。お元気でご活躍されるようお祈りしております。
Commented by pcflily at 2018-04-16 18:32
コメントを有難うございます。新村様の他にこのブログを読んで下さる人はいないと思っています。何故かと言えば、「読んで頂いた後に、一言でもコメントを下さいとお願いしても、コメントを書いて下さる方はおりませんでした。

そして、ブローチを下さった方はお二人とも会ったばかりに下さったのであって、深い話は何もしていないのですよ。私が何を考えているのかは分からないと思います。現在の日本では危険なのでチマ・チョゴリは街中で着る事が出来ません。危険だと子供や孫に止められています。

寝所を提供して下さった方とお会いしたのは日本から着ていった洋服姿でした。その洋服に、彼女はつけて下さったのです。お墓参りに行った時は、電話をかけて下さいとお願いしただけで、詳しい話はなにもしていません。韓国に着いた翌日からは、チマ・チョゴリを着る事にしていますので、この時もチマ・チョゴリ姿でした。韓国に行くと何故か沢山の人たちから、優しくされて帰ります。しみじみ「情の国」だと感じました。羽田に着いてからは何度か嫌な経験をして帰りました。

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