3/1独立運動は何故起きたか?

●気が付かなかったが、音のする方を見てみたら花火が上がっていた。窓の傍に椅子を引き寄せ、しばらくは花火鑑賞とと思ったのに、30分で終わってしまった。早い時間から見たかったのに、残念。カメラも不調で良い写真は採れない。
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○姉妹の反対の中、オモニを我が家に連れて来て、介護をしていた時に、大喜びをしたのがこのお話をする人形であった。韓国のナヌムの家のハルモニ達へのお土産にと買ったのだが、日本語しか話さないので、事務局の人と相談して持って行かないことにした。
子供も、孫も私の存在を忘れているので、現在、私の最高の慰めになっている。朝から晩まで優しい声で、優しい言葉をかけてくれ、体の具合まで心配してくれる。時節に合わせて話をするので、びっくりする。一人暮らしの人には良い話し相手となり慰められると思う。
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「関東大震災時の朝鮮人虐殺を知り追悼する会」ではテーマを決めて、交代で、調べたことを発表している。証言集を読み、フィールドワークをするだけでなく、何故?あのような酷いことが起きたのであろうかと、時代背景を学ぶことになった。
一度も発表をしたことのない私は、誰も手を挙げなかったので「3・1独立運動」について話すことになった。
実態を知ってもらいたいと、頑張ったのだが、こんなに長いレポートは私が初めてであり、同じ日に大学院生という在日コリアン男性は2ページ、私は26ページだった。あまりに文字数が多いので、このブログ欄には字数が多しぎるので、全部は設定出来なかったので後半を削った。
私はこの方法が一番良いと思ったのだが、さて、皆さんはどう感じたのか、また理解を深めて頂けたか、どうか分からない。せっかく纏めたので、ブログに載せることにした。
読んで理解を深めて下さる人がいらっしゃるであろうか。甚だ疑問だ。

 日本の朝鮮人への強い蔑視感は現代のヘイトスピーチをも引き起こしています。秀吉の朝鮮侵略は秀吉の個人的欲望と国内の不満を外に向けたものと思います。明治時代の朝鮮侵略にも同じ問題が通底していると思います。

秀吉の朝鮮侵略を本居宣長は褒めたたえ、古代の信憑性のない神功皇后の「三韓征伐」と「朝鮮征伐」で朝鮮蔑視を作り上げることに貢献しました。徳川家康の江戸時代になってからの朝鮮通信使の来日は、対馬の宗氏が国書を偽造して始まりました。(室町時代の通信使の通った道を、秀吉の侵略軍は利用したので、朝鮮王朝への通信使を認めなかった、日本を信用しなかったからであるのに、日本が上位であると思わされていた)

一人で歴史の本を紐解いていると、倭寇、秀吉の朝鮮侵略、明治に入ってからの韓国併合と、何故?日本は度々、朝鮮を餌食にしてきたのかと思います。私は、悲しみと苦しみで胸が痛くなります。日本にとって一番近い国、一番長い歴史を古代から共に生きて来た隣国であることが、朝鮮にとって国土を移動させることも出来ないので逃れられなかったことが、不幸の始まりのようです。

私は、「関東大震災時の朝鮮人虐殺を知り追悼する会」を知り、学習会で学ぶ子供達の作文の読み直しで、子供達にまで深く根付いている朝鮮人に対する差別感に対して驚き、理解できず、何故なのかといくら考えても、どうしても解けない謎でした。

先日、自衛隊の紋章の刀のデザインを反対する為の賛同をというメールが入っていて驚きましたが、選挙の期間中にポストに入っていた創価学会の聖教新聞(6月23日)に、東京富士美術館で好評開催中の「ザ・刀剣―千年の巧と美」展の紹介があって、宗教関係の新聞であるのに「鍛えられた刀のように、人生勝利の旗を打ち立てて信心の勇者になれ」と刀を比喩として使われていたので驚きました。

朝日新聞の磯田道史の「古今 をちこち」には、西洋人の精密な報告から、分かったこととして西洋人に初めて出会った時に興味を持つ「事物」について記されています。

西洋帆船に乗せてもらうと、朝鮮人は書物、琉球人は地球儀、アイヌ人は無欲で何も欲しがらず、日本人は滑稽なほど武器に興味を持っている。朝鮮は儒教で文人の国。琉球は海神の国。アイヌ人は穏やかな猟人であった。その中で日本人の兵備への関心は突出していた。武人の国であった。ロシア海軍のゴロウニンは「日本人は聡明で抜け目がない。模倣上手で忍耐強く勤勉だ。偉大な王者が君臨すれば、多年を要せず、全東洋に君臨する国家になる。」と言ったとある。1811年の事。明治維新の半世紀以上前である}

朝鮮が貧しいから遅れているから、豊かな日本に「併合」されたのだと思い込まされていました。けれども、古代の交流、また朝鮮通信使を迎えていた江戸時代には朝鮮は文化の方が、進んでいて、日本人にとって憧れの国であったことは確かです。私事ですが私のオモニの祖先は秀吉の朝鮮侵略の時に朝鮮を礼節の国として、朝鮮に帰化した日本人です。(沙也加・金忠善・友鹿洞)

朝日新聞で開催した日・中・韓のシンポジュウム『宗家記録と朝鮮通信使展 江戸時代の日朝交流」に参加した時にもこの事実を知ることが出来ました。

私は事柄の真相を知るために、歴史年表を作成し、どのような流れになっているのかを見ることが多いので、今回も、歴史年表を作りました。殆どが手持ちの本をもとにしたものです。記入漏れもあるかもしれませんが、ご承知おきください日本と朝鮮の関係を中心に記入しました。

l 31独立運動は、なぜ起きたのか?

この年表をご覧になると、朝鮮に対して、軍事力で恫喝しながら、いかに非道な残虐な方法で朝鮮を侵略していったのかを、はっきりと知ることが出来ます。

もう、これ以上は耐えられないと、朝鮮人は、立ち上がったのです。

公正を期するためにイギリスとアメリカの記者の記録を見てみます。

イギリスの『デイリー・メール』紙記者F・À・マッケンジー見聞録『自由の為の朝鮮の戦い』「まばゆい陽光は、市内を見渡す丘の上にはためく日章旗にふりそそぎ、日本軍歩哨の銃剣にきらめいた。私は未だかつて、このような徹底した破壊を見たことがない。一か月前までは賑やかで裕福な村落が今はまったく姿を消し、黒ずんだ灰色のごみくず、燃え殻の小さな塊が列をなして連なっていた。まともな壁も、一本の梁も、割れていない甕もなかった。ここかしこで人々は灰をつつき、何か使えそうなものを探すのであろうが、すべては無駄であった。堤川は地図の上から消え失せた」

●マッケンジーは「黄色いジャーナリスト」と言われた親日記者だった。「彼らの目的は、義兵がしていることが、人民を餌食にする単なる不法集団としての義兵の性格を明白に浮き彫りにすることであった。彼らは全世界で、このような世論を作るのに成功した。しかし事実問題として、運動はますます成長している。朝鮮人は武器を入手することが出来ず、武器なしで闘った。臆病だの無感覚だというあざけりは、その力を失いかけている」

(乙巳条約締結直後から朝鮮国内における反日義兵闘争は全国的な規模で発展し、1907年から10年までの義兵と日本軍との大規模な戦闘は約3千回、約15万名の義兵が参加しているー少なめに見積もる日本側の統計・実際はこれより多い筈)

倭賊のともがら わが祖国を犯す    白日の下 悲しみにせきあぐれば   

江水 また暗く    晴天に涙をそそげば    雨となり ほとばしる

この身 死すとも   忘れえじ    わがたたかいの ああ 栄山の道

ほととぎす 血をはみて    ふたたび われは帰るらん (義兵隊長・金海山)   

●ロシア革命、アメリカの大統領のウイルソンの民族自決宣言(自分の国の運命はその民族が自ら決定する。いかなる民族であれその民族が独立を望んだならば独立させる)

●直接の動機は高宗皇帝の毒殺です。何よりも、朝鮮人の独立への意志がゆるぎないものとなりました。機が熟したのです。

●3・1独立運動に立ち上がった朝鮮人を、日本の官憲は軍隊を出動させて鎮圧。朝鮮人は誰一人武器を持っていなかった。にもかかわらず、日本軍・警官は、その朝鮮人に発砲し、至る所で大量虐殺を行った。当時、朝鮮全土に憲兵駐在所98ヶ所、憲兵派出所877ヶ所、憲兵出張所43カ所あったが、示威行動には例外なしに発砲した。朝鮮人の独立の願いは、日本の砲火の前に無残にも鎮圧されました。

明治初期の 農民一揆  士族の反乱 主なものを年代順に記しました

封建制度のもと、徳川幕府と260あまりの大名によって分割支配され士・農・工・商・エタ・非人の身分差別を受け「胡麻油と百姓は絞れば絞るほど出る」と収奪され、反抗することは出来なかった。

1837年  大塩平八郎の乱

1854年   日米和親条約((ペリー米国使節)

1856年   アロー号事件 英仏の中国侵略戦争

1858年   岡山藩で渋染一揆

1861年   アメリカ南北戦争

1863年   興宣大院君政権始まる

1866年   朝鮮に、アメリカの海賊船シャーマン号事件とフランス艦隊の江華島事件、共に撃退する

1867年   大政奉還

1868年  戊辰戦争   江戸を東京に、年号を明治とした

1868年  明治維新 木戸孝允は 早い時期から「征韓」を強力に主張していた

1869年    農民一揆 110件  蝦夷地を北海道に、 版籍奉還

1870年    貢租免要求 熊本・宮崎等 士族の反乱 樺太併合

1870年    農民一揆 65件

1871年    農民一揆 52件 、新政府反対、 士族の反乱 、旧主留任要求 、士族の反乱 生活不安、

1872年    農民一揆 30件 、信濃川疎通反対・信濃川・新発田・長岡・松代 士族の反乱 

1872年 「盗測」 朝鮮侵略の為の地図を作る盗測を始める

1873年 「征韓論」朝鮮侵略により自己の政治・経済的矛盾を回避する戦略

1873年    農民一揆 56件 、徴兵反対(九州) 士族の反乱 「地租改正、富国共生、殖産興業(農民への税金)」 

1873年  閔氏政権 成立

1874年    農民一揆 21件 、地租改正反対 士族の反乱 、佐賀の乱 士族の反乱 

1874年 日本軍 台湾出兵

1875年    農民一揆 15件 

1875年  江華島事件 日本軍艦 雲揚号、大砲で威嚇し侵略の口実を作る

       永同島の要塞を急襲し上陸、城内の建物民家を焼き払い(遺棄死体35、

俘虜16)大砲38、銃砲などの兵器のほか、兵書、楽器を略奪した。

1876年    農民一揆 26件、地租改正反対・伊勢暴動  士族の反乱 、秋月の乱・九州 士族の反乱 

    神風連の乱・熊本 士族の反乱 、萩の乱 士族の反乱 、農民一揆 26件 

1876年 2月 江華島条約調印 黒田清隆,井上馨らは6艘の軍艦を背後に軍艦の砲声、軍事的脅迫のもとで締結を迫り 江華島条約(日朝修好条規)を締結させた 

 1日本人の治外法権を認めさせ2日本の金を朝鮮内での流通を認めさせ(米国は日本に、この事までは押し付けなかった) 3朝鮮の関税自体を認めさせないで日本の一切の輸出入商品に関税をかけない4期限を明記せず永遠に及ぼすものとした 

こうして朝鮮から沢山の金や米を持ち出し日本商人は食料を買い占め作物、田畑、山を取り上げた

1877年   西南戦争 士族の反乱、農民一揆47件

1878年   参謀本部は天皇に直属し用兵・作戦などを掌り太政官と同じ機関とされ強力にした

1882年   壬午軍乱 米も支給されなかった朝鮮の兵士たちの不満の爆発から始まった

1882年   壬午軍乱起き政府は大々的な軍備拡張 福沢諭吉は重税他の犠牲に耐え軍備拡張主張

1884年   甲申政変 朝鮮の開化派日本軍の援助を受けクーデター起こすも3日天下で終わる

1885年  福沢諭吉 脱亜論」中国朝鮮は、隣国とて処分すべきもの 井上馨も同意見を

1889年  日本の米、大凶作 (農村の娘は身売りさせられた)

1889年   大日本帝国憲法発布、日本、防穀令 凶作を理由の輸出禁止令に対し日本の貿易商が打撃を受けたと朝鮮に賠償金を要求し、朝鮮政府からむしりとった

1890年   日本資本主義に第一回恐慌に直面 経済界混乱、貧民問題起きる

1890年  首相・山県有朋「利益線(朝鮮を侵略)を守ること」と戦争準備表明

1894年  日本軍、景福宮を占領、国王を虜にし、王宮内の武器を押収、制圧する

1894年  日清戦争朝鮮を戦場とした 農民は日本軍と闘ったが日本軍は40万人を殺戮

1894年  甲午農民戦争・反封建と反侵略の闘い・東学党の乱 全琫準の指導で農民が立ち上がった、全州を占領

1895年  台湾を植民地にする  下関条約(朝鮮を日本の権利下に置く)三国干渉

1895年  乙未事変 閔妃虐殺  公使三浦梧楼(元陸軍中尉)公使館一等書記官杉村濬、

朝鮮政府軍部兼宮内府顧問岡本柳之助ら、王宮に押し入り閔妃を虐殺し焼却。

歩兵隊450人が景福宮を占拠第一中隊は光化門から侵入し銃撃戦、王宮を制圧、王妃を惨殺、遺体を焼き捨てた。

三浦公使は「是デ朝鮮モ日本ノモノニナッタ。モウ安心ダ」と語った。

日本公使館の一室で三浦公使を中心に密議を凝らしているのはーーーー

「どうも此の儘では捨て置かれませんなあ。我国は支那と戦って勝利を得たといふが、台湾だけは貰っても、遼東を還附した上朝鮮が此の状態になっては何の為に戦をしたのか分からない。大連と旅順をロシアに取られ、おまけに朝鮮まで進上してしまっては、やがて日本が朝鮮になりますよ」

「――荒療治するより他に手はありませんよ」

「荒療治というと?」

「我々の手で王宮を占領して了うのですよ。そして何と言っても朝鮮のあの悍婦ですから、彼奴の息の根を止めてしまわなくては何事も出来ません。――」

 『朝鮮王妃秘話』村松梢風(1889~1961)より

国家を代表する公使が、その国でその国の王妃を虐殺した世界市場例のない事だ

目撃したアメリカ人のゼネラルとロシア人のサバチンの証言で、国際的に苦境に立った日本政府は、日本軍の三浦公使以下40名帰国させ、全員を無罪釈放した。釈放された三浦は「沿道至る処、多人数群れして、万歳万歳の声を浴びせ掛けられた」と記している。後に学習院の学長となる

そうして、事件に無関係の朝鮮人を極刑にした。

「から山に、桜を植えて、から人に、やまと男の、歌うたはせむ 与謝野鉄幹」

1896年  日本軍、全琫準を処刑する 反日義兵闘争、義兵蜂起(国母・閔妃の復讐) 

       「独立新聞」発刊 独立協会設立 独立門建立

1897年 「大韓帝国」と国号を改め 中立を宣言する

1898年~1899年 英学党 全羅道の 農民の闘い 「皇城新聞」発刊

      「義兵通過せるところ、その関係のいかんを問わず日兵継到し、その村落、家屋を

ことごとく放火、掃蕩せり。無辜の人民は失巣迸鼠し、産業は灰燼に帰し、家屋は丘墟のごとく凄惨なり。秋穀田に満つるも収穫の望みなく、寒季漸く迫るも住むところなく、婦啼児号に心寒し」 「皇城新聞」より  

1898年  独立協会,万民共同会を開催、弾圧により解散に追い込まれる

1899年~1905年 活貧党 忠清道、京畿道、慶尚道の農民の闘い

1902年   朝鮮で日本の第一銀行券通用される  東北地方大凶作

1902年   日英同盟 ロシアのアジア進出牽制

1904年 日露戦争 ロシアに宣戦布告、戦争仕掛け勝利40年の戦争時代に、町民が提灯下げ町内を練り歩き熱狂、新聞の号外1日に3~5回 

朝鮮に日韓議定書を強要(2月)内政介入 朝鮮を軍事占領      第一次日韓協約を強要(8月)実権掌握 日本人の土地所有合法化 軍用鉄道敷設 日本国民の一員として「自分の戦争」となる 

帝国ホテル創立、大倉喜八郎・朝鮮で利益を貪った

1905年  「大韓毎日新報」発刊 日本天明以来の大飢饉の大凶作

1905年 桂・タフト秘密協定 米国のフィリピン統治日本韓国支配 日比谷焼き討ち

1905年  ロシア、ポーツマス条約 調印 日米間に桂・タフト秘密協約

1905年  第二次日韓協約(11月)・乙巳保護条約 伊藤博文は天皇の親書を携え「保護条約」調印を求めた。日本軍をソウルに集め朝鮮の閣僚は憲兵隊、警察の監視におき、拒否していた国王の裁可もないまま調印させた 朝鮮の外交権を日本が奪取し伊藤博文「統監府」新設する、実質的植民地支配 日本軍に王宮を包囲させ伊藤博文の恫喝にて、「保護国」と外交権奪う「国璽」はない 

侍従武官閔泳煥・首相趙秉世ら多数の人が自決して悲憤を表した。

朝鮮全土激憤のるつぼ、義兵闘争と国権回復運動昂揚

1906年  統監府を置く 初代統監 伊藤博文

1906年  各地で暴動 足尾銅山などに軍隊出動

閔宗植、崔益鉉、孫秉煕等の義兵闘争

1907年~1909年閔宗植、崔益鉉、李麟らの指導でのべ15万の義兵5600回日本軍と闘った

1907年  「ハーグ密使事件」高宗皇帝「万国平和会議」に密使を送り保護日本との条約の無効、独立の意思を伝える日本の根回しで拒否される 

株価大暴落、恐慌続く

第三次日韓協約 高宗の退位強要  純宗即位 韓国軍解散  

       義兵運動全国に拡大、活発化ピークに達する 日本の直接統治を決める

1908年  日本、東洋拓殖株式会社設立、日本人の大土地所有創出 

各地で義兵闘争最高潮

1909年   安重根、伊藤博文をハルピンで暗殺

日本軍は村ぐるみ殺し焼き尽くし奪いつくした朝鮮民衆は朝鮮北部、中国東北部で闘う、朝鮮の民衆は義兵となり朝鮮全土で闘った

日本軍は義兵に対して「南韓暴徒大作戦」などで徹底的に弾圧した

1910年  「韓国併合」条約を強要調印 朝鮮総督府設置(初代総督・寺内正毅)

多数の日本陸軍部隊を』ひそかにソウルに集め、朝鮮人を刺激しないよう細心の

注意を払いながら、各城門、王宮、統監、司令官、大臣などの邸宅を厳重に警戒・監視し、調印の日にはソウルの町を日本の憲兵が巡回し、朝鮮人は二人で話をしていても尋問を受けるという厳戒ぶりのなかで、「併合」条約は結ばれた。

総督は天皇に直隷し、朝鮮に於ける一切の政務を統轄するの権限を有する事等。 

「韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意を明らかにする」伊藤博文伝

会社公布令 土地調査事業開始 大逆事件起きる幸徳秋水ら逮捕

「小早川加藤小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらむ 寺内正毅」

「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く 石川啄木」

「秋の風我等明治の青年の危機を悲しむ顔撫でて吹く 石川啄木」

1911年 中国で辛亥革命・中華民国生まれる 幸徳秋水処刑 寺刹令公布

1911年   日本「総督暗殺陰謀事件」を造作、新民会などを弾圧

1912年   寺内総督暗殺未遂事件(105人事件) 株式大暴落

1913年   「独立義勇軍事件」弾圧 義兵は国境を越え間島地方やシベリア一帯に移動した

1914年   第一次世界大戦始まる 対独宣戦布告し参戦

1916年  王宮の景福宮に総督府庁舎建設敷地9,481坪5階建

1917年 ロシア革命 ソビエト政権成立  生糸、綿布、株式大暴落

1918年 シベリア出兵強行 米・英・仏が撤兵後も駐留、

国内外の批判により1922年に撤兵

1918年   富山県の漁村の女性達の米騒動は、史上空前、全国の民衆の暴動の米騒動になった 

軍隊出動 寺内正毅内閣退陣 

ウイルソン民族自決宣言 

李東輝シベリアで韓人社会党結成 朝鮮人留学生に独立運動活発化

1919年   3・1運動 

1月 高宗死去 毒殺説広がる

2月 在日留学生 二・八独立宣言発表 

3月 三・一運動起こる

パゴダ(タプコル)公園で、独立宣言が発表され、万歳を高唱しデモに入ると、数万の群衆がこれに呼応し、独立万歳を叫びながらの大運動が沸き起こり、全朝鮮に広がった。朝鮮民族全体が立ち上がった歴史的大運動となった。これに呼応するように、日本の侵略に反対する中国の青年達も五・四運動を展開した。

これに驚いた日本政府は、徹底的な砲火による徹底的な弾圧をして素手の民衆に無差別の虐殺をした。憲兵、警察のほかに正規軍を投入した(朝鮮に住む日本人は「自衛団」を組織して官憲に協力した)

堤岩里事件(日本憲兵は教会に住民を集め火をつけ銃撃し虐殺した)

●3・1独立運動の発生は、新聞を通して日本国内に「騒擾事件」として捉えられ、日本の植民地支配に対する朝鮮民族の根底からの反抗とは捉えられなかった。運動が長期化し激しさが増すと、真相を隠すために厳しい報道管制が敷かれた。(武断政治より文化政治へ 斎藤実総督赴任)

月 上海に大韓民国臨時政府を樹立 

1920年  産米増殖計画実施 金融大恐慌「俺は河原の枯れすすき」等の暗い歌流行

1920年 国際連盟発足 9月~10月、琿春事件(日本は馬賊を買収して日本領事館を襲撃させ、これを独立軍の行為に見せかけるでっち上げをし、これを口実に大軍を満州に不法侵入させ、徹底的な三光作戦」を展開

1920年10月20日 独立軍、青山里の戦闘で勝利 

1920年   信濃川水力発電所工事現場で朝鮮人虐殺 戦後恐慌始まる

1922年(大正)水平社創立

1923年 関東大震災 日本官民朝鮮人虐殺 東京に戒厳令死者約10万人

朴烈大逆事件

1925年 治安維持法公布(朝鮮に勅令公布)

1927年   金融大恐慌

1929年 光州学生抗日闘争 株暴落 世界恐慌始まる(~32年)

1931年   日本軍 満州事変起こす 満州事件

1932年   満州国・傀儡国家作る

1933年   日本国際連盟脱退

1934年   満州国帝政実施

1937年   盧溝橋事件 日中戦争始める 南京占領、大虐殺事件起こす

1938年   日ソ両軍衝突 特別志願公布(朝鮮でも実施) 朝鮮語の使用禁止

1938年   国家総動員法

1939年  第二次世界大戦勃発 創始改名強要労務動員計画(朝鮮労務者内地移住権を通達)

1939年  光州の4校を廃校処分・神社参拝拒否 

1941年   真珠湾攻撃 太平洋戦争始める

1941年   上海臨時政府 対日宣戦布告

1942年   朝鮮語学会事件

1942年   朝鮮人内地移入斡旋(労務動員産業へ) 朝鮮で徴兵令実施

1943年   海軍特別兵令公布

1944年   朝鮮人徴用令実施

1945年   朝鮮での国民義勇隊組織要綱発表

1945年 ポツダム宣言受諾  日本敗戦

参考図書 中塚明『近代日本と朝鮮』海野福寿『韓国併合』千龍淑・内田富夫『韓国近代の叫び』

姜在彦『朝鮮近代の風雲史』李玉『朝鮮史』平凡社『朝鮮を知る辞典』梶村秀樹『朝鮮史』福島民友新聞社

『20世紀 ふくしまの100年』中塚明『近代日本と朝鮮』千龍淑・内田富夫訳『韓国近代の叫び』

マーク・ピーテイー・浅野豊美訳『植民地』朴春日『近代日本文学における朝鮮像』その他()()

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3・1独立運動について、調べ始めて、朝鮮と日本との関係史の年表で考えることにしてから、ある朝、はたと気が付きました。長い事、私の疑問が解けないでいた「関東大震災時の子供たちの作文や、証言の中で、誰も彼もが、平気で人間を虐殺することに躊躇しないどころか、率先して殺人を犯していた原因に気が付きました。

西洋の帆船に乗せてもらって、朝鮮人は書物、日本人は滑稽なほど武器に興味を持っていたと言う事は、江戸時代までの武家社会であったからであろうかと。アイヌ人も沖縄人も日本人に吸収され朝鮮人は併合されました。

けれども、子供達までもが、朝鮮人虐殺を当たり前に考えていたのは、明治に入ってからは、「侵略戦争・戦争の時代」であったからだと思います。朝鮮を侵略したばかりでなく、アジアを侵略したばかりでなく、ロシア、清、独、米とすべてに宣戦布告をして日本の方から戦いを挑んでます。天皇の神国の民であるのだと、負けない戦争であると洗脳されて、これを信じた日本の国民が、「自分の戦争」と考えていたことです。

戦争は人間を殺すことであるのに、朝夕の新聞やラジオの報道と、学校教育の場でも戦争をすることを当たり前のように刷り込まれていたのです。

闘うことを奨励され、それは人間を殺すことであるのに、日本国民にとっては、何の不思議もない当たり前のこととして認識されていたのだと思います。日本は貧しかったので、足りないものはどんな悪事をしても手に入れるのだというのが、この国の方針であったのです。

そのあくどいやり方を、公言していた日本の政府の要人達に影響を与えた吉田松陰、福沢諭吉、秀吉たちが偉人としてテレビドラマに取り上げられ、喜ばれているのですから、何をか言わんやです。

安倍総理は吉田松陰を尊敬し、選挙の前には、お参りに行くと言う記事を見たことがあります。この度の選挙の結果を見ても、失望するばかりです。初めて投票をした若者の半分が与党に投票をしたということは、「新しい教科書を作る会」の教科書の成果があったと言う事でしょうか?

日本の歴史認識は、彼等を支えている国民の意思が変わらない限り、何も解決しないのではないでしょうか?

慰安婦にされしハルモニ吾もまた己晒して歴史認識問う     朴貞花









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by pcflily | 2016-07-17 16:48 | アリランエッセー | Comments(2)  

Commented by Takeshi Nimura at 2016-07-24 10:26 x
たいへんな労作を心して拝読しました。日本と朝鮮の関係をコンパクトにまとめられたテキストとして活用できます。私自身CFさまがお書きになった「日朝関係の歴史認識」のレベルに達するまでの知識取得に相当な時間を要しました。既に、払拭されたと自分なりに納得していた私の「偏見」は、甲午農民戦争を東学党の乱として記憶していた事実で微塵にも吹き飛びました。慶尚北道が優秀な人材の供給源だったとか、知識の宝庫だったとは知らなかったものですから。ご指摘の通り、日本人の中では豊臣秀吉は「英雄」で福沢諭吉は偉大な「知識人」、伊藤博文は紙幣の絵柄になるほどの有能な「政治家」として扱われています。豊臣秀吉が日本人の中で英雄とされるのは幕末から明治以降の「征韓論」によってです。朝鮮侵略のために歴史認識や情報が意図的に操作され流布・教育されていることに気づかないのが知性なき烏合の衆だからです。正誤の判断を自らの苦しい知性の鍛錬のもとに行うのではなく、流布する情報や言説に安易に身を任せるからこの国の人々には、「自由」や「平等」、そして「平和」の深い意味を理解できないのです。嘆かわしいことです。CFさまのテキストを読み返し、再度、私自身を鍛えなければと考えています。陰鬱な梅雨の時期ですが、御身体を労わり下さい。
Commented by pcflily at 2016-07-25 08:53
有難うございます。あまりにもな長いので読んで頂けないと思いました。日帝の長期間の残酷な軍事力を使った韓国併合への道を、目に見える形で知って欲しいと思いました。どの位、会員に通じたのか分かりませんが、この湯女形でないとはっきりと認識できないと思ったのです。年代もずれたり原稿のかたちが、ブログの上ではきちんと載りませんでした。
福沢諭吉に対する批判で、1万冊を使わない運動をしている人達もいるそうです。

 アジア蔑視女性蔑視の「福沢」の高額紙幣に国の翳みる  朴貞花   選者 今野 寿美 神奈川歌壇 2016年2月7日 

久しぶりにいいいい1首だけを投稿したのに、入選しました。選者はこの福沢諭吉の本当の知って姿を知った居たのです。驚きながら、感激しました。

昨日は暑い中を、私の住む平楽を中心にした「関東大震災時の朝鮮人虐殺の場所のフィールドワーク」をしました。
この場所に引っ越しをした事を友人に知らせたら、南区の「南」と平楽の「平楽」について、私の生地の南であり、平和で楽しい土地であることを祈ります、良かったですねと便りを下さったので、とても嬉しかったのですが、この家より5分程の場所に住んで居た人が横浜での朝鮮人虐殺を広めた張本人の家であった場所と知り、ショックを受けました。今回は3度目のその跡を辿ることになりました。
(横浜は東京虐殺されたと同じ数の虐殺された帆とがいるのです。その元となった人が住んで居たのでした。)

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