歌集「身世打鈴」を上梓して(その2)

2000年7月号 『未来』 歌集共同批評 東めぐみーー高島裕

(ぱく)(ちょん)(ふぁ)歌集 『身世打鈴』 

◎畑よりの強制徴用のわが父も居住許可願の外人登録をす

◎枕辺に地図を広げて床に入る統一朝鮮の夢を見たくて

◎強制連行の孫なる子よ汝がいま慰安婦のこと取材に走る

◎父母の国訪ね帰りて妹は「むぐんふぁ」とするその店の名を

◎日本の土を再び踏まぬこと決めて土葬の待つ祖国に帰るアボジ

                     (東めぐみ選出)

短歌という文学に、記録性という役割があるのを知ったのはずいぶん前であるが、この歌集も、一つの記録として、真に迫る力を十分に持っていると思われた。朴さんの肉声は一人の在日朝鮮人の思いであり、日本に強制連行された人々の肉声なのだと思った。一首目は強制連行されたにもかかわらず外国人登録をしなければならない事実を歌っている。「畑」から連行されたという具体的な事実に、日本人としてこぶしを握りしめたくなるような苛立ちを覚えた。相手の人格を踏みにじるような行為を知って、自分が日本人であることを意識することは何とつらい事か。「職務ゆえ許せとわれの手を取り手外人登録に指紋を押さす」という歌もある。二首目。朝鮮統一も繰り返し歌われる題材の一つである。その思いの強さに、圧倒されながら、歌集を読み進んだ。近藤さんが「序」に書かれているように歌が巧かどうかより、この思いに心を揺さぶられる。言葉が事実の重さを伝え、詩としての役割をきっちりと果たしていると思う。五首目はお父さんが韓国に永久に帰国した時の作品。「八十八歳の父帰国して朝鮮籍の吾には永遠の別れとなれり」に見るように、分断という政治的事実が、一つの家族にも大きな影響を歌っている。『身世打鈴』とは身の上話、自分の不幸な運命を物語風に唱えることの意味だという。

高島 「短歌という文学に、記録性という役割がある」などということは、私には全く理解できないことである。記録は文学ではない。記録と文学とは全く異なる位相に属する。文学は事実の記述ではなく、魂の波動を言葉として発光せしめるものだ。これがいわゆる写実的な作品になっても同じであることは、斎藤茂吉の「短歌に於ける写生の説」などを読んでも明らかなことである。

この誤謬が誤謬を導いた結果、東は朴の作品を“記録”として評価してしまっている。したがって東の批評においては、作者朴のかけがえなさは完全に抹消されてしまっている。「在日朝鮮人の思い」「日本に強制連行された人々の肉声」―こんな一般的なマスコミ言語の紋切り型のコトバの一体どこが作品批評であり、作家批評だというのか。

逆に言えば、このような一般的な読みを導いてしまうところが、朴作品の弱さかも知れない。だが、東は、作者のかけがえなさを読みとる努力を放棄してしまったとき、評者としての己自身のかけがえのなさをも抹消してしまっていることを知るべきだ。

掲出歌は私にはさほど響いてこない。“言いすぎ”なのだ。日常の意識のなかに普通に浮かんでくる言葉を一旦留保し、言葉の選択に苦しんでみることは、技術的修練をこえて詩と人生への真実への、孤独な追及なのである。

◎喪の明けてセーター選ぶわが耳に黒は止してと子が囁けり

◎大丈夫かと子等孫ら問えばにっこりと「生れし地なりと」と母は答えぬ

◎雪残る野辺を巡り(あさ)(つき)を掘り起こしたり春暮るるまで

◎夜半覚めてオモニの指をまさぐれば任せておけと寝言に言えり

◎桜満開朝大卒業の姪の春通称名を使い初むる日(高島裕選出)

高島 公的な物言いの鋳型に、無防備に同化してしまっている歌が目立つ。「統一余祖国統一する夢よg千万同胞が(こぞ)る悲願よ」「韓国軍を光州に派遣すること許したる米国の指揮忘るまじ」「祖国」をめぐる作者のかけがいのない、大切な思い(=モテイーフ)が、マスメデイア環境下の表層言語によって、不当に簒奪されてしまうことを危惧する。

 それとは反対に、効果的な抑制が詩型の生理を生かし、厚みのある抒情を表現している作品を選んだ。

 一、二、四首目は、描写の時間性が詩型のリズムに合致しており、リアルであり且つ味わい深い。四首目に絞って言うと、「任せておけ」という、無意味である筈の「「オモニ」の寝言に着眼し、説明抜きにただ提示すること、無限の感慨を伝えている。深く深く沈められた悲安らぎの色さえうかべて、詩に昇華されている。

 五首目の「通称名」も、価値判断を保留し、卒業の春の明るい風景と配合されることで、怒りを直接に言ってしまう以上の怒りを、重く、そして美しく伝えている。下句の「通称名」を活かして「朝大」を削るべきだろう。

 表層的な政治言語に滑り込もうとする手前に踏み留まったこれらの歌こそ、より多く、より深く、思い伝えている。

東 正直にいえば、この歌集は批評しにくい歌集である。批評を必要としない歌集かもしれない。高島さんの言うことは私にもよく分る。「マスメディア環境下の表層言語」と言われればその通りであり、私自身歌を選ぶのに苦慮したのもそのあたりが原因なのだと思う。けれど、朝鮮から連行された朴さん家族の日本での生活は事実であり、歴史の教科書のように一般化されたものではなく、ここに「朴貞花」という実際の人生の具体があることが大切なのだと思う。この歌集を支えているのはこの人生の具体なのである。だから私は一首目の作品は採らない。「黒」という色彩には死に通じるイメージがあり一首全体が平板な常識的な意識で終わってしまっていると思われるからである。二首目は一首独立して読んでみると全く背景の分らない作品である。「朴貞花」という作者の背景を知ることにより暗黙のうちに夫のもとに強制連行された「母」が祖国を訪れた時の気持ちを補って読んでしまうのである。作者は素朴に歌っているのかもしれないがあらかじめ用意されたようにしか読めない不満が残る。前に書いたことと裏腹になってしまうが、ここにこの歌集の読みづらさがあることも確かである。五首目は高島さんに同感である。また、ごつごつしたリズムが朴さんだと思いつつ言葉を厳選することも必要だろうと感じた。

☆私の歌集「身世打鈴」に対しての共同批評が会員であった『未来』に載った。
二人の読みとり方は、全く反対であった。
東めぐみさんが取り上げた歌は殆んど、近藤芳美先生が「朝日歌壇」に選者として選んで下さった歌である。
最近の朝日歌壇や短歌の月刊雑誌で短歌についての意見を述べられているのを、幾度か読んだ。一流の歌人になられたのであろう。
「未来」を脱会してしまったので、高島裕さんのその後の消息は分からない。

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by pcflily | 2015-04-23 10:13 | アリランエッセー | Comments(2)  

Commented by Takeshi Nimura at 2015-04-24 22:07 x
芸術とは・・・古くて新しいそして永遠の課題です。短歌の枠組みは韻律と言葉です。
その舞台で何を表現しようと何を訴えようと自由のはずです。そしてその作品を詠んで人が感動すれば「芸術作品」として認められるのです。短い言葉で感情を表現する、物事の本質を伝えるなど詩歌の魅力は尽きません。「短歌芸術論」を論ずることに異論はありませんが、「これが短歌だ、これが芸術だ」という大仰な論法に私は与することは出来ません。作者の意図が詠み手に伝えられ、感性を刺激することができればそれで十分ではないでしょうか。喜怒哀楽の共有が芸術と私なりに理解しています。狭量な意見でしょうか。
Commented by pcflily at 2015-04-25 16:15
有難うございます。
私のオモニは、どんな時にでも褒めてくれる人でした。
24時間営業の麻雀荘をしていた時に、家の掃除が行き届かなくて悩んでいた時には、埃で死ぬ人はいないから、大丈夫と。子供たちにおかずを作れないと言ったら、この豊かな時代に、飢えて死ぬ人はいないから大丈夫と。店にお客さんが少なくて心配と言えば、自分の糧は生まれてくるときに背負ってくるのだから心配ない、明日は満席になるかもしれないよと。オモニの言葉で生きてこられたと思っています。

何時も、新村さんの暖かい言葉は、オモニを思い起こさせてくれます。オモニの言葉を聞けなくなってから、このブログで知り合いました。コメントを頂けるようになったのも、神様の思し召し、ご褒美かと思います。

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