歌集『身世打鈴』

1999年6月号 未来 (原稿依頼あり)CROSSTALK

  歌集『(しん)()()(りょん)』                     朴貞花

 儒教の国、朝鮮では還暦を迎えれば父母への孝行の責務は果たしたことになるという。心身共に虚弱児であった私は、三十歳まで生きられたなら儲け物だと言われた事を忘れる事が出来ない。それ故に、思い切った行動に出ることがある。

近藤先生のお言葉があったにしても、自分の未熟さを顧みずに歌集『身世打鈴』を上梓することに踏み切れたのはこのことも一つの遠因になっていると思う。

 上京して間もなくのことであったが、在日朝鮮人の存在にすら気が付かなかったという人に幾度か会った。

 一人が一人を理解することから始めようと思って、私流の草の根運動のようなことをしていた。けれども、暖簾に腕押しの状態ばかりで挫折して、短歌に救いを求めて、近藤先生に師事することになった。

 近藤先生に巡り会えたことは、私の人生にこの上ない幸せを運んでくれた。

 歌集を出せば一人歩きをするのよと、先輩の歌友から言われた事をしみじみ思っている。歌を詠み続ける自信もなく、生涯一度のこの歌集『身世打鈴』を十年、二十年かけて知り合った方に読んで頂こうと思っていたのだが、瞬く間に、減っていく。もっと驚いたことは多くの方々が心を込めた感想文を送って下さるのである。福島民友新聞は「ひと社会面」で取り上げて下さった。多数の同胞や親族からは感謝の言葉をたくさん頂いた。

 『身世打鈴』は、私ばかりでなく、私の親族や同胞の喜怒哀楽を背負って歩いていく。未熟な歌集を読まれることを恥ずかしいと思っていたのだが、今は一人でも多くの方に読んで頂いて、朝鮮人のことを理解する人が増えて欲しいと思っている。

 昨年の『世界』十月号の金石範氏の“いま「在日」にとって「国籍」とは何かを読んだときには、私の思いを代弁してくれていて涙を抑えることが出来なかった。

『身世打鈴』は同胞にとって、その様なものであったのかもしれない。

☆「身世打鈴」を上梓したお蔭で、この歌集を読んだ福島県の日刊新聞「福島民友」の記者が、お話を聞きたいと連絡があったが、私は幼い時の事は、何も覚えていないと、実家に行って頂いた。
「ふくしまの100年」の連載記事になり、後『20世紀ふくしまの100年』として267頁の豪華な本が出版されている。
子供の時に言われた「30まで生きられたらもうけもん」の言葉が大人になってからも私を支配していた。(或いは、この言葉に逃げることで、現実の辛さに耐えていたのかもしれない、現状は長く続かないと――)朝鮮人の青年の集まりで裏磐梯に一泊で参加した時に、誘われてボートに乗り、降りる時に全員が一度に立ち上がったせいか、ボートがひっくり返り湖に沈んだ。泳げない私は「その時が来たのだ」と水に身を任せたら、自然に浮き上がり助けられた。助かろうともがいた人たちは、翌日の登山に参加できなかったのに私は参加できた。
女の厄年と言われた33歳の頃に顔面をプロパンガスの炎で火傷した。目・鼻・口だけをわずかに残して包帯に包まれた。その日も「いよいよ、その時」と思ったが、奇跡的に全治した。プロパンガスに点火出来ない時期がしばらく続いた。その後の私は春夏秋冬、帽子を離さなくなった。お洒落で帽子をかぶるようになった訳ではない。
この火傷の半年後に子供を連れて家出をし上京できたのも、遠因はここにあるのだろう。
刹那主義が身に付いているらしい。思い切ったことを度々するのだった。明日はないかもしれない、「今」しかないと思うのだ。

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「未来」        1999年4月号  原稿の依頼あり

鳳仙花

1999年4月号    未来  朴貞花

 夕方から雪になるかもしれないという天気予報を聞いて不安がなお募る。一月十五日「未来」の新年歌会である。入会をしても歌会というものに一度も参加したことがない。

 情けないことであるが、長年の習性で私は大勢の日本人の中に入っていく時には、ちょっと身構えてしまうのである。勿論、相手方がなんとも思ってないにしても当方の気持ちが変わる訳ではない。

 無事に過ごせますようにと、心で祈りながらエレベーターから出たところで、カルチャーの田中さんに会い救われた気持ちになり、ご一緒させて下さいとお願いした。

 会場に入るともう九分通りの出席者が着席していた。全国からこんなに沢山のひとが一堂に会する「未来」の魅力を実感できた。

 普段は印刷されたお名前でしかお会いできない人達に、こうして直接おめにかかれる有意義な日であったのだ。

 一五四名の詠草、五名のパネラーによる十五首選、近藤芳美先生の講演など盛り沢山のプログラムにもびっくりしてしまった。時間内で次々と的確な言葉で指摘されていくことに感心した。時間が少ないせいか想像していたより、優しく簡単に反対意見もあまりないような気がした。それだけ、良い歌がそろっているという事でもあるのだろう。

 一億の地雷の埋まるこの星を美しいとか青いとかって  飯沼 鮎子

 十五首選で二名の方に推されたこの歌に私は同感した。

 予定していなかった懇談会に出席することにした。歌集を出した人には、一言挨拶をしてもらいますと司会の方から言われて、下手の長話はしないようにと思ってマイクを持った筈の私は、初参加の「未来」の新年歌会に興奮したらしく、朝鮮の歌曲「鳳仙花」を歌ってしまったのである。統一朝鮮の再生と私自身の再生を念じていつも、口遊んでいた歌が溢れ出てしまったらしい。

○昨年、挿し木して始めて咲いた連翹、朝鮮語を学び始めた時に出た単語の一つ、実物を見るのは何年もたってからだ。アボジの葬儀の為に訪韓した時には連翹も桜も堂々と広がって咲いていることに驚き、大陸的な陽気な歌の好きな朝鮮民族であったからこそ、数多くの侵略から生き延び、言語も残せたのだと思った。私の連翹をどこまで大きく広がり咲く姿を見ることが出来るだろうか?私の身体の賞味期間が残り少ない。

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○温室がないので、冬の低温から守る為に段ボールを繋いで暖を取っていたが、胡蝶蘭が次々と咲きだして段ボールに納まらなくなった。寒さも和らいできたので夜は窓辺から離して、座卓の上に避難させている。それにしても、花は手をかけることに負担を感じさせない。決して裏切らないからだ。

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○春は黄色い花が多い。横浜に越した時には孫娘の好きな黄色のつる薔薇を植えた。この薔薇が昨日一輪今日二輪咲いた。何時の間にか春になっている。
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by pcflily | 2015-03-31 07:50 | アリランエッセー | Comments(2)  

Commented by Takeshi Nimura at 2015-04-04 21:22 x
PCFさまの「今をどう生きるか」という深遠な意味を理解できずにおりました。明日を信じることが困難な運命を生きてきたという現実を私が実感できなかったところに問題があったと反省しております。「身世打鈴」に耳を傾け、一日一日を真剣に生きている人をどう理解するか、自分はどうなのかと自問しながら日々を送っております。語り継ぐべき物語がありそれを聞きたいと望むものがいる限り詠い書き続けて下さい。
Commented by pcflily at 2015-04-04 22:04
有難うございます。
「この広い地球上で、たった一人、手を繋げる人がいれば、それが幸せというもの」との書き出しで書いた原稿が出てきました。pcに残そうと思いましたが、手が痛くなり、続けられなくなり止めました。あまりに長くてーー。
今回のコメントを読ませて頂いてこの言葉を思い出しました。何故?子供の父親を実家に残して家出をしたのか?子供たちに書き残して置こうとしたことを、忘れていたのです。自分の書いたもので泣いた私でした。
もう、コメントは頂けないだろうと思いました。まだ、読んで頂けるのでしょうか?
将来、子供か、孫が読んでくれることを期待しながら、私のアボジの葬礼の事を書いていました。
新村さんのほかにはこのブログは読まれていないと思っていますのでーー。
前回のコメントを読み返して、ご病気なのではないかと心配しておりました。お元気でお過ごしください。

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