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ウリオモニ 私の母

終活をするなどと言って、実際には、思い出の写真を広げては捨てられないで、そのまま、箱に戻す日が続いている。
私の息子は、単なる偶然だと言うけれども、私には偶然とは思えないことが度々あるのだ。こののブログを初めて1年以上、両親の事を書いたことはなかった。
ある日、本家のお兄さんが、高齢になったと、日本から本家に送ってあったアボジとオモニと私の写真が出て来た。それで、ブログにアボジとオモニの作品を載せた。
何故だろう?翌月、オモニが亡くなったのである。
 

 ウリオモニ(私の母) 金海金家 金英喜   朴(ぱっ) 貞(ちょん) 花(ふぁ)

呼び寄せし今宵のオモニの身世打(しんせた)鈴(りょん)釜山より常磐炭鉱に来し日まで 「朝日歌壇」歌壇賞

花(こっ)輿(かま)に揺られ嫁ぎし十三歳オモニの記憶の白梅の花

たちまちに八十路のオモニの面(おも)変わる吾を生みし朝鮮の日々を語るに

生みし子の臍の緒手ずから切り離しその日よりまた洗濯を次ぐ

すり減りしオモニの爪に一生(ひとよ)見え発破の穴掘りトロッコを押す


「歴史発見」に韓国の叔父映りオモニの祖(おや)は日本人と知る(金忠善)

父の名と長女なりと記されてオモニの名前の族(じょっ)譜(ぽ)にあらざり


枕二つ並べて語る母と吾の回想のつづまりは密造酒のこと

飛び下りしホームの雪に顔埋め闇米を背に汽笛聞く

闇米を背に聞く汽笛灰色の雪に埋もる記憶の消えず

三度目は呼び止められて運びいし米も糀も没収されにき

密造酒・闇米・養豚・タバコ巻き子は飢えさずとオモニの覚悟

密造酒・闇米・養豚幼きわが関(かか)わりしこと幻なるか

初恋など知らず家計を支えたるオモニと働きし十代の日々

密造酒を水枕にいれ吾の売りし「大内の宿」テレビに映る


七人の女児育て上げしウリオモニ差別に耐えて艶やかに老ゆ

辛きこと忘るることの巧みなるオモニは人の善意を数える

一点の染みも消さむと煮沸する白きは白くオモニの洗濯

正直に生きろだなんて嘘ばかり教えしオモニと五十八の吾

吾が会える人ごとに深々とお辞儀してこの子を頼むと八十路のオモニ

頬染めて八十路のオモニ本名の「金(きん)英(よん)喜(ひ)」と書く練習をする

己が手で「外登」切り替えの署名せむ八十路のオモニが震えつつ書く

「朴」の姓継げる男子を生まむとし七人の女児生みたるオモニ


オモニへと買いこし折り紙病室に百羽の鶴となりて羽ばたく

手(て)遊(すさ)みの一つも覚えず迎えたる八十路の坂に病負うオモニ

降り止まぬ雪にふるさとも埋もれいむオモニと歌う「故(こ)郷(ひゃん)雪(そる)」


少女期に逝きし父母への甘えかも夕べのオモニは駄々っ子になる

夜半覚めてオモニの指をまさぐれば任せておけと寝言に言えり

引き戻す術はあらざり老いしるきオモニの布団に朝明けを待つ

日めくりを剥ぎつつオモニは悲しみを空に放ちて童女に還る

戻りたる記憶の在りしたまゆらを吾の手握りて涙ぐむオモニ

童女なるオモニの意識蘇る二十二番目の曾孫抱くとき

ウリオモニ 私の母_f0253572_15302561.jpg

 オモニの還暦祝いの日 1975年6月22日(旧暦)

 この日の5年前の5月10日(旧暦)は、アボジの還暦の祝いであった。義兄の言いなりの姉が、アボジの還暦を祝おうとしないので、オモニは悲しんでいた。実家に同居していた私は、朝鮮では還暦のお祝いをして、還暦の時に、寿衣を準備しなければならないと言うオモニの話を聞いた。じゃ、還暦のお祝いもして、寿衣も整えようと決めた。オモニと私は、上京して上野の朝鮮人経営のチマ、チョゴリの販売店に行って、アボジの寿衣と葬儀の日の為のオモニと7人娘の白衣を仕立ててもらった。オモニの教えを守り、後年、私も還暦の年に寿衣を調えた。在日コリアンでこの事を知る人は少ない。
 上野や浅草には何軒もチマ・チョゴリを仕立ててくれる店があった。妹が多いので何度も結婚式の為のチマ・チョゴリを仕立ててもらう為に通った。妹の結婚の度に私も新調した。洋服には興味がなかったが、チマ・チョゴリへの欲求は止められなかった。老人ホームに入れられた時に着ようと思っていたが、見通しは暗い。
箪笥の中の私のチマ・チョゴリはどうなるのだろう。そうして、あの店達は今もあるのだろうか?浅草の方が多かったが、地方の人に便利なために上野の方が繁盛するようになっていた。

 5年後のオモニの還暦祝いの時は、私はすでに上京していて、夫に逝かれて一人で麻雀荘を経営していた。商店街の中にあった店なので、お客さんは近所の商店の店主などが多かったので、自由に使って下さいと鍵を預けて実家に帰り、ゆっくりと祝宴に参加することが出来た。彼らはその他のお客さんを招き入れ、接待もしてくれて売り上げを私に渡してくれた。恵まれていたと思う。町田を去る時には、店を閉めてから10年以上過ぎていたのに、彼らは送別の宴を開いて送ってくれた。

 まさか、入選するとは思わなかったのに、オモニの還暦祝いを祝う気持ちで、間に合えばと「朝日歌壇」に投稿した。オモニの誕生日は、旧暦なので新暦では7月になる。何という事か驚いたことに、2首も入選していた。選者が私のオモニの還暦祝いの事を知っている筈もなく、投稿することもあまりない時期であった。その時の「朝日新聞」の切り抜きが手元にないので分からないが7月第4回と言うメモがある。新聞はオモニに持って行ったので手元にないのである。

 オモニの還暦の祝いのの日の為に、入選歌だけでなく、何首か詠んだものを纏めた。その歌を儀式の後で読み上げてオモニに渡したのだが、その後は家族の思い出話が次々と出て、皆が泣き出した。お祝いの席なのに、私の歌の為に、朝鮮語で言えば、いわゆる「涙の海」になってしまった。入選歌は残っているが、その他の歌は、どんなものであったかさえ思い出せない。

 密造酒、闇米、養豚幼きわが関わりしこと幻なるか          宮 柊二選 7位

 密造防止に母は捕われ妹は習字展にて賞を受けにき        近藤 芳美選 1位

評 敗戦後の焼けあとの町に、彼らは密造酒のどぶろくを作って生きた。その酒の密造のために、母は捕われ、妹はある日習字展で賞を受けて帰って来たりした。幼い遠い日の、暗い思い出の中のことなのであろうか。第一首の作者は、朝鮮半島を祖国とする人である。

 オモニが密造酒で捕われたのは、私が中学生の時であった。オモニと一緒に闇米や麹を買いに行った。売っている人は日本人であったのに、彼らは捕まらなかったのだろうか?その家の娘と、高校の同じクラスになったことで、度々、陰湿ないじめに遭ったことが忘れられない。ある時は、私に恥をかかせようと校内の弁論大会に出場させられた。ところが、優勝してしまった。彼女たちは、何と思ったのであろう。


 妹が習字展で書いた文字は「密造防止」である。福島県代表として選ばれ、東北大会に出展され「佳作」に入賞した。仙台国税局長からの賞状であった。笑うに笑えない話とはこんなことを言うのであろうか。


 

by pcflily | 2014-03-17 15:31 | アリランエッセー  

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