オモニの渡日は

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 残された家族が私の私物の残骸の為に苦労するだろうと、「断捨離」を始めたが、遅々として進まない。それどころか全く出来ないでいる。けれども、今日は嬉しいことに。持っていることさえ覚えていない「オモニの若かりし日の写真」が出てきた。全く整理されていない写真があきれるほどにたくさんある。最近は殆んど自分が写真に納まることはない。たまに更新のある外国人登録書と運転免許証の更新の時だけだ。
 この写真は1980年に父母と始めて「墓参団」として、朝鮮籍のままで訪韓したときに、本家のお兄さんから頂いたものであった。渡日してから、元気にしているという証の為に写真を本家に送っていたという。
アボジは男だけの二人兄弟の二男であったから、本家に送っていたのだろう。本家のお兄さんは一人息子であり、自分がいなくなったら、管理する人もいなくなるだろうからと、オモニの写真を私に下さった。家族四人での写真は何度も手に取って見ていたらしく、端の方は破けていた。
この写真を良く見るとパーマをしているようなので、解放後の写真であろう。オモニが40歳ごろであろうか? 



  オモニの渡日は  
         六月号  (六月集に)   二〇一三年  朴(ぱっ) 貞(ちょん) 花(ふぁ)     

ひとことの日本語も知らなかった
二十四歳のオモニ
一歳と四歳の子を連れて
船で渡った玄界灘

下関から平駅まで
鈍行列車の三十時間
渡航証明書一つを頼りに――  (警察署長による証明書・渡航先と目的を明記)

車中で何度も
見知らぬ人に証明書を見せて――
母子は真っ黒に煤けた顔で
常磐炭鉱に着いた

夫の逃亡防止の為の人質――
アボジは坑内の坑夫       (アボジ・父)
オモニは出産の刻まで      (オモニ・母)       
トロッコ押し・発破の穴掘り

逃亡の手筈を整えてくれた  
同郷の朝鮮人監督 
山奥に隠れ住み、終戦――
帰国すると荷造りを済ませた

帰郷は叶わず
五度目の妊娠・出産
その日の糧を得る為に
飯場の炊事・闇米・養豚・密造酒

うら若き二十代の渡日――
「木村組は母ちゃんで持つ」と
男勝りの姉御肌の女にした歳月

帰国の夢を追う夫を支え
七人の娘を育て上げて
九十八歳
本名を忘れ、娘の名を忘れ――
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by pcflily | 2014-03-10 19:46 | アリランエッセー | Comments(2)  

Commented by 新村 猛 at 2014-03-11 21:11 x
「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の闘い」 長澤 秀(立教大学文学研究科後期博士課程論文1988年)氏の論文を読みながら、当時の常磐炭鉱の強制連行の実態に息を呑んでいます。この論文には常磐炭鉱は全国でも有数の「逃走者」の多い炭鉱で1943年12月までに強制連行者14,752名中、5,125名(34.7%)が逃走し、朝鮮人鉱夫減員の事由第一を占めていること、更に、列車を使った逃走と監督員による過酷な監視と捕縛の聞き取りの実例が記載されていました。辛いお話ばかりでした。お母さまのご苦労が忍ばれる詩歌ですね。
Commented by pcflily at 2014-03-12 21:33 x
コメントを有難うございます。「常磐炭田における朝鮮人鉱夫の闘い」は知りませんでした。山田昭次先生・朝鮮人強制連行調査団・朴慶植氏・前田憲二氏の本などが手元にあります。
アボジからは炭鉱での生活の様子は、一度も聞いたことがありませんでした。アボジに向かって昔の話を聞かせてと言う近い関係ではありませんでした。わつぃの世代の朝鮮人の家庭なら、そのようなものだったと思います。
人質であったことを聞いたのも、再婚した夫が朝鮮で育った人なので、母国語でアボジと会話することが多く「あの時代に、家族を呼び寄せたのは裕福な生活をしていたのですね」と言われた時の答えだったのです。私はその時、初めて知ったのです。
前田氏の「百万人の身世打鈴」は息子も手伝っていましたので、私の実家にも取材に行くことになっていたのですが、義兄の反対で中止になってしまいました。自分の恥を話す必要がないと言ったそうです。義兄が実家の権限を握ってしまっていたのです。アボジには一言も話は通していなかったようです。本当に残念です。

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