祖国・母国・故国を慕い続けて

七月号原稿    (4月に詠む)

祖国・母国・故国を慕い続けて   (ぱっ) (ちょん) (ふぁ

)   

生地は植民地朝鮮

アボジの逃亡予防の人質として

一歳でオモニと渡日


韓国と名称変えた祖国

四十年の後

一度だけ許された

母国訪問墓参団   (本家の伯父より古書を託される)


戻れる保証無く

記念撮影と

子供への思いをテープに遺し

覚悟を決めて出発


祖国の土になると独り帰国の

アボジの葬礼の

五十九年後の帰国にも

監視人が付いていた 

   (叔父はすでに逝去、本家の長男・従兄より古書を再度託された)


選挙権を得んと韓国籍に変更。

いとも簡単な訪韓許可

親族に誤解されていた私


独学の母国語で

交わし合った言葉の数々

真実の心は通じた

父母の傍に私の墓標までーー


生地故国の記憶

欠片さえなかった

求め続けて幾十年

はや八十路の坂に


本家に伝わる百年前の  (百年を超す古書と鑑定で判明)

貴重な古書を贈られた私 本家の長男・従兄より古書の贈呈)

本家に遺された古書が――

保存の為の訪韓をと心せかされる

   (後継者のいない従兄が急逝し、守る人がいない)


〇右の写真は本家の伯父さん、私のアボジのお兄さん(二重瞼の私のアボジより、一重瞼の本家の伯父さんに私は似ているようだ)わが朴家は男児が少ない。アボジは二人兄弟、伯父さんの子供も男兄弟二人だけ。私のアボジは男児をと願い7人も生ませたのに、女児だけであったので本家の次男を養子にした。

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〇1980年、生地朝鮮への初めての帰国。高校受験の娘を大学生の息子に依頼し、店も任せて、或いは、日本へ戻れないかもしれないと言う危惧も抱きながらの韓国行きだった。

私の念願の朝鮮でチマ・チョゴリ姿で歩くことを実行した。韓国では誰もチマ・チョゴリを着ない、暮らしていないと反対されたが、一人でも着ると最後まで譲らなかったので、オモニも妹も同調した。300人ほどの団体の中で私達母子だけであった。

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〇オモニの弟である叔父さん夫妻。
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〇大輪のピース。

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〇大輪のピースの枝に咲いたピースが中輪の黄色のゴールドハニーが同じ茎に一緒に咲いた。ゴールドハニーが咲いてピースは負けてしまった様だ。こんな不思議な事もある。

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〇家族で鍋物をする時の大皿に浮かべて楽しんでいる。そのまま咲かせておくと後から、咲こうとする蕾が惨めな姿になってしまうので取り除く。
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〇大量に咲くので、ドライフラワーにして楽しむことにした。農薬を使って無いので、薔薇のお茶にしても良いかも友思い始めている。
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〇ベランダから見たゴールドハニー。
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〇定家葛、まさきのかずら,丁字葛ともいう。小さな香りのある五弁の風車の様な花が咲く。今年は花が沢山咲いた。
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# by pcflily | 2018-05-09 16:58 | アリランエッセー | Comments(2)  

南北、米朝首脳会談に祈る

六月号原稿         3月に詠む

南北、米朝会談に祈る    (ぱっ) (ちょん) (ふぁ)      

      

文在寅大統領の誕生

私の胸に芽生えた

南北和解の兆し


南北の指導者

わが民族問題は

我らの意志で

運転者は我々だ


つい100日前迄の

戦争への恐怖消えて

和合と笑顔の交流


実践された

「平昌五輪を平和五輪に」

厳寒の冬季五輪は

信頼と喜びに溢れた


希望の芽の風船がどんどん

膨らみ、不安も膨らむ

悪意の矢が飛んで来たら~~


「朝鮮国滅亡こそ其幸福は大」と

唱えた福沢諭吉の貌

今も猶、一万円札にーー


金大中大統領の訪朝の日

素直に喜び信じた

念願の祖国統一


禁句になった「祖国統一」

せめてと祈る

「南北の相互交流」

永遠に、永遠に。


☆待ちに待った南北首脳会談、明日に迫ってきた。私のたった一つの願い、それは戦争をしないこと。「休戦協定」が「平和協定」になる事だ。軍事費を使わなくとも良い関係ができること。終始一貫、共和国は「平和協定」をと主張して来た。米国が、自国の利益の為に、無視し、敵視してきたことを止めて、「平和協定」に署名する迄、南北会談、朝米会談が無事に進んで欲しい。

〇何時の日か、帰ると信じていた頃に集めた。

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# by pcflily | 2018-04-26 23:46 | アリランエッセー | Comments(2)  

本家の古書の鑑定を受ける

何故・私はこのように朝鮮民族と先祖にこだわるのかと考えていた。七人姉妹の2番娘だが、姉妹の中で本名で暮らしているのは私だけ、表札も本名にしている。
最近、考えが纏まってきたような気がする。姉妹の中でも虚弱児であったばかりでなく心も弱かったので妹達からさえ虐めれ、姉としての待遇を受けられなかった。外に出れば朝鮮人と差別される。何故?朝鮮人は差別されるのかと探し続けて、学び続けて、朝鮮人が日本人がさげすむような劣等民族ではないと理解した。その結果が、現在の私・朴貞花になったのだと思う。
ある人が話してくれたことを思い出す。日本国が日本人が朝鮮人を差別しなかったなら、古代のように皆、日本人になっていたろうと~~~。本当にそうだと思う。
町田市に住んでいた時に、町田では古代史の第一人者だと言う人に、市民大学で講義を受けた。彼は、自分が天皇家を尊敬するのは、1000年を超す家系がはっきりしているからと言った。私は、私の家ばかりでなく、他の朝鮮人も殆どの人が「族譜」というものがあって紀元前から分かっているのですよと。彼は何も答えなかった。市民大学で講義をする時に、彼が教材として渡した年表には朝鮮を「鮮」と記入し、既に国連に入っていた朝鮮民主主義人民共和国は記入されていなかったので、この事に対しても、これは間違っていると、講師に私は抗議をしたのであった。

嘗て、私のアボジが「両班」と言うと、姉妹の中で、一番強くて賢いと言われていた3歳下の妹は「両班」なら、何故、日本に来てこんな貧しい暮らしをしているのかとアボジに詰め寄っていた。
その傍で私は、アボジの言葉をそのまま信じて、朝鮮に帰国した時には、きっと「両班」に戻れて幸せになれるのだと信じていた。
私は自分が弱いから、弱い人には心から優しくしようと努めてきた。反対に強いものには反感を持つ。組織とか団体の役員など名誉を持ったり、資力、権力を持つと、持たない物に対して、蔑み差別することを度々経験して、悔しさを味わってきた。
それでも、何も持っていないし、何も出来ない私だが、助けてくれる人が大勢いたので今日まで生きてこれたのだと、心の底から思っている。

また或いは、先祖の貴重な古書を私が預かるようになったのは、私の名前から来ているのかも知れないと思うようになった。「行列字」と言って朝鮮では一族の何代目であるのかが分かるように、一字が決められる。これは男性にだけ付けることになっているのだが、長女の姉の名には付いてないうえに、7人姉妹の中で他の6人には付いてないのに、私だけに「行列字」の「夏」が「族譜」に記入されていた。
「族譜」に載せてある名前は「諱」と言って普段の生活には使われない。字(あざな)と言う普段の生活には別の名前が使われる。私のアボジも伯父さんも「族譜」にきちんと、二つの名前が載せられてあった。祖父の孫として、本家の二人の息子に、正夏、文夏、そして、私は貞夏と、3人に「夏」が付けられていたが、従兄の二人はすでにこの世の人ではない。祖父の孫の中で「夏」をつけられて生きているのは私だけなのだ。私のこんな話を聞かされた人は、私がおかしいと言うのかもしれないけれど~~~。私は真面目に、無力な私が生きていられるのは、父母に守られ、先祖に守られているからだと、霊魂を信じている人間なのだ。

1960年代に韓国籍の妹達が訪韓しているし、姉や彼女達は何度も自由に訪韓していたし宿泊もしている。なのに、本家の伯父さんは、大切なこの古書を、先に訪韓し、何度も訪韓した姉や妹達には渡さないで、訪韓の自由がなかった私にだけ託したのである。不思議な事だと思う。
1980年の初めての訪韓の時に、本家の伯父さんが私に貸して下さった本を、2014年に本家の長男が私に贈呈した。この本は1914年の発刊であった。韓国には6か所にこの古書と同じものがある事が判明しているが、全巻揃っていない場合もある。この古書が3巻揃っていた家ならば、それ相当の家だから、他の本も見たいと昨年鑑定して頂いた時に言われた。国の方で保存・管理しても良いと言われたので、今年の訪韓の目的が一つ増えたのだけれども、一部しか鑑定に持っていけなかった。韓国では古書ではなく、古文献と呼んでいた。
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左1917年発刊『明心寶鑑』、中央1935年発刊『啓蒙篇』、右1830~1920年未詳。『蜜陽朴氏家蝶」
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この古書は写真を写していた時には三冊と思ったが、改めて見たら4冊であった。
1440年。一番新しい。4巻までを見つけたがその後の本もある筈であると思うが、か弱い90歳と80歳の老女には取り出せなかった。次回は若い人を連れて行きたいと思っている。
また、古書について、私の心が離れないで守ろうと執着するのは、朝鮮が日本の植民地になっていた時代に、日本の総督府が、朝鮮の民族心を壊滅させるために「両班」や「書房」から何十万の貴重な古書を略奪して、「溶解処分」したことを知ったからである。わが朝鮮王朝の世宗王の時代に活躍した先祖の遺した著書20巻が3巻しか残っていないことも、最初に貸して頂いた時に古書を紐解いて知ったことだった。
日本の権力者は侵略に都合の悪いものを溶解処分にして消滅したのである。
現代でも、横浜市の教育委員会は関東大震災の事を書いた副読本を溶解処分にした。日本は書物ばかりか、王の墓までも荒らし続けて、重要なものを略奪している。
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この1年の間に、初対面の人に頂いたもの。ブローチ2個、紫の指輪、紺色のカップ小物入れ、ボールペン。有難い事に、こうして多くの人に愛を頂いて、助けられて生き永らえてきた貞花です。
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漢江・はんがんの傍のマンションの12階に甥は住んでいる。居間から見た夕陽は、横浜の自宅から見える夕陽を思い出させてくれて私を喜ばせてくれた。
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韓国は桜が満開であったが、自宅に戻ったら、蔓薔薇のゴールドハニーが咲き始めていた。ところが、月半ばに「春の嵐に散りゆく花か~~」と思わず歌い出してしまった程に薔薇の花が蕾迄もが沢山落ちてしまった。仕方がないと拾い集めて湯船に浮かべ、薔薇の湯に浸かった。
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温かいので薔薇が次々と咲く。次の花の為に摘んでドライフラワーにすることに。
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千葉から送られてきた鈴蘭、シーラー、キンポウゲ等次々と咲き始めて我が世の春を謳歌してる。
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少し日陰に咲く、野草、去年までは覚えていたのに花の名を忘れてる。
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花韮、どくだみ・十薬と同じく繁殖する力の強さに驚かされる。



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# by pcflily | 2018-04-22 15:35 | アリランエッセー | Comments(2)  

アボジとオモニの祭祀とお墓詣り,本家の古書の確認、植民地歴博物館への資料。

秋、9月に私も80歳になる。人生の終盤に来た。30歳まで持てば儲けもんと言われた虚弱児が倍以上生き延びている。何時も死を意識して来た。夜、床に就く時は今日も生きたと思い、朝の目覚め時も同様な思いになっていた。だから、今思った事、出来る事は直ぐにすることが、身についていて驚くような突飛な事もしでかしてきたと思う。
実家で50坪の檜建ての家を半年住んだだけで家出をしてしまうと言うような無謀な事もしてしまった。自分の無力さを顧みる事もなく、子どもを朝鮮学校に通学させたい思いからであった。あれから、47年が過ぎたことになる。如何に無謀な事をしたのかとの思いが募る。何時も、心配して下さった両親も他界した。
気にかけていた私の墓所も思いがけず、希望していた通りに両親の傍に設置できた。日本に作られていた両親のお墓にも、遺品を納めたことにより、私なりに両親の魂を、納めたと思っている。実は、韓国でアボジは墓地にオモニは納骨堂に、離れていた。けれど、甥に在日となった私達の思いを伝えて、なくそうとしていたアボジの墓地を守ることが出来た。オモニのお骨をアボジの傍に埋葬する事も出来た。アボジとオモニには7人の娘がいるのだけれども、誰一人としてこの大きな仕事について、手伝ってくれなかった。全員に無視された。
アボジとオモニの祭祀が、韓国で4月5日に行われるので、4日に出かけ10日に帰ってきた。祭祀のほかに、本家の古書を、専門家に見てもらう目的もあった。又、5月に開館予定の「植民地歴史博物館」に資料を届けたいとも考えた。
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祭祀をすませソウルから離れている忠清道迄一人で行き、お墓詣りをして、本家により本を見せて頂いた。本家のお兄さんが亡くなりその妻のお姉さんも90歳を越している。老婆二人では、しっかり包装されていたり高所にあり重くて下ろせなかったりしたが、とりあえず手に取れるものを出して写真を写したが、電池が切れてしまった。専門家に見て頂くので借りたいと話したら快く貸して下さった。やっぱり貴重な古書であることが判明した。土、日は休みで月曜日も休みであったが、電話をしたら、見て下さるとの事で、迎えに出て、裏口から特別に入れて下さり目的を達成することが出来た。
「植民地歴史博物館」も開館準備で忙しいなかを、鄭重に接して下さり食堂にまで案内されて、御馳走になった。
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快く大切な先祖の古書を貸して下さったお姉さん。昨年お兄さんが亡くなり、90歳を越えての一人暮らしだ。
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初対面の私に、自宅を自由に使ってと解放して下さった方は、手作りのブローチを手ずから私の洋服につけてプレゼントして下さった。ソウルへ帰る駅までのタクシーを呼んで下さいと頼んだ方も、一度も使って無いと言いながらブローチを手ずから付けプレゼントして下さった。私が断るので手ずから付けて下さる。韓国では始めて会った人にこうしてプレゼントする風習があるのかと甥に聞いたがそんな事はないと言う。泊まるお宅を紹介して下さった方も自分の母の形見でおそろいだと言って、既に最初に会った時に紫色の指輪を下さったのに、この度も、母の形見という対の指輪の一つを、私の指にはめようとしたが入らなかったので、諦めてくれた。手土産一つ持って行かない私に対して、何故だろうとずっと考えている。
「植民地歴史博物館」では日本の植民地政策による被害。1945年以降在日朝鮮人、韓国人が現在まで、今も猶、被害を受けていることを知って欲しいと思って来日した時に私的な資料を渡したが、理解して下さった。日本に暮らしていても同じ民族であると、今回持って行った資料も、有難いと受け取って下さった。民族問題研究所の皆さんに感謝している。私の死後には捨てられてしまうものであろうから、お役に立てば嬉しいと大切にしていた物を渡してきた。私にとっては生きて来た証である唯一の宝物であるけれど。お役に立てればと思う。

夫が突然死した頃の写真、左下は49日。右は上京した頃、娘と私が同じ月日の同じ明け方に生まれたので毎年記念に写真を撮っていたうちの一つ。
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落合恵子氏が発行している月刊雑誌「COOYON・クーヨン」に取材されもの
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韓国・中国・の日本の高齢者の文化祭、植民地時代に日本に留学した人と日本人の友好の為の会、着物姿の日比さんに韓国から大勢いらっしゃるからと見に行ったのに、突然舞台わきに呼び出され司会の一員にと頼まれて2日間、手伝いをしたことがきっかけで10年以上過ぎて韓国にも同行し、初めて西大門刑務所に行った。
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町田での平和ミュージカル、私の講演の話も脚本に取り入れられた。感想文が余りに多かったので、監督がこんなに多いのは今まで市民ミュージカルを続けてきたが初めてであると、冊子が作られた。一つは公演当日に渡されたパンフレット。
町田に来て、私の娘のチョゴリ姿を見て、まだ朝鮮人が日本にいたのかと言った人がいた。町田には朝鮮学校があるのにも関わらずだ。私は一人で、たった一人にでも朝鮮人の私を見せる事によって真実を、理解してもらえたら、その人が朝鮮人の真実を他の人に伝えてくれるだろう、それが次々と伝わり大きな輪になり、将来大きな和になる事を願って細々と努力を続けた。「端・はなの会」と自称するようになった。こんな小さな端切れに過ぎない私、「ハナ」は朝鮮語の「一」だ。一人で一から初めて将来は大きな友好の夢の花が咲くことを願った。けれども、夢は夢であって、蒔いた種は芽生えたが,蕾のままに散ったのだろうか?あるいはどこ小さな花になって咲き続けているだろうか?町田で始めたハングル教室「端・はなの会」は今でも続いていると言うが、他のものはどうであろうか?花は小さくとも、咲き続けていることを願うばかりだ。

現在も、この日本に朝鮮人が暮らしている、生きていることを知ってもらおう。
私の名前は朴貞花だ、パッチョンファだ、パクではない。せめて名前だけはきちんと読んで欲しいと言うのが私の願いであった。何の肩書もないが、本名を読んで欲しいと名刺を作り渡していた。集いがある時にはチマ、チョゴリをまとって行った、同胞の集う場所でもチマ・チョゴリを着て行く人は、少なかった。同胞の結婚式があると紙袋に入れて持って行き、現地で着替える人が多かったが、私は、新宿に行く時も小田急線の混雑しているラッシュアワーの中をチマ・チョゴリのままに乗車するのが常であった。他の人はお金を余分に出してロマンスカーに載っていた。
右上の写真は卒業して50年目に初めて参加した県立若松女子高校の同窓会。この日は、緑色のチマ・チョゴリで参加。前回参加した時には、自分のカメラで映したいと仰った方が後に沢山の写真の他に大きく引き伸ばしたものを、額装して送って下さった。高校の名前は変わっていて中高生男女同学の学校になっていた。
下の写真は江川村立江川中学校の同級会。白色のチマ・チョゴリで参加。

「植民地歴史博物館」に差し上げるつもりでファイルに挟んだものを、思い出すために少しカメラに収めたので、写真が、それぞれ可笑しな状態になってる。また、もっと沢山あるのに出てこない。ブログに載せるつもり等なかったのに、何故かこうして載せている。自分の心がこうして変わるのだから、誰かの心変わりを云々する事は出来ない。
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。神奈川県関東大震災時朝鮮人虐殺の追悼会、一人でチマチョゴリを来た。
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# by pcflily | 2018-04-13 23:07 | アリランエッセー | Comments(2)  

「植民地歴史博物館」間もなく開館

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〇李煕子さん
〇イビョンスンさん 靖国合祀取消訴訟者
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〇金丞垠さん 民族問題研究所資料室長・責任研究員 博物館の建設現状報告の説明
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3月20日、久し振りに集会に参加する為に出かけた。植民地歴史博物館」3・20集会が港区立勤労会館で行われた。JR田町駅から徒歩4分とあったのだが、私の乗る京浜東北線からは4分では無理であった。何度も聞きながら何とか無事についた。
「韓国人靖国合祀取消訴訟」口頭弁論が東京地裁であったがのに、そこまでは行く自信がなく行かなかった。
李煕子さんを始め4人が韓国から来られた。李煕子さんはこの戦いの為に150回近く来日していると言う。私が初めて彼女に会ったのは、私が朝鮮語が理解出来るからと(この事を頼んだ日本人は現在は殆ど顔をみせないが)李煕子さんのお世話係として頼まれたからであった。彼女が40代であったのに、現在は70代になっている。静かな控えめな女性であった。私が、もっと強く主張するべきだとけしかけていたのに、現在は立派な人権闘士家として活躍している。
何故に、日本国は彼女、彼らの願いの「合祀取消」を認めないのか?私には全く理解できない。勝てない裁判を何故?何十年も続けてこられたのか?
闘い続ける事が合祀された父の子としての思いなのであろう。李煕子さんは「今日まで、続けてこられたのも、こうして応援をして下さる人が、大勢いらっしゃるからです。感謝の思いは言葉では言い尽くせない」と仰っていた。
この長い闘いの中から、生まれたのが「植民地歴史博物館」だ。昨年、訪韓した時に訪ねた時は、まだビルの一角を借りているだけだったが、今年は、ビル一棟をそっくり「歴史博物館」として開館する。韓国と日本の一般の人達のカンパによって作り上げたものだ。民間の手作りの博物館である。この様な民間の力だけで作られた歴史博物館はないと言う。未来に向かっての慈しみの場所にしましょうとのことであった。

資料の提供を広く募集していたが、家出をしてしまった私には古いものは何もない。オモニが私の娘に持たせて下さった「通信簿」が色あせて、手元にあったので持参して見て頂いたら、良いとの事で預けて来た。又、一番古い写真と書いてあったアルバムも持って行って預けて来た。役に立つものがあればとの思いであったが、果たして本当に、必要とされる物なのかどうか甚だ心もとない。
日本が敗戦しても、帰国出来ずに日本で暮らしている在日朝鮮人は、未だに日本の植民地政策の被害から、解放されていない。日本人化しないとこの地では生きられない事を知って欲しいと思ったのだが、私の思いが、しっかり伝わったであろうか?

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# by pcflily | 2018-03-24 21:33 | アリランエッセー | Comments(2)