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アボジとオモニの韓国土産


  
  玄孫まで四十九名の血縁の「在日」遺し白寿のオモニ逝く    神奈川歌壇 

評 九十九歳の大往生、見事な末広がりにも敬服するが、何よりも母上へのいたわりに満ちた哀惜の一首に思いを深くした。 今野寿美選  2014年8月31日

☆8月29日は陰暦で8月5日だ。私の生まれた日でもあり、娘も陰暦では同じ日に生まれ、二人とも陽の昇る頃に生まれた。私は76歳になった。
守護神のオモニが逝ってしまい、オモニっ子から、独り立ちしなければと試行錯誤しているが、不安感は増すばかりであった。
最近、短歌を詠むことはなかったのに、オモニのことを思い詠んだ、たった1首を投稿したものが入選した。初めて作った短歌を「朝日歌壇」に投稿した時に、選者とは、31文字の中から、見も知らぬ私の思いを汲み取れる素晴らしい人であるのだと感動した。あの日、入選した自分の短歌を読み、夫の死をはっきりと再認識して泣いたことをも思い出した。今回の入選でも、私のオモニへの思いを、選者がしっかりと汲み取って下さったことで、気持ちの整理が付けられそうな気がする。
子育ての頃は、子供の事が最優先、子供が結婚した後も長いこと子離れが出来ないままに、オモニのことを最優先にしていた。これからは、自分の為にも、少し何かをしたいと思う。

☆アボジとオモニの初めての帰郷は1970年代。韓国に行きたいとのアボジの思いは早くから強いものであった。1910年生まれのアボジに、還暦が過ぎてからと、家族が引き留めていた。人生五十年の考えが当たり前の頃であったが、南北の統一を信じていた私達であった。アボジの還暦の祝いが済んでも、朝鮮は分断のままだった。アボジは痺れを切らして、痴呆の真似までしたので、一人では行かせられないと家族が心配して、オモニも韓国籍に変更して帰国の夢を果たした。
その日の様子や、夫の逝去の事を詠んだ短歌が、1976年8月の月刊『統一評論』に掲載されている。

初めての帰国の記念と形見にと七人娘に、お揃いの純金のネックレス、指輪、イアリングをお土産に買ってきた。アボジとオモニにとっては、大変な出費だったと思う。その時、私だけに、何時もチマ・チョゴリを着るからと、このビーズのバックを買ってきて下さった。他の姉妹は「貞花にだけとは酷い」と憤慨した。
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姉妹が憤慨したので,2度目の帰郷の時に、特別注文で、7人姉妹に色違いの同じ形のものを買ってきた。大きいので驚いた。(左上のもの)オモニ用のもの(左下)を、あまり使わないからと、私に下さった。
貞花は何でも大切にするからねとー―。でも、最近はこれらのものを使う機会に恵まれない。淋しい。
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# by pcflily | 2014-09-02 22:33 | アリランエッセー  

関東大震災・朝鮮人虐殺フィールドワーク

9月1日は「関東大震災」のあった日であり、朝鮮人にとっても、日本人にとっても悲しい記憶の蘇る日である。昨年は関東大震災の朝鮮人虐殺を31年も演じ続けてきた「荒野座」の公演に招待されていたので、参加できなかったので、今日は雨の中を歩いて現地を観てきた。
募集人員は20名であったのに、40名を越えていたようであった。

見捨てられていた沢山の朝鮮人の遺体を大八車に載せ、供養してもらえる御寺を捜し歩いた李誠七さん。手塚敏明さんの紹介により宝生寺の佐伯妙智さんが引き受けてくれ「朝鮮人法要会」も開かれたと言う。李誠七さんの遺志を受け継いだ鄭東仁さんの奔走により韓国人団体が1971年に「関東大震災韓国人慰霊碑」が建立された。李誠七さんが1924年に始めた追悼会、現在は民団に引き継がれ、朝鮮人による追悼会が今に至るまで行われているのは全国でも此処だけであると言う。

当時、小学2年生だった石橋大司さんは1974年に碑を建立した。
「関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑」小学1年の石橋さんは家族とと一緒に逃げる途中で、電信柱に後ろ手に縛られた朝鮮人の死体を見た。血にまみれていた。
「多くの日本人は朝鮮人を虐殺したり、目撃しているのに、口をつぐんでいる。恥ずべきことだ」と1970年代に入り、当時の飛鳥田一雄市長に手紙をだしたが、受け入れられず、私財を投げ打って、市有地に許可を得て慰霊碑を建てた。震災から51年目だった。自分の名前を入れず「少年の日に目撃した一市民建 之」と記されてある。
  写真は、石橋さんの建てた「関東大震災殉難朝鮮人慰霊の碑」
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西川春海「遭難とその前後」より(横浜市震災誌第5冊)
「けさもやりましたよ。その川っぷちにゴミ箱があるでせう。その中に野郎一晩隠れてゐたらしい。--それを見つけたから、皆でつかまえようとしたんだ。奴、川へ飛び込んで向ふ河岸へ泳いで逃げやうとした。旦那、石ってやつはなかなか当たらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが一つも当たらねえ。でとうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎ぢやねえか。十分くらいも水の中へもぐってゐた。しばらくすると、息がつまったと見えて、舟の直きそばへ頭を出した。そこを舟にゐた一人の野郎が鳶でグサリと頭を引っかけて、ヅルヅル舟へ引寄せてしまった。まるで材木といふ形だァネ。」「舟のそばへ来れば、もう滅茶滅茶だ。鳶口一つでも死んでゐる奴を、刀で斬る、竹槍で突くんだからーー」
 
☆今日の資料より抜粋した。今夜は安眠出来そうにない。

       



# by pcflily | 2014-09-01 22:33 | アリランエッセー  

九十年前の震災記念綴り方帳

☆2013年の作品です。「関東大震災時の朝鮮人虐殺」国が支持し、一般の人が、殺人を犯し、万歳を叫んだ。日本国は、いまもなおも、一言の謝罪もしないでいるのです。

◎作品です。ドイツが過去の過ちを謝罪を続け、賠償もしたことは知られているが、最近フランスの首相も、過ちであったと、謝罪した。日本は、隠蔽までしているのだ。何時までこの恥知らずな態度を続けていくのだろうか?関東大震災時の子供の作文も、発見されているのだ。私のブログからです。


九十年前の震災記念綴方帳         朴 貞 花
           十二月号(十二月集に)二〇一三年 

(横浜・南吉田尋常小学校と壽小・石川小・磯子小も)

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    鉄棒や刀で武装した朝鮮人狩り

合言葉を決め

味方の目印は赤と白

お巡りさんが来て言いました

「朝鮮人が来るから

来たら殺してください」

僕は兄さんと竹やりを作りました

朝鮮人を橋の上で

大勢の人たちが

刀で切ったり鉄棒でぶったり

槍でつつき川の中に放り込みました

道のわきに二人殺されていた

頭は割れ血みどろになっていた

みな唾をひっかけていった

牧師の李誠七さん

荷車で遺体を拾い集め

供養をしてくれる寺を捜し歩いた―――

李誠七さんの作った教会に       (横浜市中区)

孫の通う打越保育園

多国籍の幼子達の笑顔満ちて

電柱に荒縄で縛られた

血まみれの遺体の朝鮮人を見た

小学校二年の石橋大司さん

彼は震災五十年後

私財を投げ打ち建立した

「関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑」   (横浜市西区)

「関東大震災朝鮮人虐殺」劇

上演を続ける荒野座

妨害の中を三十一年

客席に溜息と私の溢れる涙と―――

☆昨日、病院の帰路に散歩がてらに、かねて行ってみたいと思っていた「信愛塾」に行った。女性の方が一人居られてしばらく話をしたので、23年も続けているという「ハギハッキョ」が、今日ある事を知り参加した。在日の朝鮮・韓国人の子供達や最近増えている外国人の子供達を理解し仲良く共存するようにとの願いを込めたものである。
「ハギハッキョ」とは朝鮮語の「夏季学校」の事だ。色々な遊びや楽器の体験があった。幕開けに関東大震災の朗読劇があった。今日のメニューは子供向け、大人向けのものが多種そろえてあった。私は『フィールドワーク』に参加した。これは、関東大震災の時にこの地域で実際にあったことを追うものであった。2004年9月に、すぐ側の横浜市立南吉田小学校から見つかった10冊の「震災記念綴り方帳」の事も学び、その後を辿るものでもあった。最近の世相を見ると昔の事と軽く流すことは出来ない。
最後に話し合いの席も持たれた。子供たちの素直な目で見たこと体験したことが綴られていると思う。大震災後に再開された学校で書かれた綴り方には、朝鮮人が暴動を起こしたことはデマであったことがはっきりしている筈なのに、そのことには触れられていない。デマは信じられていたのであろう。大人達は真実を教えてないのだろう。

砂の彫刻展
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# by pcflily | 2014-08-30 21:18 | アリランエッセー  

関東大震災の記憶

  • 関東大震災の記憶   九月号  二〇一二年    

  • 朴 貞 花・ぱっちょんふぁ   

駐車場の片隅の小さな石碑

大震災殉死者供養塔

セメントに埋もれ文字も薄れ――
   

国家を信じた民衆

官憲の意図的に流した流言蜚語

警察は自警団に

チョーセンは殺してもよい――

天下晴れての人殺しだから

豪気なものでさ――

俺達はため(肥)かつぎをやっていても

十六人も殺したぞ

社会主義の本を懐中に忍ばせていた

労働者塚本重蔵を追いつめて

自警団は刺殺した

「朝鮮人は皆殺しにしろ――」

嵐のように湧き上がる

万歳歓呼の中

軍隊の白刃と銃剣に倒れていった朝鮮人――

流言蜚語は海軍船橋送電所からという

戒厳令下の軍隊の朝鮮人狩り

軍隊の命令による民衆の朝鮮人虐殺

秋田雨雀は書いた

朝鮮人は

日本人民衆の敵ではない

日本人の支配者が

日本人民衆の敵なのだ

 

朝鮮人は

遺体の捜索も追悼も許されなかった

朝鮮人への

謝罪は未だにない

☆山田昭次先生の著書『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』『植民地支配・戦争・戦後の責任』『朝鮮人戦時労働動員』等がある。先生は研究を続けられた。次々と著書を出版している。日本人としての先生の良心による研究は現在も続いていて、新書の出版も続けていらっしゃる。

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百日紅がこんなに生命力が強いとは知らなかった。挿し木したものが今年はどんどん空間を求め伸びて花を咲かせている。
愈々私も75歳。終活に励まなければと思う。
私も娘も陰暦では同じ8月5日の明け方に生まれた。
夏休みも終わりに近い今週は、会いたいとのことで2度も外出をした。同性の友人には好物の寿司をご馳走になり、彼女の大切なカップを頂いた。異性の友人とは未来を信じようと語り合った喫茶店での長い時間の後に、生ビールを一杯飲み干して別れた。朝鮮の事を同じ気持ちで話し合う機会には、あまり恵まれないことなので有意義であった。


○左前2個が友人に頂いたもの、グリーンのカップはピンクとセットであるものを好きな緑色に替えて貰って私が購入した。
白鳥を思い購入した白のポットと砂糖壺。毎朝、朝食後はこのポットで、コーヒーを淹れグリーンのカップで飲む。コーヒーを何度も立てて飲む、この儀式が済まないと、立ち上がれない。どんなに忙しい日にも、朝のコーヒーを抜くことはない。縁に白鳥の羽を象った白い皿もそろえた。
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# by pcflily | 2014-08-29 22:09 | アリランエッセー  

すれちがう会話

★すれちがう会話       四月号  二〇一二年     
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金正日が死んだね

死とは明日は我が身のこと

金王朝とは笑っちゃうね

「天皇家」は笑えない

金正日は人民を飢えさせている

天皇は国民を戦場に駆り立て兵士は餓死した

日本軍の侵略による

アジアの犠牲者は二千万以上


北朝鮮は拉致をした、許せない

  少女を拉致し慰安婦にした日本は許せるの?

ハルモニ達の抗議集会は千回を越した

過去は忘れたら良い、過ぎたことだよ

  過去が今に繋がり今は未来に繋がる

  「温故知新」という

北朝鮮は核開発をしている

世界唯一の被爆国が米国と核密約をし

原発を推進してきた

原発は日本の核武装の隠れ蓑だ

北朝鮮が軍備に力を入れているのは間違っている

朝鮮戦争は「停戦」終わってない

「北朝鮮撃滅の大演習」を毎年

米・韓連合軍が強行、日本も参加した

北朝鮮は鎖国主義で開放しないね

北朝鮮は何度も友好関係を提案している

朝・米の「平和条約」提案を米国が無視している

 朝・日の「国交正常化」に応じない
応じないのは日本だ

六十六年経ても嘗ての植民地国と国交を結ばない

宗主国は世界で日本だけだ

朝鮮人が何で日本にいるの?

原爆投下、朝鮮の分断、沖縄の基地、在日コリアン
 日本の植民地支配の産物だ
真実を知る叡智を磨かねば

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大山蓮華・1991年に朝鮮の国花に制定した
終の住処として現在地に越した時に、自分の名字の「朴の木」を探したが苗がないという事で、一番近い花が大山蓮華と教えられて注文して植えた。こうして立派な花を咲かせたのに、この暑さ続きで枯れてしまった。本当に残念。


# by pcflily | 2014-08-24 20:39 | アリランエッセー