私の短歌&アリラン・エッセー
2021-06-24T08:57:26+09:00
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自作短歌とエッセー
Excite Blog
無条件降伏を敗戦と言わない日本
http://pcflily.exblog.jp/32331131/
2021-06-23T14:41:00+09:00
2021-06-24T08:57:26+09:00
2021-06-23T14:41:58+09:00
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『新日本歌人』
🌺『新日本歌人』投稿歌 2021年6月号
🍀無条件降伏を敗戦と言わない日本 朴ぱっ 貞ちょん 花ふぁ 神奈川
米、英、中の カイロ宣言は 一九四三年十一月 日本に無条件降伏を要求し 朝鮮の独立を決めた
米、英、中、ソ連の ポツダム宣言で 一九四五年七月 朝鮮の独立再確認 日本の分割占領合意 戦争終結の共同宣言
米、英、ソ連の ヤルタ会談にて 一九四五年二月 ソ連の対日参戦決定 各種の秘密協定結ぶ
近衛文麿首相は 「敗戦不可避論」を主張 天皇は降伏前に 「敵に確実な打撃を与えよ」と
「降伏時条件緩和」の 沖縄の「出血作戦」 米・日の軍人だけでなく 十二万の 民間人犠牲者を出した
ヤルタ会談で決めたソ連参戦 原爆投下した米国 日本全域占領―― 反共の砦の「韓・日」占領
天皇はポツダム宣言を受諾 「神州日本人の不滅を信じる」とーー近隣諸国に謝罪しない 「遺憾だ」は「残念だ」の意味謝罪の言葉ではない
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安重根
http://pcflily.exblog.jp/32206893/
2021-03-27T22:23:00+09:00
2021-03-28T18:57:59+09:00
2021-03-27T22:23:04+09:00
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アリランエッセー
☆安重根は伊藤博文を撃った
☆伊藤博文に可愛がられた同郷の 満鉄筆頭理事田中清次郎は 「日本人を含め一番偉大な人物は安重根だ」 ☆現在の日本の管首相は「安重根は犯罪者だ」と言っていた。
三月号 二〇一四年 「新日本歌人」投稿作品 安重根は犯罪者と言う「菅官房長官」 韓国併合を閣議決定し 哈爾濱に向かった伊藤博文を撃った安重根
拘束された安重根は論陣を張った「東洋の平和と韓国の独立の為の戦いだ伊東殺害の理由の十五カ条――」
世界の耳目を恐れ 裁判を始める前に極刑をと打電した 外務大臣小村寿太郎
旅順監獄の関係者は 安重根の人格に魅了され 畏敬の念と良心の呵責を持った
助命を嘆願し 毎日通い続けた典獄の栗原貞吉 非力を悲しみ辞職した
信頼関係を築いた教誨師補の津田海純遺墨三幅と写真六十八枚を 持ち帰り保管した
終生追悼を続けた陸軍憲兵の看守千葉十七意志は引き継がれ顕彰碑を建立供養は引き継がれてる 伊藤に可愛がられた 同郷の満鉄筆頭理事田中清次郎は言い残した
「日本人を含め一番偉大な人物は安重根だ」
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安重根
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2021-03-27T22:22:00+09:00
2021-03-27T22:22:59+09:00
2021-03-27T22:22:59+09:00
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アリランエッセー
☆安重根は伊藤博文を撃った
☆伊藤博文に可愛がられた同郷の 満鉄筆頭理事田中清次郎は 「日本人を含め一番偉大な人物は安重根だ」 ☆現在の日本の管首相は「安重根は犯罪者だ」と言っていた。
三月号 二〇一四年 「新日本歌人」投稿作品 安重根は犯罪者と言う「菅官房長官」 韓国併合を閣議決定し 哈爾濱に向かった伊藤博文を撃った安重根 拘束された安重根は論陣を張った「東洋の平和と韓国の独立の為の戦いだ伊東殺害の理由の十五カ条――」 世界の耳目を恐れ 裁判を始める前に極刑をと打電した 外務大臣小村寿太郎 旅順監獄の関係者は 安重根の人格に魅了され 畏敬の念と両親の呵責を持った 助命を嘆願し 毎日通い続けた典獄の栗原貞吉 非力を悲しみ辞職した 信頼関係を築いた教誨師補の津田海純遺墨三幅と写真六十八枚を 持ち帰り保管した 終生追悼を続けた陸軍憲兵の看守千葉十七意志は引き継がれ顕彰碑を建立供養は引き継がれてる 伊藤に可愛がられた 同郷の満鉄筆頭理事田中清次郎は言い残した
「日本人を含め一番偉大な人物は安重根だ」
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安重根
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2021-03-27T22:22:00+09:00
2021-03-27T22:22:52+09:00
2021-03-27T22:22:52+09:00
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アリランエッセー
☆安重根は伊藤博文を撃った
☆伊藤博文に可愛がられた同郷の 満鉄筆頭理事田中清次郎は 「日本人を含め一番偉大な人物は安重根だ」 ☆現在の日本の管首相は「安重根は犯罪者だ」と言っていた。
三月号 二〇一四年 「新日本歌人」投稿作品 安重根は犯罪者と言う「菅官房長官」 韓国併合を閣議決定し 哈爾濱に向かった伊藤博文を撃った安重根 拘束された安重根は論陣を張った「東洋の平和と韓国の独立の為の戦いだ伊東殺害の理由の十五カ条――」 世界の耳目を恐れ 裁判を始める前に極刑をと打電した 外務大臣小村寿太郎 旅順監獄の関係者は 安重根の人格に魅了され 畏敬の念と両親の呵責を持った 助命を嘆願し 毎日通い続けた典獄の栗原貞吉 非力を悲しみ辞職した 信頼関係を築いた教誨師補の津田海純遺墨三幅と写真六十八枚を 持ち帰り保管した 終生追悼を続けた陸軍憲兵の看守千葉十七意志は引き継がれ顕彰碑を建立供養は引き継がれてる 伊藤に可愛がられた 同郷の満鉄筆頭理事田中清次郎は言い残した
「日本人を含め一番偉大な人物は安重根だ」
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歌集 『身世打鈴』より
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2021-03-26T19:33:00+09:00
2021-03-26T19:42:03+09:00
2013-05-27T22:34:14+09:00
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貞花の短歌『身世打鈴』
ブログ「私の短歌とアリランエッセー」
歌集 『身世打鈴』より
☆写真は、現在の横浜の家に住むようになって咲かせたカサブランカ。花の数が少ない。
🌺カサブランカ
☘植え込みし球根一つが咲かせたる十二の大輪カサブランカ揺るる
☘白百合の大輪咲けり名の如き純白なれば白を愛しみて
☘水やれば水を吸い上げ夕顔の花はゆるりと吾をみつむる
☆現在はどこに行っても、花屋さんがあり、あらゆる花があふれ咲いている。福島県の会津で育った私にとっての思い出の花の一つはカタクリの花だ。近くで簡単に手に入る花であったが、その名を知ったのは、大人になってからだ。我が家で働いていた張さん・長谷川さんと呼んでいたが、将来は医者になると本ばかり読んでいる人だった。
ある時、この趙さんの従弟である青年が訪ねて来て、しばらく、我が家で働いていたが、密航してきたと言うことで、同じ場所に落ち着いていられないと、又、どこかに行ってしまったが、自殺をしたとの連絡が入った。密航者として、逃げ回るのに、疲れてしまったのであろう。
張さんの病身のお姉さんもいた。このお姉さんは、カタクリの花で、朝鮮の少女・未婚の女性が一本に編んだ三つ編みの裾に赤いテンギをつける姿の人形を作ってくれた。それは花の根を顔にし、葉を三つ編みにしたものであった。
もう一つの思い出の花は山百合の花、馬や牛を飼っている家の叔父さんが飼料にする草を取ってくる。そこに山百合の花もあった。わが家では手に入らない花だった。初めて見たときの感動は忘れられない。
中学生になって英語を習い始めた時であった。同級生の一人が自分は薔薇のローズになるからと、私にも花を決めて英語で呼び合うことを提案してきた。私は迷わず、白百合にすると決めた、百合はリリーだった。山百合は真っ白ではなかったがーーー
。
私の娘は、幼い時から赤よりもピンクを好んだ。ピンクの百合があれば良いのにと思っていた時、笹百合はピンクと知り喜んだりした。ある日、町の花屋さんで真っ白なカサブランカを見つけたときは本当に驚いた。願えばこうして叶うものなのかと思った程だ。球根を植えて育てたら十二個の花を咲かせてくれた。自分の為には冷房をかけたことはない私であったのに、花のカサブランカの為にエアコンのスイッチを入れていた。
ハンカチ一つを買おうと思う時でも百合の模様を探し、食器を買うときも、セーターを買おうとするときも百合の柄を探してしまう。
息子の結婚式の時の花は、カサブランカと決めた。新しい花だったので、高価だったが迷うことはなかった。新婦のお色直しのチマ・チョゴリはは真紅であったので純白のカサブランカは良く似合っていた。
朝鮮民族は白衣民族と言われるほど白を好むと知った時には、白の洋服を買い求めるようになっていた。本当に単純な人間だと思いながら――――。あることを思い始めて決めたら変えることが出来ない。融通が利かない性質は七十の坂を越えても変わらないようだ。
☘2021年3月26日に気が付きました。八十の坂を超えても変わらない貞花でした。
◎いつの間にかわが瓦礫の花園に、住み着いている高砂百合です。強い花で、増えてゆきます。二回まで伸びる時もある高砂百合なんです。
◎高砂百合。
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歌集『身世打鈴』より 人形の夢
http://pcflily.exblog.jp/18593484/
2021-03-24T22:26:00+09:00
2021-03-24T22:26:30+09:00
2013-02-12T15:39:27+09:00
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貞花の短歌『身世打鈴』
生きてきました わが道を 貞花は 今日も 生きている
〇メロディーは「裏町人生」
小学生の時に、村の青年団の慰安会の時に、一緒に踊らされた。
その時の歌のメロデイーが一番記憶に残っている。
それは、私には、青春時代を楽しむ経験がなかったからだと気が付いた。
娘から、送られた胡蝶蘭は、18個にもなっていた。
けれども、10歳下の独身を謳歌していた妹が認知症になってしまた、
両親もすで に天上の人だった。
私は、反対の中、率先して介護をした。胡蝶蘭は冬の手入れが出来なかったので、 殆ど駄目になって仕舞った。又その時から年賀状も書けなかったので全部やめてしまった。
☆2013年のブログより。
🌺人形の夢
☘真夜中も働く母と知る吾子は人形抱き今宵も 寝ぬる
☘オモニは我が家の父よと微笑みて私は小さな母さんという
☘母われの知らぬことども聞かされて人形は見る子と同じ夢
☘濡れタオル載せれば癒えると信じいる七歳の娘に看病されいる
☘病み伏せしわが枕辺に一輪の赤き薔薇買いくれし娘は七歳
☘金あれば幸せ買えると言いおりし夫ある日々の恋しかりけり
☘千里馬の国の夜明けを信じたり吾子につけた「明希」という名ーーーみょんひ
◎花の好きな私の為に、娘は、花をプレゼントしてくれる、写真の胡蝶蘭は自分で咲かせた。温室がなくとも、冬季は寒さから守る為に段ボールに入れ、毛布をかぶせ布団をかぶせる。
◎コピーすると、何故か写真が出ません。
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日本帝国主義の朝鮮観、ハンギョレの記事
http://pcflily.exblog.jp/32201744/
2021-03-24T09:36:00+09:00
2021-03-24T09:37:53+09:00
2021-03-24T09:36:07+09:00
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アリランエッセー
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日本民族の北方起源説日本は自分たちの隣国を時には辺境と見なし、時には起源の地と見なして、自分たちの侵略を合理化した。最近になっても現れる近隣諸国を必要以上に蔑視する発言の背景には、自分の数千年に及ぶ隣国を植民地にしてしまった日本帝国主義の歴史がある。このような日本の自己矛盾的歴史観が、今なお近隣諸国を意図的に無視する態度として現れているのである。 日本が韓国に対して他国と異なり行ったことは、昨日今日の事ではない。第二次世界大戦のよく似た敗戦国でありながら、周辺国に対する態度に変わりがないドイツと比べると、日本の姿勢はますます理解されない。日本は米国と西欧国家には過度なまでに低姿勢で、被害の当事者である韓国と中国には極度の反感と嫌悪感を示す。 こうした日本の矛盾的な態度の裏には、19世紀末から始まった日本の東アジア侵略と文化財侵奪事業があった。日本は、自分たちを大陸から下った天孫民族と自任してきた。韓国を植民地にしたことは、すなわち自分たちの「故郷」を植民地にしたつもりだった。日本は、韓国を越えて満州を経て中国を侵略し、日本民族の北方起源説でこれを正当化してきた。日本は朝鮮半島を自分たちの故郷であり、同時に劣等な植民地統治の対象と見た。過去100年余りに及ぶ日本人の歪曲された韓国観は、こうした自己矛盾的歴史観の産物である。ドルメンに埋まった日本の「インディ・ジョーンズ」 映画「インディ・ジョーンズ」の背景である20世紀序盤は、帝国主義が競い合って世界各国の文化財を略奪した時期だった。明治維新以後、西欧の文物を受け入れた日本も、そのような帝国主義考古学に積極的に関与した。日本は韓国を正式に侵奪するはるか前の1899年から、韓国の文化財を調査し始めた。元々、日本の朝鮮半島調査の目的は、日本人の起源を探すためのものだった。当時活動した代表的な学者が、東京大学人類学教室の鳥居龍蔵(1870〜1953)だ。日本の中でも田舎だった四国の徳島県出身である彼は、正規の学校にまともに通った時期がないにもかかわらず、東京大学人類学教室の教授になった立志伝的人物である。彼の成功の秘訣は、まさに日本軍国主義に積極的に応じたことであった。19世紀末から彼は、日清戦争の戦地だった遼東半島を皮切りに、台湾、沖縄、さらにはシベリアまで、四方に無慈悲に進出した日本軍について回った。鳥居は各地域の原住民を調査して、劣等な集団と優越な集団を区分し、その中から大陸から渡って来た日本人の起源を探そうとした。日本が島を抜け出して大陸各地を占領したことに国民的な興奮が高まった時期だったため、彼の資料は大きく注目された。鳥居は日本が韓国を植民地にするやいなや、1910年に朝鮮総督府の斎藤総督に会い、韓国に日本民族の起源を探す調査を助けてくれるよう説得した。彼の6年にわたる朝鮮半島調査がこのようにして始まった。 彼が韓国で注目したものは、咸鏡道地域の石器と朝鮮半島全域に分布したドルメン(支石墓)だった。咸鏡道の石器に関心を持ったのは、当時韓国で暮らしていた「未開な」土着韓国人を探すためだった。一方、ドルメンに注目した理由は、未開な土着韓国人の中に住んだ「偉大な」日本人の先祖を見つけることを期待したからである。鳥居は、イギリスのストーンヘンジに類似したドルメンを作った人々は、未開な土着の韓国人ではないと考えた。朝鮮半島のドルメンが、日本の九州一帯でも発見されたため、ドルメンを追跡すれば偉大な日本人のルーツを見つけられると考えた。
日本軍憲兵とともに遼東半島の遺跡を調査する鳥居龍蔵(右側)=カン・イヌク氏提供//ハンギョレ新聞社
朝鮮総督府の要請で韓国を調査するために来た鳥居龍蔵(立っている人)とその一行。背後の建物は景福宮=カン・イヌク氏提供//ハンギョレ新聞社
鳥居の考えには、当時の日本帝国主義の矛盾がよく現れている。元々、西欧では、植民地ははるか遠いアフリカや近東地域で、文明の開化が極めて遅れた地域を占めるのが通常だった。しかし、韓国は日本と歴史を共にした隣国であり、何よりも日本の原住民より優越な日本人の起源と考えた場所だった。そんな朝鮮半島を植民地にした日本では、これをどう歴史的に合理化するかが大きな悩みの種に違いなかった。 結局、鳥居以後に朝鮮総督府は、北朝鮮の楽浪郡と韓国の任那日本府を強調することで、本来韓国人は未開で、彼らの間を日本民族の起源となった者が通ったという形の強引な解釈をした。今、嫌韓勢力が韓国を馬鹿にし蔑視する論理は、すでにこの時から始まっていたと言っても過言ではない。 学者としての鳥居に対する評価に先立ち、私たちが記憶しなければならない点は、彼が日本軍国主義の信奉者だったという事実である。1920年代、ロシア革命の混乱に乗じて日本軍がシベリアを侵略した時、鳥居は「シベリア出兵は人類学、人種学、および考古学に対する貴重な貢献だ!」と言って感激するほどだった。しかし、日本軍国主義の敗亡とともに、鳥居は帝国主義の御用人類学者の烙印を押され、ひっそりと人生を終えた。大陸の夢を忘れようとしなかった彼は、故郷の徳島に北方式ドルメン形態の墓を作って自分を埋葬してほしいとの遺言を残した。
日本帝国主義考古学の鳥居龍蔵は、日本民族の起源が北方にあるという自分の理論に従い、彼の故郷の徳島に北方式ドルメン形態で作られた墓に埋葬された=カン・イヌク氏提供//ハンギョレ新聞社
しばらくの間タブー視された彼の名前は、1980年代以後に日本の影響力が拡がり復活した。彼の名前が四方で言及され、さらに「鳥居学」と彼の研究を神格化して従う研究者が増えている。韓国国内にも鳥居の資料を貴重な資料として分析しようとする試みがある。もちろん、彼が残した写真やその他のさまざまな資料の学術的な意味を無視することはできない。しかし、資料に対する評価以前に、隣国を「未開人」、「辺境」と罵倒し、帝国主義的侵略に積極的に加担したことに対する厳重な評価は必要である。事実、日本帝国主義に加担した学者は、鳥居の他にも大勢いた。今も私たちの周辺には、学者的力量や資料の価値を無視することはできないということで、彼らを合理化しようとする動きがある。しかし、植民地時代、韓国と満洲で活動したすべての日本の御用学者たちは、例外なく価値中立を掲げていたことを忘れてはならない。日本の朝鮮半島認識の根源 日帝は1920年代から朝鮮半島を越えて満州と中国一帯に勢力を拡大し始めた。それにより日本帝国主義の考古学者たちが朝鮮半島を眺める観点も変化した。すなわち金石併用期と北方文化論が登場したのである。 金石併用期という用語は、元々欧州とユーラシア考古学の用語で、新石器時代と青銅器時代の間に存在した時代をいう。しかし日帝は、この用語を朝鮮半島に取り入れて、韓国人はまともな青銅器や鉄器を使うことができなかった劣等な人種という意味に誤解して使った。早い話が、櫛目文土器に代表される新石器文化に留まった土着の韓国人集団と、無文土器の青銅器文化で先行していた日本民族が混じって住んでいたということである。こうした金石併用期説によると、朝鮮半島の発達したすべての遺物は、北は中国の植民地である楽浪、南では日本の植民地である任那日本府の影響が及んでから初めて現れたことになる。日帝の考古学者らも、すでに櫛目文土器と無文土器がそれぞれ異なる時代だということは十分にわかっていた。日本国内でも、新石器時代である縄文時代と朝鮮半島から渡った渡来人が作り出した弥生文化が、それぞれ時期を異にして存在したことを知っていたからである。しかし、日帝が組んだ金石併用期というフレームは、解放以後も約30年間持続し、韓国文化の自主的発展を否定する他律性とアイデンティティ論の基盤になった。
20世紀初め、日本人が日本の原住民である「コロボックル」を想像して描いた絵。日本人は自分たちを天孫民族と強調するために、原住民を未開な姿で描いた=カン・イヌク氏提供//ハンギョレ新聞社
また、別の日本帝国主義考古学者の観点である北方文化論は、日本人の起源を朝鮮半島を越えて北方満州と見る理論である。このような日本人の態勢転換は、1920年代から露骨化された満州と中国の侵略に関連がある。自分たちが侵略しなければならない土地は、元々は日本人の起源の地だから、侵略ではなく故郷の回復であるという強引な論理だった。この説は、北方ユーラシアの優越な騎馬民族が馬に乗って日本列島へ下り、古墳時代の主人公になったという騎馬民族説に整理することができる。現地人を未開としながら、彼らの間には偉大な日本人の先祖がいるという論理は、朝鮮半島に対する認識と特に違うところがないのである。最近まで韓国でも「北方ユーラシアは元々私たちの領土」だったと根拠が貧弱な主張が流れたが、実はその根は日本軍国主義が主張した侵略論理と一脈相通ずる。 日本はこのように、自分たちの隣国を時には辺境と見なし、時には起源の地と見なして、自分たちの侵略を合理化した。最近になっても現れる近隣諸国を必要以上に蔑視する発言の背景には、自分の数千年に及ぶ隣国を植民地にしてしまった日本帝国主義の歴史がある。このような日本の自己矛盾的歴史観が、今なお近隣諸国を意図的に無視する態度として現れているのである。カン・イヌク慶煕大学史学科教授http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/902476.html韓国語原文入力:2019-07-19 06:00
訳M.S
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丸木美術館
http://pcflily.exblog.jp/32194918/
2021-03-19T16:42:00+09:00
2021-03-19T18:51:50+09:00
2021-03-19T16:42:10+09:00
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アリランエッセー
」植栽す『痛恨の碑』前開花祈りつつ
🌺 ハングルの説明文をも備えおく丸木美術館「原爆の図」に🌺 虐殺されし朝鮮人の「痛恨の碑」詣でる人なく鳳仙花盛る🌺 婚家にてひとり守れる朝鮮籍娘のおゆびの赤き鳳仙花🌺 朝鮮の国花無窮 花ふぁ 」植栽す『痛恨の碑』前開花祈りつつ
🌸 吾が歌の刻字されたる陶板も売られて「丸木美術館支える会」🌸 原爆を落としし米国推したりきノーベル平和賞に丸木夫妻を🌺 「戦争を許さぬ女の集会」俊さんの吹く祷りの法螺貝🌺 貫きし反権力と行動の俊さんの笑み童女のごとし🌸 アトリエに膝立て語りき俊さんは灰燼( かいじん ) の平壌( ぴょんやん ) を涙ぐみつつ🌸 灰燼の平壌の地下壕の「原爆の図」爆撃受けし人等行列す🌺 「沖縄戦の図」に自画像を描きこむ加害のあかしと丸木夫妻🌺 頬寄せてカメラに向きし去年の夏俊さんの訃を朝刊に知る🌺 あなたには歌があります詠えよと励まし下さりし俊さんの声🌺 涙する思いで再び『身世打鈴』読みいるという俊さんの便り🌺 都幾川の風冷ゆるまで俊さんに聞く「原爆の図」持ち巡りし旅を🌺 幼らの囁きあいしがたちまちに行列成してサインをせがむ🌺 風冷ゆる夕さりしまで俊さんと節子さんと吾と談笑したり🌺 抱擁し恋人のごと囁きぬ「何時でもおいで、待ってますよ」と🌺 さりげなく手折りくれたるすみれ花ほほえみも添え俊先生は
歌集「身世打鈴」別冊より
☘佐喜真美術館での出会い 「沖縄戦の図」を初めとする十四部が製作地である沖縄の個人美術館「佐喜真美術館」に収まって、展示されていた。 丸木ご夫妻の願いが実現されたのは、作年の十一月ということであった。「近藤先生と行く沖縄短歌の旅」に参加した二日目の三月六日の事を私は終生忘れることはないと思う。はるかに続く青い空と海、ブーゲンビリア、寒緋桜などが咲き、自然はあくまでも美しく、まさに夢の島であった。「基地の中に沖縄はある」という言葉を忘れてしまいそうであった。しかし、沖縄戦で一般住民の十数万人に上っていたという事実、その中には朝鮮人も含まれていた。従軍慰安婦として姓奴隷にされた女性の事も同性として忘れられない。「辛かったでしょう、会いに来ましたよ」と祈り続けていた。
敗戦後五十年、未だに「過去の侵略戦争」の賛否両論がある。「沖縄戦の図」に衝撃を受けていた私にもう一つの衝撃が与えられた。朝鮮人である故にスパイだとして殺害された絵が描かれてあった。丸木先生は日本人の加害の立場も描き続けておられたのだ。不信の目でしか物事を見られなくなっていた自分自身が恥ずかしかった。別室に茶菓が用意され、私たちは緊張して待ち、程無く、丸木先生ご夫妻が入室された。杖をつかれ、支えられてのご入室であった。あまりにも、静かで優しく穏やかな笑顔に驚いてしまった。。真実一路、人間の仕事を全うされた大人の姿であるのだ。こんなに素晴らしい方とお会いできたことと、その絵を真近に観ることが出来たこと。そして「沖縄戦」があったことへの憤りなどで私の胸は震え、涙が後から後からあふれ出てきて止まらない。先生に一言だけでもお礼が申し上げたくて追いかけて行った。俊先生は、朝鮮戦争の廃墟が休戦になったばかりの廃墟と化した平壌の地下で「原爆の図」の展示をなさったことを教えて下さるのであった。中国で「原爆の図」展をなさっていたときに、朝鮮の大使館の方が来られて、私の国にもいらして下さいと頼まれたのですよ、とおっしゃった。「必ず『丸木美術館』に参ります」「何時でもいらっしゃい」と私の手を取り硬い握手をして下さった。後日、この四月二日に「丸木美術館」を、もう一度先生にお会いすることが出来た。この日の感動は前回に倍するものであった。そうして「からす」を見た。長崎の三菱造船に強制連行された朝鮮人約五千人が集団被爆し、鴉が来て食いつくすまで放置されたと言う。朝鮮人への加害責任を明確にした「原爆の図」であった。
被爆死せる朝鮮人の屍は鴉の食むまで放置されにき 灰燼の平壌の地下壕の「原爆の図」爆撃受けし人等行列する さりげなく手折りくれたるすみれ花微笑みも添え俊先生は
その後、丸木美術館の説明文に朝鮮語も採用された。隣国の言葉ということで採用された。 (一九九五年四月「丸木美術館ニュース」に掲載)
☘ 近衛文麿首相は 「敗戦不可避論」を主張 天皇は降伏前に 敵に確実な打撃を与えよと ☘ 降伏時条件緩和の 沖縄戦の「出血作戦」 一九四五年二月
米・日の軍人だけでなく 十二万人の民間人犠牲者を出した
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朝鮮民族舞踊家 崔承喜
http://pcflily.exblog.jp/23324267/
2021-03-16T19:36:00+09:00
2021-03-16T22:33:24+09:00
2014-11-22T20:57:38+09:00
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アリランエッセー
☆崔承喜についての本が出版された事を新聞で知り、直ぐに書店に注文をして取り寄せたのは1981年、上京して10年目だ。私のオモニより2歳年長の1913年生まれの人だ。朝鮮の女が自分の意志を通して生き抜いた人である事に改めて驚かされる。以来私の憧れの人になっている。◎写真の右は高嶋雄三郎+むくげ舎編著『崔承喜』、左は崔承喜を舞う金梅子さんの公演のパンフレット 於岩波ホール 2000年8月19日ー10月6日
朝鮮民族舞踊家 崔承喜
十月号 二〇一三年 朴( ぱっ ) 貞( ちょん ) 花( ふぁ
)
石井漠の新舞踊初めて観た十六歳の崔承喜一夜で決心、門下生となる
大正天皇の霊柩列車に背を向けた崔承喜「日本の天皇さんは拝めない」
崔承喜の舞いは朝鮮の風土が生んだ郷愁を伴う悲しい翳をもつ神秘的な民族のリリシズム
嵐の中の初めての発表会三階まで隙間なしの観客川端康成は日本一の新進舞踊家だ村山知義は大きな驚喜だ――
舞いの創作と情熱――バレー・能・舞楽をも朝鮮の民族舞踊に取り入れ世界に羽撃いた
反日デモの中の米国公演 (一九三八年)創作朝鮮舞踊に民族的制約を越えた画家の芸術の範例だ――
コリアンダンサー朝鮮の生んだ天使的舞姫のパリ公演と歓迎され (一九三九年)ピカソ・マチスも――
朝鮮民族色抹殺の中欧州・中南米を巡演世界的な舞踊家偉大な人物と世界中が讃頌した
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金九について
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2021-03-14T18:16:00+09:00
2021-03-14T18:16:45+09:00
2021-03-14T18:16:45+09:00
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『新日本歌人』
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金九について
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2021-03-14T18:16:00+09:00
2021-03-14T18:18:42+09:00
2021-03-14T18:16:30+09:00
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『新日本歌人』
2020年2月14日 ·
『私はわが国が世界で最も美しい国になることを望む。最も富強な国になることを希望するものではない。私が他国の侵略で胸を痛めたのであるから、わが国が他国を侵略することを望まない。
私たちの富は、私たちの生活を豊かにするほどで足りるし、私たちの力は、他国の侵略を防げるものでも足りる。
ただ唯一、限りなく持ちたいと思う願いは、高い文化の力だ。文化の力は、私たち自身を幸せにし、さらには他者にも幸せを与えるからだ。
私はわが国が、他者のものを模倣する国になることなく、これらの高く新しい文化の源となり、目標となって、模範になることを望む。そして真の世界の平和が、わが国からわが国のゆえに、世界に実現することを望む』
この名句は、号は백범(白凡、ペクポム)名は김구(金九、キム・グ)の、自叙伝的「백범일지(白凡日誌)」の「내가 원하는 우리나라(私が望むわが国)」に出てくるものの一部だ。
金九(1876.7.11~1949.6.26)は、大日本帝国植民地朝鮮の民族主義者で、韓国独立党党首として韓人愛国団を率い、1919年以来、上海で大韓民国臨時政府に参加し、臨時政府の警察本部長、内務大臣、大統領代理、国務領(大統領)などを務めた。彼は、1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、臨時政府初代大統領で韓国初代大統領となった李承晩(イ・スンマン)と、南北統一政府樹立と言う先鋭的な問題で対立し、1949年6月26日に暗殺されてしまった。惜しい愛族・愛国者だった。
世界に恥ずかしくない経済力、軍事力はもとより、今の韓国の「文化力」を、彼は、草葉の陰で満足し、ほくそ笑んでくれているだろうか?
おりしも昨年2019年は、大韓民国臨時政府樹立100周年、73年前に記した金九の「白凡日誌」の「私が望むわが国」の思いは、韓国の今に、誇り高く見事に投影されている。
ポン・ジュノ(Bong Joon-ho)監督による韓国映画、原題「기생충(キセンチュン、寄生虫)」の米アカデミー賞4部門のオスカー受賞とその世界への波及に接し、複数の韓国のYouTuber(ユーチューバー)が、上記の金九の思いを諳んじている。金九の思いは、素願であったが、予言であり遺言だった。が、現実となった。
昨今の世界への「韓流」現象、韓国の「文化力」の勢いは、彼の思いを乗せてさらに、またさらに、昇華して行くだろう。下記の、ある YouTuberの「驕り高ぶらない謙虚」を諭す言葉の、思いを胸に。
作り飾るも度が過ぎてはならず、自慢をするも驕慢にならず
優越になるも蔑んではならず、自らを振り返り
新しいことを追求しながら、前に進もう
「革新」もまた「文化力」だ。「革新」は、自己愛的な自慢や自惚れ、鼻持ちならぬ自尊心や他者蔑視の道具ではない。自制と謙虚、自主性と創造性、想像と情熱、時代性と公用性の産物とならねばなるまい。「文化力」は民族的で
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舞い 『身世打鈴』より
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2021-03-10T17:08:00+09:00
2021-03-10T17:08:11+09:00
2013-02-18T20:00:48+09:00
pcflily
貞花の短歌『身世打鈴』
☆扇の舞 舞い
祖国(おやくに)の踊りと思いつつ皺深き吾が顔忘れ覚えむとせり
師の舞える基本動作を二度三度吾は繰り返す瞳凝らして
波の上歩む思いが歩行動作沈まむとするとき浮き上がれよと
爪先と頭上に神経張らせよと師のその動作は一筆画のごと
扇持ち舞台に舞えば舞姫になりて私も喝采あびる
屋上に舞台衣装に装いて子にポーズする記念写真と ]]>
中立宣言をしよう。
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2021-02-24T09:17:00+09:00
2021-02-24T09:17:12+09:00
2021-02-24T09:17:12+09:00
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アリランエッセー
安重根 ハンギョレ新聞
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2021-02-13T09:00:00+09:00
2021-02-13T09:00:57+09:00
2021-02-13T09:00:57+09:00
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アリランエッセー
やつれた安重根の写真は果たして彼を貶めるための日帝による演出だったのか 登録:2021-02-11 03:39 修正:2021-02-12 08:38
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[ノ・ヒョンソクの時事文化財]
安重根義士を有名にした「断指」写した写真
一部は「安重根義士を貶めるために演出」主張
ト・ジンスン教授「民衆が感銘受けて記念用に購入」と反論
14日、安重根の死刑判決から111年目
1909年11月、日帝当局が初めて公開した安重根の写真をもとに、日本人の業者が制作した写真ハガキ。鎖に縛られ、ひざまずいた姿。韓国内の学界の一部の研究者は、この写真ハガキが安重根を貶めるために作られたものだと主張してきた//ハンギョレ新聞社
朝鮮侵略の元凶である伊藤博文を射殺した義士・安重根(アン・ジュングン、1879~1910)が独立の志士の中で最も有名な人物として一般に刻印されたのは、写真媒体の力が大きかった。1909年10月の壮挙から一月も経たないうちに、その容姿を写した写真が新聞とハガキで大量に流布され、大衆がこれを熱烈に購入するという前例のない現象が起きた。あっという間に韓国と日本全域に彼の顔が知れわたった。 後代の韓国人には、彼は10種以上の多様な写真イメージとして記憶されている。薬指を第一関節から切った「断指」の痕が見える左手をコートの上にのせた姿や、白い韓服を着た死刑執行日の姿などは、愛国烈士の代表的なイメージとなった。日露戦争前後に日本で流行した写真媒体の伝播力のおかげだった。諸業者は各地に代理店を作り、写真を簡便な大きさのハガキ形式に印刷して迅速に流通させた。では、写真を撮ってハガキとして配布した日帝の意図はどこにあったのだろうか。
1909年11月28日付の「大阪毎日新聞」に掲載された安重根の写真をもとに制作された写真ハガキ。薬指の切られた左手を胸にあてたポーズが際立つこのハガキは、日本が安重根を貶めるために作ったという批判を受けた//ハンギョレ新聞社
最近になって、歴史学者で昌原大学教授のト・ジンスンさんが、この議論に火をつけた。昨年末、歴史学会の機関紙「歴史学報」248号に「安重根写真ハガキと国際連帯:蔑視と称賛、そして専用・専有」と題する論文を発表したのだ。地上波で放送された安重根に関する複数のドキュメンタリーに向けたものだった。これらの番組は、日帝強占期に大量普及した写真ハガキが、安重根を蔑視するために意図的に生産されたと批判していた。 2014年の8・15特集ドキュメンタリー「安重根105年、終わらない戦争」(文化放送)は、日本が配布した2枚の写真ハガキについて、安重根が鎖で縛られてひざまずかされ、やつれた姿で演出されていると主張した。日本のアナキストである幸徳秋水(1871~1911)がハガキに安重根を賛美する漢詩を追加した新たな版を製作し、既存のハガキの蔑視の試みを挫折させたという結論を下してもいた。ト教授はこれに対し「国粋的民族主義による誇張・歪曲」と反論する。写真の原本は安重根の身元を把握するための捜査資料だが、一般に流布することで、性格が記念物へと変わったという主張だ。
日本のアナキズム思想家、幸徳秋水が持っていた安重根義士の写真ハガキ見本。大阪毎日新聞の写真を使用した既存のハガキの説明を英訳し、写真には安重根を称える自身の漢詩を書き入れた。「命を捨てて義を取り、身を殺して仁を成した…」とある//ハンギョレ新聞社
当時、新聞に安重根の写真が初めて登場したのは、義挙から半月後の1909年11月9~10日ごろだった。安義士が中国の旅順に身柄を送られ、尋問を受ける直前だ。犯人の本名は安重根だという事実と共に、2種類の写真が日本と韓国の新聞に掲載された。鎖に縛られ、足枷がはめられたまま戸の前に立つ安義士の全身写真とひざまずいた写真だった。 「京城新報」は同年11月10日付で「凶漢アン・ウンチル(安重根)の写真」との見出しを付けて写真の来歴を記述している。警視庁をはじめとする各道の警察署に関係者の検挙のために配布されたというのだ。捜査用の写真を報道用として出したわけだが、業者がハガキの素材として用いたことで、朝鮮民衆の関心と崇拝が加速した。国内学界の一部は、鎖につながれた安重根の姿が写ったハガキは蔑視を意図したものだったと断定しているが、実際の流通と購入の様相は違っていた。写真の中の安重根の目つきと風貌に感銘を受けた大衆が、先を争ってハガキを購入したことから、困惑した当局が販売を厳禁にしたという記事が無数に残っている。 1909年11月28日付の「大阪毎日新聞」が安義士の写真を用いて作ったハガキも同様だ。薬指が切断された左手を胸に当てた姿勢が際立つこのハガキは、2015年に大韓民国歴史博物館で開かれた「光復70周年記念特別展:響き、安重根に出会う」でも「犯罪者としての安重根を浮き彫りにしようとの意図から発行された写真ハガキ」と紹介された。このハガキには「伊藤公を暗殺せし安重根」というタイトルの下に「韓人は古来より暗殺の盟約として無名指を切断するの旧習ある右手(写真ママ。左の誤り)を撮影せしものなり」という説明がついている。日本では暗殺も復讐の一つとして正当化したり賞賛したりするケースがあるため、この文言を蔑視を意図したものと断定するには根拠が貧弱に思える。
サンフランシスコの韓人社会の新聞「新韓民報」1910年3月30日付掲載の安重根の写真ハガキ。幸徳が英文の説明をつけてもらうために送った見本を載せ、「万苦義士安重根公」と記されている。安重根の義挙に触発された韓日知識人のアジア平和運動の連帯を示す貴重な史料//ハンギョレ新聞社
このハガキは20世紀初め、日本のアナキストである幸徳秋水が、安重根を称える漢詩を付けることで脚色された。米国の同志に送られ、英語の解説もつけられた。この過程で、韓人団体国民会議北米地域総会の機関紙「新韓民報」がハガキを入手し、安重根の殉国直後の1910年3月30日に追悼論説とともに紹介したという。 幸徳が1910年6月に「大逆事件」で逮捕され処刑されたことで、彼の漢詩ハガキが印刷されることはなかったが、米国の同胞新聞が写真ハガキのイメージを掲載したことで世界に初めて知られることになったのだ。ト教授は「安重根の写真ハガキが米国に渡り、知識人の平和連帯を触発して伝播したのは、安重根の壮挙の世界的意味を示すエピソード」とし「閉ざされた民族主義に寄りかかってハガキを蔑視の産物としてのみ見るのは穏当ではない」と述べた。ちょうど旧正月連休の最終日の14日は、安重根が111年前に死刑を言い渡された日だ。ノ・ヒョンソク記者、図版/ト・ジンスン教授提供 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/982647.html韓国語原文入力:2021-02-10 16:20
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独島(石)?竹島(松島)?
http://pcflily.exblog.jp/23035249/
2021-02-12T17:12:00+09:00
2021-02-12T17:12:20+09:00
2014-09-30T12:27:47+09:00
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アリランエッセー
日本の教科書に「竹島は一度も他国の領土になったことはない」との記事があったので~~~。事実を、きちんと認識しようと思います。
独( どっ ) 島( と ) (石島( そっと ) )? 竹島( たけしま ) (松島( まつしま ) )? 晴れた日には (朝鮮実録・朝鮮王朝の史書) 鬱陵島が見えると 『世宗実録地理誌』は記す 隠岐の島から竹島は見えない (世宗王・在位1418~1450年)
江戸時代唯一の官選地図『官板實測日本地圖』に竹島(鬱陵島)松島(独島)はない一九五二年版の『日本全図』にもない
(対日講和条約発効年) 安龍福は江戸幕府に申し立て (粛宗実録)竹島・松島を朝鮮の江原道に属する事を明らかにした 「竹島松島其外両国に付属の島はない」と鳥取藩 (鳥取県立博物館蔵)
江戸幕府は一六九六年「渡海禁止令」を出す 一八七七年の太政官指令書「竹島他一島之儀本邦関係無ト心得事」「次に一島あり、松島と呼ぶ」 (国立公文書館蔵)
大韓帝国は一九〇〇年「勅令四一号」公布 郡守は「本軍所属獨島」と領有権を明確にした
内務・外務・農商務大臣却下の独島の領土編入は一九〇五年ロシア艦隊との決戦に備え日本軍大隊・望楼を置く
日本軍に王宮を包囲させた伊藤博文の恫喝・暴力による「第二次日韓協約」は一九〇五年外交権をも奪取した
☆「竹島」と日本の呼ぶ竹島には、竹が一本もないと言う。かつての呼び方は松島であったと言う。名前の呼び方からだけ、考えても可笑しいと思う。この問題を研究していて韓国側の意見が正しいと知り、韓国人に帰化して大学教授になった男性の記事を読んだことがある。
島根大学教授の内藤正中さんの著書『竹島・独島問題入門』は梅田さんがプレゼントすると送って下さった。分かりやすい本である。
著者の内藤さんは「私は日本国の名誉の為に、史実に基づいて歴史を解明する意図から本書を執筆した。外務省の主張は、歴史の一部をつまみ食いしている。歴史認識の共有を図ることが課題、史実に基づく研究の成果を正しく受け止めて~~。日本国民が恥をかくことだけは避けたいと願うものである]あとがきから抜粋した。
○居間から見えた昇る朝日、瞬く間に色が変わってゆく。
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