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アボジの土葬の願いと朴家の墓

十月号原稿      二〇一四年

アボジの土葬の願いと朴家の墓地           朴 貞 花   

土葬に拘り続けた               )

アボジの儒教思想

朴家の子々孫々を守る 
   風水説に則った墓地

遥かに空と森と裾野に続く田畑

木々に囲まれ鵲の啼く小山に

並列に並んだ土饅頭と石碑

祖国統一を信じていた一九八〇年

分断五十年の一九九五年

母国への自由往来なく         

日本に墓地を購う

石碑には朝鮮地図

生地と渡日の事由を彫り込んだ


癌宣告を受けたアボジ

祖国の土になると

妻子を残し帰国

一九九九年・春の花時に逝き

旧来の土葬の葬送


見えぬ統一は私に

韓国籍を取得させた

二〇一四年・春

オモニも黄泉の国へ

土饅頭の墓にと訪韓――


土葬が禁じられて

オモニは墓地に入れず

朴赫居世一族の

新設の納骨堂に安置

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抱き続けた夢

祖国の土になること

最後の願いも

母国に覆された

国家に民の心は届かない

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○小高い丘の斜面に、用意されたアボジとオモニのお墓。子供の為の墓地の為の土地も用意されていた。
 饅頭型に二つ並んで土盛りがしてある。アボジの葬儀の時に初めて知ったのだが、男性が立った姿よりも深く 深く掘られていた。そうして、アボジの遺体は、飾りを沢山付けた棺のままに遺体は大切に葬られ、再び饅頭型に土を盛る。アボジの葬儀は、現在は、殆んど見られない伝統的な儀式を守って行われた。前夜は一睡もさせてもらえず、遺体を囲み、何度か遺体の周りを杖を突いて、回った。その度にお酒を捧げ、朝鮮式の大禮をした。長老が挽歌を謡う。
墓地に遺体を送る時も、部屋の中と家を出てからも膳を調え、儀式を行い、輿は驚くほどに派手に花で飾り立てられていた。墓地への葬輿の道筋で挽歌を謡い、途中で何度も休む、それは死者が行くのを嫌がっているという意味と、そんなに早く行かせたくない残された人達の心を表しているのだろう。
墓地に着いてからも、遺体を納めてからも、同じように儀式を行った。死者への労りの祈りは驚くほどに丁寧に行われた。
本家のお兄さんは自分が居なくなったら、取り仕切れる人がいない。この様式では出来なくなると話していた。
アボジが朝鮮の故郷の土になると言い、お墓に拘った意味が理解できた。

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○予報通りに雪が降った。左は朝の6時20分頃、右は午前10時30分頃。
雪国の会津が記憶にある故郷だ。子供の頃に意味も分からずに、覚えた初めての朝鮮の歌が「故郷雪・コヒャンソル」。

その時代には何処の誰とも知らない人が、我が家に働きに来れば、家族と同じに寝床と食事ばかりでなく、酒も出してあげた。その様にして働いてくれる人達がいてこそ、請け負った仕事を完成させることが出来たのだった。、オモニは彼らを大切にして、子供たちはその残りのもので、食事をした。我が家にとって、どんなに大切な人達であるかという事も、子供たちに言い聞かせた。今になって、思う事は、若い朝鮮人が帰国できない儘に、こうして仕事を探し続けていたのかと思う。家族のいない人たちが住み込みで働いていたのであろう。ちなみん私は、その習慣が身に付いてしまったのか、訪ねてきた人は誰でも、家の中に招き入れてしまうので、危険だと注意されることが往々にしてあった。
その様な人の中で、後に姉の夫になった人がいた。お金が入れば殆んどつぎ込んだのではないかと思うほどに、蓄音機とレコードを買い込んでいた。
この人は私に、卓上ピアノとハーモニカを買ってくれた。家族に気に入って貰おうとしていたんだと、今になっては思う。
姉の夫、我が家の入り婿になってからは(朝鮮では入り婿制度はないが、姉と結婚して父の仕事を引き継いだ)、蓄音機も豪勢に大きくなり、大きなスピーカーを廊下の外に下げて、村の人達にも聞こえるようにしていた。
その頃の田舎では、村の青年たちの楽しみは、冬になると部落ごとに、村芝居?演芸会をすることであった。芝居、舞踊・歌謡ショーなどもしていた。どの部落からも我が家にレコードを借りに来ていた。そのお礼にという事で、小学生であった、私は駆り出され、大人と一緒に女役で踊りを踊った。紫の御高祖頭巾をかぶり「お島・仙太郎」日傘を持って「野崎参り」や「湯島の白梅」「裏町人生」等が思い出される。長じて、お酒に酔うと、踊り出す癖があったのは、その頃の事がインプットされていたからだと思う。
朝鮮の歌もたくさんあった。「故郷雪」は、いつの間にか歌詞まで覚えていた。結婚をして、子供も生まれたころは同胞の集まりが、度々あり、或る日、名指しをされたときに、同胞の中でのことだったからと思うが口から出たのが「故郷雪」であった。自分でも驚いたが、周りの人達はもっと驚いていた。
「韓国歌謡史」朴燦鎬著によると、1940年代の、日に日に戦雲が拡大していく中で「故郷雪」は知識人・学生を初め広範な民衆に愛唱された、とある。私がこの歌を聞いたのは、日本の敗戦後の事であるが、子供心にも、哀愁に満ちたこの歌のメロデイーに惹かれたのであろう。泣き虫の私にはぴったりの歌であり、今でも大好きな歌である。

降りやまぬ雪にふるさとも埋もれいむベッドのオモニと歌う「故郷雪」    馬場あき子選   朝日歌壇

評 今はベッドに寝るだけの母と、去ってきた韓国の雪を思っているのだろう。「故郷雪」はコヒャンソルと読ませている。第一首の作者も幼い日に、母に抱かれて日本に渡ったままだという。 

  故郷雪    歌 白年雪  作詞 趙鳴岩   作曲 金海松   韓国歌謡史に

 ひとひらの雪を見ても 故郷の雪
 ふたひらの雪を見ても 故郷の雪
 夜更けて降りしきる 雪の中に
 故郷を呼んでみる 故郷を呼んでみる
 若き悩み

 袖に降る雪も 故郷の雪
 頬に舞う雪も 故郷の雪
 他郷は馴れぬが 雪は馴染み
 故郷を思いやる
 若き溜息

 これをつかんでも 故郷の雪
 あれをつかんでも 故郷の雪
  降っては溶けゆく牡丹雪に
 故郷を写し見る
 若き胸よ




by pcflily | 2015-01-30 17:17 | アリランエッセー  

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